五
明くる日。朝から政務を取り仕切っていた木村惣之助の元に小者がやってきた。両者は身分が異なるため報告は廊下からである。
「木村様に申しあげます。またもや呉服屋の忠吉めが参りました」
「裁可を求めるまでもなく追い払えばよかろう」
上席家老の木村は淡々と命じた。そう地下の者に何度も来られても困るのである。ただでさえ三河時代からの先方家や他の家老衆に登城させていない分を自分だけで裁いているのだ。彼らに横領を知られないためとはいえ肩も凝ってくる。
しかし小者が「あの者は旦那も連れてきたのです」と付け加えると、木村はすぐにも立ち上がった。呉服屋の旦那となると案内せねば大殿に怒られてしまう。
やがて古志城の二之丸に大柄な男が入ってくる。お供に忠吉を伴っており彼に漆塗りの箱を持たせている。箱の中に入っているのはもちろん手持ち眼鏡である。
今日こそ献上を成功させてみせようぞ。忠吉の目には意志が宿っていた。
「こ、こちらでござる」
さしもの木村も、訪ねてきた者が大殿の『刎頚の友』とあらば頭を下げるしかない。木村は長らく大坂奉行を務めていたので、呉服屋の旦那と見えるのは初のことであったが、しかしながら城内に大殿と旦那の仲を知らぬ者はいないのである。加えて二十年ぶりの登城となれば木村の心中もざわついてくる。いったい何のつもりなのであろうか。
木村は小者に襖を開けるよう促す。
奥書院には越後古志七万石の当主である牧野備前守がお座りになられていた。姿こそ老いておられるが、さすがは元老中だけあって、全身からただならぬ気を発している。
「大殿。城下から呉服屋の宗右衛門が参りました」
「宗右衛門とな?」
木村の紹介に大殿は目を細める。だが廊下で平伏している旦那の姿を捉えることはできないようだ。旦那が表を上げても大殿は特に反応を示されなかった。むしろ若干ながら気を良くしているほどである。
やはり大殿が目が悪いというのは本当だったようだ。立派な召し物に身を包んだ旦那――の格好をした秀介は心中でほくそ笑む。もし露見していれば死罪も覚悟の上ではあったがバレなければ問題などない。
旦那本人の話によれば未だ手紙こそ出しあってはいるものの、もう二十年も大殿とは会っていないらしい。というのも旦那は右足の具合が芳しくないため城山を登れないそうだ。そこで秀介が代役を務めることになったのである。
秀介は品を作りつつ、白髪のかつらをわざとらしく掻いた。当然ながら秀介には演技の経験はないので、献上の件についてはお供の忠吉が進めていく算段となっている。
「拙者はお供の忠吉でございます。拝謁、至極に存じます」
「うむ」
「本日は城下より大殿に献上品を持って参りました」
「宗右衛門から何かくれるのか?」
「はっ。こちらの箱でございますれば……」
忠吉は漆塗りの箱を上席家老の木村に渡す。貴人への献上品に危ない物が入っていないか調べてもらうためである。
木村は受け取った箱を開けて、べっ甲の眼鏡を見て、すぐに閉めた。
「やはり……かような物! いったい、いかなるつもりか!」
「いかもたこもございません。ただの眼鏡でございます」
忠吉と秀介はわざとらしく平伏した。
木村は口を震わせる。このまま眼鏡を献上されてしまえば自分の借金は返せなくなってしまう。悔しい。大坂時代に相場遊びなど覚えなければ、こんな情けないことにはならなかった。しかしながらギャンブル狂いは止められないからギャンブル狂いなのである。
「かくなる上はこうするしかあるまいや!」
木村は漆箱を両手でしっかり持つと、そのまま上半身を後ろに倒すような形で投げ飛ばした。さらに箱が庭に落ちるやいなや「やれい!」と小者に命じた。小者は庭に降り立ち、漆箱を何度も踏みつけた。
ぐしゃぐしゃになってしまった箱の中から、もはや原型をとどめていない手持ち眼鏡の残骸が見え隠れする。
目の見えぬ大殿が「どうしたのじゃ」とお尋ねになると、木村は平然と「こやつらは箱に毒虫を入れておりました!」と申し開きをした。なんたる卑劣ぶりか。
追い込まれた忠吉は殺されないために反論を考え始める。
箱の中に毒虫など存在しないものの、大殿から信頼されている木村の証言となれば、それは真実とされてしまう。大殿にとって木村は目なのだ。その目が虚言を吐いていると告げるのは大殿に逆らうのも同じである。
ああいかにするべきか。忠吉は考えるのをやめて平伏したくなる。木村から眼鏡を壊されるくらいはあらかじめ想定していたのだが、まさか謂われなき罪をなすりつけられるとは思わなんだ。
「大殿を殺そうなど。とんでもない話である。拙者が成敗いたそう!」
嬉々として二人に近づいてくる木村惣之助。
ここで、これまでずっと黙っていた秀介が口を開いた。
「大殿に詫びをしとうございます。毒虫がいたかはさておき。これでは贈り物を献上できません。かくなる上は一つ、良いことをお伝えいたしましょう」
本来なら忠吉が告げるはずだったセリフである。
「ほう。よいこととはなんじゃ?」
「カンタンに目が良くなる方法でございます」
秀介は大家に教えてもらった方法を説明する。
右手で作った小さな穴から外を窺っていただきたい。さすれば文字は往時のごとく冴えわたるでありましょう。いわゆるピンホール効果である。
さっそく大殿は文箱から文書を取り出して試し始めた。
「おおお。これは愉快。立ちどころに読めるではないか……何々。下知書。古志津町方。ほほほ。今年中に御用金三〇〇〇両を申し付けるものなり。ん?」
「ひゃーっ!」
木村が怯えたような声を出す。
「……木村惣之助よ。わしがその方から聞いたのは五〇〇両だったはずであるが」
「い、言いまちがえたのでございます!」
「信用ならん奴じゃの……まあよい。これからはこの手があるからのう」
右手の穴の奥でギロリと目を鋭くさせる大殿。
その姿に秀介と忠吉は安堵の笑みを浮かべる。ようやく政を正すことができそうだ。旦那の格好までして城に登った甲斐があった。
「んん? おいおい宗右衛門よ」
秀介は大殿から話しかけられる。
「なんでございましょう」
「お主、その顔……本当に宗右衛門であるか?」
秀介と忠吉は目を見合わせた。
なるほど。よくよく考えてみれば、大殿の目が良くなれば秀介の扮装がバレてしまうのは当たり前である。
「もしや不届き者では! 拙者が成敗いたしましょう!」
落胆していたはずの木村が「御前にて失礼!」と打刀を抜いた。反射的に秀介も旦那から借りていた脇差を抜く。忠吉は「阿呆!」と叫んだ。刀を抜いてしまえば自ら不届き者であると認めたことになってしまう。
一刀流で名高い木村惣之助に、哀れな二人は切り捨てられてしまうのだろうか。
「待たれよ!」
助け舟は長屋から流れてきた。
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