第10話 眠っていた記憶

 都会の喧騒が二人を包む。

 行き交う人々は角で石の長椅子に座っている二人にまったく気がついていないように見える。自分たちが透明になっているかのようだ。護衛の白軍兵士たちがどこからか見ていてくれるはずだが、フェイフューは世界にユングヴィと二人きりになったような気がした。


 不思議と嫌ではなくなっていた。このまま誰にも注目されずにユングヴィと二人でのんびり過ごすのも悪くない。

 エスファーナの空気に溶けて消えるのが心地いい。


 思えばこの数年自分はずっと渦中の人だった気がする。常に誰かの目があった。フェイフュー自身が望んで注目されようとしていた時もあるのでそこまで負担だったとは思わないが、落ち着かないのも確かだ。


「ちょっとは力が抜けましたか」


 隣でユングヴィが言う。


「おいしいもの食べてぼーっとすると、肩から力が抜けませんか。ほっとしませんか?」


 フェイフューは苦笑した。


「僕は肩に力が入っているように見えますか」


 ユングヴィは「はい」と即答した。


「なんだかずっと気を張っているみたいで。もっと気楽に生きれたらいいのになって、思ってたんですよ」

「お気持ちは嬉しいですが、僕は意識して気を張って生きているのでお気になさらず。常に緊張感をもって臨んでいるのです。僕自身が望んでそうしています」

「どうしてですか?」


 問われて瞬いた。


「どうしてそんな、ずっと緊張してるんですか。疲れちゃわないですか」


 そんなことを訊かれる日が来るとは思っていなかった。高貴な身分の者として当たり前のことで、フェイフューはそれを美徳だと信じていたのだ。


 横を向いた。

 こちらを見つめるユングヴィの目がどこか悲しそうに見えた。


「疲れ――は、あまり感じませんが……」

「ソウェイルなんかもっとぼーっと生きてるのに。ユングヴィは殿下もぼーっとしたらいいと思いますよ。今みたいに」


 はっと我に返った。慌てて背筋を伸ばした。いつの間にか本当に力が抜けていたようだ。


「ぼーっとできることはいいことですよ。平和ってことです。四六時中緊張してるのなんてそんなの戦争です。今は戦争してるんじゃないんだから、ぼーっとしたらいいんですよ」


 フェイフューは反論を探した。自分は本当にこの状態が自然で改めたいとは思わない。だがそれを押し通して納得してくれる感じではない。

 ユングヴィは頭の悪い女だが話は通じる。たまに要領の得ないことを言うが言って聞かせて分からないわけではない。むしろ、将軍でありながら庶民の感覚でいる彼女を諭すのは上に立つ者としての自分の義務ではないか。

 何と説明したら伝わるのだろう。


「いつ何時、何が起こってもいいように。何にでも対応できるように。そうやって備えておくのが、あるべき姿だと思っているのです」

「だからそれがさ、戦争中の兵士の考え方なんですよ」


 ユングヴィが目を逸らす。


「いつから――何歳ぐらいから、そういう風に意識して生活しようって思うようになりました?」


 問われて初めて考えた。分からなかった。


「物心がついた頃にはすでにこうだったのではないでしょうか」

「そんな小さな頃から? まだお父様やお母様がご健在だった時からです?」

「ええ、たぶん。意識したことがないのではっきりとは言えませんが」

「なんだか悲しいなあ。自分の親と一緒の時ぐらいのびのびしたらいいのに」

「親と一緒だったからではないでしょうか。母上が常日頃しっかりするようにとおっしゃっていたので」


 自分で言いながら驚いてしまった。すっかり忘れていた。無意識のところに定着していて表層には出てこなかった記憶だった。

 母の言葉が自分でも見つめたことのない心の奥の部分から噴き出す。


「母上が、『蒼き太陽』の弟として、『蒼き太陽』をお支えするために立派に生きなさい、とおっしゃっていたので」


 ――そしていざという時には、『蒼き太陽』にその身を捧げて死になさい。


「『蒼き太陽』をお守りするために……、『蒼き太陽』に代わって戦うために……、僕は強くて賢くなければならないので――」


 ――お前は『蒼き太陽』のために生まれたのだ。


「――僕にとっての『蒼き太陽』とは」


 右手の指と、左手の指を、組み合わせた。


「神でした。何よりも尊く、神聖で、侵しがたい――生きる理由をくださるものでした。僕はこの方のために心身を捧げて死ぬのだと思っていました。僕にとっては世界のすべてで、『蒼き太陽』さえ輝いていれば僕はいつ死んでもいいのだと思っていたのです。それは、殉じる、という、とても立派な行ないだと思っていたのです」


