第9話 家族

 短くため息をついた俺はリビングとダイニングを仕切る引き戸をゆっくりと静かに開く。

 芳ばしさが鼻腔をくすぐる。俺の大好きな甘辛でいてほのかにフルーティーな香り。

「お、今夜は酢鶏だな。」

 4人家族にしては若干小振りのダイニングテーブル。3DKとはいってもアパートのダイニングにはこの程度が限界だ。子供達が大きくなり、手狭になってきたと感じ始めた頃には家族揃って食事をすることが少なくなった。さらに時は過ぎ、大学生になった息子は一人暮らしで家には滅多に帰らない。

「ん?そもそも俺がいなかったんじゃないか。。。」

 残業三昧の俺は、この食卓でいったいどれほど一家団欒の食事が出来たのだろうか。。。このテーブルで食事をした数だけ大きくなった子供達の成長にどれだけ接することが出来たのだろうか。。。

 そして妻との会話はどうだっただろうか。。。

「人生のバランス」

 最近気になりだしたこの言葉。すでに手遅れなのは俺がいちばんよく知っている。

 ここ数年耳にするようになった「ワークライフバランス」。。。この言葉から連想して気になりだしたが、

「結局は、そういう時代じゃなかった。」

ということだ。

 俺が働かなければ誰が家族を養うのか?

 そして、俺が能力を発揮できるのがこの仕事だ。ただそれだけだ。子会社とはいえ、給料だって悪くはない。その辺は家族も分かってくれているはずだ。

 それも来月から変わる。東京に出れば家族との接点はもっと薄くなる、しかも仕事は営業だ。

 何のために。。。

 俺は何のためにここまで頑張ってきたんだ。

「何が「ワークライフバランス」だ。ワークもライフもボロボロじゃねーか。」

 腕を振り上げた視界の中心に純白の深皿が映った。几帳面に張られたラップの中には野菜の彩も鮮やかな酢鶏が俺を見上げる。「酢豚が好物なのは知ってるけど、お父さんコレステロール高いから普段は鶏で我慢してね。衣は付いてるけど油で揚げてないから安心して食べてね。」妻がそう言っていたのはいつのことだったろうか。。。「吹雪」に夢中になる前だったんだろうな。。。

 叩き付けそうになった拳を静かにテーブルに着地させる。

 大きく深呼吸をした俺は、両手で包み込むように酢鶏を電子レンジへ運んだ。


 電子レンジが温めてくれている間に手早くご飯をよそう。どんなに遅く帰っても晩飯はしっかりと喰う。体に悪い事は百も承知だ。だが、それを止めてしまったら、本当に「寝に帰るだけ」になってしまう。それこそ何のために生きているのか分からなくなってしまう。もう何十年も続けてきた言い訳じみた習慣だ。

 寝室で手早く着替えを済ませたついでにPETボトルのウィスキーをダイニングに運ぶ。2.7リットル入りの徳用は、こないだ買ったばかりなのにもう半分しかない。晩飯を食べながら飲んで、食後に風呂に入るという習慣は、晩飯後もだらだら飲み続ける悪習に進化した。仕事の忙しさへのストレスなんていうのはこの業界にいれば慣れっこだし、職場を見渡せば似たような境遇の人間だらけ、大したことではない。

 開発スケジュール通りに進むかどうか、目指した性能が発揮できるか、コストはどうか。。。目標は明確だ。だから達成感もあるし、苦労がカタチになる。世の役に立つ、という遣り甲斐は、ストレスとある程度バーターできる関係にある。だが、その達成感と遣り甲斐が大きいほど、ふと立ち止まり自分が子会社の人間であることを実感するにつけ、彼らとは違う負の境遇への苛立ちは倍加する。「搾取される側の人間はいつになっても100%の収穫は得られないのである。」それがこの社会の現実だ。植民地時代から、いや、奴隷制の時代から変わっていない案外単純な仕組みだ。抜け出す方法がいくらでもあるのが現代社会の良いところだが、転職の時期はとうに逃してしまった。。。そう負け惜しみのような回復のしようがないストレス。ま、東京に転勤したら子会社。。。ウチの会社の社員として働くわけだから、この手のストレスは無くなるだろう。もう搾っても何も出てこなくなった、そういうことか。。。結局骨の髄まで搾取されたエンジニアと言ったところだな、、、これからはストレスというよりは後悔の酒になるかもな。。。

