四
表通りから裏道に入ると井戸が見えてくる。湧水を汲むために集まった長屋の女どもの口ぶりは往々にして主人を叩いている。あんなものを聞いていれば嫁をもらう気など失せてくるであろう。秀介はしばし足を止めて自身の不足を補った。
秀介は起伏の大きな性格をしている。激しい怒りに命を燃やす時もあれば、自宅で静かな自省に包まれる時もある。だから女を紹介されてもすぐに逃げられてしまった。まるで二人の男を相手にしているようだと気味悪がられたのだ。かといって秀介には自省はできても自制はできないため、生まれつきの性質を治すつもりにはなれない。
似たような話に飽きた秀介が自宅まで戻ってくると大家が待っていた。手持ち眼鏡を通さずには文字も読めないほどの年寄である。白髪を無造作にまとめており汚らしい。ただしその目は秀介が知るかぎりでは古志津でもっとも精悍であった。
「ようやく戻ってきたか。はように店賃をわたさんか」
大家は秀介に手の平をみせた。しわしわの手が求めているのは六〇〇文。
「今は手持ちにない。そのへんの桶でも持っていけばよかろう」
「もう木桶はもらいすぎたわ。そろそろ秀介もまともに働いたらどうなのだ。忠吉は呉服屋の番頭にもなったのにお主は未だに嫁ももらわず遊んでばかりではないか」
大家は手持ちの合巻に目をやりながらも秀介に文句をぶつける。往々にして家主(大家)と店子(住人)は父子にも似た結びつきを持つものではあるが、大家のお節介にも良いものと良くないものがある。ただ文句をぶつけられるのと具体的にあれこれしてはどうだと示してくれるのとは雲泥の差があるのだ。
短気な秀介は顔を真っ赤にした。
「下劣な黄表紙など読みよってからに。老公こそ遊んでないで力仕事でもしてみるがいいわ。さすれば己から店賃など取らずとも暮らしていけるだろう」
「店賃を取らずに住まわせる家主がいずこにおるか!」
「然らば老公が天下で初めてとなろう」
「若造が知ったような口を利くでないわ」
大家は徴収を諦めたらしく目元に手持ち眼鏡を当てた。読んでいるのは地下の秀介には到底わからぬ代物である。具体的には漢字ばかり並んでいた。
なのでおのずと秀介の目は、上方から流れてきたという手持ち眼鏡に向かった。忠吉の持ち物もそうだが、表通りの質屋に持っていけばいくらになるであろうか。二年はグータラできるかもしれない。
「いかにした。物欲しげな目をしておるが、お主の目ならば暗がりでもよく見えるであろうに。だが年寄の儂ではそうはいかんのだ」
「夕方に本など読まねばよいではないか」
「人生はつねに鍛錬。心を鍛えてこそまともに死ぬる」
「ほう。では盗まれたらいかにする。その眼鏡とやらを何者かによって」
「ならばこうすればよい」
大家は右の手をぎゅっと握りしめた。己の腕力によって不埒な盗人を捕えるということだろうと秀介は踏んだ。しかし年の効なのか大家は特別な技を知っていた。
なんと握った手を右目にくっつけたのだ。
「ほれほれ。こうすれば短い間ではあるがよく見えるぞ」
「その方法ならば眼鏡がなくても読めるのか?」
「いかにも! おぼえておくがよい!」
「ならば眼鏡はいらぬであろう。己がもらおう」
「阿呆を申すな。これは長くやると目が疲れてしまうのだ。所詮はその場しのぎに過ぎん。本質を変えるには物足りんやり方なのだよ」
片手さえあればカンタンに成し遂げられるのだが、いかんせんやりすぎると目がヘトヘトになってしまうので使いづらい。
そんな大家の教えから秀介は一つの妙案を思いついた。
日頃あまり使われない彼のアタマが珍しく「そうだ!」と回ったのである。
さっそく秀介は長屋を飛び出して、表通りの呉服屋に向かった。しかし店先に忠吉の姿はなかった。おそらく奥にいるのであろう。
秀介は土足で上がる。
「おい忠吉! 一計を案じてやったぞ!」
「ほう。そうか」
「己とてたまには頭も使うのだ。どうだ!」
「頭を使えるのなら、たまにはこちらの都合も慮ってくれたまえよ」
旧友からため息をつかれてしまう秀介。
見れば、忠吉は立派な召し物の旦那に酒を注いでいた。
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