花火の残響
六年前の私は電車に揺られていた。
その時の事はもう曖昧になりつつある。記憶は揺らぐもので、当事者たちですらもいつの間にか容易に事実がすり替わってしまう。
往々にしてそう言う事はよくあるものだと気を付けていないと、あれを言っただの言わないだのと言った水掛け論になってしまう。
それでも時々、つい忘れてしまうものだが。
今日はお盆だった。
実家に帰省している。私も猫と同様にエアコンのある部屋でぐったりしていた。
前に会った時よりもいくぶんかくたびれた母、白髪が増えて座椅子に座り込み酒を飲みながら寝る事が増えた父、そして新しい住人たる猫。
半年前にやってきた彼は、ここ最近の暑さにすっかり参っていてエアコンの風が通る場所から一歩たりとも動こうとしない。頭には保冷剤を枕代わりに置いており、保冷剤が融けきってしまい冷たさを失ってしまうと、母や父、あるいは私を呼んでは不機嫌で交換するまでを見つめている。
帰省しろと散々親に言われてようやく帰って来た。
だいたい五年ぶりと言った所だろうか。五年という歳月は何かが変わるには十分すぎる。私と親の仲は良くもなく、悪くもないが、日々の忙しさにかまけてつい億劫になっていた。猫を飼ったという連絡を見て、ついでに帰ってみるかという気になったから帰って来たのだが、やはり実家に何年も帰っていないと居場所がない。自分の部屋はいつの間にかすっかり猫の遊び場になっていた。こんな場所で寝れる筈もなく、私は隣の物置部屋で眠る羽目になっている。
居間で寝転んでいる猫は我が物顔ですっかり馴染んでいるが、自分がそうやっていると何かこう、尻の辺りがムズムズして落ち着かない。
「こんにちは」
と、唐突に玄関から挨拶が聞こえた。
母が応対に向かうと「あら、久しぶり」という声が響いてきた。
訪れたのは親戚の叔父さんたちといとこであった。
いとこは既に結婚しており、子供まで連れてきていた。
居間に入って来た彼らに私は挨拶だけを交わし、いたたまれずに家から出て電車に飛び乗る事にした。
結婚もせず、未来の見えない仕事をして安い給料を手に愚痴りながら、安くアルコール度の高い酒をかっ喰らう毎日を過ごしている。自分の至らなさの為にそうなっているだけだし、今更上を目指そうと言う気にもなれないのだが、いざ自分のかつて身近だった人たちが世間のよく言う「幸せ」や「成功」を収めているとそうなれていない自分の存在が矮小に思えてならない。
昼下がりからいささか過ぎた時間帯。
第三セクターの有人駅。JRに比べれば質素な設備。定年を過ぎて再雇用された年老いた駅員。切符すら自動改札ではなく人の手によって切られる。無人駅よりはマシにせよ、田舎の駅とはそういうものだった。
駅には親族や友人に見送られて乗る人々がわずかに居る。
私はそれらを横目で見ながら、向い合せになっている席の一つに座った。
人がまばらだから誰もが好きな場所に座る事が出来る。それだけがこの過疎の地域で唯一と言ってもいいくらい好きだった。
まもなく電車は走りだし、風景が流れる。見慣れた田んぼと山々、木々。ここいらではまだ住宅も見えるが、山の方に向かうにつれて住宅は無くなり、切り立った崖や川が見えてくる。山を一つ越えて、市はある。
普段都会に住んでいるのならば、こういった風景は新鮮に映るのかもしれない。
だが田舎を故郷とし、都会に憧れて移り住んだ者としては当たり前に存在するものとしてしか受け取れず、退屈だった。
都市に出て喫茶店や本屋でしばらく時間を潰そうかと考えていた矢先、声が背後から飛んできた。
「吉崎君?」
最初はだれか違う人の事を呼んでいるのだろうと思い、外の風景に目を向けていた。
「吉崎君でしょ。やっぱりそうだ。超久しぶりじゃない?」
声の主は目の前の座席に座り込みながら、私に再度声をかけて来た。
彼女の顔を見て、ひどく狼狽した。
彼女は私を見て笑いながら言う。
「何年ぶり? めっちゃ老けたね」
「お前は何年経っても老けないな」
「昔に比べたら、大分お肉もついちゃったよ」
と言いながら、腹の肉をつまむ仕草をした。
「いつ帰って来たの?」
「二日前」
「もう帰ってこないと思ってたよ」
「たまには顔を見せろって親がうるさくてね。それよりもお前がここに居るとは思わなかったよ。都会に出るって言ってたじゃないか」
「結婚して地元に帰る事になったからね。私も戻りたかったし」
そっか、と私は言った。
それ以上会話を続ける気にもならなかった。黙って流れる風景を見つめる。
「子供もできたよ」
愛おしげにお腹をさする彼女。
「男の子? 女の子?」
「それはまだわからない」
「そっか」
「あの時の事を、覚えてる?」
「あの時?」
「別れた時の事」
「ああ」
覚えているような素振りをした。もう六年も前の事で、記憶としてはだいぶ虚ろになっている。別れた後、電車に乗って花火を見た事だけは覚えていた。
彼女とどういうやりとりを最後にしたかはもう忘れてしまった。
お互いに罵り合ったわけでもなく、泣き合ったわけでもなく、淡々と別れたように思う。
「吉崎君は淡々と受け入れて、それでそのまま私との事を忘れたかのように去ってしまったけど、私は相当引きずったよ」
「それは誤解だよ。オレも相当に引きずったさ」
「本当?」
「今だってオレは結婚していないし、恋人だっていない」
「今の今まで引きずっているってこと? それはちょっと、重いね」
「だろう?」
冗談めかして言ったが、本当に私は今の今までずっと彼女の事を想っていた。
でも、結婚までして子供まで居るとなれば、仕方が無いのかもしれない。
別れた後の事を話し込んでいるうちに、電車は終点に到着した。
少ない客が降りていき、私と彼女も降りる。
改札を過ぎて彼女を待っていたのは、夫と思しき男性の姿だった。
「じゃあね。吉崎君、また今度会いましょう」
「ああ、さようなら」
もう二度と会う事はないだろうと心の中で付け加えて。
喫茶店でコーヒーを頼み、ガムシロップとミルクを入れた。
透明な液体は底に沈み、ミルクは徐々にコーヒーと混ざりあって色を薄くする。
ストローで沈んだガムシロップをかき混ぜながら、一口飲んだ。
当時の記憶を手繰り寄せようと頑張ってみたものの、今更思い出せるものはくしゃくっしゃになった彼女の涙顔だけで、あとの記憶は手のひらから零れ落ちる砂のように消えてしまっていた。
果たして彼女と過ごした時間はどんなものだっただろうか。
もう携帯にも写真や動画は残していない。確かな証拠となる物品も捨てた。
あまり時間をつぶす気にもなれず、早々に私は電車に乗った。
山を一つ越え、自分の故郷に近づくにつれて夜はやってくる。
ずずん、ずずんと地響きのような音が聞こえる。
何の音だろうと窓の外をみやれば、空には花火が広がっていた。
色とりどりの光が目に映り、少し遅れて音と振動が伝わってくる。
いつも花火だけは一緒に見ていた。どんなに都合が悪くても、お互いに何とかして合わせていたのだった。
切っ掛けは花火を一緒に見ようと言う約束を守れなかった事にある。どっちが悪いという話ではない。お互いにすれ違い、歪みが生まれて亀裂が発生した結果だった。
その時にはもう遅すぎたのだ。
ただただ、私は花火を見つめていた。
かつての残響が耳にこびりついて離れなかった。
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