ChapterⅡ

 制服で遊園地を歩いた僕らのことが、学園で噂になっているようなことは全くないようだった。

 彼女とも、時折授業でわからなかったことや試験問題について、軽く会話を交わすくらいで、これまでと変わることはなかった。

 とくに変わったこともなくすぐに一ヵ月程が過ぎ、冬休みになった。

 あいかわらず僕には機械の音が聴こえていたし、彼女は〝M〟のままだった。僕は彼女の名前を見つけられないままだったのだ。〝M〟……カチ、カチ、カチ、……

 

 

 *

 

 

 冬休み、きっかり深夜一時まで勉強して、寝る。

 僕の部屋から明かりが消えるのは、だけど、一時を少し回ってからだ。僕は明かりを消すまでの数分間、小さな水槽の、ムナビレのかたっぽ折れた赤い金魚を眺める。何も考えずに。

 そうしていると、機械の音は消えていって、僕は幾分安らいで眠ることができる。

 

 大晦日、元旦の二日間を除いて、自主参加だが学園では課外授業が続けられていた。僕らの学園の受験前課外は有名で、毎年、学内の受験生のほとんどが出席する。進学科の僕は、多くの級友とともに、一年時の頃から受講している。いつも満員で緊張感に満ちていたのだが、今年は空席が目立つ。僕ら進学科の生徒にさえ、来ない者はちらほらといた。彼女もそうだった。

 冬休みは終わり、始業式に顔を見せない者も多かった。

 そして間もなくやって来たセンター試験にも、彼ら、彼女らは来なかったのだ。国立大を受けるには、国のセンター試験が必須だというのに。彼女も、来ていなかった。

 

 これに前後して、学園内、いやこの街全体に妙な噂の広まっているのを僕も耳にしていた。

 

 

ⅰ.卵

 

 街の西にある市庁舎の屋上に、巨大な〝卵〟がくっついた、というのが、最初の噂だった。この学園のある区域からは数キロメートル離れたところだ。

 庁舎をすっぽり覆ってしまう程の大きさの〝卵〟。それが建物の屋上に、ぴったりくっついて乗っかっている、といった状態なのだと。

 〝卵〟は金属製のような鈍い銀色をしていて、ひびや傷、または入り口らしきものなどは一切見られない。可能として誰かの仕業なのか、空から降ってきたのかわからない。何かが、あるいは誰かが中に入っているのかも不明なのだという。動く気配も全くない。

 実際には、年が明けて三、四日目くらいに起こったことらしい。

 しかしそれは何故かニュースにならず、付近の住民も最初いぶかしむ様子で見物に来ていたが、〝卵〟に変わった動きも見られないとわかると、すぐに関心をなくしたという。噂を聞いて駆けつけた者にしても、同様だった。地元の大学から研究者も調べに来たが、それも最初の数日で今はただ閉鎖されているだけという。市庁舎での仕事は、休みが明けると普通に始まっている。

 学園の生徒にも、とくに受験と関係のない一、二年生は見に行っている者がけっこういたらしい。実際、センター試験明けくらいには、学園は一時その話で持ちきりだった。試験を終えた三年の中にも見に行く者はいて、クラスでも数人の男子がその様子を語っていた。

 僕はすぐ二次試験と、幾つかの私大の勉強に移った。

 クラスは完全に自由登校になったが、僕は毎日通い、教室で勉強した。生徒の多くは付近の住宅街に住んでいるので、同じように来ている者もかなりいたが、別に誰かと話すようなこともなかった。

 一度園田が、彼女……Mは、鄙区域の女子大に絞ったのだと言った。「元気にしているよ、Mなら」と。

 園田もそっけなく、座席に着いた。「会いたいのでしょう、Mに?」とでも言って、僕をからかうこともしなかった。他の誰も皆、ひとりで教室へ来て席に着くと、黙々と問題集を解き続けるだけだった。僕も、同じようにして、でも、ただ本当は機械の音を頭からしめだすために……

 

 

ⅱ.クモの脚

 

 センター試験から一週間もした頃、例の噂の内容が変わってきていた。

 一つは、〝クモの脚〟だった。

 あの市庁舎のてっぺんにくっついた卵の殻の方々が破れて、クモの脚のような、ぐんにゃり湾曲した、実際には管らしきものが出てきているというのだ。昆虫を思わせる節があるが、やはり金属のような黒に光っている。それが何本も何本も出てきて、日毎段々地上に近づいてくるのだと。

 二つ目の内容には、僕を少し戸惑わせるものが含まれていた。

〝卵〟は今、市庁舎だけじゃなく、あちこちで現れているという。たとえば南病院や山の麓の老人ホーム、顕微鏡センターなど、十箇所を越えている。容易く設置されるような代物ではない。しかしそれは人々が目を離したほんのわずかの時に、出現しそびえ立つのだ。

