第17話 大切なこと
「今週も帰らないんですか?奥さん寂しいだろうなー。」
行きつけの小さな寿司屋。マスターが気を利かせたのか今日は小上がりに案内されていた。
2杯目の生ビールを飲み干し、空になったジョッキを一瞬見つめた俺に違う話題を突きつけてきた。
次も生にするか、それとも日本酒にするか一瞬迷っていた心が即決モードに変わる。
「マスター。冷酒お願いします。」
夏らしくスダレに変えた個室の仕切りを開いて顔を出すとカウンター越しにマスターの顔が見える。
「あたしも冷酒ください。」
ふわっとした甘い気配と同時に頭上をアニメ声が通過する。一瞬動悸が大きくうねる。今動いたら危ない。
-ってお前、ジョッキまだ半分残ってるだろ。行儀悪い奴だ。-
一瞬で気配が去ると、ドキッとしてしまった恥ずかしさからか突っ込みのひとつも言いたくなる。
だが、敢えてそれを飲み込む。俺のためにわざわざ資料を持ってきてくれんたんだからな。
多分苦虫を噛み潰したような表情でテーブルに戻った俺の目には、「ぷは―。」とおよそ外見と不一致な仕草でジョッキを飲み干した公子が映る。
-ハイ。文句ありません。-
苦笑に気付かれないように視線を戻した俺は、話題をすり替える。今の俺に結婚生活の話題で他人に胸を張れるような話は、ない。
「帰らないけど、そういえば、」
几帳面にコースターに戻したジョッキから公子が嬉しそうな瞳を向けて来る。
「昔、ウチの実習からお前が営業に戻って2、3年した頃だったかな。結婚するって噂聞いてたんだけど。」
陰りの色に変わった瞳を隠すように下を向く公子。
-しまった。-
いくら相手が公子とはいえ、この30後半の独身女性に言っていい言葉ではない。俺にとってはいつまでもハムちゃんだが、公子も女としての年輪を重ねている。いろんなことがあったに違いない。お世辞抜きで可愛い系美人の部類に入る公子、しかも性格は愛らしく気も利く。恋愛で何もなかった筈がない。
何も見なかったようにマスターが冷酒の瓶とガラスの杯と置いていくと、俯いたままの公子は注ごうとする俺の動きを待たずに手酌で杯を満たし、一気に飲み干す。そしてまた俯く。
「あ、いや、その、変な意味じゃなくて、もし今決まった相手がいないなら、開発にいくらでもいるからさ、エンジニアなんて男ばかりの世界だ。選り取り見取りだぞ。」
俺の言葉に反応もせず俯いたままの公子の杯に冷酒を満たして、俺も自分の杯を満たし、為すすべもなく冷酒に口を付ける。
いったいどういう意味なんだ。顔を上げてくれ、祈るように見つめる俺、下を向いたままの公子の髪の毛の間から覗いた華奢なあごの先に滴が溜まってる。
そして、滴が落ちる。
思いもかけず喉を鳴らして日本酒が流れ込み咳き込む俺。
ー何で泣いてんの?ー
出掛かった言葉を飲み込む。公子にとってあまり気分のよい話ではなかったかもしれないが、泣くほどじゃない。と思うのは、やはオッサンの勝手な解釈だろうか。
す公子が素早く杯を空ける。
おいおい、まるで自棄酒ないか。
俺は、今度は公子の杯を満たすことは控え、マスターにお任せで頼んでいたコースの次の寿司を早めに出してくれるように頼んだ。日本酒を豪快にあおり始めた公子だが、その胃の中には、お通し、刺身の小鉢程度しか入っていない。目の前の焼き物には殆ど手を付けていない。このまま日本酒を飲み続けたらすぐに酔い潰れてしまう。下手したら悪酔いするかもしれない。
座布団に座り直す俺を待っていたように公子が顔を上げた、輝くような笑顔で、本人は気付いて欲しくないだろうが、目尻や頬から顎にかけて輝く筋が見える。
思わず自分も笑顔を向けてしまった、公子に釣られた、というよりは、安堵の笑顔だな。この場合。
溜め込んだ涙のせいか光を蓄えた瞳が俺を見つめたまま公子が手酌で冷酒を満たす。
「おいおい、ハムちゃん飛ばしすぎだぞ、胃が空っぽでそんなに飲んだら悪酔いしちまうぞ。今寿司を頼んだから、食べてから飲みなよ。」
俺の言葉を聞き流すように、杯をあおる。だが破壊一歩手前の硬い音をたてて置いたガラスの杯に冷酒を手酌することはなかった。俺の言葉が通じたらしい。
「そう、結婚しようと思ってました。っていうか結婚、することに、なってました。」
この話題が引き金だった。重い出だしからすると公子は、はぐらかすつもりはないらしい。俺が思った以上にデリケートな問題だったんだ。俺はなんてバカなことをしたんだ。
-好きな男いるの?彼氏はいるの?-
夫婦問題に触れられたくないあまり、ガキの頃と変わらないノリで聞いてしまった。はぐらかしたのは俺の方だった。我ながら情けない。
