さようなら、おじさま

文月夕

さようなら、おじさま

 私がおじさまに会ったのは、母の葬儀の翌日のことだった。


 秋のはじめだった。雨が降っていた。

 おじさまは見上げるほど大きな人だった。黒い外套を着て、黒い帽子をかぶって、黒い手袋をしていた。そのどれも、すりきれてもつぎが当たってもいないのが不思議だった。その当時の私のまわりには、そんな服を着た人はいなかったからだ。

 おじさまはかがみこむと帽子と手袋を外し、私の頬にふれた。薄い唇から、吐息のように母の名を囁き、

「――娘さんだね」

と聞いた。

 間近で見たおじさまは、とがった鷲鼻とそげた頬、落ちくぼんだ目の持ち主で、教会で見た死神の絵に少し似ていた。

 私から母を奪った死に神が、今度は私を連れに来たのだと思った。

 私は魅入られたようにおじさまを見つめたまま、こっくりと頷くと、

「わたしを、つれていって」

と言った。

 おじさまは目をしばたたかせ、黒々とした眉をひそめて、なにごとか無言で考えているようだった。それから鼻と同じくらいとがった顎をゆっくりと縦に動かした。


 馬車に乗せられ、連れて行かれた先は大きなお屋敷だった。迎えに出てきた男の人と女の人におじさまは「今日からここで暮らす子だ」とだけ告げ、私を引き渡した。

 そして私は、おじさまが死神ではないのだと知った。

 おじさまは、だんなさま、と呼ばれていた。おじさまには家族がなく、おじさまのほかには執事と女中頭、三人の女中と下男ひとりが、お屋敷に暮らすすべてだった。

 私も彼らに倣って、だんなさま、とおじさまを呼んでみた。おじさまはいかめしい顔をして首を振り、私は使用人ではないのだと言った。おじさまは令嬢が着るようなドレスを私に着せ、家庭教師をつけた。私がはにかみながらおじさまに礼を言うと、おじさまは鷲鼻をひくひくと動かした。それがおじさまが照れているしるしだとわかるまで、時間はあまりかからなかった。

 おじさまに少し時間ができたとき、私を散歩に誘ってくれることがあった。おじさまは私と手をつないでくれて、私の足に合わせてゆっくりと歩いてくれた。私が鳥や虫や草花を指さすと、おじさまはその名前や特徴を教えてくれた。建物を指さしたときは歴史について語ってくれた。おじさまの言葉は私には少し難しいこともあったけれど、おじさまに教えてもらうのは楽しかった。なかでもいちばん好きなのは、つないだときには冷たかったおじさまの手が、だんだん私の手とおなじ温かさになることだった。

 散歩の途中、道で会う人から可愛いお嬢さんですねとか、優しいお父さまねとか言われることがあった。そんなときおじさまは鷲鼻をひくひくさせながら会釈をした。

 お嬢様がいらしてからお屋敷が明るくなりましたねえ、とあるとき女中頭がにっこり笑って言った。私はえへへ、と笑った。おじさまのように鼻がひくひくしているといいな、と思った。


 夜更けにおじさまが私の部屋を訪れたことがあった。いつもなら私はとっくに寝ているはずの時間だった。けれどその日、刺繍を習い始めたばかりだった私はようやく切り上げてベッドに入ったところで、そのすぐあとにおじさまがそっと入ってきたのだった。

 ランプを置く音のあと、足音を忍ばせたおじさまがベッドへ近寄ってくる気配がした。なぜか目を開けてはいけない気がして、私はいっしょうけんめい寝ているふりをした。

 おじさまはベッドの脇に立って、私の顔をじっと見下ろしているようだった。

 耳に痛いような沈黙がどのくらい続いたろうか、すすり泣きのような声が聞こえた。

 おじさまの声。母の名を呼ぶ声だった。

 おじさまは私の額にくちづけを落とした。かすかなお酒の匂いが鼻をくすぐった。

 おじさまが部屋を出て行ってから、私はおじさまが触れた額にそっと手を当ててみた。おじさまの唇は冷たかったのに、そこはほんのりと温かいような気がした。

 それからも、何度かそんなことがあった。おじさまの悲しげな声は、おじさまが本当に母を悼んでいることを教えてくれた。おじさまが、大好きだった優しい母をいまも愛していてくれる。それは幼くして母を亡くした私の心をずいぶんと慰めてくれることだった。


