2-4

 暗闇を落ちて、遙か下方の固い地面に叩きつけられるだろう事を覚悟して、あたしはきつく目をつむった。

 ところが。

 あたしを襲ったのは、強く腕をつかまれてがくんと引き止められる痛みだけで、それ以上の衝撃が来る事が無かった。

 恐る恐る目を開けてみると、あたしは、足元に空いた穴に宙ぶらりんでぶら下がっている状態。下は真っ暗で何も見えない。

 そして上を見ると。

「間一髪、だったな……」

 あたしの腕を両手でつかんで引き止めているセレンの必死な顔が、至近距離にあった。

 助かった、という安堵を抱き、それから、あれ? とあたしは疑問符を浮かべる。結構な幅の床が崩れ落ちたはずだ。あいつが身を乗り出しあたしをつかみとめる余裕も無いほどに。

 そこで初めて気がついた。 あたしが、いや、あいつが、何も無い宙に浮いているのだという事に。

「滞空魔法……!?」

 リサの驚きに満ちた声が聞こえる。

 そう、ちんぷんかんぷんな魔道書をかじり読みしただけのあたしだって、知っている。いくらカバラ社が世の中を便利にしたからって、人が生身で空中を飛ぶ術はまだ完成していないんだって。

 でも、そういえば初めて会ったあの日も、あいつは空を飛んで落ちて来たんだった。

 本人以外の誰もがびっくりしている中で、

「お……っ前、何だよ、ちびっこいくせに重すぎ!」

 セレンは悪態つきながらあたしを引っ張り上げる。

「失礼だな、重いのは剣とかいろいろ荷物持ってるから!」

「わかったから暴れるな! 落ちる!」

 空中でちょっとすったもんだした後、あいつとあたしは無事穴を脱して、床に降り立つ事ができた。

 クロウとリサは、しばらく驚きの表情で立ち尽くしていたけれど。

「す、すごいですわ、セレンさん! 滞空魔法を会得してらっしゃるなんて!」

「俺も世界のあちこちを回って来たけれど、初めて見たなあ」

 もう絶賛。

「あ、いや、これ、勝手に身体が動いたというか、身体が覚えてただけなんだけど」

 当の本人は、決まり悪そうにぽりぽり頭をかくばかり。

「とりあえず」

 まだ腕をつかまれていた事を思い出し、あたしはその手を離しながら言った。

「お礼は言っとく」

「それが感謝してる態度かよ」

 あいつは呆れたように見下ろしてきたが、まあ、気にしない。

「それにしても、この穴……」

 感嘆の雰囲気が消える頃、クロウが落ちない程度に穴に近づいて、松明をかざした。その程度の灯りでは底が見えないが、あたしはある事に気づく。

 さらさらさらと流れる、この音は。

「水が、ある?」

「こいつは……」

 クロウが顔を上げて、にんまりと口の端を持ち上げた。

「思いがけない近道ショートカットを作ってくれんたじゃないか?」

「それ、嫌味?」

「褒めてるよ」

 あたしがぷうと頬を膨らませると、クロウはケラケラ笑ってかわす。

「とにかく、この下に降りてくれるならありがたいな」

 セレンが憮然としているので、「なんで?」と訊いたら、あいつは空の両手をこちらに見せて。

「お前が落ちないようつかまえるのに夢中で、武器を落とした」

 ……みんなしてあたしを責めているのかと、あたしは少し、落ち込みかけた。


 セレンの滞空魔法を頼りに、あたしたちは、クロウ、リサ、あたしの順に下の階層に降り立った。

 あたしを助ける方に集中しすぎて消えてしまった炎の灯りを、あいつが再び生み出し、あたりを照らすと、そばに転がっていた柄だけの剣を拾い上げる。

 そこは天然の地下水路のようになっていて、城の外から注ぎ込みまた出てゆくのだろう水の流れが、滔々と続いている。脇の道幅は決して狭くはないが、うっかり足を滑らせでもしたら、水にドボン。そのままどこまで流されるかわかったものじゃない。あたしたちは、クロウを先頭に、リサ、あたし、しんがりをセレンに任せた並びで、できる限り慎重に探索を続けた。

 やがて水の音が大きくなり、遙か上方から滝のように水が注いでいる場所に出た。恐らく水は、城内のどこかからやって来ているのだろう。

「大概こういう場所には、滝の裏側に秘密の入口が……」

 ぶつぶつ洩らしながら、クロウが滝の裏に回り、それからあたしたちを手招きした。彼の予測は当たったらしい。道が繋がっていて、滝に隠されるように、さらに奥への入口がぽっかりと開いている。

 この奥に何があるのか。入口をくぐった途端、クロウが足を止めたので、真後ろのリサが彼の背中にぶつかる羽目になった。あたしとセレンは玉突き事故を起こさず踏み止どまったが、前方から感じた何かの気配に、咄嗟に武器を構える。

 入った先は、広い洞窟になっていた。気配はその頭上からする。嫌な予感にあたしたちは顔を見合わせたが、やがてセレンが諦めたように、灯りの炎を天井近くまで浮かばせた。

 途端に明るくうつし出された天井には、黒い翼がびっしり。ブラッディバット、と呼ばれる、大きさは普通のコウモリの倍くらい、凶暴さは五倍くらいある魔物が一斉に、ぎろっと赤い目をこちらに向けた。

