#13 レナ

 換気のために開け放たれた窓から、今日も蝉のうるさい鳴き声が入ってくる。冷蔵庫から、残り少ない2リットルボトルのコーラを、コップにも入れずに直飲みした。不味い……炭酸が抜けきっているせいで、ただの砂糖水だ。最近朝から晩までDOGばかりやっていて、買い物に行く暇も無かった。また買い溜めに行かなければならないが、一分一秒も無駄にしたくはなかった。


 夏休みも半分を過ぎた。大学が始まってしまえば、一気にペースが落ちてしまう。それまでに勝負を決めなくてはならない。3日前、レオンがラブラジャイアントを初撃破したらしい。しかし俺も昨日の朝、遂に奴を倒すことに成功した。だが初回では、肝心の宝石は落ちなかった。あれから何度も挑戦し、昨日の戦績は5勝12敗。そして手に入れた宝石は、ルビー1つだけだ。倒せるようになってからが本当の地獄だと誰かが言っていたが、正にその通りだ。もう1つルビーを手に入れればそれで終わりだが、そう上手くいかないだろう。とにかく数をこなすしかない。


 だが……俺はここで別の問題に直面している。貯金が10万円を切ったのだ。40万円以上あった貯金が一月足らずでだ。もう今更後悔や罪悪感など湧いてこないぐらいに、悟りの境地に達しているが、軍資金がないのはまずい。家賃や食費、光熱費はどうやってもかかるものだし、今後もDOGに課金をしていかなければならない。今月は何とかなるが、来月以降のことを考えると、今のコンビニバイトでは心許ない。だから俺は今、DOGではなくバイト情報を見るためにマウスを握っている。仕事内容は二の次で、とにかく時給のいいバイトだ。通勤に時間を割きたくないから、距離も重要だ。そうなると必然的に候補は絞られてくる。


 一つ、目に止まったものがある。キャバクラのボーイだ。どの店を見ても、軒並み時給がいい。大体1000円~1500円ぐらいで、一番高い所で1800円だ。しかもここから更に増えるんだから、コンビニバイトでちまちま稼ぐのがアホらしくなってくる。この時給1800の店、ジュエリーキャットはここからそう遠くなく、昼間も営業しているので、昼間働いて夜にDOGということも出来る。よし、ここにしよう。正直キャバクラなんて、俺の人生に全く関わりの無い別世界だったから、そこに踏み込むのは不安がある。しかし今の俺には、そこに踏み切るだけの動機、そして覚悟がある。既にジュエリーキャットの営業時間だ。善は急げ、早速電話しよう。


「………………あっ、もしもし。え、えっと、白鳥と言いますけど。バイトの募集を見て電話し……あ、いえ未経験です。えっ、今日面接ですか? あ、大丈夫です。はい、はい、じゃあ今から行かせていただきます、です。し、失礼します」


 ……あ~緊張した。バイトの応募電話ってのは何でこうも緊張するんだろう。キャバクラってもっと怖いイメージがあったが、意外と丁寧に対応してくれたな。まあ、向こうも客商売だからな。っと、こうしてはいられない。早く履歴書を書いて支度しなくては。





 受かってしまった。面接の翌日、つまり今日、俺は既にジュエリーキャットのホールに立っている。あの時は一種の興奮状態だったため、全てを勢いに任せてしまっていたが、今こうして冷静になると、とんでもない状況だ。薄暗くそれでいて煌びやかで、酒と香水の匂いが漂う店内。上を見上げればシャンデリア。不規則ながらも綺麗に並べられたソファーとテーブル。そこにつく派手な女達と、鼻の下を伸ばした中年オヤジ達。俺は間違いなく今キャバクラに、しかも店員としてここにいる。いかん、足が震えてきた。


 後から知ったことだが、ジュエリーキャットはこの界隈のキャバクラの中でも、トップクラスの高級店らしく、時給が他より高かったのもそれが理由らしい。故に、本来なら俺のような未経験者は雇わないらしいが、ちょうど人手が足りなかったのと、毎日昼間に働けるというのが良かったらしく、割とあっさりと採用されたのだ。


「おい新人、これ5番テーブルだ」


「あ、はい!」


 サブマネージャーの藤森さんから渡されたのは、ボトルとグラスが乗せられたトレー。うわぁ、高そうな酒だな……ラベルに英語でDom Perignonって書かれているが、何て読むんだ? ドムペリグノン? 聞いたことないな。


「1本20万以上するドンペリだ。絶対に落として割ったりするなよ」


「えっ」


 ま、マジかよ……。大丈夫だ、5番テーブルはすぐそこだ。落ち着け……落ち着いて運ぶんだ。俺はゆっくりと、牛歩のごとく歩き出した。5番テーブルには、ただでさえ派手な格好をしたキャスト達の中でも、一際目立っている女と、どこぞの社長と思わしき、全身を高級感溢れるスーツやアクセサリーで身を固めたオヤジが談笑していた。一体いくら課金すればこんな装備が手に入るんだろうな。……なんてくだらないことを考えている場合ではない。


「し、失礼しま……あっ!」


 足がもつれて躓いた。トレーの上でぐらつくボトルとグラス。咄嗟に体勢を立て直してボトルを掴んだが、グラスがポロリと落ちて、よりによってオヤジの頭の上に落ちた。


「あいた!」


「す、すすすすいません!」


 全身の血液が凍り付いた。やっちまった……! 何て間抜けなんだ俺は!