「でも、出来なかった。」
-なんで?-
という疑問は引っ込めた、今は静かに聞こう。これ以上の野暮はできない。喉を鳴らさないように含んだ冷酒をゆっくり飲み込んで行く。静かに置いた杯から視線を公子に移す。
「だって死んじゃったんだもん。」
ーえっ?ー
マスターが握りの載った横長の皿を静かに2人の前に並べていく。俺が頼む前から握り始めていたようだ。公子に日本酒を注文された時点で気付いたんだろう。潰れたら可哀想だって。
ー俺が潰そうとしてるーなんて誤解をされてたら困るけどな。
「すまなかった。嫌なことを聞いちまったな。さあ食べてくれ」
「はい。いただきます。」
涙と不釣り合いなほど明るい表情で頷いた公子は両手で包むように箸を取る。
箸を構えて、ちょっとだけ迷い箸をする公子の仕草に安堵した俺は、手酌で冷酒を注ぐ。
「あ、ごめんなファい。」
注ごうと慌てて瓶を持とうとする手を笑顔で制する。良かった。何があったかは知らないが取り敢えず普通でいようとしてくれている。無理してるように見えなくもないが、泣いたまま塞ぎ込まれるよりよっぽどいい。公子にとっても、俺にとっても。
「うんまい。」
スズキの握りを頬張る。締まった歯応えと滲む旨味、脂を主張するネタも好きだが、こういう白身も好きだ。しかもコイツはみなと市の近海モノだ。この店の近海モノは全て、茨城県みなと港で水揚げされたモノだ。しかも、酒は筑波、茨城の酒だ。久保田のようなメジャーな酒も置いているが、ちょっと茨城寄りなところが懐かしくて「自分に御褒美」と言い訳しながら時々顔を出す。
「わー、ホント美味しい。」
「ここの近海モノは、みなと港で仕入れてくるんだってさ、懐かしいだろ?」
みなと市内の飲み屋なら、みなと産の魚が食えるが、東京じゃなきあなかお目に掛かれないはずだ。
「みんな元気かな?開発の人達。」
俺の杯に注いでくれながら呟く、真っ直ぐに伸ばした腕が眩しいくらい白いことに今さら気付く。
おっと、俺は自分の瓶が空になっているのに気付くと、テーブルに戻そうとしていた公子の瓶に手を伸ばす。気付いて俺に瓶を差し出す公子の手と触れ合う。
ードキっー
とする訳ねぇだろ。自分に突っ込みを入れる。
「ああ、元気だ。っていうか相変わらずだな、まだ独身の奴ばっかりで、不摂生してないか心配だよ。せっかくくっついたのに離婚しちまった奴もいるし。鳥居は子供もいていいパパしてるよ。」
ーしまった。ー
また結婚ネタに触れちまった。
「鳥居さん、いいパパが似合いそう、幸せなんだろうなー。ザキさんは?」
「ザキって、」
やっぱ俺の事なんだろうな、
今度は、
ー逃げずに答えよう。ー
何てったって公子にあんな思いをさせちまったんだ。
「そう、カ・キ・ザ・キさん。」
あらかた寿司を食べた公子が両手で頬杖をして俺の目を覗き込む。
「ザキって、まあ、いいか、俺は幸せだよ。部分的には。」
「部分的って、意味しーん。」
なんか、喋り方が変になってきたんじゃないか?
「子供達も息子が大学4年で娘が短大だ、この先、進路楽しみや心配もあるけど、ひと段落したって感じだからね。」
「ふーん。」
ガラスが触れ合う音をたてて手酌する公子、動作が雑になってきている。お茶でも頼んだ方がいいな。もちろん俺は公子に勺してやるのを止めている。
「あたしが聞いてるのは、子供の事じゃなくて、」
ふた口ほど冷酒を飲み込んだ公子が挑むような瞳を向ける。
「そりゃあ長年一緒にいればいろいろあるさ。」
「いろいろって?」
自然と右手が杯を弄ぶ、底に残った冷酒が縁からはみ出さないように螺旋を描く。それを目で追うことで公子の視線から逃れる俺。何を聴きたいんだ。この小娘は。だいたい口の利き方がおかしくなってきたぞ。日本酒なんて止めておけばよかったんだ。昔のように公子をガキ扱いすることで首を上げようとするもう一人の俺を押さえる。
「例えば?」
「例えば、あれだよ。その」
例えば?と聞かれて反射的に応じてしまった俺の目を公子の瞳が捉える。
挑戦的な笑みが絡みつく。ように俺には見える。よくあるオッサンの勘違いだろうけど。もういいや、言っちまえ。
「今流行りの何とかレスってやつだよ。俺はまだまだなのに。」
言っちまった。
「やっぱそうなんだー。だから家に帰らないんですかぁ?」
公子が目を細め、頬杖から斜めに俺を見上げる。
-コイツこんな瞳もするんだ。-
妙に艶っぽい視線に俺の奥の懐かしい何かが湧き起こる。勘違いでもいいや。
何となくだが胸のつかえが溶けていき、日頃から渦巻いていたイライラが晴れてくる。
男として恥ずかしいし、情けない話だが、誰かに聞いて欲しかったんだ。
