第12話 幼かった頃を思い出して

 こたつの天板に頬をつけた状態で、フェイフューは溜息をついた。


 今日に限ってソウェイルが宮殿にいない。テイムルの屋敷へ遊びに行ってしまったらしい。


 テイムルの家には今三人目の赤ん坊がいる。三ヶ月前に生まれた赤ん坊だ。

 ソウェイルは三ヶ月前からずっとその赤ん坊を見たがっていた。だがあまり早く行くと産後で弱っている嫁の体調に障ると言って今日まで我慢していたのだ。

 それが今日で誕生からちょうど三ヶ月、ソウェイルの中で訪問が解禁になったらしい。朝出勤したテイムルを連れて――テイムルは出勤してすぐ自宅に戻るはめになりフェイフューからするとなんだか可哀想な気もしたが――張り切って出掛けた。あのソウェイルが自主的に宮殿を出たのだ、よほど赤ん坊の顔が見たかったと見える。


 カノももう少し待たねば来ないだろう。彼女は学校が終わったあといつもベルカナとゆっくり昼食をとっている。おしゃべりな二人は毎日長話をしても飽きない。フェイフューは絶対その場に同席したくなかった。


 フェイフューは――今日、ユングヴィが宮殿に来なかった。


 言伝ことづてを預かってきた白軍兵士によると、どうも体調を崩したらしい。

 格闘術の稽古が中止になってしまった。


 フェイフューは苛立った。


 今は冬から春にかけての頃、つまり季節の変わり目だ。日中は暖かくなるが夜はまだ凍えるほど冷える。その寒暖差で風邪をひく人間は多い。しかも昨日は夕方雨が降った。アルヤ王国は基本的に乾燥しているが冬には少しだけ雨や雪が降る。老人や子供は湿度の落差に負けて調子を崩しやすい。


 だが、天候に振り回されるのなど弱い人間の話だ。体を鍛えている大人のユングヴィが風邪をひくとは――きっと自己管理がなっていない証拠だ。

 ユングヴィに隙があるせいでフェイフューの予定が狂った。


 フェイフューがひとりになってしまった。


 退屈だ。

 腹が立つ。

 落ち着かない。


 熱があるのだろうか。咳やはなが気になるのだろうか。もどしたり食欲がなかったりするのだろうか。苦しんでいるのだろうか。


 ユングヴィの、能天気な、穏やかな笑顔を思い浮かべる。


 今、つらいのだろうか。


 なぜこの自分がユングヴィの心配などしなければならないのだろう。体調を崩したユングヴィが悪いのだ。フェイフューがあれこれ気を揉む必要はないはずだ。


 体を起こした。

 床に放り出していたウードを手に取り、構えた。

 今日はソウェイルがいない。つまり弾きたい放題の歌いたい放題だ。思う存分掻き鳴らすのだ。


 何をしよう。

 思いつかない。

 何も手につかない。

 全部ユングヴィのせいだ。


 ウードから手を離した、その時だ。

 突然戸が開いた。

 見るとソウェイルが立っていた。


「なんだお前、いたのか。この時間はユングヴィと武術の稽古をしているんじゃなかったのか」


 ソウェイルが、いる。

 たかだかそれだけのことに安心している自分自身に腹が立つ。


「兄上こそ、もう帰ってきたのですか」


 ソウェイルが靴を脱ぎ、こたつに足を突っ込んで、こたつの周りに敷かれた座布団の上に寝転がった。


「赤ん坊のいる家には長居するもんじゃない、向こうも世話があるし俺も気を使ってしまう。みんなで昼ご飯を食べて解散した」

「ふうん、そういうものですか」

「とりあえずみんな元気そうで安心した。赤ん坊も抱っこできたし、上の子たちとも少し遊べたし。でも俺が家にいるとテイムルも嫁も気を使うからな。お互い遠慮し合うの、なんかおかしいだろ」


 その考え方が新鮮だ。フェイフューは頻繁に手習い所時代の学友の家へ遊びに行っていたが、気を使ったことはなく、気を使われている感じもしない。むしろ直接会話をすることはいいことばかりだと思っていた。

 親しくしている学友はともかく、その家族はいろいろ考えただろうか。赤ん坊がいるとまた変わるものだろうか。


 少し考えてみた結果、フェイフューは、訪ねる相手が女だからだ、という結論に至った。いくら誕生祝いだといっても男が女のところを訪問するのは普通のことではない。ソウェイルが『蒼き太陽』で相手がテイムルの嫁だから許されるのであり、一般人の家庭ではありえないことだ。


