古志城の奥書院にて木村惣之助きむらそうのすけは文書を読み上げていた。

 牧野の大殿が目を悪くされてから数年。大殿の朱印を要するほどの重要な書状については上席家老の木村が内容をお伝えすることになっている。例えば江戸詰めの家老に向けた手紙や、老中を務めている当主に向けた報告書には朱印が必要である。他には百姓どもへの御触書や、御用金の下知状にしても然りであった。

 木村は若き日より秀でた武士だった。元々は次男坊だったが、大殿の拵えた「修道館」と呼ばれる学校にて知性を認められ、また剣術においても、およそ家中に匹敵する者なしと称された。加えて人心にも気を配ることができた。大殿が仰るには「世が世ならば家中の番方を率いて六つの大組(備)の長となり大戦功を挙げたであろう」とのことである。しかし木村自身は百万の兵を扱えるつもりでいた。

「では失礼つかまつりまする」

 今日の役目を終えた木村は奥書院から出ていく。大殿からは全幅の信頼を寄せられており、今日も何の懸念も示さず朱印を押してもらえた。ありがたい話である。

 木村は文箱を抱えて算用方に向おうとした。

 ところが小者から「根岸殿が城下の商人を入れております」「大殿に下り物の眼鏡を献上したいとの由」と伝えられると、木村はその商人を三之丸まで連れてくるように命じた。その目は鋭利であった。

 いったい、いかなるつもりで眼鏡の献上など考えたのだ。

 上席家老に与えられる三之丸の居室で木村は思索にふけった。やがて先ほどの小者が忠吉を連れてくると、木村は相手が大殿と旧知の仲にある呉服屋の旦那ではないことに安心し、気晴らしに「お主は何のつもりであるか!」と一喝した。

 忠吉は「備前守様に献上したい品がございます」と答える。なぜ一喝されたのかわからなかったものの木村が相手なので問うたりはしなかった。

 すると木村は「ならば女物の衣服でよかろう」と言い出した。

「女物でございますか」

「いかにも。大殿は外孫の吉江様をいたく可愛がっておられる。お主が此度の新田において便宜を図りたいのであれば吉江様から攻めてみよ。将を射んと欲すれば、まず馬を射るべしだ」

「さすが木村様。よき考えでございます」

 忠吉は平伏した。もちろん方便である。彼にそんなつもりはない。

 しかし木村は本心と読んだらしい。

「ならば今日は控えよ。また日を改めるがよいわ」

「おまちください。こちらの品はいかがいかしましょう」

「知らぬ。その品にこだわりを持つのならば理由を尋ねるがよろしいか?」

 木村は苦々しい表情を浮かべた。あくまで大殿の歓心を得るための献上ならば何の問題もない。しかし献上品が眼鏡でなければならないとすれば――木村としては絶対に阻止しなければならない。いざとなれば刃傷沙汰も覚悟の上である。なぜなら木村は大殿に嘘偽りを申している。大殿に伝えている分よりもはるかに巨額の御用金を古志津の商家に課すことで借金を帳消しにしていたのである。それも牧野家の借金ではなく木村自身の借金であったから、誠に性質が悪い。

 古今無双の英雄と同列に語られながら木村には「賭け事を辞められない」という大きな欠点があった。仕方がないので他の家老には刀を突きつけて口を封じ(殺したわけではない)、大殿の側用人や小姓どもにも同じことをしてきた。そんな努力をたかだか忠吉程度に潰されるわけにはいかない。

 一方の忠吉にも友人の凶行を止めたいという力強い念があった。

「こちらの品は下り物でございます。良い品でございます。ぶしつけながら木村様に中身を見ていただいても全く恥ずかしくありません。どうかお受取りいただけませんか」

「ええい。こざかしい。くどいのだ!」

「くどいとはいかに?」

「そもそも地下の番頭風情が城に上るなどけしからん!」

 木村は話の本筋を入れ替えようとした。城下で商いをしている忠吉には通用しない手立てである。しかし忠吉は木村が赤銅色を施された鞘に手を伸ばそうとしているのに気付いていたため物言いは避けた。一刀流の免許皆伝を持つ木村の手にかかれば、自分など一太刀で切り捨てられてしまうだろうと悟ったのだ。

 忠吉は「申し訳ございませぬ。次からは旦那様をお連れします」と平伏し、従者の荷物持ちを呼び寄せて早々に三之丸から出ていった。

 そしてお城から出たところで荷物持ちに扮していた秀介が叫んだ。

「やはり一揆しかあるまい!」

「まてまて。城の番方がこちらを見ておられる。起こす前に殺されるぞ」

「ならば殺される前に起こしてやろうぞ」

「一揆の他にも方法はある」

「しかし先ほどは上手くいかなかったではないか」

「そのとおりだ。だが木村様が怪しいのはよくわかった」

 忠吉は今にも飛び出していきそうな秀介を抑えつつ物思いにふける。忠吉は丁稚や手代の頃から旦那の付き添いで幾度となく城に上ってきた。あの頃は算用方の根岸様を通せば大殿への献上くらいは早いものだったはず。なのに今日にかぎって上席家老に呼びつけられたのはなぜなのか。

 もしや献上品を知られていて、それが木村様にとっては不都合だったのでは。

 忠吉はこの件に深く関わるのをやめにしようと考えた。彼は商家の者である。先に不利益しかないとわかれば手を引くのが当然であった。秀介については荷物持ちの扮装が似合っているのでこのまま働いてもらえばいい。小金を渡してよいものでも食べてもらえばカンシャク持ちも治るであろう。

「どうだ秀介。このまま呉服屋で手代として働いてみないか?」

「そんなことよりも呉服屋の旦那に城まで行ってもらえないのか。あのヤモリのような役人を飛び越えるにはお主では力不足なのだろう」

 秀介はジィッと城方を見つめていた。小指で耳の穴をほじってこそいるが、おそらく忠吉の話はまるで耳に入っていない。彼の中ではまだ『一揆』が終わっていないからであろう。

 ならば雇い入れの話はせめて手を尽くしてからとしよう。

 忠吉は「お願いしてくる」と頷いた。

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