第10話 故郷

(帰ってきた。。。)

 愛車ジムニーが常磐線の線路を跨ぐ陸橋を登り切り、軽やかなタービンの高まりを奏で終わる頃、俺の真正面に筑波山の三角形が現れる。厳密にいうと緑色の正三角形を二枚、少しだけずらして重ねたような頂が2つある三角形だ。片方の頂は男体山、もう一方は女体山と呼ばれ、実際は西と東に離れているのだが、この角度から見ると、寄り添ってっ見える。学生の頃から親元を離れていた俺には、この陸橋を渡る度に見える筑波山が故郷に帰ってきたことを実感させてくれる。そして、男体山と女体山を夫婦仲という眼鏡で見るようになったのは子育てがひと段落付いた頃からだった。そう、見る角度によって距離が異なっているように見える。それは男女として、家族として、夫婦として。。。様々な角度(立場)で夫婦の距離感が違っているように感じるから。。。いつも隣同士にいるのにな。。。

「何言ってんだ。俺は。」

 稜線に沈んでいく夕陽のせいでこんなオッサンでも頭がセンチになってるらしい。。。

 幸い、呟く俺の言葉を受け止める者はだれもいない。愛車だけだ。

 子供が高校に進んでからは、めっきり実家に行かなくなった。行くとしても殆ど俺一人。家族で訪れるのは盆と正月ぐらいだ。それに、あの夜中の騒ぎからまともに家族とは話をしていない。このまま来月の単身赴任を迎えるんだろうな。

 鉄道の駅は無く、渋滞が無ければ車で1時間ちょっとで行ける田舎町。俺は長男として、いずれはここから通うことを両親に約束して生きてきた。故に学校も仕事も茨城県内に決めてきた。そういえば初めて「彼女が出来た。」と親に打ち明けた時「長女か?」と即聞かれたっけな。。。それ以来、長女という立場の女性には恋愛感情を抱かないように「長女」と知った時点で自分にブレーキを掛けるようになってたな。。。何もかも「長男だから」に合わせてきた。

 それも少しだけ延期になった。その代り東京から帰ってきたら実家の隣に家を建てる。そう宣言しよう。

 今夜は実家に泊まりだ。何十年ぶりだろう。。。

 「東京に転勤になった」と親父に電話をした時に「丁度いい機会だから、弟も呼んでこれからの話をしよう。みんなで酒でも飲んで泊まっていくといい。」電話口の親父の声は長男の転勤の事で沈むと思っていたら耳に入ってきたのは案外軽快な声だった。久しぶりに声を聞いたからかもしれない。

 

「今夜は、「じゅうじゅう」にしよう。」

両親そして2人の弟と久々の挨拶を交わし、着替えの類を詰め込んだリュックを部屋の隅に置いたところで親父が「どや顔」で言う。

 俺も弟達も歳に似合わない無邪気な歓声を上げる。

 「じゅうじゅう」は、ホットプレートの事だ。小学生の頃、初めて買ったホットプレート。その緑色の大きな蓋に貼ってあったシールの「じゅうじゅう」という雲のような愛らしい文字が呼び名として定着した。

 男3人兄弟の腹を満たすにはかなりの食材が要る。困ったことに御馳走であるほど腹の容量が上がる俺達、裕福でなかった我が家では「じゅうじゅう」は滅多にありつけない「御馳走」だった。

 だから今だに「じゅうじゅう」と聞くとテンションが上がる。

 冬はこたつになる大きな長方形のテーブルを中心に置いた相変わらずのリビング。その窓側の短い辺、上座のような場所が昔からの俺の場所。弟たちは長辺側に2人並んで坐っている。お互いの家族を連れて来ないで集まると自然と昔の配置に座るのも相変わらずだ。

「話はそんなに長くならないから、まずは話をしてしちゃおう。さ、お母さんも座って。」

 孫がいない時は、自然と親父はお袋を「お母さん」と呼ぶ。昔の呼び方に自然と切り替わるのはいつもの事だ。俺達だって親父お袋を「おじいちゃん、おばあちゃん」ではなく「お父さん、お母さん」と呼ぶ。気になるのは、いつになく砕けた言葉遣いと、それでいてその声音が堅いことだ。

「お父さんもお母さんももう70になる」

 相応の年輪を顔に刻んだ息子達一人ひとりの目を確かめるようにして語りだした親父。その眼の奥には、あどけない頃の俺達の面影に語りかけるそんな懐かしさが宿る。

「今日話をしたいと思ったのは、これからこの家をどうするのかってのも含めた、家系の話のことなんだ。」

 何だろう、改めて弟達にキチンと話すということか?昔から決まっている事だけど、確かに「こう決めた」という宣言のようなものが必要かもしれない。それに弟達にもそれぞれ意見があるかもしれないしな。

 弟達の目が俺と親父の間を行ったり来たり泳いでいる。変な奴らだ。

「これからの事をいろいろ考えた結果、この家はヨシに継いでもらうことにする。。。その方がお互い無理がないと思うんだ。。。」

 語尾を濁す父の声に昔の威厳は無い。

「えっ?」

 驚いた俺は返す言葉に詰まる。

(長男だから我慢しなくちゃ)

(長男だから手本にならなきゃ)

(長男だから失敗できない)

