第16話 はじまり

16.はじまり

 20時を回った秋葉原。駅前に飲み会帰りの群れが少しずつ増え始める。

 次はどこに行くのか、或いは、帰るか、誰かが言いだすまで、ダラダラとしているんだろう。まるで羊の群れだ。なすがまま、されるがままの無思考な群れ。自分より小さくても、弱そうでも、吠え、走り回るシープドッグに翻弄される群れ。勢いのいい上司なんかがいたら最悪だ。スナックの類に連れて行かれ、上司は得意気にいつものホステスと話し、いちゃつく。その他は取り巻き、カッコつけたい上司の犠牲者だ。話を振られれば笑顔で頷き、上司が口にする美談に実話で突っ込む事を我慢する。そして上司の自慢話の合間を縫って必死に話題を繰り出し隣にいる話の下手な美人の御機嫌をとる。ちょっとの期待を込めて膝から太股と胸元に目を泳がせながら。何で金払ってるのにこっちが気を遣わなきゃならないのか、と苛立つのは後々の話、日常に戻ってからだ。艶っぽい格好の女性に酒を作られ、煙草に火をつけられたりすれば、好意と期待を持ってしまうのが悲しい男の性、酔っていれば尚更だ。しかも男だらけの職場だ、勘違いしてのめり込む輩は多い。翌朝、財布の中身を見て溜息だ。上司は多めに払ってはくれるが、あくまで自尊心を満たす範囲であって、決して部下の生活を助けるためではない。たとえ助けたい気持ちはあっても自分にだって家庭がある。家庭に戻ればただの夫であり、父親だ。身の丈に合わない散財はしない。たまにいい歳してのめり込んでいる奴もいるが、そういう奴は若い頃からの病気が治らない「根っからの勘違い君」だったりする。

 だから俺はそういう店には連れて行かない。居酒屋で飲んでからシメにラーメン屋か財布の具合が良ければ寿司屋だ。じっくり語り合いたい時は、パブに行く。パブと言ってもお姉ちゃんがいて風俗じみたことをしながら酒を飲む和製パブじゃあないぜ。俺が言ってるのは酒場という本来の意味を看板にしている本場のパブこと「イングリッシュ・パブ」とか「アイリッシュ・パブ」とか聞いたことあるだろ?量は少ないが凝った肴や珍しい料理をつまみながら酒を楽しむ、見たこともないラベルのビールから歴史を舌で感じられるウィスキーまで、多種多様の酒をいい雰囲気の中で飲める。人は珍しいモノを目にし、旨いモノを口にした時、その想いをその場で最も近い立ち位置にいる人間と共有したくなる。それがきっかけとなり自然と深い会話になっていく。

 それにしても。

 秋葉原。多種多様な趣味や文化を満足させてくれるワンダーランド、若い奴は、さっさと開放されたいだろうに。

 俺は、そんな可哀想な連中を横目に、足が速まる。-俺はお前らと違って忙しいんだ-足が勝手に代弁しているようで少し虚しくなる。飲みに誘うような部下はまだいない。

 薄暗くなったホール、床面に街の明かりを映すタキビルのエントランスをガラス越しに見ながら裏の通用口に向かう。セキュリティーシステムに社員証を兼ねたカードをかざして、電子音に続いてロックの解ける音を確認してから真っ白に塗られた分厚い鉄の扉を開ける。

 明かりを落としたエントランス静まり返ったエレベーターホール。何台も並んだエレベーターは、所在する階を示す表示が一部し灯っていない。省エネの一環で夜はエレベータを何台か止めているらしい。

 エレベーターを降りて廊下をひたすら歩く。-こんなに広かったっけ?-錯覚するほど昼間とは真逆の雰囲気を見せるオフィスビル。

 そして、似たような全面ガラス張りの扉をいくつか過ぎて、いつもの場所で立ち止まる。念のためガラスに貼られた切り抜き文字を確かめる。雰囲気が違うと、何もかも違って見えてくる。溜息ともつかない息を吐いて、名札代わりに首から下げた社員証をケースごとセキュリティーにタッチする。