 ソウェイルがいつも世界の中心にいた。

 そうであるように両親が仕向けたからだ。


「だから僕は兄上が許せないのです。普通の子供のような振る舞いをする兄上が。僕にとっては世界のすべてなのに兄上には世界のすべてを統べるという意識がない」


 自分でも自分がそんな風に感じているとは思っていなかった。

 だがせきを切って溢れた思考は次から次へと口から出てきて流れが止まらない。


「僕は時々考えてしまいます、本当にこのお方のために死ぬべきか――でもそれは背教なのです、母上の教えに背く――母上は『蒼き太陽』のために生きて死ねとおっしゃいました、確かにそうおっしゃいました。それなのに『蒼き太陽』を疑ってしまう。すべてを『蒼き太陽』に捧げるため勉学も武芸も努力してきたのに、僕は――」


 手を、開いた。


「『蒼き太陽』のために――『蒼き太陽』より強く賢くしっかりしていなければと思って気を張って生きてきたのに、兄上はそうではないのです。兄上のせいで、僕は近頃自分が生きている理由を見失ってしまいそうになっています」


 その時だった。

 肩に腕を回された。

 強い力で肩を抱かれた。


 甘い匂いがした。乳の香りだった。遠いいつかに嗅いだ乳母の匂いに似ていた。子供を育てている女を連想する。


「だいじょうぶ」


 髪に、頬を、寄せられる。


「だいじょうぶ」

「何がですか」

「そんなこと言う親を親だと思わなくていいです」


 フェイフューは目を丸くした。


「子供に死ねとか誰かのために犠牲になれとか言う親なんて親じゃないですよ」


 生まれて初めて言われたことだった。


「あのですね。自分が子供を産んで気がついたんですけど」


 ユングヴィの声はそれでも穏やかだ。


「母の無償の愛なんてのは嘘です。世の中には自分の子供を愛せない母親というのがいます。子供を愛するためには、心に子供を住まわせる余裕がないといけないので。お金とか、旦那とか、家とか、仕事とか、何か頼れるものがあって心にゆとりがないと、子供に愛情を与えるんじゃなくて、子供から愛情をとろうとします」


 彼女は小声で付け足した。


「たぶん私の母親もそうだったんです」


 意外な言葉だった。彼女はいつも誰かに愛されてちやほやされて生きているように見えていた。


「私は恵まれてるんで――将軍やっててお金もあるし、育児してくれる夫がいるし、家もあるしお手伝いさんもいるし。だからいくら子供を可愛がっても私の心はからからにならないんです」


 腑に落ちた気がして、フェイフューは頷いた。


「母上には僕を可愛がる余裕がなかったのでしょうか。兄上が『蒼き太陽』だったから、ゆとりがなかったのでしょうか。だから僕に頑張らせようとしたのでしょうか」

「そうだと思います。王妃様も、おひとりでサータム帝国から嫁いできて、味方がぜんぜんいない中ちょっと変わった子を産んでしまって、必死だったんだと思います」

「母上には母上の事情があったのだと――」

「それは子供のフェイフュー殿下が考えることじゃないですよ。本当にちゃんとした親なら子供のためにゆとりを作ろうとするもんなんだから、事情はどうであれ結局そんなこと言って子供の人生を束縛するんじゃそりゃもう殿下はお母様を嫌いになっていいんです」


 肩から力が抜けた。


「母上の言いつけに背いていいのでしょうか」

「いいんです。殿下は、お母様の言ったことは忘れて、ソウェイルなんか関係ない、殿下のご自身の人生のことを考えましょう。自分のためだけの人生を」


 そして、フェイフューの腕を優しく撫でるように叩いた。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 歌うようなその声が優しく、まるで暖かい空気に包まれているかのようで、フェイフューはとても心地いいと感じた。


「よし、よし。だいじょうぶ。ユングヴィがついてますからね」


 フェイフューは、頷いた。





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