 ずいぶんあとになって、女中頭がこっそりとおじさまと母の話を聞かせてくれた。

 おじさまが若くして両親の事業を継ぎ苦労していたところに手を差しのべたのが私の祖父だった。祖父には才能のある若い人を援助する趣味があり、祖父の家には目をかけられた若者たちが多く出入りしていたらしい。

 その家でおじさまは母に出会った。そして、母に恋をした。

 けれど母はおじさまの恋心に気づくこともなく、以前からの婚約者であった私の父を婿に迎えた。おじさまも外国での事業が軌道に乗りこの国を離れた。

 祖父と父が流行り病で突然に世を去り、家屋敷も事業もすべて人手に渡って、よちよち歩きの私を抱えた母が下町に暮らすようになるのは、それからほんの数年後のことだった。

 さらに数年して帰国したおじさまは、手を尽くして母を探してくれた。ようやく探し当てたまさにその前日、母は馬車に轢かれて死んでいた。

 おじさまは毎日黒い服を着ていた。出会った日のような真っ黒な姿ではなくても、いつもなにか黒いものを身につけていた。

 いつしか私は、おじさまの黒い服は母のためだと理解できるようになった。

 深夜のおじさまの来訪に気づくたび、額に優しいくちづけを落とされるたび、胸が痛むようになったのはそれからのことだった。


  ◇


 おじさまに引き取られてから十年がたち、私は十六歳になっていた。

 そのころの私は、鏡の中の自分を見つめてはため息をついてばかりいた。鏡のむこうから見つめかえす少女は栗色のつやつやとした髪を上品に編んで、華美ではないけれど上等な服を着て、ふっくらとした薔薇色の頬をしていた。記憶にある母はいつも青白い顔をして、くまのできた目で私に笑った。金茶の髪はぱさぱさとしてつやがなかった。それでも母は美しい人だった。母の面影を私に探すことは難しく、私が鏡にむかっていっしょうけんめい柔らかな笑みを浮かべ、自分の顔のいいところをひとつひとつ数え上げても、記憶にある母の疲れた横顔にかなうことはなかった。

 おじさまの知っていた母、若くて裕福で、恋に輝いていた母は、きっと私の知る何倍も美しかったに違いなかった。

 私は母をねたましく思った。そして、貧しいなか私を懸命に育ててくれた母にそんな思いを抱く自分を恥じた。

 そんな私のみにくい気持ちを知ってか知らでか、おじさまは少しずつ私と距離を置くようになっていた。外国での仕事が増え、長く屋敷を留守にするようになった。久々の帰宅が嬉しくておじさまに抱きついたときは、もう大きいのだからこういうことはやめなさいと、優しく、けれども有無をいわせず押し戻された。すてきな鷲鼻をひくひくさせてはくれなくて、私はとても悲しかった。


 ある夜遅く、ノックの音がした。ベッドで本を読んでいた私は、ガウンを羽織って扉の前で声をかけるべきだったのだろう。おじさまの深夜の訪問はもう途絶えて久しく、ノックの主がおじさまである可能性は限りなく低かった。

 けれど、そのとき私がしたのは大急ぎでランプを消してベッドにもぐることだった。自分でもよくわからないなにかの予感にかられていた。

 待つ時間をおいてもう一度ノックが聞こえ、しばらくして扉が静かに開いた。

 きついお酒の匂いがした。

 ふらつくような足取りが、ゆっくりと近づいてくる。

 おじさまはお酒を嗜むことはあっても過ごすことは一度もなかったので、私は驚いて一瞬息を詰めてしまった。寝たふりを気づかれたかとどきどきしたけれど、幸い酔っているおじさまにはわからなかったようだった。