 いや、そんなことくらいならまだ、別に僕はどうってことなかった。

 だけどある昼休み、野口がえらく慌てて何か言うのでついて行くと、屋上から見えたのだった。二百二十メートル、観覧車のてっぺんに乗っかるように、それはまさしく巨大な〝卵〟で……

 

 

 僕と彼女が、ふたりっきりで遊園地を歩いて行く。中心へ向かって、ひたすら歩いて行く。黙々と。そこには、全ての光を奪ったあの真っ白い光がある。

「奇崎君。私はあなたにこれを見せたかったの。これは、卵よ。わかるでしょう。一緒に、行きましょう。永遠に帰っていきましょう、この卵の中へ。さあ、この――」

 

 

 卵? ……違う、あれは、機械だ。

 

 

ⅲ.閉鎖

 

 卵の中は、まっ暗で、湿っぽく、温かではあった。

 だけど、この温かさがまがいものであることは、僕には明らかだった。

 それは実は、ぞっとするような寒さ、いや、温度というものの無さ、だったんだ。

 僕はこの中にいて自分の体が冷たくなっていく……いや、死んでいく、というのでもない、ただ生きものの体でなくなっていくのがわかった。

 それに、ここに立ち込める油の臭いは、鼻がなくなってでもいなけりゃ、ごまかせないだろう。

 でも、彼らは、鼻をなくしていたのだ、実際に……

 暗闇に、一人、二人、三人……十人、十一……と浮かび上がる人間達の裸体はどれも、頭部そのものがなくなっていたのだから。

 誰も皆、頭の代わりに、悲しいほどバランスが悪い小さな卵を乗っけて、僕の横を去っていく。

 野口のメガネだけが漂ってきて、僕の顔を覗き込む。と、僕の頭もやっぱり――

 カチ カチ カチ カチ カチ

 ……機械……

 ……機械の音で、僕は目が覚めた。

 就眠前、機械の音に妨げられそうになることは今までにも何回かあったが、朝からこれを聴くことはなかった。起きてしばらくは、機械のことを思い出さずにいられた。今朝までは、ということになる。

 金魚は水面に横たわるようにプカプカ浮かんでいたが、指で突っつくと思い出したように動き出して、水草の方へ潜っていった。エサを撒いて、僕は一階へ降りた。

 僕は昨日、第一志望の国立大の二次試験を終えていた。

 もう学園にもしばらく行ってない。どの私大の試験も全て終わっているから、三年校舎には誰もいないだろう。卒業式は三週間後にある。

 僕は洗面所で顔を洗い、台所へ行った。

 両親は、もう僕に何も言わなくなっていた。いや、何か口をぱくぱく動かしているのだけど、聞こえないのだ。

 僕の頭の中で鳴る機械の音が大きくなっているせいか。

 退っ引きならない状況に来ている。

 いや、そんなことはわかってはいたけど、どうしようもなかったのだ。僕はただ、やるべきことを終えた。

 

 二月もいよいよ終わりに近づき、寒さもやわらいで来る頃、遊園地が閉鎖になった。

 僕はあれ以来一度も訪れていなかったのだけど、一月の終わり頃から急速度に閉鎖の準備が進められていたらしい。

 最初、知らずにいたんだ。

 僕が訪れてみたとき、それは既に残骸だった。

 遊園地は巨大な檻に包まれていた。中心にそびえ立ったあの〝卵〟から伸びた無数の〝クモの脚〟が、枝垂れ状に遊園地を覆ってしまったのだ。

 隙間から覗ける遊園地はもう、かつての遊園地ではなかった。錆びついて、埃が積もって、啄ばむ鳩さえいない何かの滓が転がって……色あせ、音楽は完全に止まってしまった。湖に浮かぶ壊れたボートは、皆、静止していた。人の影一つさえない。生きものの気配が、ない。薄っすらと、湖の奥の方に浮いて見えるのは、油なのかも知れない。

 よく耳を澄ますと、観覧車のてっぺんの〝卵〟、そこから微かな音が聴こえる気がする。はっきりとは聴き取れない程だけど、ぶぶふぶぶふぶぶふ……と、不快な、しかし規則正しい音が……すると、僕の頭の機械の音が、それに呼応するように鳴り出した。気持ち悪いのに、妙にめでたく弾んだ響き方に思えた。

 機械は、完全に遊園地をその手に捕らえたのだ。僕らの遊園地は、もう消えた。

 遊園地だけじゃない。今は多くの場所が、〝卵〟とそこから伸びる〝クモの脚〟に囚われてしまった。

 そうして、賑やかな人の声や街を彩る色彩が段々減っていった。

 僕の住む世界は、機械に占領されてしまうのか。

 

 僕は走った。走って、機械の音を追い出してしまえるなら。それから、M。君に……

 

 

ⅳ.何処へ?

