2-5
ぱりん、と。
硝子細工が砕けるような音と共に、台座を守っていた結界が消滅する気配がした。
あたしは我ながら驚いて目をみはり、それから後ろの三人を振り返る。三人も一様にびっくりした表情で――特にリサが、心底から、信じられないといった顔をしていたんだけれど、その時のあたしはまだその理由を知る由もなくて――、あたしを見ていた。
「と、とりあえず」
クロウが最初に気を取り直して手を振って示す。
「その上の物が何か、確認してみろよ」
言われてあたしは台座に向き直り、そこにある物に手を触れた。
銀製の腕輪だった。一見、何の変哲もない腕輪に見えるけど、丁寧な装飾が施されている。そして何よりその腕輪を特徴づけているのが、中央に埋め込まれた、ブドウ一粒くらいの大きさの黄色い石。角度によっては猫の瞳のような筋が入って見えて、神秘的だ。
思わず見とれてためつすがめつしていたあたしは、迂闊な事に、その瞬間、周囲に気を配るのを忘れていたのだ。
「――カラン!」
あいつのいつになく真剣な叫び声がした、と思った時には、あたしは突き飛ばされていた。倒れかけて斜めになった視界に入ってきた物事を認識するのに、しばらくの間が必要だった。
宙を舞う腕輪。剣に手をかけるクロウ。リサの驚愕に満ちた顔。あたしを突き飛ばしたあいつの苦痛に歪む表情。その左肩に深く牙を食い込ませていた、獣型の
あたしは咄嗟に受け身を取り、頭から地面にぶつかるのは避けられた。だけど、あいつの肩から牙を離した影がすぐさま腕輪をくわえて、疾風のように駆け去って行くのを、止められる体勢に持ち直す暇は無かった。クロウが洞穴の入口まで追いかけたが、あっという間に見失ったらしい。悔しそうに、剣で、がん、と壁を殴りつける。
魔物を全滅させて安心して、結界を壊して入り込んでいたはずの影の存在を失念していた。バウンサーとして重大な過失だ。でも、もう影を追って腕輪を取り戻す事が不可能だというのも、認識していた。
それより今は、仕事上のミスを悔いるよりも仲間を助ける方が先だと思って、あたしはセレンの傍らに膝をついた。肉まで食いちぎられこそしなかったものの、服が、傷口をおさえるあいつの手が、どんどん血で染まってゆく。いくら人間離れした回復力を持っているらしいセレンでも、応急処置だけでザスの街まで無事に戻れるだろうかと、不安になった時。
「私に任せてください」
リサがかがみこんで、魔力の込められた杖をかざし、詠唱を行った。
『光の精霊よ、この者の傷を癒す慈悲の輝きを、今ここに』
杖の先端の色の無い宝玉が温かい光を放ったかと思うと、セレンの肩の傷に降り注ぎ、みるみるうちに流血を止め傷を塞いでいった。
「回復魔法?」
「はい」
あたしが、あいつの肩とリサの顔を見比べると、彼女は、「まだ修行中の身で、高位の術は使えませんけれども」とはにかむ。
「いや、充分だよ。ありがとう」
セレンはリサに礼を述べると、深く息をつき、肩から手を放した。流れてしまった血は生々しいが、もう痛みはないようだ。
「とにかく」
クロウが、剣をしまいつつあたしたちの方へ歩いて来ながら、言った。
「もうここにいる意味は無いよな。街に戻ろう」
それであたしたちは、洞穴を出て、城外へ出て。壊れた結界石の代わりを置いて結界を復活させると、サンザスリナ城を後にした。
達成感なんて、全く無いまま。
ザスに戻って来た時には、もう夕暮れ時だった。まずはシェリーに事の顛末を報告しなくちゃいけないだろうと、カバラ社支店に向かおうとしたら。
「カラン! やっと帰ってきたのね!」
そのシェリーが、道の向こうから慌てきった様子で駆けて来る。いつも焦ったところなんて見せる事の無いシェリーだから、一体何事があったのかと、あたしは疑問に首を傾げたんだけれど、シェリーはそんな鈍さももどかしいとばかりにこちらの肩をつかんで、声を荒げた。
「大変よ、フェリオさんが影に襲われたの!」
「――えっ!?」