 1階通用口のセキュリティーに自信があるのか、それとも入居する多種多様なグループ会社の社員を信用しきっているのか、最後に退出する社員が稼働させるセキュリティーシステムがロックしているのは体当たりで割れる事が容易に想像できる華奢なガラスの扉だけだ。

 まさに形だけ。開発の職場とは大違いだ。

 ま、扉を割られるようなことがあればガードマンが飛んでくるんだろうが、果たして本気でどうにかしようという輩が侵入してきた場合、特殊警棒ごときで対応できると本気で思っているのだろうか?あんな伸縮式の短い鉄パイプのようなもので守れると思ってるのか?だいたい日本自体がおかしい、なんで原発の警備ですら警備会社の人間なんだ?どんなに訓練を積んでいる優秀な警備員だろうが、銃を持った賊に本気で攻め込まれて守れる筈などない。

 日本中「形だけ」だらけだ。何かが起きなければ目を覚まさない。危機に対する想像力が乏しすぎる。

 まあいい。そんな事は俺の仕事にも、家庭にも全く関係ない。いや、関係あるかもしれないが、こんなオッサンが騒いでも何も変わらない。俺は俺がやるべきことをやる。それでいいじゃないか。

 この職場に移って1ヶ月、未だにどのスイッチが自分のデスク付近を照らす照明のものなのか分からないので、「全灯」のスイッチを押す。白を基調にした事務所は昼間のような明るさになる。

「さてと、」

 デスクのPCを立ち上げながら、呟き、書類受けを覗く。

「あちゃ~。結構あるな。さーていっちょ頑張るか。」

 回覧はともかく決裁書類が結構ある。広いオフィスに俺だけ、独りになるといつもは口にしない独り言が出てくるのは寂しさからなのか、自分を励ましているのか、いや、どちらかというと子供の頃独りで留守番している時と変わらない感情かな。不安と寂しさと怖さ。まあ今に始まったことじゃないがちょっと情けない。

 いい歳して誰かに見られたら恥ずかしい。そう思う悪い癖だ。

-どうせ誰も来ないからいいか。-

 その方が仕事がはかどる気もするし。今日に限ってよしとしよう。

 メールはモバイルでチェック済みだ。決済に関するメールだけフラグを立てておいたからデスクのPCでメールソフトを起動して確認する。モバイルでもオフィスでも中身が同期している。細かく言えば、サーバーの中の俺の保存場所に、どちらのPCからもアクセスできるってことだが、

「とにかく便利になったもんだ。」

 俺は呟きながら仕事を続けた。

 