「来るぞ!」

 クロウが松明を床に放り出し、両手それぞれに、やや短めな片刃の剣を構えた。双剣使いだ。

『水の精霊よ、穏やかなる流れを猛き怒りに変え、碧き矢となって我が敵を撃ち抜け』

 リサは、魔道士必須アイテムの魔力を込めた杖をかざして、魔法を行使する為の詠唱を始める。

 キキィ、と何重もの嫌な鳴き声を洩らして、ブラッディバットの群れが襲いかかってきた。クロウとあたしは剣でなぎ払い、リサは魔法で氷の矢をいくつも作り出して、魔物を射抜く。セレンははじめのうちは魔力の刃を振るっていたけれど、効率が悪いと感じたんだろう。それをしまうと、火の魔法で焼き払い始めた。リサとは違って、詠唱も無しで。

 それがやっぱり人間離れした特殊な芸当だって事は、ちんぷんかんぷんの魔道書の中であたしが理解した、数少ない事実だ。しかし今はそんな事を気にして突っ込み入れてる場合じゃない。

 十何匹目かのブラッディバットを斬り捨てた時、あたしは背後からどすんと何かにどつかれて、前につんのめった。セレンたち三人のうちの誰かとぶつかったのかと思い、クロウかリサだったら謝ろう、あいつだったら文句を言おう、と振り返って……、あたしは文字通り言葉を失ってしまった。

 新手の魔物だった。水があるんだからこんなのがいても不思議じゃない。けど、できればいて欲しくなかった、こんなの。

 ぬめぬめ光る不細工な体躯。ゲコゲコ鳴く声。

 あたしの大嫌いな。

「カエルーーーっ!!」

 あたしの絶叫が洞穴中にこだました。

 そう。やってきたのは、ラージフロッグ、とカバラ社発行の魔物辞典に名を連ねる、カエルの魔物。人間と同じくらいという非常識な大きさの奴。挿絵どころか名前も見たくなくて、フェリオの店に置いてあった辞典のそのページを糊づけして、目に触れないようにしていたそいつが今、あたしの目の前にいる。

 それも一匹じゃなくて、何匹も。

 完璧に固まってしまったあたしめがけて、カエルがコウモリが殺到する。ああこれ怪我するだけじゃ済まないかも、と、頭のどこかでやたら冷静に考えた時。

 炎が、魔物を一斉に焼き払った。

「ったく、手間かけさせるな、馬鹿!」

 セレンだった。いつの間にか、褐色だった瞳が赤に変わっている。

「――来い!」

 あいつが叫んだ。はじめ、誰を、何を呼んでいるのか、訳がわからなくて、ぽかんとしていたんだけど、答えはすぐに、でもにわかには信じがたい光景として現れた。

 あいつの身体から炎のような赤い光が立ち上ぼり、ひとつの形をとる。それはまるで、鳥、それも、空想上の幻獣と言われている。

 火のフェニックス

 そのものだった。

「焼き尽くせ!!」

 セレンの一声で、火の鳥は一声いななくかのように翼を広げると、あいつの元を離れて、魔物たちに向けて飛びかかった。

 あたしもクロウもリサも思わず身を伏せてしまったが、火の鳥の炎は、あいつが放つ火の魔法同様、決して味方を巻き込む事無く洞窟中を縦横無尽に飛び回り、魔物たちだけを骨まで残さず焼き払った。

 生きているものはあたしたち四人しかいなくなった洞窟内、あたしたちが唖然として見ている前で、火の鳥はセレンの元に戻り、赤い光として四散して消えた。同時にあいつの瞳も、変哲無い褐色に戻る。

 あたしたちが言葉も無く見つめていると、あいつは大きく息をつきしばらくうつむいていたが、やがて顔を上げて。

「……変だろ?」

 頼り無い笑みを向ける。

「自分の中に何か別のものが居て、それを行使するなんて。人間業じゃ、ないよな」

 出会ったばかりで事情を知らないクロウとリサは、返す言葉を見つけられずにいたけれど、あたしは――そう、その時はあたしが言わなきゃいけなかった、あたしにしかできない事だった――、首を横に振り、あいつに微笑を向けた。

「でも今は、あんたのその力のおかげで助かった。さっきも助けてもらった。どんな力があったって、セレンはセレンだよ。他の何者でもない。今は、それでいいじゃない」

「何だよ、それ」

 あいつは困ったように笑みを返してきたけれど、さっきのような力無い笑いじゃなかった。それに、心無しか顔が赤かった。

 あ、もしかしなくても、照れてる?

 からかってやろうかと思ったけれど、あたしが口を開く前にあいつは笑みを消して、周囲を見渡す。

「それにしても、結界があるのに何でこれだけの魔物が入り込んでいたんだろうな」

「恐らく、地下に結界の効果は及ばなかったか、結界が作られる以前から住み着いていた魔物が、出口を失ってここで繁殖するしか無くなったか。どちらかですわね」

 リサが冷静に分析していると、いつの間にやら洞窟の奥へ一人進んでいたクロウが、これまたいつの間にやら手にしていた松明を振り回して、あたしたち三人を呼んだ。それに従い彼の元へ行ってみると、台座があって、その上に何かが安置されている。

「近づけないんだ」

 クロウが言いながら拳を軽く振り下ろしてみる。その手は、中途半端な位置でぱしんという音と、微かに小さな火花のような光を発して、まるで見えない壁にぶつかったかのように弾かれた。これも結界だ。

「これはもしかして……」

 リサが呟く隣で、あたしはすっと結界に向けて手を伸ばす。クロウと同じように弾かれるだろう予感はあったのに。何故か手が伸びた。

 そして結界は、予想とは異なる結果をあたしたちに見せたのだった。

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