第13話 失望しました

 一年の最後の月である第十二の月エスファンドに入ってさらに数日、正月ノウルーズまで残り半月ほどとなった。日没までの時間は伸び、冷え込む日は減り、春告げの雨が降り続いた。草木が目覚めつぼみが膨らむ――そろそろ花が咲き乱れる季節だ。

 しかしフェイフューの心は浮かない。

 ユングヴィが宮殿に来なくなってから半月も過ぎてしまった。

 本人からは音沙汰がない。体調不良だから休むという簡単な伝言が白軍兵士やテイムルを通じて送られてくるだけだ。ユングヴィ自身が釈明しに来ることも手紙を書いてくることもないので、フェイフューには詳しいことは分からなかった。

 最初の二、三日は、風邪なのだろう、きっと発熱して起き上がれないのだろうと思い込んでいた。熱が下がれば何食わぬ顔をして戻ってくるはずだと信じていた。

 時が経つにつれて仮病を疑い始めた。何か思うところがあってフェイフューを避けているのではないか、本当は元気で自宅では夫や子供たちと楽しく過ごしているのではないか――そんな疑念が頭をもたげてきた。

 昨日とうとうソウェイルが重い腰を上げてユングヴィの様子を見に家を訪ねた。フェイフューは戻ってきたソウェイルに飛びついて様子を根掘り葉掘り訊ねた。しかしソウェイルは「だるそうだから放っといてやれ」としか言わなかった。

 ひょっとして何か重大な病気なのかもしれない。

 このまま二度と会えなかったらどうしよう。

 気が狂いそうだ。

 それでもたかが女一人に振り回されていることを周りに知られるのは嫌だ。

 フェイフューは極力ふだんどおりに振る舞った。昨日のソウェイルにはあれやこれやとしつこく質問してしまったが、テイムルや白軍の伝令兵に迫ることはなかった。日課はすべて通常どおりにこなした。

 大学で勉強をしている間や王子として宮殿の催事に出席している間はいい。けれど移動中、食事中、勉強部屋でソウェイルもカノも沈黙した瞬間などなど、ふとした時にユングヴィの顔が浮かんでは胸を搔き乱す。

 夜も眠れなくなってしまった。

 フェイフューのそんな心情をソウェイルは察していたのかもしれない。ひょっとしたら、昨日フェイフューには黙ってユングヴィ本人と何らかの話をしていたのかもしれない。

「おい」

 昼食後、フェイフューがひとり勉強部屋のこたつでふて寝をしていると、遅れてやって来たソウェイルが声を掛けた。

「ユングヴィがお前に会いたいって。お前に会って話をしたいって」

 フェイフューは飛び起きた。

「ユングヴィが来ているのですか」

「すぐそこで待ってる。久しぶりにこの家の様子も見たいらしい」

 そういえばここはもともとユングヴィが住んでいた家だ。ソウェイルとフェイフューがいる時に訪ねてきたことは過去に一度もなかったが、彼女にとっては馴染みの深い場所だろう。

 この狭い部屋でユングヴィと二人きりの時間を過ごしていたソウェイルはどれだけ幸福だったのだろう。

「お前がいいなら今ここに入れるけど」

 心臓は破裂せんばかりに早く脈打っていたが、フェイフューはできる限り平然とした様子を装って静かに「どうぞ」と答えた。

 ソウェイルが一度外に出ていった。

 次に彼が戻ってくるときには、ユングヴィを連れているのだ。

 戸が開閉される音がした。戸板越しに会話する声も聞こえてきた。

 フェイフューはその場に立ち上がって手櫛で髪を整えた。だらしなく寝ていたことが知られぬよう祈りながら待った。

 戸が開いた。

 ソウェイルに続いて、ユングヴィが入ってきた。

 今日の彼女は真っ黒なチャードルをまとっていた。頭から足首まで黒い布ですっぽりと覆っている。今時珍しい保守的な服装だ。

 素肌の顔がどことなく蒼白い気がする。やはり本当に体調が良くなかったのだ――そう思うと胸の奥が痛んだ。

 それでも彼女は笑う。

「わー、きれいに使ってくれてるんだね。懐かしい。全部昔のまんまだ」

 能天気な口調も変わらない。

 ユングヴィの後にテイムルが入ってきた。てっきりソウェイルとユングヴィの二人きりだと思っていたフェイフューは突然のテイムルの登場に少し驚いたが、テイムルが何も言わないのでフェイフューも黙って受け入れた。

「座ってもいいですか」

 フェイフューが「どうぞ」と答えると、彼女は靴を脱いでこたつに入った。今日の靴はかかとのない底の平らな靴だった。

 フェイフューはすぐ傍にしゃがみ込んだ。ソウェイルとテイムルは立ったままなのが引っ掛かったが、とりあえず目の前にユングヴィがいる、一刻も早く話し掛けたかった。

「調子が悪かったのですね。今日は大丈夫ですか」

 ユングヴィは力なく笑って「きりがないので」と答えた。フェイフューは顔をしかめた。

「何か――」

 ユングヴィの両手が伸び、膝の上に置かれていたフェイフューの左手を、そっと包んだ。

「殿下にもちゃんとお話ししなきゃと思って」

「何がです?」

「実はね」

 その笑顔は優しく、

「子供ができまして」

 フェイフューを揺さぶるには、充分過ぎた。

 意味が分からなかった。

「……は?」

 ユングヴィが微笑む。

「赤ちゃんができたんですよ。お腹に赤ちゃんが入ったんです」

 頭が真っ白になった。

 硬直しているフェイフューに対応することなく、穏やかな声で続ける。

「だから、お仕事、お休みさせていただこうかと。体がどたばたすると危ないので、生まれるまで――生まれてもしばらくはお休みさせていただくかなと思うんですが。もしくは、」

 一番恐れていたことだった。

「これを機に稽古をやめさせてもらって、誰か別の人に引き継ぎしようかな、って」

 武術の稽古がなくなる。

 つまりユングヴィと二人きりの時間がなくなる。

 もう一緒にいられない。

 ユングヴィが妊娠したせいだ。

 吐き気がした。

 昼はフェイフューと過ごしていながら、夜はあの蛮族の男とまぐわって子を作っていたというのか。

「……何を言っているのですか」

 声が震える。

「仕事があるのに子供ができるような行ないをしたのですか」

 ユングヴィが笑みを消した。

 図星なのだ。

 気持ちが悪い。

 フェイフューは立ち上がった。

 ユングヴィのチャードルの胸元をつかみ、捻り上げた。

 今までのユングヴィだったらそれを難なくかわしただろう。あるいは逆にフェイフューの手首をつかんで制圧しただろう。

 けれど今はただの女のように縮こまっている。

 それがフェイフューの怒りをさらにあおった。

「責任を放棄して情を交わしたのですか。理性というものはないのですか」

「でっ、殿下」

「あなたはそんなふしだらな女だったのですね。またあの野蛮人の子を孕んで」

 触れている手から汚染されてくる気がする。みだらで不潔な何かに感染する気がする。

 汚い。

「失望しましたよ。よくそれで僕にものを教えようなどと思いましたね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます