第19話 開発案件
9連休という工場並みの長い盆休みの殆どを自宅で過ごした。もちろん自宅に缶詰というわけではなく、近場に買い物に行ったり、外食をしたりはした。それも妻と2人きりで。娘は殆ど家にいないし、帰省してきた息子も同じく地元に帰省している友人達と遊び回っている。地味な休みだと思うのが普通かもしれないが、俺にとってはとても新鮮なことだった。思えば妻と2人きりでのんびり休みを過ごしたことなどあっただろうか。開発にいた頃は、他の部署が休みなのをよいことに、休日出勤をして、設計図や、計算書などの設計書を書いていたものだ。休日なら他の部署からの問い合わせの電話もメールも来ない。8割は無駄な時間の会議もない。仕事がはかどるってもんだ。それに、当初は長期休暇も考慮したプロジェクトの工程表も、時が進むにつれて様々な要因で工程が遅れ、皮肉なことに長期休暇が遅れを取り戻すのに丁度良い「調整出勤日」のようになってしまう。本当に皮肉なもんだ。そもそも工程が遅れるのも無理がない。日滝の場合、開発は新しい製品だけ設計していればいいわけではない。現在量産している製品のVE(Value Engineering)という改設計、どういうことかというと、製品の「価値」を「機能」とそのためにかける「コスト」との関係で把握して「価値」の向上をはかる手法のことなんだが、大雑把に言えば、今製造している製品の「価値」と「機能」を変えずに「コスト」を下げて利益を出す事。価格競争が激しいメーカーにとっては、まさに死活問題だ。ただ改設計といえば簡単そうだが、そうはいかない。安いモノ、安い構造にする。ということは、それでも、性能、機能、寿命は大丈夫なのかを証明しなければならない。そのために理論や考え方、各種計算を記載した設計書に始まり実機試験まで行う。ボリューム的には、ちょっとした「開発案件」なんだ。だから、邪魔な電話や会議が無い、他の部署が休みの時に出勤してきて仕事をすることも多かった。
だから、久々に長期休暇を過ごせた。いや「過ごせた」なんてもんじゃない。「満喫した」と言った方がしっくりくるな。しまいにやることが無くなって、「どうしたらいいんだ?」ってくらい休んだ。本当に良い休暇だった。アレを除けば。だが。そう、愛車をダメにしてしまった事。本当にジムニーさんには悪い事をしてしまった。俺がちゃんとオイルを確認しながら乗っていれば、まだまだ元気に乗れたはずなんだ。長すぎる盆休みの最後の夜、寮に戻った俺の元にノリちゃんからの電話があった。
エンジンが焼きついてしまい、直せない。というより、分解してみてピストンやシリンダーなんかの部品が破損していなければ磨き込みで何とかなるが、それでも工賃は標準で50万円。お友達価格でも人を雇っているから40万は貰わないと厳しい。という。もし分解して部品に破損があれば、擦れ合っている部品である以上、一箇所だけの破損というわけにはいかない。部品交換なんかになると、ジムニーはシリンダーが3つある3気筒エンジンだから100万円は越えないだろうけど100万円近くにはなる。そもそも20年以上経っているので、新品の部品など手には入らない。中古のエンジンを探すにしてもマニア層の厚い車なのが仇になる。解体屋で廃車を見つけてもあっという間にあらゆる部品が買い漁られていき、残っているのはヘッドライトまで外されたボディーのみ。まるでドクロのようだ。と井川が言っていた。俺も錆び付いて電球が交換できなくなったテールランプユニットを探したことがあるが、
お、あの解体屋にジムニーが入ったな。
とチェックを入れておいて、次の休日に改めて行くと、もう外せる部品が何もないぐらいの状態。ヘッドライトが外されたとこなんか、丸く穴が開いていてまるでドクロだ。
さすがはノリちゃん、うまいこと言うぜ。
エンジンが見つかるかどうかも分からないし、そもそも100万円近くもかけられるかどうか、いくら思い出多い車でも妻が首を縦に振ってくれることはないだろう。とりあえずノリちゃんのカーメンテ井川に置いてもらうように頼んだが、修理しない車を長く置いてもらうのはいくらなんでも迷惑だろう。廃車にするしかないのかもしれない。すまん。
大型連休明け。休みを貪った人間達に罰を与えるように一斉に降り掛る仕事、発生するであろう問題の数々。メンテナンスサポート部門は除くが営業から工場まで、まあ、これだけ大勢の人間が仕事をしなかったんだから、一斉に仕事を再開すればその産物たる書類が大波となって押し寄せるのは必然だ。そしてこれだけの大所帯が一週間近く機能を停止していたんだから、問題も発生していることだろう。営業での初めての長期休暇明けは、どうなんだろうな。
開発の頃は、待ってましたとばかりのメンテナンス部門からの問い合わせと、待たされ過ぎてボルテージが高まった顧客から問合せに出鼻から追いつめられたヒステリーな営業からの問い合わせ。初日はとても仕事にならない。
営業に異動してから初の大型連休明け、どうなることやら。
だが、
-立場変われば人変わる-
そういう男にだけはなりたくない。
「さて、と。デスクが散らかる前に。」
軽く深呼吸をして俺は気持ちを切り替える。
早めに出てきた職場にはまだ誰も来ていない。
それでも周囲を確認してから鞄の中のクリアフォルダを取り出した。そこに挟んでいた1枚の写真をそっと抜き出す。
デスク一面に敷かれた一枚板のガラスを左手の指で少し浮かす。たかがノートパソコン1台が載っているだけだが指一本には立派な重さだ。早見表や電話番号一覧などの資料を定規で奥に押し込んでスペースを空け、そこに写真を差し込んだ。戻すのは大変だから慎重に。風圧で位置がずれないようにゆっくりとガラスを降ろして完成だ。
-懐かしい写真-
視界の開けた林道は下方に田園地帯が広がり、すぐ後ろにそびえ立つ山の濃い緑を縁取る稜線と広がる青空のコントラストが美しい。典型的な盆地の風景だ。そして写真の真ん中にはこちらに斜め前を向けた愛車のジムニーが映る。手入れの行き届いた濃紺のボディーに故郷の八郷盆地の景色が映り込んでいる。そして全開の助手席の窓から息子が得意気な笑顔を見せる。助手席のダッシュボードに取り付けられたグリップを握りしめる小さな手が愛らしい。あの頃、息子の雄人は3歳。既に旧式だった俺のジムニーはシートベルトにチャイルドシートを取り付けるロック機構がないため、通常のシートベルトで使用できるジュニアシートを雄人が使えるようになるまで、そりゃあ待ち遠しかった。早く息子と一緒に林道を走りたい。その一心で車を手入れしていた。
仕事をするようになって初めて買った車。ジムニー。もちろんローンで購入した。
車大好き世代の俺の周りの連中は、シルビアだの180(ワン・エイティー)、スカイラインにセリカにRX-7といったスポーツカーや、ランクルやサーフ、パジェロにテラノなどの大型クロカン4WD。そしてセルシオやシーマのような10年落ちでも高価な高級車にスモーク張ってエアロを付けてインチアップしたホイールを履かせたいわゆるVIPカーなどなど、改造も含めてローンを組んで、思い思いのジャンルの車を楽しみ抜いた。そんな派手な友人たちの中で、軽自動車であるジムニーを乗り回す事は、時に劣等感を抱く時もあった。趣味性が高いとはいえ軽自動車。それをローンで買うことの恥ずかしさと、みんなで出掛ける時の場違い感。一般でも「軽はねー。」という時代だった。今でこそ装備も乗り心地も充実し主流になってきた軽自動車だが、あの頃の軽は、そういう立場だった。若かったからか好きで乗っていても気後れすることがあった。
でも、
-いい時代だった。-
沢山の笑顔と車たち、次々と楽しい思い出が俺の頭の中を駆け巡る。それぞれが結婚して家庭を持つと間もなくファミリーカーに乗換えていったが、俺だけはこの趣味な車に乗り続けた。もちろんその分妻がファミリーカーを乗り回しているわけだが、子供達にも妻にも愛されたジムニーさんは、もう復活することは無いだろう。
廊下に足音が響きだす。
時計に目を遣る。ぼちぼち人が出てくる時間だ。思ったより物思いにふけっていたらしい。
俺は、さっき来たばかりだと言わんばかりにノートPCのディスプレーを開き、電源を入れる。これでアツアツのコーヒーがあれば完璧だ。
「おはようございます。あれ、今日は随分早いんですね。」
「ああ、おはよう。ハムちゃんこそ、いつもこんなに早いの?」
久々に聞く弾むような声が新鮮だ。
連休中にどこに行ったとか、車が壊れたとか、多分公子にとってはとりとめもない話をしているうちに周囲から掛けられる朝の挨拶が増え、賑やかになって来る。太く元気な声に営業アシスタント社員の女性の黄色い声が混じり始め華を添える頃、始業10分前のチャイムが鳴りラジオ体操が流れ始める。流れは開発や設計部署のある工場と一緒だが、景色は華やかだ。やっぱり男だらけよりも女性が多い方が華やぐ。最初はいい歳して戸惑いさえ覚えたが、だいぶこの雰囲気に慣れてきた。
苦笑を隠すように席に戻ってメールチェックを始めた鳥井からのメールが俺の目に刺さる。
-【至急】【開発案件】受注について-
「メールは件名で相手の目に留まるようにしろ。」
俺の教えを忠実に守ってきたあいつのインパクトあるタイトルが言わんとしていることに鳥肌が立った。
開発案件を受注だと?そんな事は聞いていない。確かに顧客向けに仕様変更を設計に依頼することは多いが、あくまでオーダ設計に依頼する既存製品の「アレンジもの」だけだ。
メールを開くと挨拶もそこそこに本文が続いているようだが、そこに埋もれた「IPM」と「200A」、「冷却」という文字が目に入ってくる。未だに数値や部品名に反応するところが未だに技術屋だ。
IPMは「Intelligent Power Module」の略で電力をスイッチすることで制御するIGBTなどの素子と保護機能を組み込んでパッケージ化したもので、簡単に言えば従来インバータの心臓部の回路を構成していた様々な部品と配線を1つのパッケージに組み込んだ。というものだ。省スペース、組立、交換作業の効率化などなどいいことずくめの部品だ。そして「200A」は、定格容量。つまり出せる電流。そして「冷却」は、動作中に高温になるIPMには必須だ。
-いったい何があったんだ?-
メールを読もうとした途端に名前を呼ばれ、目の前の電話が転送音を鳴らす。まだ始業時間じゃないぞ。せっかちな奴だ。
「はい。お電話代わりました、柿崎です。」
-おはようございます。鳥井です。-
「おお、久しぶり。元気か?」
-ええ、出勤するまでは。始業前にすみません。メール、開封通知が来たんで電話しました。一刻も早くお耳に入れておいた方がと思いまして。-
「悪いな、開いたばかりで、まだよく読んでないんだ。開発案件受注って書いてあったけど。受注ってどういうことなんだ。」
言いながらメールをスクロールさせる指が固まる。
「おい、サンライズエレベータ納めのエレスリムシリーズ200Aインバータだと?そんなの出来るわけないだろう。」
エレスリムシリーズ。それは俺が開発で最後に手掛けたインバーターで、機械室レスエレベーター用の省スペース制御盤向けに開発した薄型インバーターだった。
-ですよね。こっちでは大騒ぎになってます。「ザキさんがいるのにどうなってんだ」って。何で受注しちゃったんですか?-
