機械天使

ChapterⅠ

 見えない高い空のどこか彼方から、機械の音だけがそっと、だけど重たく、胸に響いてくる。

 機械天使達の楽園が、そこにあるという。

 

 

 *

 

 

 ――M。

 僕は毎晩、どれだけあの甘い名前の響きを反芻したろう、心の中で。

 M。

 その名前を今はもう呼ぶことができないなんて。

 M、……M……

 

 

 *

 

 

 ……ん…… ……呼……ん……だ?

 今、私の名前、呼んだ?」

 空を、薄いシルエットの飛行機が流れていく。

 飛行機雲が直線に引かれた空を背景に、窓際の彼女が言った。彼女の少し長い髪が、風に揺れる。

 彼女はノートや筆記用具を片付けているところだ。すぐ隣の席の僕に、目を向けないまま話している。

「え、と……また、数学のことで、わからない所を聞こうと思って。あの、直線と円のところ。判別式、が……」

 昼休みの、けだるく弛緩した空気が教室に流れ出していた。チャイムの残響が聴こえている。先生はもう退出していた。

「それ、さっきの授業の中でもう一回説明してた。また寝て――」

「ない、寝てないけど……何か、」僕は、少し頭の痛い気がした。「考えていた。いや、少し寝ていたのかもしれない」

「それで、寝ぼけて名前呼んじゃったんだ?」クラス委員の園田が間に入ってきて言った。

「Mの」

「違う、だから俺は――」

 えっ。

 ――M?

「お弁当食べよう、M。次、体育だから早めに食べて準備いかないとね」彼女の周りに何人かの女子が集まってくる。

「昼食の後に体育の授業なんて入れるなだよね。しかも、入試の二ヶ月前になってまだ体育があるって」「あらMまた奇崎なんて相手にしてんの。行こ」「M、そう言えば今度の模試の……」

 やっぱり、彼女の名前が聴こえない、〝M〟としか。

 誰かが彼女を呼ぶ時に聴こえる〝M〟。一様に、妙に抑揚のない平べったい声……声というよりも、ただの機械音のような。

 〝M〟……そこには彼女の名前があったはずだ。

 彼女はもういなかった。

 さきの女友達と、弁当を持って屋上へ行ったのだろう。

 僕はひとりで空を見ている格好だ。

「ふふ。受験ノイローゼ」後ろで声がした。野口だ。

 僕はそっちを振り向かない。

 空にかかっていた淡い直線はもう、すっかり消えてしまっていた。コォコォ……と、飛行機の音だけがかすかに残っていた。

「おい? 自殺なら屋上でしろよな」

 屋上へは行けない。屋上には彼女がいる。僕には、彼女の名前が呼べない、思い出せないのだから。

 僕はそっと、口に出してみる。

「M」

 機械の音。

 僕の中からも、機械の音がする!

「お前さ……そんなに好きなわけ?」野口のメガネが、僕をのぞきこんでいる。そこに映っている僕の顔は、機械の顔ではない。

「お前なあ。この時期あんまり受験以外のことで悩んでいるとな、入れるとこにも入れんぞ? 

 ま、確かに、追い込みのせいか終わりの近いせいか、この妙なテンションのおかげで、よそのクラスじゃカップルが(当然中には失恋者も)続々誕生してもいるらしいけどな。

 でもMは」

 また、機械の音。

「言っているのだろう? こんな時期につき合えないって。な、俺達、進学科だ。当然と言えば当然な」

 僕は野口から顔をそらして窓へ乗り出した。

 もう飛行機の音は聞こえない。

 でも僕の中で機械の音が……カチカチカチカチ。

「でも、体育は」メガネは話し続けていた。「あるんだよね。なしにしろよなー、進学クラスの俺達は、本校の実績向上のために貢献する必要があるのだから余計な科目は……」

 カチカチカチカチ……

 

 

ⅱ.恋人達の遊園地へ

 

 ――M。

 僕は君の名前を呼べなかった。

 心の中では、何度も呼びかけたはずだった。

 M。

 だけど現実の中で君をそう呼んだことは、もしかしたら一度もなかったのではないだろうか。声に出してしまうとその響きは、強すぎて、脆すぎて。

 M。M……

 

 

 *

 

 

 M

 

 とサインのある、その小さくくるめられた置き手紙には、 

 

 遊園地で

 

