第22話 居場所
工場に来るのは、新入社員研修の見学以来だという諸岩の言葉に、実習制度があった公子の古き良き時代を懐かしみつつ、せっかくだからという事で現場から開発まで案内して回った。
「毒を食らわば皿までも。」
名文句で古田が締めくくった会議は、冒頭からの険悪なムードを一転させ、場の全員を奮い立たせた。
工場側の面々の言葉、そして雰囲気から、自分の浅はかさ故に、無理な受注をしてしまったことを肌で感じ、意気消沈していた諸岩だったが、古田節の影響もあってか、工場の人間と交わす挨拶も明るかった。
帰り際、もう一度駅の東口に出てみた。昼食の時は、会議前の慌ただしさと緊張から、駅前のロータリーの景色が、すっかり変わっていたことに浸っている余裕はなかった。俺だって緊張する時はあるし、不安でたまらない時もある。
--オッサンだから表に出さないだけだ--
もちろん昔の仲間を頼りにしていたが、開発側にしてみれば『営業が勝手に取ってきた開発案件』だ。もし、俺が開発の立場だったら断っていたかもしれない。あの素晴らしい仲間と仕事をしてきたこと、そして立場は違えど、また一緒に開発の仕事が出来ることを、改めて誇りに思う。
改札のある2階から見渡す東口のロータリー。戦後始まった都市開発の成果を主張するように、海へと真っ直ぐ延びる片側2車線の昭和通りは、西口とは対照的だ。西口の道路は細く、戦前から広がる日滝製作所の巨大工場群に遠慮するように曲がりくねっている。
今日は金曜日、15時30分という中途半端な時間だが、16時の特急で諸岩を帰せば退勤の頃合いに東京だ。自宅に直行させてもいいだろう。金曜日じゃなければ、飲みにでも連れていきたいところだが、せっかくだからフレックスということで、今日はこのまま自宅に帰る。いつもなら金曜は柏の寮に泊まり、土曜の朝に帰宅しているが、自宅のある古巣への出張だから、恩恵にあずかって帰ることにしていたのだ。
暑いが歩けない距離じゃない。諸岩に駅のコンビニで買ったビールとつまみ一式を渡した俺は、エスカレーターを下った。
東京で歩くことに慣れたのか、かつて自転車で通勤していた道を歩くことは、真夏の暑さの中でも苦にならなかった。呼び鈴に反応のないアパートの玄関を合い鍵で開ける。ホッとしたように吹き出した汗はご愛敬だ。そうでなくても今日はいろんな汗をかいた。さっさとシャワーを浴びて先週買っておいたビールでも飲もう。自宅では、いまだに第三のビールなのは、部下に内緒だ。
窓を開け放ち、部屋に籠もった熱気を解放する。汗で肌に張り付いたワイシャツを脱ぎ、汗を吸い込んだスラックスをハンガーに掛ける。
--そうそう、シャワーを浴びる前にバスタオルを探さなきゃな--
いつもは妻が出してくれているバスタオル、確かベッド下の収納から出してくれていたような気がする。
「バスタオル、バスタオル」
鼻歌のようにバスタオルを連呼しながら引き出しを開ける。そう俺は御機嫌だ。仕事もうまく進んだし、シャワーの後には冷えたビールが待っている。最高の気分だ。
「あ、」
1つ目の引き出しの奥。そこに咲く色とりどりの集団に目が止まる。もう何年も見ていない妻の下着の群れ。俺を一方的に絶縁した、近くて遠い存在。
しかし、その群れの中には懐かしい色は一つもない。清楚な淡い色たちの代わりにそこにあるのは、赤、青、黒、紫。俺が見たこともない華やかなラインナップ。
「まあ、いいや!」
自分でも驚くくらい投げやりな呟きが響く。呟きというよりは嘆きの類だ。決してあってはならない『いいや』だ。だが、これまでの経緯を考えると十分にありえる『いいや』だ。
40代半ば、今となっては誰に見せるわけでもないはずの下着。その色が派手になったことの意味。妻に拒まれ続けたあの辛い日々を、この下着たちは知っているのだろうか。いや、もういいんだ。すべてはすぎた過去。やっと理由が分かった。やっぱり俺って男は、駄目だな。自分の魅力のなさが招いた目の前の原色たち。そう、父さんにモテ期なんてないんだよ。
「もう、いいや!」
高鳴る動悸を鎮めるように、ゆっくりと引き出しを閉めてバスタオル探しを続けた。幸か不幸かバスタオルはすぐに見つかった。逆の引き出しから探していれば、俺が知らない妻の一部を見ずにすんだものを。
シャワーを浴びている間中は、目に浮かんでは消えてを繰り返していた引き出しの中身のことも、拒まれ続けた夜たちも、エアコンを利かせたリビングで、録り溜めていたテレビ番組に夢中になりながら進むビールにすっかり消し去られていた。