 テイムルの嫁はもともとソウェイルの世話係で乳母のような存在だった女性だ。しかしだからといってひとの妻になった以上は会いに行くべきではない。ソウェイルにはそういう常識が欠けている。ソウェイルが遠慮すべきだと思う。


 ずっと女性と一緒にいたから――ユングヴィに育てられたから、気軽に女性と接しようとするのだろうか。


 またもやユングヴィの顔が浮かんだ。


「――ユングヴィ、体調を崩したそうですよ」

「ユングヴィが?」


 ソウェイルが瞬く。


「いつから?」

「さあ。とりあえず今朝の段階では、だそうです」

「風邪か? ユングヴィらしくない、頑丈なのが取り柄なのに」

「僕もそう思ったのですが、現にここに来ないのですから仕方がありませんね」


 そこでソウェイルが突然なぜか「あーそうか」と一人で合点がいったような声を上げた。


「きっとそういうことだ。そろそろだとは思っていたんだ」

「そういう? 何がです?」

「お前はまだ知らなくていい」


 寝返りを打つ要領で外を向き、フェイフューに背を向ける。


「とりあえず格闘術の稽古はいったん終わりだな。落ち着けば一年くらいで再開するだろ、それまで待て」


 フェイフューは眉間にしわを寄せた。ソウェイルの隣ににじり寄り、詰め寄った。


「どういうことですか」

「そのうちユングヴィかサヴァシュが正式に何か言ってくると思う。それまで何も言わずにそっとしておけ」

「教えてくださいよ」

「俺も予感があるだけで確証はない。だから勝手なことは言わない」

「ここまで言っておいてそれはなくないですか」

「お前こそ察しろ」


 手を伸ばした。

 横に寝転がっているソウェイルの脇腹を撫でた。

 ソウェイルが「うわっ」と叫んであおむけになった。


「何をするんだっ」

「兄上がいけないんですよ」

「お前な」


 ソウェイルも手を伸ばしてきた。フェイフューの脇をくすぐろうとして腕や腹をまさぐった。その微妙な感覚がこそばゆく恥ずかしくも気持ちよくもあってフェイフューは笑いながらやり返した。


 一緒になって座布団の上に転がる。取っ組み合うように互いの腕や脇腹をつかみ合って絡まる。幼い頃のように触れ合い、じゃれ合い、笑い合う――いったいどれくらいぶりのことだろう。


 疲れたのか、それとも、飽きたのか。しばらくして、ソウェイルが、あおむけになっているフェイフューの胸の上に伏せた。


「こんなことするの久しぶりだな」


 フェイフューは荒い息のまま「そうですね」と答えた。


「たぶん十年ぐらいぶりです」


 ソウェイルの肩をつかんで、深呼吸を試みる。


「小さい頃はこんなことよくありましたのに」

「どうしてなくなったんだろうな」

「どうしてでしょうね」


 そこで、「ねえ兄上」と問い掛けた。


「兄上はいつまで僕とこうしていたいですか」


 ソウェイルが上半身を起こして、大きな瞳でフェイフューを見下ろした。


「兄上は、僕を、どうしたいですか。僕がどうなったらいいと思いますか」


 少しだけ考えたようだった。

 わずかに間を置いてから、鼻で息を吐いた。


「俺にゆだねるな。自分で考えろ」

「僕は――」


 ソウェイルの、手首をつかむ。


「僕は、兄上とこうしていたいですよ」

「フェイフュー……」

「ユングヴィに言われました。もっと素直に自分がどうしたいか考えなさいと――何が好きでどうなったら楽か感じたままに表現してみろと」


 フェイフューも上半身を起こした。ソウェイルと真正面から向き合った。


「僕は、兄上とこうしているのが楽しいですね」

「そうか……」

「それがどうしたという感じではありますが。いつまでも子供ではいられないのですし、何の役にも立たない感覚ですけれど」

「そんなことはないと思う、俺は――」

「ねえ、兄上――」


 そこで戸が開いた。


「やっほー! ソウェイルもフェイフューもいるって!?」


 ソウェイルもフェイフューも硬直して戸の方を見た。

 入ってきたカノも、双子を見て固まった。


「あれ……何その、ちょー至近距離……」


 二人は慌てて離れた。フェイフューが「べたべたしないでくださいよ」と言うとソウェイルも「お前こそしっかりしろ」と返してきた。それからはいつもどおりだ。





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