ChapterⅢ
世界中の海水が消えた。
子ども達は、空から降ってきた無数の風船に掴まって、水の無くなった海溝へと、次々に姿を消していった。全ての子どもが。
大人達は皆、地上に降りた無数の管をよじ登って、巨大な卵の中へと入っていった。
僕は暗闇の中で、機械の音の在り処を探していた。それはずっと、高い高い所から聞こえてきていた。
いよいよ鳴りやまない音の在り処をつきとめて、僕はそれと対峙しなくてはならない。
ⅰ.時計塔
視界がすっかり晴れたとき、僕は街を見下ろすところにいた。
街の方々に乗っかる幾十ものあの巨大な〝卵〟が、今は指先で潰せるくらいの小ささで見えている。
風が、本当に間近にいるのがわかる。風は無言で通り過ぎていく。
僕は顔を出していた窓から頭を引っこめた。見渡すと、この建物の内部は円形になっていて、同じ丸い大きな窓が一定間隔で壁に並んでいる。固い床には何も置かれていない。何もなくがらんとしているけど、狭い感じがする。……寒い部屋だ、ここは。
一箇所だけ奥行きがあって、階段が上へ続いている。つまりここが一階なのだ。高い高い、上から確かに音が聴こえてくる、空中に浮かぶ時計塔の一階なのだ。
僕は、長い夜をさまよって、ようやくこの時計塔の一階に辿り着いたわけだ。
ⅱ.空っぽの心の中で
僕は、ゆっくり、踏みしめるように、時計塔を上り始めた。
もう、焦ることはない。
カチカチいう時計の音は鳴り続けているけれど、僕はそいつを僕の中からとうとう引きずり出したのだ。僕はそいつの姿を間もなく見ることになるだろう。
僕の頭は今とても、冴えていた
もしかしたら、もう形勢は逆転しているのかも知れないな、僕は思った。きっと今や焦っているのはあいつの方なのだ。僕は急に冷静な心持になれてきた。
そう思うと、このカチカチいう音も妙に馬鹿馬鹿しく、取るに足らない、見下すべきもののように思えてくる。
カチカチカチ、か。可愛いものだ。
(機械め。待ってろ。どうせ間抜けなちょび髭の、丸っこい時計だろ。)
僕は何日もかけて、時計塔の階層を上っていった。あるときなどは、わざと一日に一階層上るだけにして、あとは円い部屋の真ん中でどかっと横になって、一日中寝てやった。
実際のところは、この時計塔に入ってから、眠くなることなどなくなっていたのだけど。腹もすかない、喉も渇かなかった。
(僕はあの機械をじっくりと、追い詰めてやるんだ。)
一日上ってもせいぜい四、五階。あとは眠るか、風を眺めた。
地上はどんどん遠くなった。
もう街は模型のようで、卵などノミほどの大きさだ。
(見てろ、お前らもすぐ潰してやるさ。)
時計塔はまだ、まだ上へと続いているようだった。
数十階が過ぎた。
この日の風は、妙なものを運んできてくれた。
どこか悲しい、壊れたチャイムの残響だった。
(もう卒業式は終わったんだ。僕のいない間に。)
ⅲ.カチカチ……
僕は少しだけ歩調を速めていた。
この時計塔に終わりはあるのだろうか。もしや全てが、あいつの罠だったのではあるまいか。
だけど、聴けばあいつのカチカチいう音も焦っているように思えた。
僕は落ち着かなくてはいけない。
焦っているのは敵の方なのだ。きっとそうだ。
……あと、三、そうだあと三階で、時計塔は終わりだ。
三階を上った所に、間違いなく敵(あいつ)はいる。
そうしたら、僕の勝ちだ。間違いなく、僕の勝ちだ。 カチ
いけない! 僕はそう思う途端、走り出しそうになっていた。 カチカチ
いや走り出した、もう、止められなかった。 カチカチカチ
三階層を、一気に駆け上がる。 カチカチカチカチカチ
……一……二、もう着く! ……三、ほらご対面、僕の勝ちだ! カ……
ⅳ.機械天使
――M!!
