第18話 相棒

 土浦を過ぎてから駅のコンビニで買ったおにぎりと緑茶で遅めの朝食をとる。建物だらけの谷間を走って来た特急ときわの車窓は、蓮田の連なりから森を抜けて水田へと移り変わっていき、間もなく恋瀬川を渡る。俺の好きな景色だ。

 朝食を終え、手持無沙汰に残りのお茶に口を付ける頃には、起きがけの鈍重な思考と身体も、清々しさを取り戻した。

-良かった-

 久々に日本酒を飲み過ぎた事を後悔していたが、二日酔いまでにはならなかったらしい。

-あいつも苦労してきたんだな-

 俺は、公子の涙を思い浮かべる。

 そして、妻の笑顔に切り替わる。

-苦労掛けたな-

 何も知らずに自分の事だけで妻への不満と自暴自棄を増大させてきた自分を改めて恥じる。

 仲良かった頃-いや、仲が悪いと勝手に思っていたのは俺だったな。-東京に出張した時には必ず買って帰っていた上野駅のタルトに目をやる。前席の背もたれに折りたたみテーブル・ドリンクホルダーと共に付けられたフックにぶら下がる愛らしいロゴの入った手提げ袋を手で撫でる。寮のある松戸からわざわざ上野に出て買って来た。

-喜ぶ顔が見たくて-久々の感覚に目に映るものすべてが新鮮で、懐かしい。

 妻への愛しさが溢れそうになっていた。



 夏の日差しが高みを登りきった頃、早めの昼食を終えて茅葺屋根の店を出た。俺の地元で数少ない旅行雑誌にも載る蕎麦屋だ。

「眩しいね。」

 昔ながらの薄暗い店内から真夏の日に晒された妻が手をかざして目を細める。丈の長い涼しげなスカートが妻の動きに合わせて揺れ、思わず俺は見とれる。妻のスカート姿なんて何年ぶりだろうか。



「久々にドライブしようよ。ジムニーさんで。」

 切り出したのは妻だった。娘は明日、友達と映画に行くからいないらしい。息子は、つくばにある大学の寮だ。

 昨夜、ダイニングで酒を飲みながら妻と昔話をしていたら、そんな流れになった。

「明日の夜、松戸に帰るだろうから、早めに戻れるように近場でいいからさ。」

 妻の上目遣いを久々に見た。

 快適な妻の車ではなく、俺のジムニーで行きたい、という。昔みたいに。

 じゃあ、八郷に行ってそこから、何年か前に筑波山に出来たトンネル通ってつくば市に行って買い物とか、トンネルまだ通ったことないけど筑波山越えなくて済むから大分早く着くらしいよ。で、帰りは山を越えて戻って来る。どう?時間が無いから、俺の実家も雄人の寮も寄れないけど。

 じゃあ、柿岡のお蕎麦食べようよ。あのお店、まだあるかな。

 とんとん拍子に話が進んだ。

 そして、日が変わろうとする頃、久々に妻と寝た。求めあうようにキスをして、その先には進まなかったが不満を感じずに差し出された手を繋いだまま眠った。俺はこの温もりだけで充分に満たされていった。俺を想いやってくれる温かい手。もっともっと早くから素直に握ってあげればよかったのに。今は愛おしくてたまらなかった。



 つくば市のショッピングモールで買い物をして、カフェでひと息をついた俺達は、ふたりで交換して味見をしながら食べたカフェのスイーツの話に始まり、離れ離れになってお互いに知らなかった時間の話しをしている内に筑波山の峠に入った。