 見下ろされる気配。痛いほどに感じる視線。いつもより荒く感じる息づかい。

 苦しげに、絞り出される名前。

「……エルシー」

 唇が震えるのがわかった。

 そしてその唇が、柔らかく温かいものでそっとふさがれるのが。

 おじさまが呼んだのは、私の名前だった。


 おじさまが部屋を去って、私は身を起こした。

 唇に指でふれてみる。

 燃えるように熱かった。


 次の日はずいぶんと早い時間に目が覚めた。まだ胸がどきどきしていた。けれど、おじさまは私が眠っていると思っていたのだから、いつも通りにしていなければ。そう自分に言い聞かせて、それでもいちばんお気に入りの服に着替えて、いつもより念入りに髪をとかして、朝食の席についた。

 少し遅れてきたおじさまは、黒い服を着ていなかった。それは私がこの家に来てから初めてのことだった。私は目を円くして見つめた。おじさまは目を逸らした。

 それから食事もそこそこに、急な仕事で遠い外国に行くことになったと告げた。帰るまで何年かかるかもわからないということだった。

 私はさらに驚いて、おじさま、と呼びかけた。そこで私の唇は止まってしまった。

 つれていって。そう言いたかったけれど、もう私は初めて会った日の小さな子供ではなかった。

 唇をかんだ。昨夜初めておじさまがふれてくれた唇。

 そのときに理解した。おじさまは母を忘れることにしたのだ。だから私も、もういらないのだ、と。

 あのくちづけは、お別れのくちづけだったのだ。

 行ってらっしゃいませ、お身体に気をつけて。私がそう言ってせいいっぱい微笑むと、おじさまはとがった顎をゆっくりと頷かせた。


 おじさまが慌ただしく旅立っていった夜、私はベッドの中で一晩中泣いた。泣きながら、自分がおじさまに恋をしていたことをようやく悟った。

 そうと知る前に、死んでしまった恋だった。


 私はおじさまの家を離れ、名を変えた。屋敷のみんなはずいぶんと引き止めてくれたけれど、私はわがままを通した。せめてと持たされたいくばくかの現金と、おじさまが受けさせてくれた教育のおかげで、ほどなく家庭教師として住み込みの仕事を見つけることができた。

 一通だけおじさまに手紙を書いた。血のつながりのない私にいままで良くしてくれてありがとうございます、わがままを通してごめんなさい、これ以上ご厚意に甘えることはできません。お怒りならばどうかエルシーはもう死んだものと思ってください――

 二日悩んで、愛をこめて、と署名した。住所は書かなかった。


 私はかつてのおじさまのように、ずっと黒い服を着ることにした。

 いつかおじさまを忘れることができたら、黒い服を脱ごうと決めた。


  ◇


 それから十五年。私は女学校の教員になっていた。

 私はまだ黒い服を着ていた。心を寄せてくれる男性もいたけれど、おじさまを忘れさせてくれる人はいなかった。

 ある日、学院長に呼ばれた私は、お茶とお茶菓子を持って応接室の扉をノックした。以前から寄付をしてくれている篤志家が訪問中とのことだった。

 入りなさいという学院長の声に扉を開けると、杖を手にした黒衣の男性が立ち上がるところだった。

 私はあやうく茶器を落としそうになった。

 記憶にあるより肉が落ちていっそういかめしい印象になったおじさまが、こちらを見ていた。


 学院長から紹介を受けたあと、私はおじさまに学院の庭を案内することになった。

 おじさまは私に気づいてはいないようだった。お別れしたときおじさまはもう壮年の男性だったけれど、私はやっと十六だったし、名前も変えてしまったからそれはあたりまえなのだろう。そう頭ではわかっても少し悲しかった。私はたぶんどこかで、私がどんなに変わってもおじさまは見つけてくれると信じていたのだ。

