ある夜
杉村衣水
第1話
ふと、なんの前触れも無く涙が零れ落ちそうな時がある。
そういう時、どうしたって一人では心細く、誰かに傍に居て欲しいと願う。
俺は一生、誰かの心に残る事は無いのかも知れない。
皿を洗っていた手を止め、蛇口をしめた。
生まれつき顔の造形が良いというのは、生きていく上でとても便利だった。
にこにこ笑っていれば友人が出来たし、正義感を振りかざせば何もかもが味方だった。
そういう風に生きてきたから、上っ面だけ良く出来た人間になってしまった。
でももうそれが身体に馴染んでしまって、どうしようもない。
恐らく周りも気付いている。俺が実は誰にも心を開かず、当たり障りのない対応しかしない事。
けれどそれがきっと皆心地良いのだ。見目も良く、性格も良い人間。
俺の周りにはいつも人が居たけれど、友人は居たけれど、何かを分かち合えるような親友は居なかった。
何かを許し合えるような恋人は居なかった。
上着を羽織り、部屋から逃げ出した。
ぼんやりとした視界に夜の街が映り、店の明かりが浮かんでいる。
誰か、寂しさを埋めてくれるなら誰だって良い。
ふらふらと歩道を歩いていると、向かい側から歩いて来た人間と肩がぶつかった。
反射的に相手が「あ、すみません」と言うのが聞こえる。
弱った心は身体にも影響するらしい。
少し当たっただけだった。それなのに、俺はまるで酔っぱらいのようにその場で尻餅をついてしまった。
ケツが痛い。無意識に手をついてしまったから、掌もコンクリートに擦れて痛い。
もう嫌だ、何もかもが嫌だ。
ぼろりと、涙が零れるのが解った。
そんな事も情けなく感じて更に落ち込む。
視線を落としたままでいると、目の前に手が差し出された。
「あの、ほんとすいません。大丈夫ですか、立てますか?」
この人には俺はどう映っているのだろう。
ただの酔っぱらいか、関わりたく無い人間か。
それでもこの男は俺を引っ張り起こそうとするのか。
「俺の方こそ、すみません」
素直に手を出し、起こしてもらう。
「気分悪いんですか? 酔ってるの? 酒の臭いはしないけど」
「酔って無いです。ちょっと、なんだろう。疲れてるだけというか。ごめんなさい。情けない」
暗い言葉を吐き出すと、男はうつむく俺の顔を下から覗き込むように膝を折った。
「別に、情けなくはないでしょ」
「いや、情けないです。こんなぐちゃぐちゃで、ぶつかって、すみません」
彼は少し困ったように唸ったかと思うと、「手、痛そうだね」と笑った。
「手当をしようか。うちすぐそこのマンションだからさ、おいで」
「え? そんな。そんな事して頂く程の事じゃ」
「一人暮らし?」
「は、はあ、そうですけど」
「じゃあおいで。私だったら弱ってる時に一人は虚しい」
君はどうかな。
男は首を傾げ、俺の掌をまじまじと見つめる。
「……はい、痛いです」
「決まりね」
そのまま手首を掴まれて歩き始めた。
携帯も財布もアパートに置いて来てしまった。
見知らぬ人間の家に行くなんて、普段だったら絶対にしない。
正常な判断が出来ない。
アパートに帰るのは寂しい。
歩きながら、また涙が滲んできた。
喉の奥が痛い。
住宅街に入ると、見上げるようなマンションが増えてくる。
その中の一つに入り、男はエレベーターのボタンを押した。
6階で降り、一番奥の部屋の鍵を開ける。
そこでやっと手首が放され、「どうそ」と促された。
開かれた扉の先には、よく整理整頓されたリビングが広がっている。
広い窓には夜景が輝いていた。
「まず手を洗おうか」
キッチンの流しに案内され、細かい砂利のついた掌を洗う。
男も手を洗うと、「ソファにでも座ってて」と促された。
ベージュのそれに腰を下ろすと、心地良く腰が沈んでいった。
車が流れていくのが見える。
こんなにもたくさんの人達は、一体どこへ帰って行くのだろう。
「お待たせ」
他の部屋へ続く扉を開けて、彼がリビングに戻って来た。
手には消毒液を持っている。
テーブルの上のティッシュも数枚取り出すと、俺の隣に腰を下ろした。
「掌、出して」
彼に向って見せると、ティッシュを下敷きにして消毒液を吹き掛けられた。ピリピリと沁みて、思わず眉をしかめる。
「死んでるね、ばい菌が」
「え?」
「消毒が沁みると、そんな気しない?」
「うーん」
「まあ実際は違うんだけど。そう思った方がなんか我慢出来る気がして。小さい頃母親によく言われてたよ。この痛いのはばい菌が死んでるんだから頑張りな、って。コーヒーでもいれようか。インスタントだけど」
「あ、ありがとうございます」
テーブルの上に消毒液を置いて、男はキッチンに向かう。
リビングとの区切りが無いから、視線で彼を追った。
いくつなんだろうか。一人暮らしのような気がする。
20後半だろうか、少なくとも俺より5歳は年上だろう。
短く切られた黒髪は清潔そうで、身に着けている洋服も安物には見えなかった。