 俺はシフト操作を繰り返し、今となってはオートマ車(AT)だらけで珍しくなってしまったマニュアル車(MT)の醍醐味を味わう。とはいっても「峠の走り屋さん」のようにスピード感溢れる走りやドリフトを楽しむ訳ではない。ジムニーは軽自動車だが、お世辞抜きにも「本格クロカン」つまり、オフロードを走る事に重きを置いた車だ。オフロード走行に対する妥協のなさは、そのままオンロードでの走りを犠牲にする。高い車高、大きなタイヤ、左右の車輪を敢えて繋いだリジットアクスルは、オフロードでは右車輪が何かに乗り上げれば反対側の左の車輪はその分下に押し下げられて大地に踏ん張るが、オンロードでは右車輪が受けた揺れで左車輪も揺れるという乗り心地の悪さを生む。そして左右の回転差を仲介するデフを通して前後にエンジンの回転力を伝えるシャフトで4つの車輪に動力が与えられるが、これも使うのはオフロードのみで、オンロードでは前後を切り離して後輪だけに動力を与えて走るので、オンロードでは「余計な重さ」でしかない。さらにそれらをラダーフレームと呼ばれるハシゴ状の骨格に取り付けている。そしてその上にボディーが載っている。簡単に言えばトラックと同じだ。トラックもラダーフレームの上にエンジンと運転席を載せていて、後ろ側は、荷台にしたりコンテナにしたり、ダンプにしたり目的に合わせたモノを載せている。たまに何も載せずにフレームだけで走っている真新しいトラックを見た事はないかい?あれだよ。まあジムニーの場合は、目的が違うがな。例えばボディーに直接サスペンションとタイヤの付いた「普通の車」が悪路を走行したらどうなる?激しい突き上げなんかにあったらボディーが歪んでしまうだろ?

 まあ、とにかく「普通の車」に比べて圧倒的に一般道では不利なわけだ。それを非力な軽のエンジンで引っ張る。えっ?ターボが付いてるじゃないかって?ターボは付いているが、そもそもターボつまりターボチャージャーは、排気の流れを風車で受けてコンプレッサ(圧縮機)を動かしてエンジンに入れる空気を圧縮して密度を高くする装置のことだ。普通のガソリンエンジンはピストンが押し込んで吸い込んだ空気が圧縮したところにガソリンの霧を混ぜて点火。それで爆発した膨張力によってピストンが押し出されて動いた力をクランクで回転力に変える。ターボは、そのエンジンが吸い込む空気に更にコンプレッサーで圧縮した空気を押し込むことで、ピストンによる圧縮以上の圧縮空気を押し込むことでピストン内の爆発力を高めるっていう「馬力の上げ方」だ。排気でコンプレッサーを回す。ということは、排気が弱ければ圧縮できない。ということになる。要するにエンジンの回転が低い走り出しや低速域では圧縮できない。ということになる。だからターボはスピードが乗って来てエンジンの回転が高くなってきた時に真価を発揮するんだ。或いは低速でも空ぶかしをして回転を上げた時にクラッチを繋いで一気に車輪にパワーを加える方法もあるが、人を乗せている時にやるもんじゃあない。

 話が逸れたが、ターボはスピードの出せない山道では威力を出せない。ということだ。なるべく速度を下げ過ぎないように、そして、エンジンの回転を下げ過ぎないようにギアチェンジをしながら走らなければならない。でも峠はコーナーがキツイ。充分に減速しなければ背の高いジムニーは横転してしまう。だから速度を下げる。そしてエンジンの回転が下がりきる前にギアを下げて回転を上げながらコーナーを抜ける。ギア付きの自転車に乗った事があるなら、ギアを下げた方が足漕ぎが軽く、回転が早くなるだろう?あれと一緒だ。ギアを下げた方がスピードは出ないがエンジンの回転は高くなる。それでターボが効いて力が出る。ギアチェンジを間違えればオフロード四駆としては軽量でも軽自動車としては重量級なジムニーはいとも簡単に失速する。だからエアコンも入れたり切ったり忙しい。「オートエアコン?」そんなのは無い時代の車だ。しかも、エアコンとはいいながらもこの車のそれは、クーラーだ。冬はHOT側に空調レバーを動かすだけ。まかり間違えてエアコンのボタンを押したら冷風が吹き出す。

 これだけオンロードに不利な車で、俺は妻を酔わせないために乗り心地重視で運転をしていく。これが醍醐味だ。昔は、そう、入社して初めて買ったこの車でいろんな所へ行ったっけ。震災後は行かなくなったが、林道も沢山走った。この愛する女と一緒に、照れながら呼んでいた名前にチャンづけから始まり、結婚して照れ隠しに奥さん。と呼び、子供ができてからはお母さん。呼び名が変わるたびに人生のステージは激変していった。それもこの車は知っている。そして、妻と出会う前に付き合っていたあの婦人自衛官の事も。ただの車じゃない、俺の喜怒哀楽を共にしてきた何でも知っている相棒。