 庭は秋薔薇のさかりだった。なかでもひときわ立派に咲いた薔薇の前でおじさまが足を止めた。私は鼓動が速まるのを感じた。その薔薇はおじさまの屋敷の庭にもたくさん咲いていた。おじさまがいちばん最初に名前を教えてくれた花だった。

 私は薔薇の名前をつぶやいた。おじさまは頷いて、長いこと薔薇に目を向けていた。それから、

「……老人の昔話を、聞いてもらえるだろうか」

と言った。

 はい、と私は囁くような声で答えた。


「私は生涯結婚しなかったが、若いころ憧れた女性がいた。彼女は不幸にも家族と財産を失い、生活苦のなか事故で亡くなった。私は彼女の遺した娘をひきとることにした。その子を何不自由なく育てることが、私が彼女のためにできるただひとつのことだと考えた。

 その子は利発で心の優しい子だった。その子がいるだけで毎日がそれまでの何倍も楽しく感じられた。

 私はその子と暮らしながら、ときにその子の中に彼女の面影を探した。その子は彼女にあまり似てはいなかったが、ふと見せる表情や仕草が私の記憶にある彼女と重なることがあった。私はそのたび、彼女が私のもとにいるようで嬉しかった。――いま思えばむごいことだ。あの子は母親とは違う、まったく別の人間であったのに。

 その子が大きくなるにつれ、私にもようやくそのことがわかりはじめた。

 私はそこで落胆すべきだったのだ。そして善意の人物としてその子を養育し続ければよかった。

 だが、……」

 おじさまはそこで言葉に詰まった。私は息をひそめるように続きを待った。おじさまは杖を持ちかえると、まるで仇を見るように薔薇をにらみつけ、また口を開いた。

「私は、……私はその子を女性として愛してしまった。

 自分の娘とも思っていた、二十以上も年下のあの子をだ! 私はあの子の母にすら向けたことのない目であの子を見ていた。無邪気なあの子が変わらぬ様子で身を寄せてくるのが耐えがたかった。いつか自分が取り返しのつかぬ過ちを犯してしまうのではないかと恐怖した。

 そしてとうとうその日が来た。私は卑怯にも、酒に酔ったはずみで眠るあの子にくちづけてしまった。私はあの子から離れることにした。あさましくも、そうすればいずれ元に戻れると思っていたのだ。

 だがあの子は、いつからか私のおぞましい思いを知ってしまったのだろう。私のもとからいなくなってしまった。私は荒れ、酒に溺れ、身体を壊した。当然の報いだ」

 おじさまは語り終えると長い息を吐いた。

 私は話の途中から涙を止めることができなくなっていた。顔があげられない私の視界のなかで、おじさまの靴が私のほうへ向きなおった。

「――エルシー」

 ずっと前になくしてしまった私の名を、確かめるようにおじさまが呼んだ。

「私を軽蔑してくれ。私はいまでも、おまえを愛している」

 私は子供のようにかぶりを振った。それから薔薇の花を一輪乱暴に折り取った。薔薇のとげが私の手を血まみれにした。私は薔薇をおじさまにつきつけた。

「うけとって。うけとってください。私、」

 そこまでしか言えなかった。私はおじさまにすがりついてわんわんと泣いた。ためらいがちに頬をなでてくれたおじさまの手は、記憶にあるよりずっと温かだった。


  ◇


 手の傷がすっかり癒えたころ、私は黒い服を脱ぎ、白いドレスを着て白い薔薇の花束を持った。十五年ぶりのくちづけのあと、私のおじさまはいなくなってしまった。

 おじさまとはもう呼べないひとは、すてきな鷲鼻をひくひくと動かした。

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さようなら、おじさま 文月夕 @hanameiro

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