 と書いてあった。

 体育の授業の前に、彼女が僕の机にそっと置いていったのだ。

 僕は下駄箱でメガネの野口と別れてそれを見た。さきまで体育で使っていたグランド、そこを横切った自転車置き場が脇にある正門には向かわず、僕は裏門を出た。

 

 M

 

 彼女が書いたはずなのに、それに 遊園地で とある四文字の方は、きれいだけど人間味のある曲線が形作る、まさに彼女の手書き文字なのに、〝M〟の文字だけはまるでワープロで打ちつけたみたいな……

 下駄箱の彼女の名前も、教室の成績順位表にある彼女の名前も、〝M〟とだけ。


 浅い林を抜けるとすぐ見える、広い湖に沿う道を歩いていく。向こう岸に、観覧車が見えている。

 学園の裏手はこの大きな湖に面していて、その向こうには更に長大な遊園地が広がる。端から端まで歩くには何時間とかかるほどに広いので、アトラクションの汽車やら馬車やらが園内の移動に使われているくらいだ。それ程の広さだから、鉢合わせることは少ないけど、たくさんの学生カップルがデートに使うこの場所は〝恋人達の遊園地〟と呼ばれていた。

 湖を迂回して歩く間もずっと、高さ二二〇メートルという観覧車は廻っている(この観覧車は、南に向いている全ての教室から見える)。

 小さい頃は両親に連れられよく行ったものだ。だけど、〝恋人達の遊園地〟などと聞くようになる年頃には、もうとんと縁のない場所だった。理数科の連中は、それを蔑称のように使ってさえいた。M……彼女も、その遊園地に誰かと行ったなんて話は一度も聞いたことはなかった。

 湖畔の道を半ばまで来た。ベンチや外灯が並んで、よく老人などが座っているが、今日は誰もいない。遊園地から音楽が小さく響いてくる。体育のマラソンのせいで、足が痛い。

 それにしても野口は、体育を存分に楽しんでいたではないか。何だかんだ言っても、やつは夏まで陸上部だったのだ。

 マラソンのコースは、正門から商店街の方へ出る。走行距離が男子の半分で済む女子は、僕らより早く授業が終わって放課になっていた。男子が汗だくになってグランドに戻ってくる頃、クラスの女子はもう長袖のブレザーに着替えて下校していくところだった。

「あれ? 奇崎もしかして足遅い? 野口君もうゴールして教室の方向かってたよ」「奇崎君、頑張って。もう少し。(……園ちゃん、奇崎君、でも水泳は速かったよ……昔水泳部で……」「(水泳部だって基本的な運動能力は高いでしょ……だったらもうちょっと…… ……

 園田や棚瀬さんらが喋りながら正門を出ていく、四、五人のグループの中に彼女の姿はなかった。

 僕はその時まだ、制服のポケットに詰めておいた手紙を読んでいなかったのだけど、何となく思ったのだった。彼女は裏門を通って、遊園地へ行ったんじゃないかって。そこで僕を待っていると。

 誰が。――Mが。

 ……また、機械の音……カチ、カチ……

 

 

ⅲ.出会い

 

 ――M。

 君は僕に、その呼び方を教えてくれようとしていたのかも知れない。でも僕に、呼びかける勇気はなかった。

 眩しい世界の表面で、怯えていた僕に。

 M……

 

 

 *

 

 

 M

 ……は、僕を待っていた。


 僕は、Mと出会った。〝恋人達の遊園地〟で。

 それは、まるで、何故か、初めての出会いでもあるかのようだった。  

 彼女は制服のまま、何色もの柱の立っている、遊園地の入口で待っていた。無論、僕も制服のままで、思ってみれば少しためらいが感じられたけど、彼女の方は堂々としていて、ふたりはそのまま遊園地へと入っていった。

 一体どれだけぶりに来たろう。中学のときに二、三度は来ていると思うけど、それも入りたての頃に、水泳部の友達とプールを使用したくらいだ。

 アトラクションや乗り物となると、更に遡って、小学校の頃以来になる。

 年月が過ぎたためか、あの頃きらびやかだったものはどれも――ジェットコースターの階段は錆びてぎしぎし音をさせたし、建物の壁はあちこちはがれ落ちていて――古びて見えた。何もかもが白々しく思えた。

 だけど、彼女は笑顔で、楽しそうに見えた。彼女は、これまでにもここに来ていたのだろうか。誰と。幼い少女のように軽やかな足どりで、迷うことまで楽しむように、遊園地を回っていた。彼女はどうしてこの世界の中でこうして笑い、遊ぶことを知っている。

