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 ガラス窓から夜が見えた。赤子の鳴き声が心電図の音をかき消す。ここはひどく清潔な分娩室だった。ベッドで横になっている母親は、赤子にあどけない微笑みをし、瞳からガラスとなっていく。


「あっ。あっ。あっ」


 母親は喘ぐ。閉じる事が出来なくなった瞼は透けた。皮膚も骨も脳も透けた。涙は下瞼に留まっていたが、ガラス化した頬に滑り、床に落ちた。赤子の額に指先で触れる。そのまま撫でようとしたが、ぎぎぎ、と、無理に動いて、前腕部は割れて音が響く。飛び散った破片は赤子の目に刺さるが血は流れず、そのまま浸透して消えた。人類である母の涙の金きり声は、慈愛に満ちたものだった。


「…………」


 無言の看護婦の瞳は、黒々とした蠅が蠢いて笑っているようだ。彼女は分娩室のただの機械、旧世紀のナノセルシステムで統監され、視界から得たリアルタイムの動画情報を地磁波でサーバーに送受信する“人形”。行動演算は個体単位では行わない。適切な労働理念に基づいて処理すべき行動を受信し、実行するのみ。


 身体は人間と同じく繊細に動かす事だけを目的とし、意思を持たない他律人形として作られているのが、自律人形たちとは特に違う所。動く関節からは無粋な駆動音はしない。


 自然界のどの細胞よりも大きく、柔軟な二十五兆ほどの人工細胞に電気信号を駆動させ、部位の筋肉へ繊細に送り続ける。痙攣時の筋力の強さを、電圧および、皮膚として見せている痙攣拘束真皮で収束、制御し動かす。柔軟関節駆動部分が無音であることは、人類と同じだ。


 赤子を淡々と清潔な布で包む。赤子に触れる事を命令されている父親は、我を忘れて赤子を奪い取り、その温もりを知った。


「おめでとう。ありがとう。何と言えばいいかわからない。教えてくれよ、なあ」


 父親もまた、顔から足先までスポンジがゆっくりと水を吸うように無色透明のガラスになり始めた。表情を作れなくなっていたが、腕が砕けた母親に目を合わせた。哀れな妻の姿に、赤子の温もりと泣き声が、さらに五感をぐるぐると掻き乱し、涙を誘う。

 ぎぎぎ、と、聞こえた父親のガラス瞼のその音は、頬に涙を流す為にまばたきをしようとした。瞳に情がのりかかり、目を洗う生理現象だ。人が人で在る為に、心は濁ってはいない、乾いてなどはいないと証明をするものだ。ごく自然な現象は顔をしわくちゃにした。華やかな未来を予感してしまい、顔面はヒビを走らせてから、穴が空く。父親は、そのまま首を床に落として、割れた。細かく散った首の破片の一部は、磁石で吸い寄せられたように抱かれた赤子に浸透した。


 産まれて初めて泣いた赤子を、あやす者はもういない。心電図の音をかき消した産声は、生を受けた歓びには見えない。産まれたことを誰にも感謝をされず、誰かの笑顔も作ることも、誰かの胸を鳴らすこともなく、ただ空しい。

 がしゃん。バランスを取れなくなった首なしの父親は、ぐらりと床に倒れ、四肢も割れる。抱きかかえられたままの赤子は、床に叩きつけられたが、泣きやんだ。


 優勢情報浸透質。男は痛い事があっても泣かないという、首の破片から遺伝した志がそうさせた。赤子と同化する両親は、未来を担わせようとする知恵の破片だ。

 看護婦は両親の情報遺伝を完了させるために、作業を遂行する。赤子をベッドに移動させて、父親の身体のすべてをケレンハンマーで細かく砕き始めた。


「……、……」


 彼女は利口に叩き続けた。細胞が結晶化した皮膚を。内臓を。骨を砕いた。一定のリズムで床を響かせた破壊の音は、表情筋のないカラカラの、無味乾燥な顔によく似合っていた。「……」看護婦は母親に迫り、振りかぶった。すでに口を聞けない。ましては動かない。脳に潜んだ意思でさえも、母親は結晶化している。それでも彼女は、父親と同じく粉々になるように砕く。


「…………」


 何度も何度も脳天を殴り、撃砕した。

 連続した、短く繊細な音の粒を鳴らすのを止めた。しかし、残された大きい欠片を見つけた彼女は、胸が空くほどの速さで叩き潰した。それは優しく撫でようと見て取れる三本指の手の平だった。


「……、……」


 ハンマーを銀色の受け皿に置いて、破片を見守る。生の無い眼球が、光と共に浸透する赤子の姿にきらりと反射し、雨粒のような涙に見えた。世界中の看護婦は、何千、何万と、この作業を繰り返してきた。


「………………」


 両親の引き継げる欠片が全て浸透すると、彼女は一秒ほど動かず、サーバーからの指示を受信し、首を初期微動させた。大戦中にばら撒かれた電波遮断をする水蒸気クラスターの影響を用いた光屈折式の、空気中に映し出された心電図に触れて、オスである赤子の個体識別名称はランダムに決まった。赤子の額に、親指の爪ほどの真っ黒な回路を画鋲のように刺した。そのまま“呼吸中”と書かれたパックに詰める。郵便ボックスに投げ入れたので、彼の部屋へと送られた。

 仕事を終えた看護婦は顔面をぱきりと縦に割り、声帯スピーカーが歌った。


 お母さま 泣かずにねんね いたしましょう

 赤いお船で 父さまの 帰るあしたを たのしみに

 お母さま 泣かずにねんね いたしましょう

 あしたの朝は 浜に出て 帰るお船を 待ちましょう

 お母さま 泣かずにねんね いたしましょう

 赤いお船の おみやげは あの父さまの わらい顔


 (引用:童謡『あした』)

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