 峠を登りきって尾根沿いのなだらかな道を走る。視界には、さらに空へと伸びる男体山と女体山が映る。関東平野の真ん中にそびえ立つ筑波山は標高こそ877mと決して高い山ではないが、男体山と女体山の2つの峰を持ち、古くから信仰の山として栄えたという。中腹には筑波山神社があり、筑波男大神(いざなぎのみこと)、筑波女大神(いざなみのみこと)の夫婦二神を主神として夫婦和合、縁結びの神として崇められてきた。今日は立寄る時間が無かったが、次は妻と行ってみよう。今までの俺の誤解を何かに詫びたいから。そしてこれからも仲良く過ごせるように祈りたいから。

 分岐から湯袋峠に入り、筑波山と連なる加波山や吾国山に囲まれた八郷盆地へと下る。関東平野に陸の孤島のように浮かぶこの旧八郷町が俺の故郷だ。今は隣の石岡市に吸収合併されてしまったが、未だに石岡と呼ぶことに違和感がある。峠に入って右側の視界が開け、眼下に山々に縁取られた田園地帯が広がり、中央に低い山がひとつ、丘のように見える。富士山だ。富士山とは言っても標高はたったの152mだし、富士山には全く似ていない。その向こうで採石により削られた山肌を見せて真っ二つにされている山が標高196mの竜神山だ。神と名前の付く山をこんな姿にしてしまうとは、人間はどれだけ強欲で自惚れた生き物なのだろうか。この山には大昔から竜神の夫婦が住んでいるといわれ、竜神様のおかげでふもとの井戸も枯れることがない。言い伝えられていた。日照りが続くと、人々は竜神に雨乞いの祈りを捧げたという。それに比べて今を生きる俺達は何てバチあたりなんだろう。

なんてことを話しながらドライブは続く。

「昔の人達は、もっと謙虚でいろいろな事に感謝しながら生きてきたんだろうね。」

 妻の言葉に最大限の同意を示しながら、俺はギアを下げてエンジンブレーキを利かせながら速度を押さえてカーブに入る。ギアが下がる事でタイヤからエンジンに伝わる回転数が上がりエンジン音が高くなるが、アクセルは踏んでいないのでエンジン自体は回転が低いままでいようとする。それによってタイヤの回転を上げないように抑え込む。それでもアイドリングよりもエンジン音が上がってしまうのは、タイヤからの回転力を押さえきれないぶんエンジンの回転が上げられてしまうからだ。それがエンジンブレーキだ。このお陰で上りに比べて下りは楽だ。ギアチェンジをしながら好きな強さでエンジンブレーキを自在に操りながら下ることができる。これもマニュアル車の醍醐味だ。

 

 峠もなだらかになり森のトンネルを抜けると坂道に農家や果樹畑が点在しはじめるとまもなく「やさと温泉ゆりの里」が見える。露天風呂の景色も地元の食材をメインにしたレストランも直売所も今日はお預けだ。

-明日が仕事じゃなければな-

 分かりきったことを呟いてしまう。

 緩くなった下り坂にエンジンブレーキの音も低くなってくる。音が低くなって違和感に気付く。何かに包まれているかのようにエンジンの音が曇っている。エンジンブレーキの効きも強いような気がする。久々に乗ったから勘違いなのか、車齢20年を超える老体に鞭打って山道を攻めたからなのかは分からないが、急勾配の時にはエンジン音が大きすぎて気付かなかった。

-気のせいか-

 そのままフルーツラインに出る。盆地の中のいくつかの丘を抜けるたびに緩く大きなアップダウンをしながらも筑波山と吾国山の間の平地を一直線に結ぶ道路だ。交通量が少なく信号もほとんどないこの道路は地元の軽トラから他県ナンバーのワンボックス、趣味なスポーツカーまであらゆる種類の車が高速道路さながらにスピードを出す。免許を取り立てで初めてこの道路を走った時、「早く60キロまで上げろ、ゆっくり走れば安全というのは、この道じゃ通じない。みんな飛ばすから流れに乗らなきゃ危ないんだ。」助手席の親父の慌てっぷりを思い出し、俺の頬がほころぶ。