 そしてプライベートのストレス、「プライベートの時間がない。」というストレスだけなら会社のせい、世の中のせい、と嘆くことはできるだろう。しかし夫婦の性の問題はどうにもならない。それは男と女1対1の関係、互いに相手を異性として意識して初めて成り立つ問題だ。妻に「家族」とくくられている俺は、その土俵にも立てないでいる。

「カミさんは「女」じゃなくて「家族」だから、いいんだよ。」

 俺達が新婚生活真っただ中の頃、同僚の結婚式の二次会で新婦の友人を口説きまくっていた30代半ばの先輩の言葉だった。

「あの先輩、こんな事言ってたんだぜ、酷いよな。」

「そうだよね、奥さん可哀想。私がオバサンになってもカッキーはそんなこと言わないでね。」

「当たり前だろ。」

俺の土産話に妻はそう言って俺に釘を刺してたっけ、あれから20年か。。。子供が出来て、俺の呼び名は「カッキー」から「お父さん」へ変わった。変わったのは呼び名だけだと思ってた。


 クソ、これじゃあの先輩と逆じゃんかよ。


 空になったグラスを音を立ててテーブルに置いた。


いかん、また深酒してしまった。

皿に残ったあんかけがすっかり固まっていた。


「イテテテ、」

引き戸越しにリビングから呻く声が聞こえた。妻を起こしてしまったらしい。引き戸のガラスの凸凹模様が妻の輪郭を滲ませて映す。


「おかえり。お疲れさま。」

 引き戸を開けた妻の笑顔、瞳だけ笑っていないのは毎晩のことだ。そう、仕事から帰って来た俺に向ける妻の眼差しはいつも不安の色に見える。それとも不満だろうか。。。

 それとも毎晩煽るように飲む酒への抗議なのだろうか、、、

 冗談じゃない。これがなかったら俺はストレスで鬱になっちまう。そもそも、酒は小遣いで買っている。文句を言われる筋合いなど。。。無い。。。そもそもストレスの一因は。。。

 唾を飲み込んで沸騰しそうになる想いを腹に仕舞う。

「お、ただいま。夕飯御馳走さま。」

 それだけ言うと、俺はそそくさと流し台に皿を運んだ。


 時計の針は1時半を過ぎていた。

「今日も遅かったのね。」という言葉はもう何年も聞いていないし、俺も「遅くなった。」とは言わなくなった。お互い慣れてしまったんだろう。。。もし起きてくれば妻は夕飯を温め直してテーブルに並べてくれる。そして向かいに座り、俺が遅すぎる夕飯を食べるのを眺めている。他愛もない今日の出来事を話しながら、あの眼差し俺に向けて。。。これが普通の生活だ。

 いつもと違うこと、それは、来月からこの生活ともおさらばだという会話のネタがある事。

「ごめんね、起きれなくて。。。」

 溜息混じりに言いながら俺の向かい側に座る。

「いいんだ。」

 俺は、新たに作った水割りを喉に流しこむ、食道まで沁みるように痺れる感覚。少し濃かったか。。。これが何杯目かも忘れるほど飲んだが、今日はあまり酔えない。

「実は今日、内示が出た。」

 俺は椅子に座りなおして背筋を伸ばした。これからかしこまった話をする。というポーズだ。

「えっ?何?」

 こんな夜中に何の話が始まるのか見当がつかないらしい。

 ずっと開発畑で進んできた俺、職場の名前は時代の流れに応じて数回変わったが、その都度看板と名刺の部署名が変わっただけで異動をしたことはなかった。「内示」と急に言われてもピンとこないのは当然かもしれない。

