天井を見つめる
夜中、いきなり目覚めてしまった。
久しぶりの肉体労働で疲れ果てていつの間にか眠ってしまったようだ。
夕食を取るのも忘れ、風呂に入るのも忘れて着替えるのすら億劫で布団に倒れ込んだところまでしか記憶はない。テレビと部屋の電気は点けっぱなし、携帯は充電し忘れて警告メッセージが表示されている有様。連絡に大事だからまず起きて慌てて充電ケーブルをつなぐ。緑色のランプが点灯して充電が始まる。一安心。
それにしても、いつからこうまで体がなまってしまっただろう。高校生の頃は一日中動き回ってもそこそこに元気が残っていたはずなのに、二十代も半ばを超えると疲れが中々取れなくなってしまった。首を動かせばゴキゴキと音を立てる。
じっとりとかいた汗がまとわりついて気持ち悪い。まず汗を流さねばと思い風呂のガスを点ける。追い炊きで設定温度まで温度が上昇するには大体三十分くらいかかるから、その間に手早く遅すぎる夕食も済ませてしまおう。といっても冷蔵庫の中には食材がほとんどない。最近忙しくて買い物すら出来てないから中にはもやしと味噌しか入っていなかった。せめて納豆くらいあればなとぼやきながら、続いて台所の戸棚を開く。さばの水煮とうどんの乾麺があった。これでおかずはなんとかなる。さば。
幸いな事に朝炊いた白いご飯がまだタッパーの中に残っている。もう少し物色したらインスタント味噌汁も見つけた。もう時間も遅いのでこの程度の軽い夕食で良い。
ご飯をレンジでチンして、さばの水煮の缶を開いて醤油を少し垂らして、インスタント味噌汁を椀に作る。豆腐とわかめの味噌汁。もう夜中だからご飯の量は控えめに、いただきます。
食べて深夜TVを見ながら、風呂が沸くのを待つ。
風呂は良い。落ち込んだ時、怒りが収まらない時もとりあえずシャワーを浴びて風呂に入ればスイッチが切り替わって感情が落ち着く。一日風呂に入らないとその次の日の機嫌が悪くなる。風呂は大事だ。
ようやくお湯が沸いた。風呂に入ろう。
脱衣所で服を脱ぎ、風呂場に入る。体をお湯で流して湯船につかって天井を眺める。ふうと息を吐いて、脱力して、お湯に身を任せて目を瞑る。
一日の疲れがお湯に溶けて消えていくような気がする。ようやく一日を終えられる区切りがつけられる。そんな感覚を覚える。
五分ほどそうして、一旦湯船から上がって椅子に座り、頭と体を洗う。更に疲れが抜ける気がする。いや実際に疲れが抜ける。汚れを落として体を清めるのは気分的にも清々しいものだ。
汚れと泡を洗い流して再び湯船につかる。
そういえば風呂場の窓は開いたままだ。それでもちっとも寒くない。
それくらい夜でも外気温は上がってきている。その証拠にガラス窓に一匹の蛾が張り付いている。風呂場の壁には小さなクモが張り付いてじっとしている。巣をつくらないタイプのクモ、おそらくハエトリグモだろう。
私はこのクモが結構好きで、見かけても潰したりすることはしない。手に取って眺めて動きと愛嬌を楽しみ、気が済んだ所で離してやることにしている。もっとも、今これをやると誤って風呂に落として殺してしまうのでやらずに眺めているだけで済ませるが。
しばらく眺めていたせいかすこしのぼせてしまった。そろそろ風呂を出る。
風呂上がりの酒でも飲もうかと考えたが、既に時間も遅いので歯を磨いて布団に入って寝る事にした。明日も早い。
部屋の電気を消し、布団に潜り込んで天井を見つめる。
最初は電気を消した部屋の暗さに目が慣れなくて全く見えないけれど、徐々に目が慣れて天井をうっすらと見れるくらいには視覚を確保できている。
天井。壁。どちらも白い。狭い部屋。
そこで私は暮らしている。ワンルーム。あくせく働いて、得られる賃金はそれほど多くもなく。世の人々は青春や恋愛を謳歌しているが私にはそれすらなかったような気がする。
じっと手を見るとか何とか言っていた詩人だか作家が居たような気がするが奴は金は結構持っていた。遊びほうけてそのために何もかもを無くしてしまった愚か者だが、才能だけは確かにあった。
私にはそんな才能も無い。できる事と言えば愚痴を垂れ流しながら嫌々労働で身を削っていくだけだ。
気晴らしの趣味も大したものはない。ただテレビや漫画を見て、だらだらと時を過ごすくらい。それでも持っていないよりはマシだとワーカホリック気味の人には言われたが。
私はどうなるのだろう。私はこれからどうするのだろう?
ただ日常に身を任せて、時が過ぎるのを待つのみなのか。
何をするか、何ができるか。天秤にいろんなものを置いてみて、どちらに傾くのだろうか。
もうけして若いとは言い難い年齢に足を突っ込んでいる。
何かをしたいならこのタイミングを逃すべきではない、そう考えている。
とはいえ、何をしたいのだ?
それすら見つかっていない。見つけようとあがいているはずなんだが。
得体の知れない焦燥感だけが日に日に募る。何かをしなければならないようなそんな気が増大していく。
焦ってはいけない。焦りは禁物。それで何度失敗してきた?
だから焦燥感に負けてしまってはいけない。じっくりと、しかし急いでその何かを見つけるのだ。見つけるのだ。見つけるのだ。見つける……。見つけ……。見……。
……いつの間にか、気づけば朝だった。
決意をよそに睡魔がいつの間にか襲い掛かってきていた。既に時計は八時を指している。私は寝間着から少しよれたスーツに着替える。そろそろこれもクリーニングに出さないといけない。革靴を履いて家を出る。
コンビニに寄って朝食を確保したい所だったが時間が無いので抜き。駆け足で駅に向かう。このワンルームに住んでいる理由の大きな一つ、駅が近い。
徒歩五分の所を走れば二分くらいでたどり着く。
駅のホームに着いた所で、電車がちょうど入って来ていた。
これは良いタイミング。人が降りたのを見計らって電車に走ったそのままの勢いで飛び乗る。
これなら遅刻せずに間に合うだろうと一安心して胸をなでおろす。
ところが、電車は職場とは逆方向に動き始めた。
しまった。急ぐがあまりに違う電車に乗ってしまったというのか。しかもホームまでご丁寧に間違えて。
頭を抱えても始まらないし、とにかく連絡しなくてはとポケットをまさぐったあたりで気づいた。
携帯電話を家に忘れてしまっている。
無情にも電車は走りはじめ、私を運んでいく。これで遅刻確定だ。
落ち込んでいたが、次の駅に着いたあたりで私は良い事を思いついた。
いっそのこと会社をさぼって今日は一日中休みにしよう、そうしよう。
家に戻ったら改めて会社に連絡して、休みを満喫する事にしよう。そうと決めた瞬間、私の心にのしかかっていた重しが取れたような、そんな気がしたのだ。
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