エレスリムシリーズは75A、100A、150Aの3タイプをラインナップしているが、200Aは存在していない。
いや、製品化出来なかった。というのが正解だ。
エレスリムの心臓部には日滝製のHPMシリーズのIPMを使用している。このHPMシリーズは200Aまで製品化されており、パッケージの形状・寸法も当然同一だった。75Aクラスのコンパクトなサイズで200Aまで使える。新世代のIPMだった。
だが、使う側にとっては大きな違いがあった。それは冷却方法だった。容量が大きくなればなるほど発熱量は大きくなる。150Aまでは、安価で省スペースなヒートシンク方式で冷却できた。ヒートシンクは熱を伝えやすいアルミ材に羽根状のフィンを多数取り付けることで空気と触れる表面積を広くして冷却する部品で、ここにIPMの放熱部を密着させる。密着させると言っても、何の事は無い。IPMの取付面が金属の放熱部品になっているので、そこに熱伝導性の良いペーストを塗ってヒートシンクに取付けるだけだ。ただこのヒートシンクがデカイ。タバコの箱ぐらいの大きさのIPMに対して弁当箱ぐらいの大きさのヒートシンクが必要になる。ヒートシンクをコンパクトにするために冷却ファンを取付けて強制冷却してもこのサイズだ。そうやって部品メーカーが保証する使用温度範囲内で使わないと、寿命が短くなるからだ。エレベーター向けの場合、最低10年は持たないといけない。
だが、ヒートシンクで冷却できるのは150Aまでだった。シミュレーションの結果、200Aを冷却しようとするとさらに大きなヒートシンクが必要となる事が分かった。薄型・省スペース・低価格を売りに開発しているエレスリムシリーズとしては許容できない大きさだった。
もっと冷却効率の良いヒートパイプ方式にすれば寸法的には実現の可能性はあったが、複雑な構造で高価なヒートパイプを採用した場合、部品調達だけでなく構造が異なる事から、製造工程、メンテナンスなどシリーズとしてのコストメリットが見込めないため200Aの開発は断念した。
なのに、なぜ、誰が?
「一体誰が受注したんだ、そうだ、仕決者は誰になってる?」
-諸岩一茂。ザキさんの部下ですよね?でも、承認者がザキさんじゃないですね。三谷課長の承認になってます。しかも、一般のアレンジ受注書なんですよ。-
吐き捨てるように諸岩のフルネームを言った鳥井の声が、承認者の部分で緩む。俺の承認じゃなくて安心したらしい。
俺を信じてくれてありがとう。
それにしても諸岩だとっ、三谷さんもとんだ節穴だ。アレンジで製品に出来るもんじゃない。そもそも三谷さんにどういう説明したんだ?
始業のチャイムが右の耳に入り込んでくる。左の耳からは受話器を通して、鳥井の職場のチャイムが
滲む。そこに「戻らなきゃ」といった類の言葉が異口同音に散らばる。鳥井の電話を傍で聞いていた連中が大勢いたらしい。
「情報ありがとう。時間だから、また、経緯を調べて午前中には電話する。」
鳥井の返事を聴き終えてから丁寧に受話器を戻す。開発の頃ならぶん投げていたところだ。開発の受話器の殆どがガムテープ巻きなのは、そういうストレスフルな事態の多さを物語っている。
俺も大人になったもんだ。だが、どこまで大人で居られるだろうか。
朝礼、全員起立して部長の話に向き合う。内容など耳に入ってこない俺は、奴を、諸岩に一瞥をくれる。部長に注目する訳でもなく透かした表情で姿勢を崩した諸岩の態度にずっと堪えてきたものが込み上げてくるのを感じた。久々の感覚。
どこまで大人で居られるだろうか。
潰すのは簡単だ。だが相手は部下だ。育てるんだ。
考えろ、効果的な事を。
俺は怒りと対峙する自分に唱え続けた。
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