「鉄ちゃん大丈夫!? ごめんねぇ、この子今日から入ったばかりで慣れてないの。怒らないでね? でも痛かったでしょう、よしよし。痛いの痛いのとんでけー!」


「んん? えへへ、大丈夫だよ。このぐらいで怒ったりしないよ、レナちゃん」


 まるで母親が小さな子供をあやすように頭を撫で、オヤジはすぐに上機嫌になった。実際の年齢は真逆だが。


「ほらキミ、ボーッとしてないで、代わりのグラスをすぐ持ってきて」


「は、はい……!」


 俺は落ちたグラスを拾い、逃げるようにカウンターへ帰った。女……レナの咄嗟のフォローで、何とか最悪の事態にはならずに済んだ。気を付けないとな、本当に。


 その後は、ぎこちないながらも特にこれといったミスもなく、どうにかして仕事をこなし、無事に初仕事終了時刻の7時を迎えることが出来た。無駄に疲れた気がするが、何とかやっていけるかもしれない。俺はそそくさと着替え、更衣室を後にする。


「ねえ、ちょっとあんた」


 更衣室を出た直後に、後ろから誰かに呼び止められた。振り返ると、そこにいたのはレナだった。


「あ、さっきの……」


「あ、さっきの……じゃないわよ! あんたねえ、ざけんじゃないわよ!」


 レナが物凄い剣幕でずかずかと近付いてきて、俺は思わずたじろいだ。


「もしあのお客の機嫌を損ねて帰られたらどうするつもりよ! あの人はあたしの指名客なだけじゃなくて、うちの店の一番の太客なんだからね! 一歩間違えただけで、一体どれだけの損害が出るか、あんたに想像出来る!?」


「う、いや、その……」


「今度つまらないヘマしたら、店長に言ってあんたなんか即刻クビにしてもらうからね!」


 それだけ言って、レナはホールの方へ戻っていった。怖……。あんな怒鳴られたの、生まれて初めてだ。心が落ち着いて恐怖が去っていくと、入れ替わるように怒りが湧いてきた。くそぅ……あんな言い方しなくてもいいじゃないか。こちとら初めてな事だらけで、ミスするなと言う方が無理な話なんだ。リナとレナ、名前は似てるが性格は大違いだ。リナはあんなにいい子だというのに。でも結局悪いのは自分だということが分かっているだけに、余計にむかっ腹が立ってきた。


「はは、怒られちまったみたいだな」


 また後ろから誰かに声をかけられた。サブマネージャーの藤森さんだ。


「レナはうちのナンバー1キャストだ。ぶっちゃけ店長より権力がある。俺ら男性スタッフは、店長も含めて彼女らの奴隷みたいなもんだ。まあ、仕方ないと思って割り切れや」


「は、はあ……」


 そういうものなのか。何だか複雑な気分だ。しかし、これも金のためだ。金を稼いでDOGに課金して、確固たる地位を築くのだ。そうだ、早く帰ってDOGをやろう。リナとチャットして、嫌なことは忘れよう。そう決意しながら、俺はジュエリーキャットを後にした。





 今夜も僕は、JETと共に闘技場に籠もっていた。今となっては、ライジングの連中とつるむよりも、JETと行動する方が強くなるための近道になっているからな。ライジングの場合は、ログインしているからといって、別に顔を出す義務はない。だからこうして好きに遊んでいても誰も文句を言わない。チーム白桜はそうはいかないはずで、この時間はギルドの活動時間のはずだが、ナンバー2のJETなら、これぐらいの勝手な行動は許されているのかもしれないな。


 部屋のインターフォンが鳴った。理奈だな。ちょうどキリもいいし、一旦落ちて休憩するか。


リナ:ごめんなさい、お風呂が沸いたみたいなので、今日はこれで落ちますね

JET:あいよー。んじゃまたね(^_^)ノ

リナ:はい。ありがとうございました(●^o^●)


 この嘘は、デュエルに付き合ってもらった事へのささやかな礼だ。リナの入浴を想像して、精々センズリでもこいててくれ。僕は立ち上がり、玄関で理奈を出迎えに行った。


「やっほーダーリン!」


「やあ、相変わらず元気だね」


「今日は疲れてたけど、ダーリンの顔見た瞬間元気になっちゃった」


 理奈は部屋に上がるなりリビングのソファーに横になり、僕は文句一つ言わずに、いつも通りインスタントコーヒーを入れる。僕の好きな高級ワインを土産に持ってきたからだ。ゲームでもリアルでも、良きパトロンにはそれなりのオモテナシをしなければならない。


「あ、そうそう聞いてよダーリン。今日すごく肝が冷えることがあったの」


「ん? どうしたんだい?」


「うちの店の一番の太客が来てたんだけどさ、今日から入った新人のボーイが、その客の頭の上にグラスを落としたの。咄嗟にあたしがフォローしたから何とも無かったんだけどさ、一瞬どうなることかと思ったわ」


「はは、鈍くさい奴がいるもんだね。まだ若いの?」


「うん。多分ハタチにもなってないんじゃない? 何かオタク臭い奴だったね」


 若いオタク系男子がキャバクラのボーイねぇ。全く不釣り合いだな。よっぽど金に困ってるのかね。大方ギャンブルとかゲームに、身の丈に合わない金をつぎ込んで、貧窮してる馬鹿だろう。まあ、僕には関係の無いことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る