そこに、彼女はいた。
そして、嗚呼、もう、遅かったんだ、やっぱり……
部屋の奥で裸で、縛り付けられた彼女の頭部が、小さな二対の天使によって、ぷさりと切り離されてゆくところだった。
ちょび髭を生やしたいやあらしい顔の大きなまん丸い時計が、太い腕を伸ばし、切り取られた彼女の頭をわしづかみに受け取った。
僕は、彼女の名前を取り戻せなかった。
僕はどれだけ歪んだ表情をしていたことだろう。
時計はそれを見るのが嬉しくてたまらないというように、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて、足下にうずくまる僕を見ていた。カチ! カチ! と高らかに叫ぶ声。
が、やがて天使達によって小さな卵が運ばれてくると、急に静粛な顔になって、卵を受け取り、彼女の体の、切り取られた頭部の代わりにそれを取り付けた。カチ!
すると彼女の体は縛りを解かれ、二対の天使によって、両脇を支えられると、屋根のないこの時計塔の最上階から、高い空へと舞い上がっていった。
ひざまずき、見上げる僕を置いて、青く遠すぎる虚空へ、どこまでもどこまでも、舞い上がっていったようだった。
「さて」と、しごく冷静にひと声すると時計は、くるっと向きを変えて、いらなくなった彼女の頭部を窓から放り捨ててしまった。
「アッッ!!」
僕は立ち上がり、落下していく頭を追って、階層を駆け下りた。
駆け下りながら、今や、窓の外に、沢山の、頭部を小さな卵にすげ替えられた人々が、両脇を天使に支えられ昇っていくのが見えた。
僕とMの頭部だけが下へ降っている。
M――僕は、彼女の名前を取り戻せなかった。
一階層まで戻ったとき、僕はもう大声をあげて窓から飛び下りるしかなかった。落下していくMの頭。手が、届かない。僕の落下速度の方が、速い。ぎりぎりのところ、僕は手を伸ばすが、やはり、届かない。僕は彼女を追い越してしまった。表情は、見えなかった。
僕は落ちながら、見ると地上の建物にへばりついていた〝卵〟から、今や空を埋め尽くすほど数多の人々が、天使とともに空へ、空へ、舞い上がってゆくのだった。
ⅴ.再会
僕は遊園地の中心の〝卵〟へと落下した。笑えるほど、それは柔らかだった。もう〝卵〟は割れてもぬけの殻。全ての人々が、空へ去った後だった。
僕は、萎れて垂れ下がった〝クモの脚〟を伝って地上へ下りる。
それから数秒ののち、僕の隣に、何かがグシャッと落ちた。
これが、……M?
それはゼンマイ仕掛けの、薄汚れた小さな天使のおもちゃに過ぎなかった。おもちゃは、最後に足を三回ほどパタパタさせて、動きが止まった。ゼンマイと、それから片方の羽が、ポロリと取れた。
*
だけど僕はその壊れた天使を持って、とぼとぼと遊園地を抜けるしかなかったんだ――海の方へ。
海水の失せた海にぽっかり開いた穴を下りていくと、陸棚の内側から、ヒソヒソ話し声が聴こえるのがわかった。機械の声だった。こんな所でも……そうか、もう僕の住む世界は、とっくの昔に、機械に乗っ取られていたんだ。
僕が海溝を下りた頃、陸地は段々に球体になりながら、空へ浮かんで、完全な球体になって、消えて見えなくなっていった。僕が知っていたかつての世界は皆消えてしまった。
僕はぽっかり残った穴の下の下の方に、消えてしまった海水の気配を感じ、そこを下りていった。きっと……新しい海へ。
*
――M。
僕はあれから毎晩、どれだけあの甘い名前の響きを求めたろう、暗い部屋で……
M。
その名前をもう二度と探すことができないなんて。
M、ただ、その名を思い出そうとすると、明るい外の世界の残照や、かすかな温かさの名残を、薄い布切れの裏側から摑まえたような気がするのだった。
M…………
今僕は、果てしなく海ばかりが広がる世界で、漂流し、やっと辿り着いた小島でひとり、暮らしている。あの頃のことを思い出しながら。僕に残された、かつての世界の名残のような小島で。
もう少ししたら、小さな船でも作って、僕はこの世界を旅してみよう。
この世界のどこかには、子ども達がいるはずだから。そして聞かせよう、古い世界の残骸の詩を。
僕は語るだろう――
機械天使達の楽園が、そこにあるという…… ……
僕は、寝っころがった。
見えない高い空のどこか彼方から、機械の音だけがそっと、だけど重たく、胸に響いてくる……今でも。
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