 僕は楽しみ方さえ知らなかったのだ。彼女についていく足どりはぎこちなく、自分という人間が、ここにひどく場違いにも思えた。

(部活は終わり、大学へ行けば競争も終わり、平坦な世界で……僕はこの地方の大学を出て、この地方の公務員にでもなる……と決めていた。君は、都会の大学へ行くと言い出していた。ここ一ヶ月くらいの間のこと……)


 実際に来てみると、遊園地の中心で響く音楽はちゃちな三音程度の短い単調な曲が繰り返されているだけで、疲れたオモチャの鼓笛隊のようだった。遠くから見れば壮大で豪勢に見える観覧車も、近づくと、錆びて色も褪せていた。

 だけど、今はそれらを馬鹿馬鹿しくは思わなくっていた。おそらく彼女といることがそうさせていたのだろう。制服のままで、ときどき誰かに見られた気がしてたのも、気にならなくなっていた。

(だけど、彼女は僕に何か告げようとして ここへ誘ったのか。それは多分、いい言葉ではなく……)

 

 最後に観覧車に乗って、幾つかの主立ったアトラクションを回り終えた。

 不思議なことと思えるかも知れないが、僕らは、ほとんど会話と言えるような会話はしていなかった。彼女は、とてもはしゃいでいたようだけど、特別意味のあるような言葉などは一つも言ってはいなかった。

(国語の読解や、数式や証明の中で、僕らはいつも意味や答えを求めすぎているのかもしれない。それは今、どうでもいいことのようにさえ思えていた。受験は、あと二ヶ月でやって来る……それが終わればMとも……M、M……機械の……音……)

 

 観覧車でも、僕らは、やっぱりとりとめのないようなことしか話さなかった。僕も、そういう会話に少し慣れてきていた。

 てっぺんでは、遊園地の果てに広がる海が見えた。遊園地は広い。そのいちばん向こうは、もう海、海まで、遊園地は続いているのだ。このだだっ広い遊園地を、また、どこまでも広がる海が取り囲んでいる。

 夕暮れ前の海は、まぶしく、輝いて見えた。

 

 観覧車を下りると、もう日は暮れ始めてて、でも、彼女は一言、

「海の方まで行ってみようよ」

 

 

ⅳ.海を経て

 

 汽車は、使わなかった。おとぎ話の国の汽車にだって、今だけなら乗れたように思うのだけど。

 遊園地の中心から、果ての海の見えるところまで、一時間ほど歩いた。人形やらオモチャやらのみやげもの屋や、レストラン街が続いたが、段々寂れたふうになってきた。会話はほとんどなかった。

 やがて海にたどりついたとき、ちょうど日の沈むところだった。湾に船が浮かび、半島の先の港や灯台にぽつぽつ、灯かりがともった。

 いちばん果てにある、小さな水族館の中を半時ほど回って出ると、もう日は暮れていた。

 水族館の中はやけに暗く、人は誰もいなくて、僕らふたりも知らない種類の魚になったような気持ちで、古いひんやりとした海を泳いだのだった。出口の消えかかった電球が、僕らの光だった。

 

 帰り道、僕は急に楽しい気持ちになってきた。寂しい海から上がって、潮の匂いのする寂れたあたりを抜けてきた生きものを、段々色づいていく世界が迎えてくれた。

 夜の遊園地は色とりどりに姿を変えていた。ちゃちな昼間の音楽は、何重もの楽器の演奏に変わっていた。剥がれ落ちたり錆びたりした色も今は見えなくなって、ネオンがあちこちで咲いて舞っていた。屋台は、香ばしい匂いを漂わせていた。

 だけどメリーゴーランドに乗っていた最後の少女と少年が、誰かに促され下りると、音楽は止まって、やがて灯かりも静かに消えていった。

 振り返ると、遠ざかる中心の方でも灯かりは消えていき、音楽も小さくなっていった。もう出口は見えていた。

 何か軽いものでも食べようかと、僕があたりを見回す。と、彼女は一際小さな屋台を指していた。金魚の絵が描いてある。秋の夜風が吹く中、季節にもこの遊園地にも不釣合いすぎる、金魚掬いの店に立ち寄った。