 あと1件。ふと見上げた時計の針が21時を指そうとしていた。1時間も掛らずに終われそうだ。

 思ったより仕事が早く片付きそうでテンションが上がる。思い出したように腹も減って来た。

「よっしゃあ。あとひとつだ。頑張れオッサン」

 自分を励ます。なんて健気なオッサンなんだ。俺って。

「はい。オッサン。」

 急に背後で女の声がした。

 平手で思い切り背中を叩かれたように俺の両肩が一瞬で上下する。

 驚いたってもんじゃない。

「そんなにビックリしなくてもいいじゃないですかぁ。」

 聞き覚えのある声に、今度は別の感情が湧いてきた。

 あ、いや、あの、そういう感情じゃなくて、純粋な怒り。情けない声まで出してしまって、ダンディー丸潰れだ。

「そりゃあ、ビックリするだろっ。だいたいなんでこんな時間に職場に来るんだ。忘れ物か?」

 いつの間にか立ち上がる俺。苛立ちを吐く俺の心の奥を覗き込むように見上げる大きな瞳。

 公子だった。モスグリーンの大きなトートバッグを提げたハムちゃんが一拍置いてへの字口をする。

「ひどい。だって、営業の資料を貸してくれって言ったのは柿崎さんでしょ。」

 確かにそうだ。

「なにもわざわざこんな時間に。しかも今日は金曜日だぞ。飲みに行ったりとか、イケメンとデートとか。」

 苛立ってしまったことを揉み消すように茶化してみせる。

「しかも、そんなに大きい荷物持って、家出か?」

 それでも固まったままの公子に更にひと言被せる。

「資料、営業の資料。沢山持ってきますから。って言ったじゃないですか。」

 固まったまま、公子の瞳が不満を訴える色に変わる。

 しまった。頼んだのは俺だ。まさかこんなに早く対応してくれるとは。

「ゴメン。俺が頼んだのに、まさかこんなに早く持ってきてくれるなんて思わなかったからさ、しかもこんな時間だからさ。」

 申し訳なさが俺の口数を多くする。

「また輝いて下さいね。って言ったじゃないですか、忘れちゃうほどインパクトなかったですかぁ?残念。」

 大きな瞳が俺を試すように爛々とし始める。

 コイツは昔から瞳で表現するヤツだったな、だが、小娘だった頃と破壊力がまるで違う。ということを今更ながら実感する。

 ま、オジサンの勘違い。なーんて無様な、そう、ブザマな結果は見え見えだ。軽く流す。流すんだ。

「それに、通勤ラッシュの時にこんな大きな荷物持ち歩きたくないから、今持ってきたんです。柿崎さんこそ、こんな時間まで大変ですね。」

 わざわざ俺のために、わざわざ、金曜の夜なのに?勘違い云々の前に、もう感謝しかない。

「ありがとう。わざわざゴメンな。」

 コイツは昔から一生懸命だったもんな。そう、相手が俺だからじゃない。誰にでも、何にでも一生懸命。だから開発でもハムちゃんと言われて可愛がられてたんだ。いくら男だらけの開発部隊でも単に可愛いだけだったらそこまでの人気は出ない。

「で、あとひとつなんですよね?」

「えっ、何が?」

「仕事、「あとひとつだ。頑張れオッサン」って言ってたじゃないですか。」

 あ、やっぱ聞かれてたんだ、あの独り言。もうどうしようもないな。

「あちゃー。聞いてたのか。そう、あとひとつ。だ。」

「じゃあ、やっちゃって下さい。あたし、待ってますから。」

 待ってるって、な、何を?だから勘違いは無様だからな。おれはただのオッサンだ。ハムちゃんも歳は取ったが、ひと回り近く歳下。まだ30代だ。俺は50に首を突っ込んでるオッサンだ。

「いーよ、いーよ。早く帰りなよ。」

 この頬の感覚、もしかしたら俺は顔を赤らめているのかもしれない。いかん。無様だ。

「えええっ、帰らせちゃうんですか?柿崎さんのために、健気な部下が資料を持ってきたのに。」

 うーん、確かに素っ気ない。というかケチだ。ということは。

「高いですよ。って言ったじゃないですか。」

 さらに公子が言葉を被せてくる。

 そういうことか、でもこんなに押しが強い娘だったかな。営業だからか?まあいい。確かに、自分のためにこんな時間に来てくれたんだ。飯ぐらい奢らなきゃ男が廃る。

「そうだよな。じゃ、飯でも食いに行くか。あ、お前が「高い」というのは認めんからな。」

 少し主導権を取り戻した振りをして、俺はパソコンに向き直る。背後で公子が近くのデスクから椅子を引き寄せて座るのを感じながら。

 近いな。と感じるのは、勘違いの始まりかもしれない。

 俺は、もう一人の「おめでたい」思考の俺を戒めながら最後の仕事に手を付けた。早く仕事を終わらせたい。という想いと、どの店に連れて行こうか、その後は、という様々な思考回路で俺の頭はフル回転を始めた。


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