あたしとセレンの驚きの声が重なる。
「とにかく早く店に戻ってあげて!」
さっきのセレンの傷を思い出してしまったあたしは、すっかり動転して、ものすごい勢いで何度もうなずいた後、フェリオの店へ向けて走り出した。フェリオは、かつて行き所の無かったあたしを五年間育ててくれた恩人だ。もしもの事があったら、泣くぐらいじゃ済まない。
どれだけ人にぶつかったかも、後ろをあいつとクロウとリサがついて来ているのも、わからないまま、あたしは走り続け、
「フェリオ!」
こないだ襲撃して来た影以上に、壊すんじゃないかって勢いで、店の扉をばああん!!と開けた。
のだ、が。
「ちょっとちょっと、こちとら怪我人なんだから、そんな大声と大きい音出すんじゃないの」
予想に反して、返ってきたのは、割と元気ないつものフェリオの声だった。
店の中はぐっちゃぐちゃだった。あちこちの椅子とテーブルがひっくり返って、床に料理がぶちまけられ、それを、ザスの街の人たちが手伝って片付けてくれているところ。
しかしよくよく聞いたら、それはほとんどが、影にびっくりしたお客さんたちがやった事らしく、そのお客の数も昼のピークを外していたから少なく、フェリオと店以外に被害は無かったらしい。そしてフェリオ自身も、突き飛ばされて足をくじき、倒れた時の打ち所がちょっと悪くて、右腕を腫らした程度だった。シェリーの様子から、もっと死にそうな怪我でも負ったんじゃないかと、本気で心配したあたしは、それを聞いたら気が抜けて、はああ~っと息を洩らしながら床に崩れ落ちてしまった。
「でも、何故影が、このような街中まで?」
先日の事情を知らないリサが、フェリオに回復魔法をかけてくれながら、不思議そうに訊ねる。
「ああ、こないだ影を撃退したからね。その意趣返しってところじゃないの。まあ、このフェリオさんが、フライパン振り回して追い返してやったけど」
これはその名誉の負傷ね、とフェリオはからから笑って、ごまかそうとしたけれど。
「……狙いは」
深刻な顔をして黙り込んでいたセレンが、おもむろに口を開いた。
「オレ、だったんですね」
フェリオとあたしは、違う、と否定できずに黙り込んでしまう。何の事かわからないクロウとリサは、怪訝そうな表情をするばかり。
もう、黙ってはぐらかしていられない。それに、話してもこの人たちなら信じてくれる、信用できる。そう確信したあたしは、店を片付けてくれた皆が帰ってあたしたち五人になるのを待ってから、セレンが記憶喪失である事、あいつを狙った影が襲ってきた経緯、そもそもあいつをルグレット平原で見つけたところまでさかのぼって、クロウとリサに話した。
「影に狙われている人間なんてそんな難儀な話、初めて聞いたぜ」
クロウが腕を組みうんうんとうなずく。リサは黙って考え込んでいる様子だったので、さすがに突拍子無かったかな、と思って見ていたら、あたしの視線に気づいた彼女は、いいえ、信じていない訳ではありません、と微苦笑しながら首を横に振って。
「ただ、もし影に追われているのならば、逆に影を追いかければ、セレンさんの事が何かわかるのではないかと思いまして」
その逆転の発想に、本人以外の全員が目を丸くしてリサを見やった。
「サンザスリナ城で影が奪っていった腕輪。あれにはめ込まれていた石は恐らく、デュアルストーンです」
「
あたしがぽかんとすると、リサはうなずいて続ける。
「何故そのような名を持つのかは、今ではわかりません。ですが、サンザスリナ、ランバートン、ヴァリアラ、クルーテダッスの四王国それぞれに、同じ名を持つ石が伝わり、密かに守られてきたのです」
どうして彼女がそんな国家機密を知っているのか、その時は疑問すら抱く余地が無かった。
「じゃあ、オレは」
すぐにあいつが、意を決して口を開いたから。
「ザスを出て、残りのデュアルストーンを守りに行く」
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