 その頬が一挙に強張る。

-なにっ?-

 フルーツラインに入って加速し始めて間もなく渡った小さな川。そこから坂を登るために更にアクセルを踏み込んだが急にエンジンの吹けが悪くなった。音も変だ。何かが擦れるような不規則な音。そして油脂系の鼻を突く臭い。坂の中ほどでオイルの警告灯が点灯した時には、嫌な汗が全身から噴き出した。

 -オイルの警告灯が点いた時にはもう遅い。オイルが無いから点くんだから。-

 昔、車好きの友人から聞いた言葉は嘘であってほしい。と祈る。

「大丈夫だよ。」

 前を見たまま妻の視線に応える、そしてその言葉は愛車に向けた俺の想いでもある。

-そう、大丈夫だ。今楽にしてやる。-

 俺はクラッチを踏んでエンジンの回転とタイヤの回転を切り離し、アクセルを戻した。惰性でこの坂を越えるぞ。

-頑張れ。-

 アイドリングに戻ったはずのエンジン音はひどく不規則でしかも低い。回転計をに目を遣ると回転数は500回転と300回転の間を行ったり来たりしている。普段の半分以下だ。しかも不安定な回転数。

 惰性の推進力は、上り坂の位置エネルギーに食い尽くされ見る間に速度が下がる。幸い後ろに迫る車はいない。

-頑張れ。相棒-

「頑張れ」「頑張って」

 2人の声にも力が入る。

 越えた。辛うじて坂を上りきったジムニーは、歩きならそこから先が下り坂になっている事に気付かないほど傾斜の緩い道を殆んど止まりそうな速度で進む。ギアをニュートラルにして踏みっぱなしだったクラッチを戻す。ニュートラルにしておけば、タイヤとは切り離されたままでエンジンが回転する。下りでも速度が上がらないのはオフロードタイヤの抵抗、道路との摩擦が大きいからだ。

 俺は路肩の広い場所を見つけてハザードを点けて停車した。

-お疲れさん。苦しかっただろうな。-

 ダッシュボードを撫でるようにしてエンジンを切った。

「大丈夫かな。」

 車から降りた妻が手にした日傘を開くのも忘れて呟く。

「大丈夫だよ。」

 俺はもう一度キーを捻り。エンジンを掛ける。

 セルモーターが苦しそうにゆっくりと回るがエンジンが掛る気配はない。バッテリーはあるのだからセルモーターの回転が遅いのは変だ。やはりエンジンがやられてしまったに違いない。そもそもオイル-金属同士のエンジンのシリンダーとその内部を動くピストンを滑らかに動かす潤滑剤-これが無かったら、金属同士が擦りまくる。

「大丈夫じゃ、ないかも。いや、大丈夫だ。ノリちゃんに電話してみる。」

 オイルか。

-あっ、-

 忘れてた。

 俺は、去年の車検の時、井川が言っていたことを思い出した。

-オイルが少し漏れているようだから、漏れ止めの充填剤は入れておいたけど。パッキンは安いんだけどエンジンを降ろしたりで修理すると大分金が掛るからね。殆どのらないだろうから気を付けながら乗ってみて。酷いようなら電話してくれ。-

 確かにそう言っていた。2、3ヶ月は気にしていたが、漏れが止まったようだったので、気にもしなくなっていた。

 何て馬鹿な事をしてしまったんだ。

 ジーンズのポケットから取り出した二つ折りのガラケーに親指を滑り込ませて片手で開く。電話するなら断然ガラケーが便利だ。すぐに番号を呼び出し通話できる。ポケットに雑に入れといても心配ない。持ち運びが楽なことも便利さにプラスだ。ガラケーを笑う奴は笑えばいい。ちなみに俺は格安SIMのスマホと2台持ちだ。