-お俺はまだ男でありたい。-
という叫びを。
「でもね。奥さんの気持ちも分かるかも。」
-ガクッ-あえて音で表現するなら。これだ。
盛り上がって来た全ての俺が崩れ去る。
「なんで?」
情けない。動揺を悟られずに言える最大限の言葉がコレだ。
「だって、開発の人って、毎晩遅くまで残業して帰って来るわけでしょ。殆ど午前様。それなのに朝も普通の時間に出掛けてく。」
「そんな時間まで待っる、って訳にはいかないもんなー。」
確かに。そんな生活してたら共倒れだ。
「そうじゃなくて、ザキさんは表面しか見てないんだから。」
既に艶っぽい視線はない公子。今度は娘の美咲のような目をしている。
-分かってないなー、お父さんは。-
って言う時の目だ。
「だって、毎日寿命を擦り減らしに会社に行ってるようなもんでしょ。当たり前だけど仕事は手伝ってあげられないし、技術屋の話しなんかチンプンカンプン。仕事には何のアドバイスもできない。
出来るのは生活面のサポートだけ、しかも殆ど家にいないんだから、してあげられることは限られてる。美味しくて健康に良い食事を作って、家ではなるべく休んで貰えるように家事をしっかりやることぐらい。毎日一生懸命尽くしても夫の体と心は会社に行くたびに壊されていく。違う?」
公子が熱っぽくまくし立てる。冷酒に潰れそうになっていたのが嘘のようだ。
「まあ、そうだな。」
不本意だが、的を得ている。しかし結婚もしてないコイツに何が分かる?
「でしょ。だーから、そんなコト出来ないのよ。ただでさえ旦那が死にそうなのに、そんな寿命を縮めるようなコト出来るわけないでしょ。」
どんなに遅く帰っても、料理を準備出来るようにリビングで居眠りしながら待っている妻。毎日早起きして欠かさず作ってくれた手作り弁当。ひと工夫加えた手料理。アレは拒否するけど何故か手を繋いでくる妻。
俺の脳裏に走馬灯が流れる。
-そうだったのか。-
「お父さんの馬鹿。」
あの晩の娘の怒った声が木霊する。妻に転勤を告げた深夜のダイニング。
「馬鹿だから馬鹿って言ってるのよ!お母さんのこと何も知らないくせに。」
-そうだ、お父さんが馬鹿だったんだ。-
やっと気付いた。なんとかレスの事だけじゃない。俺は、自分の事だけしか考えていなかった。夫として、父親として、どんな役割があって、それをどう果たさなければ。を常に考えながら行動してきたつもりだった。しかし心の底から「相手のため」を思って行動してきたのだろうか?妻のように親身になって尽くしてきたのだろうか。それは上辺だけだったのかもしれない。だから、こんなことに悩み、ストレスを感じてきたのだ。
-俺だって~なのに-
喜ぶ家族の笑顔の裏で、心の中でそう叫んでいた。
いつも自分を犠牲にしている。と思い込んでいたのではないか?尽くすことは犠牲ではない。客観的に犠牲だと思えることでも、それは犠牲ではない。それは尽くすことではないし、思い遣りでもない。それなのに、ストレスにかまけて煙草を吸いまくり、そして毎晩のように大酒を飲んだ。まるで妻への当てつけのように体に悪い事をしていた俺。いつからこんな感情を持つようになってしまったのだろうか。
「それにしても、良く分かるなー。お前。」
-結婚もしてない癖に-という言葉は慌てて飲み込む。
「だって、死んじゃったんだもん。あたしの彼。お互い結婚するつもりだったのに。東北支社にいた時の取引先にいたエンジニア。昔のザキさんと同じでいつも深夜残業だった。仕事帰りに道端で倒れてたみたいで、死因は心筋梗塞だったんだって。深夜だったから発見が遅れて。精神的にもヤバかったみたいで、死んだ後、彼の両親と部屋の片付けに行ったら鬱の薬も出てきた。
結婚したらあたしが健康にしてあげる。って言ってたのに、あたし、結局何も出来なかったんだ。」
嗚咽が混じり始めた時には俯いた頬が涙で濡れ、テーブルの上で握りしめた拳が悔しそうに震える。
「だから、もうエンジニアとは付き合わない。って決めたの。ザキさんには悪いけど開発のみんなは遠慮しとくわ。」
顔を上げて笑う。涙を蓄えて潤んだ大きな瞳だけが泣いている。
「了解。」
俺も笑った。それ以上掛ける言葉が見つからない俺の目も潤んでいるに違いない。
公子に辛い昔を思い出させてはしまったが、何だか清々した。
勘違いのオッサンは脆くも崩れ去ったが、忘れていた大切な事に気付くことができた。
明日は家に帰ろう。
-ありがとう-
誰にともなく心の中で呟いた。
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