人が良いのか物好きなのか。
「甘いのは平気?」
「はい、好きです」
「じゃあ甘いカフェオレにしようか」
「はい」
ややしてマグカップが差し出された。
白茶色をした液体は指先に温かく、口を付けるとホッとした。
ホッとしたついでに、ついに我慢しきれなかった涙が頬を流れた。
堰を切ったように目から溢れる涙に焦って俯く。
知らない人間に泣き顔を見られるのは恥ずかしくてたまらなかった。
「何かあったの」
優しい声音が耳に届いた。
何も無い。きっと、何も無いから俺は泣いているのだ。
しゃくりあげる喉に空気を送り込むのに必死で、彼の言葉に応えられなかった。
どうすれば良いのか解らないでいると、頭を撫でられた。
それに更に涙が溢れて、この名前も知らない優しい人に抱き付いて声を上げて泣きたい衝動にかられた。
辛い、悲しい、恐い、寂しい。
「っなに、何もっ、無い。何も無いん、ですけど」
ぼろぼろと涙が流れる。
感情は言葉にならず、意味のない言葉ばかりが口をついて出た。
彼は俺の手からマグカップを受け取り、それをテーブルの上に優しく置いた。
見ず知らずの人間に泣かれて、さぞ困っている事だろうと解るのに涙は止まってくれず、余計にぼろぼろと零れ落ちる。
彼は何も言わず、目線を合わせるように屈んで俺の髪を撫で続けた。
優しい手つきで。
しばらくしてなんとか涙が止まると、冷静さを取り戻し始めた頭が羞恥を感じ出した。
みっともなく泣き声を上げてしまって恥ずかしい。
「あ、あの、すみませんでした。もう……大丈夫です」
男は手を動かすのを止め、俺の隣に座った。
柔らかなソファはまた少し沈み、俺は顔を上げられなかった。
「顔洗う?」
「……そうしたいです」
「廊下出て最初の左の扉に洗面所があるよ、タオルも適当に使ってね」
「ありがとうございます」
俯いたまま立ち上がり、顔を洗ってさっぱりすると、少しは見られる顔になっただろうかと男と目を合わせる事が出来た。
彼の隣に腰を下ろし、「ご迷惑お掛けしました」と頭を下げると「何が迷惑なの」と返される。
そう言われてはなんと言ったら良いのか解らなくなる。
ずっと泣きたかった。
そしてそれを、誰かに気付いて欲しかった。
気付いて欲しかったのに、俺の上っ面がそれを許しはしなかった。
多分、見知らぬ他人だからこそ、俺はあんなにも泣く事が出来たのだ。
「なんだか、すっきりしました」
「そう? カフェオレいれなおす?」
俺の答えを聞く前に彼はカップを手に立ち上がり、台所へ向かう。
ソファに身体を預けて、背もたれに沈み込んだ。天井を見上げて息を吐く。
頭がボーッとして、泣くのは体力がいるのだと気付いた。
「はい。熱いよ」
「ありがとうございます」
両手でカップを受け取り、息を吹きかけて火傷しないように冷ます。
彼はテーブルの上のリモコンに手を伸ばし、テレビでニュースを見始めた。
俺もぼんやりとその画面を眺めながら、ああ、帰らなければいけないと思った。
「俺、帰らなきゃ」
ぽつりと呟いて立ち上がると、彼はこちらにちらりと視線をやり、「帰りたいの?」と訊いてくる。
その質問にどんな意味が有るのかは知らないが、帰りたくないと甘えた事を口走りそうになって思わず口を手の平で抑えた。
「どうしたの?」
「……帰らないといけない気がします」
「そう。どうして?」
「どうして……? 知らない人の家に、いつまでも居て迷惑を掛けてはいけないから?」
「私は迷惑だなんて言ってないよ?」
俺は何故こんな問答をしているのだろう。
「君が帰りたいならそれで良いけれど、もし気を使ってそう言っているのなら私は迷惑だなんて思っていないから、君のしたいようにして欲しい」
「そんな事」
今あの部屋に帰ったらまた一人だ。
吐き出して空っぽになった部分に、きっとまた詰め込まれるのは虚しさしか無い。
「俺」
「うん」
「まだ……帰るのは少し怖いです」
「うん。じゃあ、こっち来て座って」
手首を掴まれ、引っ張られるままにすとんと腰を彼の隣に下ろした。
手の平はそのまま俺の頭の上に移動し、ぽんぽんと優しく撫でてくる。
まるで小さな子供になった気分だった。
恥ずかしい。けれど嫌じゃない。
彼はまたテレビに視線を戻し、少しだけ微笑んだ。
左半身が暖かい。
誰かが居るというのは、それだけで安心出来るものなのか。
「俺、」
「ん?」
「あなたに見つけて貰って良かった」
こぼれるように言葉が心に落ちてきた。
「見つけてくれたのがあなたで良かった」
「随分好印象だね」
彼は喉を鳴らして笑い、眉尻を下げる。
本心だった。
連絡先なんか聞いたらひかれるだろうか。
俺はもう、この人に嫌われたくないと思っている。
ある夜 杉村衣水 @sugi_mura
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