(長男だから頑張らなきゃ)

(長男だから仕方ない)

「長男だから」と言われ続け、期待に応えるために自分自身に掛けてきた呪文の言葉が心の奥底から溢れ出し、無念となって隅々まで広がっていく。そして一気に弾けた。頭の中が真っ白になる。

「スッキリした。」

思わず。。。誰にともなく呟いていた。

じわじわと真っ白の意味が満ちてくる。

何やら親父が一生懸命弁解めいたことを言っているが、耳には入ってこない。もうそんなことはどうでもいい。

(これからは自由だ。なんでも描ける真っ白なキャンバス)

「それじゃ、じゅうじゅうやろうか。お母さん。持って来てもらえるか?」

 時間が止まったかのような俺の真っ白が親父の一言で色を取り戻す。

 目の前には、どこか懐かしい優しさを浮かべた親父の顔と弟たちの笑顔が並ぶ。

 最後まで目を伏せていたお袋が立ち上がり台所へ向かうと、自然と俺も弟も手伝いに向かう。家事を自然に手伝うのは男三兄弟、女っ気のない共働き家庭に育った兄弟ならではの事なのかもしれない。米研ぎ、皿洗い、洗濯物の取り込みに洗濯たたみ、風呂掃除、、、休みの日には洗濯干しもやったっけ。。。褒められることは殆どなかったが、言われなくてもやっておかなければ雷が落ちる。特に長男の責任は重かった。

 ビールを酌み交わして昔の思い出を語らう。今では笑えることだらけだ。

 ほろ酔い気分になり場が盛り上がるにつれて「長男だから」と苦労してきた俺の愚痴が出る。「長男のくせに。と、よく怒られた」という些細なことを笑い飛ばすことに始まり「初めての彼女が長女だというのがバレて反対されたこと」で笑いは微妙になった。「県内企業への就職に有利な県内の大学へ進んだこと」「県外へ行く心配のない大手の子会社を敢えて選んだこと」あたりの話で笑えなくなり、「茨城にはない飛行機関係の仕事にも行けたのに。。。勉強は頑張ってきたにに」と呟いた時には俺の目頭は熱くなっていた。最後に「隣の土地を買わなければ良かった。」と恨み節を吐いて我に返った俺は、

「東京に行くことになっちまったし。ま、結果オーライだな。」

 最後に盛大に笑ってその場を雰囲気をリセットした。

(そう、気にしても仕方がない。過ぎたことだ。)

 取り返せない後悔は数多あるが、将来は楽になる。買ってしまった土地はどうにもならないがこれからは自分たちのことだけ考えればいいのだから。。。

 いちばん大変なのはヨシとその奥さんだ。

(それでも俺はきっと親父を許すことができないだろう。。。返せ、俺の人生。。。)

 でも今夜だけは、楽しもう、、、もう二度とないだろう親子水入らずの「じゅうじゅう」を。。。


「広明には申し訳ないことをしちゃったね。これからも兄弟で助け合って欲しい。」

 片付けを手伝っているときの母の言葉にやっと俺の魂は救われた。涙がこぼれそうになる。いい歳のオッサンになっても子供は子供なんだな。。。そして母親は母親なんだな。。。と思った。


 翌朝、元々子供部屋だった2階の大部屋で目を覚ました。正確に言えば、親父がシルバー人材の仕事出掛けたのを見計らって布団を出た。

 この12畳の部屋で兄弟3人で寝起きしていた。年の離れた弟達が寝た後にスタンドの明かりだけで猛勉強していた俺は、成績が上がる反面視力が落ちた。パイロットになりたかった俺にとって中学3年生で眼鏡が必須になった時点でその夢は「不可能」になった。大空を目指して猛勉強した俺は、結果として大事な視力を削って成績を上げていたのだ。中学2年生の時に建てたこの家。「家を建てるなら勉強部屋が欲しい」という俺の願いは、「子供は兄弟仲良く同じ部屋にいるべきだ。」という親父に一蹴された。

(やっぱり許せない。何もかも。。。)

ぶり返してくる暗い気持ちをなだめるように秒を刻む時計の音に気付く

 壁の時計はあの頃と同じ場所から俺を見下ろしていた。あの頃と同じように時を知らせてくれている。東側の部屋、強い朝の日差しまで何もかも愛おしい。先々は俺たち夫婦の寝室にと考えていた部屋

 もう来ることはないだろうこの部屋に別れを告げて身支度をした。

 そしてお袋の作ってくれた朝飯、二度とないと思うと食欲がなくてもお代わりした。

(何もかもが愛おしい。そしてその何もかもが二度とない。)


「もう帰るのかい?今日は仕事休みなんだろう?ゆっくりしていきなよ。」

 引き留めるお袋に適当な理由をつけて言葉を返し、朝飯が済んだ俺は何もかも振り切る思いで愛車に乗り込んだ。いつもなら足元に置く手土産の漬物を助手席に置いた。

「体、大事にね。」

 見送るお袋に言葉を掛ける。これも最後かもしれない。もう。。。ここへは来たくない。。。

 ミラーに映るお袋は、珍しくいつまでも手を振り続けていた。

「ありがとう。」

 ミラーの中でどんどん小さくなっていくお袋に俺は叫んでいた。

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