風の中のアトリエ
風の中の、アトリエに辿り着く。
*
「気をつけなよ。油鮫がいるから」
「こんな……空の階段に、サメ?」
「そうそう。透明なんで見えないんだ。静かにすれば、気配を感じる。……今も、雲と雲のあいだを走った……」
「神殿からそうとは離れていない場所に、サメがいるなんて……」
重たかった。見上げると、空は、この上はないと思われるばかりの、もっとも青い、深い、空……ここがまぎれもなく、空の、到達点だった。
もっと、軽やかな空に、アトリエはあると思っていた。こんな空の重い場所で、ぼくはこれから十二年もの歳月、絵を描きつづけることができるのだろうか……
「油をぬると姿がわかるん。
ねっねっ、てば! 聞いてるっ? あ、聞いてないか。あたしの話……」
「聞いてる。聞いてるけど……」
これじゃまるで、罪人のようでないかしらん。遠ざかる神殿も、ほら、ぼくらに背中をむけている……
「……油なんてあるの? この空に」
「ばっかじゃん。……ふふ。だってあなただってこれから油絵描くんでしょ? 先生、絵だけでなくて、サメ退治だってとってもうまいんだからっ。絵筆でこうっ、するって――」
この子は、あっけらかぁんてしてるなァ。
先生っていうのだって、きむずかしい人ではないみたいだし、それなりに楽しく暮らせるかも……
「あっあっ、ねえきみ、逃げなきゃ! でたらめにぬったら、サメ出ちゃった!
ほら、――
*
油がしみこんで、姿を現した油鮫は、二〇メートルくらいもある大きさだった。あんなのが、付近の空をうようよしてるなんて……
アトリエに着いたぼくは、雲の切れ目から、下の空を見つめた。さっき走って、空の階段をいっきに二百か三百かは登ってきたから、神殿への浮舟乗り場はとっくに見えない。
いやだなあ。
だいぶ距離下らないと、もとのとこへゆけないや……
いや、ぼくはここで絵を習う十二年のあいだは、アトリエからも出られないのかしらん。
アトリエへの門は、さっきからずっと閉まったままだった。
ぼくを乗り場から案内してくれた、ぼくと同い年くらいの髪の短かな女の子は、いなくなっていた。
ソラガクルヨ
クモガクルヨ
カゼガクルヨ。
……?
「おぉーーぅい。おぉーーぅい」
あ。あの女の子だ。あの子、あんな空の向こうにいる……
どうやって行ったんだろ。
「きみ、どうしてそんなとこにいるのーーー?」
「風船! 風船!」
……よくわかんないや。
はあ。まだ先生って人、こないのかな……
サメ、ここ迄は上ってこないよな。
アトリエは、白が基調のこざっぱりとした建物で、二階建てだった。窓は、このへんの空を閉じ込めたみたいにまっ青で、中は見えない。奥行きは、そんなにない。
短い石段が入口迄つづいていて、その前――今ぼくのいる目の前――に、黒いアーチ型の門がある。
門の左右には、アーチより少し低い、ぼくの背丈の二倍ほどの、同じ黒い色の柵が伸びている。天使草がからまっている。
ソラガクルヨ
クモガクルヨ
カゼガクルヨ。
……?
なんだ、この機械みたいな声、さっきも――
ブカブカブカブカブカア――と、そのときすさまじい音がして、とつぜん、あたりに散らばって浮いていた雲や、下の方に厚く重なる雲々が、とぐろを巻いてうねり、もうスピードで回りはじめた。
風が――
次の瞬間、ぼくはもう違う場所にいた。
部屋……?
暗くて、狭い感じがする。うっすらと、壁らしいものや、 ざらついた床が、見える。少しだけ、さむい……
さっき迄と同じ格好で、座っている。
「えーん…… えーん……」
女の子? ……女の子の、泣く声がする……とてもとても小さい。
ここが部屋だとしたら、壁の向こうの、もっとどこか遠く……
ふいにぼくの脳裏に、強い風が吹きすさぶ中、ちぎれた雲の上に佇む、アトリエの姿が浮かび上がった。
その中で、ひとり絵を描きつづける老年の男……
それは、ぼくだった。
灯かりもろくにともらない、薄暗い石の部屋、石の壁に囲まれて……
巨大なキャンバスに、どす黒い太った鮫の絵を描きつづける男。
言葉もない。音もない。
ぼくは、知らなかったんだ……
遠ざかる、風の中のアトリエをめぐる風景の何処かで、女の子の泣く声だけが、消えそうになりながら、かろうじて響いていた。
*
そんな絵を、ぼくは描きたいな。
*
そんな絵を、ぼくは描いた。
あの絵は、ぼくの手をとおの昔にはなれて、今は得体もしれない高額で、貴族等のあいだを渡り歩いているという。
*
ソラガクルヨ
クモガクルヨ
カゼガクルヨ。
ぼくは雲のあいまを、空を、どこまでもどこまでも落ちながら考えていた。
――この十二年が、けっきょくぼくにとって何だったのかを。
――このぼくの一生が、けっきょくぼくにとって何だったのかを。
そしてぼくはアトリエを後にし、風の中へふみだしたのだ。
……?
「きみは―――」
「早く。来なよ。そんなとこにつっ立ってないでさ。
あたしが、案内してあげるから」
*
――風の中のアトリエへ。
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