秀介ひですけは激怒していた。必ず古志の人々を苦しめる仕組みを取り除かなければならないと決意していた。秀介には政治がわからない。彼はただの町人である。裏通りのオンボロ長屋に暮らし、月に三度ほど何かしらの手伝いをして手間賃をもらってはグータラしているだけの男である。けれども正義感は人一倍に強かった。だから表通りの大店が御用金に苦しんでいるのを見ていながら何もしないなんてのは、彼にはできない話だった。

 こうなったら一揆だ。一揆を組んで強訴に及ぼう。腹を決めた秀介は、表通りの呉服屋に走った。そこでは彼の幼馴染であるところの忠吉ただきちが、旦那から気に入られて店の経営を任されていた。

「おい! 呉服屋!」

 いつも店先で調子の良い呼び込みをしている忠吉のことを秀介は「呉服屋」と呼ぶようになっていた。忠吉はそれを快く思っていない。恩のある旦那をないがしろにしたくないのである。いずれは旦那の娘をもらって家を継ぐつもりではあった。しかしそれは先のことなのだ。

「ただの番頭にその呼び名はないだろう」

「今日から一揆を起こすぞ! お金を貸してくれ!」

「まてまて。そんなもんをここで口にしないでくれないか!」

 忠吉は古い知り合いをお店の奥に連れていった。店には武家の子女もよく来てくれている。彼女たちの口から変な噂が流れてしまえば彼の店はおしまいである。

 忠吉は秀介に「一揆など起こせば死罪は免れないぞ」と教えた。

 しかし秀介は死など恐れるものかと譲らない。むしろ明和の頃に古志津の市民を救おうとした涌井某のごとく首を晒されてもよいという覚悟であった。

 年末にはいつも多少の迷惑をかけてくるとはいえ、小さな頃からの友人を失いたくない忠吉は、どうにか秀介を止められないものかと知恵を絞った。やがて忠吉は上客の武家から聞いた一つの噂話を思い出した。

「まてまて。一揆を起こして死ぬのはいいが終わってからのことも考えよう」

「終わってからなど知らぬ。それは侍がやればいい」

「知らぬでは済まぬ。とにかく話を聞きたまえ」

 忠吉の話は次の通りである。

 昔から古志を治めておられる牧野の大殿には、近頃目が悪くなっているとの噂がある。忠吉が考えるに、おのずと文書が読めなくなり世相にも疎くなられたのではないか。だから古志津の力では賄えぬほどの御用金を課されたのではないか。

 秀介は息を荒くした。

「もうろく大名め。許してはおかぬ!」

「まてまて。そのようにいちいち暴れないでくれたまえ」

 旧友の気性の荒さに忠吉は嘆息する。

 しかし放っておいて身勝手に一揆など起こされてしまえば、古今の例から考えても大きな商家は必ず打ちこわしに遭ってしまうだろう。忠吉は旦那の店を守るためにも秀介を抑えるしかなかった。だが腹を決めてしまった秀介に変心をしてもらうためには知恵を絞らなければならない。忠吉は必死に考えた。

「そうだ。一揆を起こさずに政を正せる手がある」

「なぜ起こさずにおらねばならぬ!」

 もはや何かしらに拳をぶつけたいだけにもみえる秀介に、忠吉は「お主のところの大家が奇妙なものを手に入れていただろう」と話しかける。

 奇妙なものとは手持ち眼鏡のことである。

「ああ。あれは何なのだろうな」

「あれは目が良くなる道具なのだ。どれ、ひとつあれを大殿に献上してみないか」

 忠吉は手代の平七に命じて、台所から単眼鏡を持って来させた。べっ甲で仕立てられており献上品として不足はない。元々は北前船で上方から運ばれてきた下り物であり、珍しいので一つだけ手に入れておいたのが功を奏した。

 秀介は「しかし己の身では城には行けぬ」と拒んだが、忠吉から「城には縁がある。あとお主にも荷物持ちに扮してもらえば来てもらえる」と絆されて、渋々ながらその意を飲むことにした。

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