何本目かのビールを冷蔵庫に取りに行く時、外が薄暗くなっていることに気付いた。妻のパートは夕方までだったことが気にはなったが、今日、工場に出張になることも、その帰りがてら帰宅する事も、妻には言っていない。もしかしたら今日はパートを休んで出掛けているのかもしれないし、友人と食事にでも行ったのか、はたまた実家へ出かけてるのかもしれない。いや、もしかしたら派手な下着を試しに行ったか。
「もう、いいや。」
既に口癖になった言葉を吐く。
腹も減ったしビールじゃ酔えない。夕涼みがてらにコンビニに出掛ける。ヒグラシの控えめな音色は、涼しさだけでなく、安らぎさえ感じさせてくれる。真夏の日差しと相乗効果を発揮するように、暑苦しい大合唱を奏でる同類と、どうしてここまで違うのだろうか。などと、どうしようもないことを考えながら部屋に戻る。コンビニで買い過ぎた酒とつまみ、そして、まるで若者の昼食のような茶色一色の弁当を、リビングのテーブルに広げる。
「さあ、二次会の始まりだ。」
と言ったところまでは、はっきりと覚えてる。
その後は、うろ覚えだ。多分最初の頃は、居眠りから覚めては飲んで食って、またうたた寝をして、目を覚まし。飲む。その繰り返しだったような。気がする。そして、それが23時、1時、と続いたようだ。我ながら疲れてたんだろうな、古巣に出張とはいえ、勝手に受注してしまった案件の詫びと協力依頼。そう、疲れないはずがない。
はっきり覚えてるのは、妻の短い悲鳴と、時計の針が示した4時35分。白んだ空が、開いた窓からカーテン越しに届けてくれる早朝の柔らかい光。
そして、信じられない言葉とそれを紡ぐ唇の色。
「なんでいるの?」
確かにそう聞こえた。まるで反抗期の少女のような言い方。俺の知らない唇の色が、残酷な言葉を俺に浴びせた。
頭が痛い。妻に返す言葉を考えられず、起き上がることもできずに、俺は苦痛で目を閉じた。
何度か目を覚ましたが、頭の鈍痛と体中を蝕む気怠さで、目を開けることさえ出来ず、寝返りを打つのが精一杯だったが、それも蒸し風呂のような暑さになってくると耐えきれず、やっとの思いで体を起こし、エアコンのスイッチを入れる。
ふらつきながら窓を閉め終えると、テーブルに転がる昨夜の戦果を眺める。
--これでよく吐かなかったもんだ--
今の気分では、数えるのも苦痛な缶ビールとストロング系酎ハイの群れ、そして、空になったウィスキーのペットボトル。買い置きしていたものだから2.7リットル全てを飲み干した訳ではないが、水となったロックアイスの残りが少ないことが、飲んだ量を物語る。もちろん、どれだけ飲んだのかなんて覚えていないし、録り溜めていた番組をどこまで観たのかも記憶にない。
--それにしても、なんでこんなに飲んだんだ?--
『買い物してきます』
裏返したレシート。そこに書き殴られた文字に妻の表情が重なる。そう、あの唇の色、俺の前では付けたこともない色の口紅。一瞬にして今朝のこと。昨日のことが俺の中に溢れ出す。
「いったいなんなんだ。」
自分に言い聞かせるように呟いた俺は、昨日の記憶を確かめるように寝室へ向かった。ベッド下の引き出しをゆっくりと開ける。だが、そこにあるのは地味な下着の群れだった。それでさえ、もう何年もお目に掛かってなかったが。
昨日のあの色達は俺の見間違いだったのか?
「いや、そんなはずはない。」
だから昨夜は飲んだ。したたかに飲んだ。
きっとそうだ、買い物しに行ったんじゃない。隠しにに行ったんだ。あの艶やかな色達を、あるいは捨てに行ったのか、どちらでもいい。とにかく、朝帰りしたことを俺に知られて証拠を消そうとした。証拠を消すということは、まだ別れる気がないということだけじゃない。隠したということは、あの下着を使う相手がいることを証明しているというわけだ。朝帰りに気づいた俺が、家捜しをする前に消し去っておく、消さなければいけないのが下着ということは、それを使う相手は俺じゃない。ってことだ。
「そういうことか。」
俺を拒んできたのは、多忙な俺を気遣ってのことじゃなかった。疲労の回復を考えてくれてた訳じゃなかった。過労死なんて、むしろずっと望んでいたんだろうな。
帰ろう。
俺の居場所はここじゃない。いや、もうずっと前から俺の居場所なんてここには無かったんだ。知らなかったのは俺だけだ。
俺には仕事しかない。仕事しかなかったんだ。
もうひと花咲かせてやるさ。仕事でな。
『仕事に帰ります。』
妻だった女の殴り書きの下に、今までにないぐらい丁寧に文字を綴った。
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