-はーい。どーもです。ヒロちゃん元気かい?-

 愛嬌のある声が響く。

「俺は元気なんだが、ジムニーが。動かなくなった。」

-で、どんなふうに?-

 友達の声から自信に満ちた落ち着きのある口調に変わる。さすがプロだ。しかも古い車はエレクトロニクスだらけの今の車に比べて得意だと言っていたっけ。

「変な音がするな。と思っていたらオイルの警告灯が点灯して、停車したら、エンジンが掛らなくなっちまったんだ。」

-そっか、分かった。今どこ?-

「八郷だ。吉生小の下からフルーツラインを吾国山の方へ走って最初の上り坂を上りきった先にいる。日曜日なのに悪いけど、来てもらえないか?」

-おう、お安い御用さ。どのみち個人経営には土日は無いから気にすんなよ。15分で着く。-

「悪いな。気を付けて」

 礼を重ねて電話を切った俺に、妻が「ゴメン」と俯く。

「何で?」

 と尋ねる俺に潤んだ瞳を向ける。

「私が、ジムニーさんで行きたいって言ったから。」

-そんな事は無い。-と言いながらも、少し前の俺なら、心のどこかで恨み節を唱えていたかもしれない。

-だが、今の俺は違う。-こんなにも大切な妻、自分の事よりも俺のことを想い、そして今も俺の心の痛みを自分のものに置き換えようとしてくれている。

「そんなことないよ。俺もジムニーさんで行きたかったし、楽しかったじゃないか。それにジムニーさんだってきっと喜んで走ってたんだよ。でも、」

 熱いボンネットを撫でる。

「そもそも俺が悪いんだ。きっとオイル切れなんだ。前の車検の時にノリちゃんにオイル漏れがあるって言われてたのに。ゴメン。」


 それから程なくして駆けつけてくれた「カーメンテ井川」のレッカー車に繋げられた愛車「ジムニーさん」の濃紺のボディーは「カーメンテ井川」のイメージカラーの黄色と赤を基調にした元気な塗装とは対照的に寂しげに見えた。旅の途中で脱落してしまったことを詫びているようにも見える。

「多分エンジンが焼きついている。エンジンを乗せ替えるが手っ取り早いが、古い車だからエンジンを手に入れるのは無理だ。廃車から取って来る手もあるが、マニアの多い車だから、廃車もすぐに嗅ぎつけられてあっという間に「どんがら」だけになる。そもそもこういう丈夫でマニアックな車を廃車にする理由はエンジンがダメになった場合が殆どだから、かなり厳しいかもね。ま、とにかく預かって見させてもらうよ。あっちじゃ車乗る機会無いんだろ?」

 黄色系の色褪せたツナギの肩を動かして頬の汗を拭いながらレッカーのエンジンに負けない大声で言う。

「そうだな、頼む」

 井川の言葉に力なく頷くしかなかった。とにかく見てもらうしかない。

「まあそう気を落とすなって。さ、乗って乗って。」

-ゴメンな-

 愛車に言葉を掛けて妻と共に井川のレッカー車に乗った。


 井川の事務所でお茶を貰いながら軽く近況を語り合っているうちに、井川のトークはいつも絶妙に上手い。俺と妻にも笑顔が戻って来た。それを確認して安心したかのように「駅まで送ってくよ。」と井川が立ち上がった。井川というの男は昔からこうだ。俺にはなかなかできない芸当だ。

 

 石岡駅に着くまでの30分間、車中での井川トークでさらに元気になった俺達は、普通列車に乗って北へ向かった。


「ジムニーさん、直るといいね。お金は掛ってもいいから、遠慮なく言ってね。」

心地よくクーラーの効いた車内で隣にぴったりと身体を寄せて座っている妻が囁くように言う。

「ありがとう。あとはノリちゃんに任せるしかない。いろいろあったけど、楽しいドライブだったよな。直ったらまた行こう。」

 膝の上のバックを抱えている妻の手に俺の手を重ねる。若い連中には「キモイ」光景かもしれないがオッサンにだってこういう衝動はある。若い連中と違うのは、それを他人の目につくところでしないってことだ。休日の夜、閑散とした車内には俺達の視界に入る他人はいない。

「うん。」

 妻がもう一方の手で俺の手を包む。

-相棒、また一緒に走ろうな。必ず走れるようしてやる。-

 向かい側のガラスに映る俺達。その向こうに故郷がある。相棒を置き去りにしてきた場所がある。反射して見えない景色に向かって俺は誓った。

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