  

 金魚が死んだ。

 Mの行方は、わからなくなっていた。

 

 三月に入り、街は、にわかに活気づき始めていた。だけど街を支配していたのは、春の芽吹きの気配じゃなく、異様な空気だった。

 ある人らは、今や街中に点在する巨大な卵のもとへ集い、よくわからない言葉でそれぞれが議論し出した。クモの脚をよじ登って、卵の中へ入っていこうとする者もあった。またある人らは、卵の威圧感に押されて、街を離れていった。穏やかだった街並みや、郊外へ通じるのどかな道も、急に人で溢れた。子ども達だけが、騒ぎの片隅で無表情に、静かに遊戯をしていた。何かを待っているようにも見えた。子ども達は話をしようとしないし、僕には大人達の声は何を喋っているのか全く聴き取れなくなっていた。あれはきっと機械語だったのだろう。

 

 僕はひとり、汚染された川沿いの道をひた下った。

 きっと水源の山も、卵に囚われてしまったのだ。嫌な臭いの油が、とめどなく流れてきている。もうまともな水の戻って来ることはないだろう。

 海へ行けば、旅の途中の冷たい海流に出会う。彼らに、何処までも運んでもらおう。機械の臭いのない場所へ。そこに僕も乗せて行ってくれれば……

 冷たい、大きな緩やかな流れの海流に乗って、僕の肉は朽ちて、骨は海底に沈んで、それでも、尚緩やかに運ばれてゆく……削られてゆく……機械の臭いのない他所へ……

 

 河口まで来て骸の金魚を流したとき、級友と会った。まだいたのだ、この街にも。僕が話せる誰かが。

 棚瀬さんとは、同じクラスだったけど、口をきいたことは少なかった。尤も僕は、中学校のときから一緒のMやお喋りな園田を除いて、もともと女子とは話をしない方だったけど。

 棚瀬さんは、中学のとき、水泳部だった僕がプールで泳いでいるのを見て、ちょっと格好いいなと思ったのだと語った。それなのに、高校で一緒のクラスになって、プールではあんなに気持ちよさそうに、素早く泳ぐのに、普段はどんくさくて冴えないなんて思ってちょっと失望したとかも。そう話して、少し笑った。

 棚瀬さんは、この海辺の近くに住んでいる。もう、幾つかの船が、人を乗せて港を出て行ったと言う。棚瀬さんも、二日後には親戚と船に乗り、街を出るらしい。 

 僕には、棚瀬さんの印象はあまりないのだけど、今笑顔がすごくよく見えたのは、この人が――

「明日、海へ入ろうか」棚瀬さんは僕に言った。冬の浅瀬に入ろうか。

「向こうにあまり人の来ない砂浜があるの。白い貝のたくさん埋まって……少し深いところには、大きな宝石を抱いたのもあって……子どもの頃よくここへ遊びに来たときにそれを拾って……」

 ――機械じゃないから、というだけだったのかも知れない。もうあまりにも、機械の人間に慣れすぎていたから。

 ここにも機械の臭いがしていた。

 海へ入るには、もう油の量が多すぎたんだ。

 油はもう旅の海流にまでもおぶさって、僕の金魚が去った方角へ向かっていった。

 遠くに、なるたけ遠くに流れていてくれたらいい。機械からきっと逃れられない僕の代わりに。

 

 僕はまるめた紙屑を、海へ放った。紙屑はたちまち油に汚れて沈んでしまう。

 港を発った大きな旅客船が、遠く、微かな船影になっていくところだった。

 僕は結局、あれきり棚瀬さんには会わなかった。

 二日前、帰りがけに僕へ渡してくれた船の切符も、船の出るさっきまでずっとポケットにまるめて入れたままだったのだ。

 僕は昨日も、海へは来ていた。砂浜へは行かず、暗い橋の下でひとり、何艘もの船が出て行くのを見た。今日も陽の暮れるまでいるだろう。でも、もう港に船の姿はない。

 あれがこの街から出る最後の船だった、今、海と空が重なって霧の様に霞む視界の外へ、薄れて消えてしまった……

 僕は歩いた。

 白い貝の砂浜も油で茶色く染まっていき、どろどろねばっこい変質した海水が、僕の足を攫もうとしていた。

 

 

 

 暗闇の中で、一匹の金魚が、苦しそうにもがいていた。もがきながら、だけど必死で辿り着こうとしていた。

 そっちじゃない! 僕は僕の金魚に叫ぶけど、油の濃くなる方へと金魚の姿は遠のいていく。金魚の赤い色は剥がれ落ち、細胞も組織も破壊されて骨になって、それでも、泳ぐしかなかった。機械の臭いと恐ろしく暗い油の中へ……

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