 金魚はどれも皆、冷たい水の底で動かずにじっとしていた。お爺さんなのかお婆さんなのかも判別付かない屋台の老人も、風に晒され縮こまっていた。

 僕は赤い金魚をようやく掬い上げるも、底の方まで掬い網を浸してしまったせいで、お碗に入れる前に破けてしまった。金魚は水には戻れず脇の地面に落ちて、びちびちとはねた。老人は、その金魚を袋に入れて持たせてくれた。

 

 遊園地は終わった。

 遊園地のネオンが遠ざかると、すっかり、闇が街を包んでいた。それはまた心地良い水の中にいるみたいな気持ちにさせた。華やいだ音楽もまだ耳の奥に鳴っていた。けれど、そのリフレインも去っていった。

 僕らは、丘の前に来た。ちょっとした小山になっているこの丘を迂回した向こうが住宅街で、僕の家はそこにある。彼女の家は、もう少し、街の外れの方へ向かう。この丘を越えれば、そこでお別れだった。

 僕は、彼女の名前、を呼ぼうとしたけど……そのとき、彼女は、薄い電灯の明かりの下で振り向いて、

「一緒に、丘に登ってから、それから帰ろう」

 

 

ⅴ.ふたりが最後に見た……

 

 丘の上は、小さな公園、とまでは言えないほどだが、四つベンチがあってほんのちょっとした休憩所になっている。

 緩やかな上り道は、所々、外灯が照らしている。

 時間は夜の八時前。夕飯を食べ終え、勉強机に向かっている真っ最中なはずだ、いつもなら。

 丘の上は人一人となく、冷たい風が頬をそっとなでた。

 ベンチには座らずに、反対側の縁まで行く。すると、夜の街が一望できた。

 丘陵の下、商店街にはまだちらほらと明かりがともっているのが見え、林に囲まれた校舎も薄っすらと見える。街全体が、星空を映した鏡みたいに、様々な光で満ちている。港の向こうにも、夜行船だろうか、遠い星のように小さく、揺れている。

 遊園地の灯かりだけが全て消えていて、街の真ん中に、ぽっかり穴が空いたように見える。宇宙の真ん中に開いたブラックホール。巨大な重力の穴……。

 僕は目を背けようとするが、横にいる彼女は、それに見入っているようだった。

 どれだけの時間か、そのあと、僕らは丘の草の上にねっころがっていた。

 僕にはやっぱり、彼女の名前を呼びかけることができない。

 夜空に、闇よりもっと濃い、ほんとうの黒の点が浮かび、それが段々大きくなってくる。真っ黒い巨大な影が、コオコオコオコオ……と物凄い音を立てて、僕らの頭上を通り過ぎていく。

 あれは、機械だ。

 夜空を、巨大な機械が通っていく!

 僕は、それを彼女と見てしまった。

 起き上がって見ると、街の明かりの全てが消えていた。夜空の星も全て失せ、全くの暗闇の中に、僕達ふたりはいた。彼女の顔も見えなかった。僕らの姿は、影絵のようだった。

 僕は今こそ、彼女の名前を思い出せそうな気がした。

 だけど、

 コオコオコオコオ……

 機械の音が邪魔をして、

 コオコオコオ……

 僕は、

 コオコオ……

「見て。なんて綺麗なのでしょう。あれがほんとうに機械なのかしら……」

 コオ……

 巨大な機械が遠ざかる音に混じって、僕は確かにそう聞いたように思う。

 去っていく機械の姿は、全ての街灯かりと星灯かりを奪い集めたような真っ白い光の塊になっていた。それはいつまでも消えないと思われるほど強い光だったが、徐々に小さく、やがて点になっていった。

 機械は完全な暗闇を残した。

 機械が完全に去ったあと、もう、僕の姿も彼女の姿も、全く見えなくなっていた。

 僕らは無言で、丘を下った。

 

 暗闇の中、丘を下りていくと、一つ、やがて外灯の薄い明かりが、二つ、三つと、浮かんできた。

 僕らはずっと無言で、彼女の顔も、よく見えなかった。

 あの機械が落としていったのか、微かに、油のような臭いが漂って、彼女のかおりも消してしまっていた。やがて僕らは丘を下りた。

 そして何故だろうか、しんと静まりかえっていたのに、さよならの言葉さえ聞こえなかった。

 僕は家に着くまでどれだけ闇の中を歩いたか。

 とても、苦しく長い夜に思えた。

 あの静寂のあと、カチカチ、音は鳴り始め、それはもう止むことを知らないようだった。彼女のことを思い出そうとする度、カチカチ、頭で音が響いたから……。

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