「異動だよ。人事異動。職場が変わるんだ。転勤しなきゃならない。」

 俺は思いつくかぎりの言葉を並べた。

「えっ、なんで?今まで転勤なんてなかったじゃない。」

「いらなくなった。ってことだろうよ。しかも営業だ。」

 俺の心がささくれ立ってきた。

 口元に手を運んだ妻の指に、いつものしなやかさがない。硬直したように小刻みに震える。

「そんな。。。あれだけ昼も夜もなく。。。お父さんをこき使っておいて。。。今さら。。。」

 今にも泣きだしそうに目を潤ませる妻の目がまっすぐに俺を見る。「お父さん」か。。。泣きたいのは俺の方だ。でも勤務地を聞いたらその表情は変わるぜ。東京だ。俺は単身赴任になる。嬉しいだろ。。。

「どこへ転勤になるの?」

「東京だ。」

 ほら、喜べよ。

「えっ、東京!それじゃあ。。。」

「そう単身赴任だな。」

 喜べってば。

「そんな。。。この歳になって東京だなんて。。。しかも単身赴任なんて、これからますます健康に気をつけなきゃならないのに。。。ご飯は?」

 なんで泣き出すんだ。

「ああ、さっき食べ終わっただろ。御馳走さまって言っただろ。」

 泣き崩れる妻に、わざとおどけて見せた。それにしてもなんでお前が泣くんだ。

「そうじゃなくて、毎日のご飯はどうするの?」

「朝夕は、寮の食堂で食えるらしい。昼は適当に食うから大丈夫だ。」

「適当に。。。って。」

 泣き止むどころかしゃくり上げ始まった妻に、俺の中で何かが弾けた。

「なんでお前が泣くんだ?喜べよ。単身赴任だぜ。くだらねぇオッサンの顔見なくていいんだぜ。世話もしなくていい。飯も作らなくていいんだぞ。」

「えっ、何、何言ってるの?あたし、あなたの体のこと心配して。」

「ああ、そうだよな。働き蜂が働けなくなったら困るもんな。」

「なんでそんな言い方するのよ。あたしは、ただ、ただ、あなたに長生きしてほしいだけなのに。」

 よく言うよ。俺なんかどうでもいいくせに。

 あの待ち受け画面で決め顔の男の顔が脳裏に広がる。悲しいことにそれは俺の顔じゃなかった。

 俺は知ってるぞ、お前のガラケーの待ち受け画面が吹雪のアイツの写真になってるってことを。。。

 あれはいつのことだったか、お前がいない時に鳴り出した携帯のアラームを俺が仕方なく止めた時、その顔が目に入った。我ながらショックだったよ。あの頃の俺の待ち受けは、お前の写真だったのにな。。。

「吹雪のポスターでも部屋中に貼っておけばいいさ。それとも、余った時間でイケメンに溺れるのもいいかもな。好きにすればいい。どうせ俺」

 言い終わらぬうちに顔に横から衝撃が走った。視界が急に壁の白でいっぱいになった。

 平手打ちされた。

 と思った時には、リビングのドアは激しい音をたてて閉められ、妻の姿はなかった。

 玄関を力任せに開けたのだろう、部屋中の扉が風圧で音を立てる。

 スッキリした。ずっと腹の底に溜まり続けていたヘドロのような不快。それを一気に吐き出したような気がする。

 追わなければ、なんて思いもしなかった。俺は悪くない。

 ぼんやりとグラスを口に運ぶ。濃いと思っていた酒は、味も感じなかった。

「お父さんの馬鹿。」

 驚いて振り向くと、いつの間にか娘の美咲がリビングに立っていた。

「あ、ゴメン、起こしちゃったな。しかし親に向かって「馬鹿」はないだろ。」

「馬鹿!」

「おい、いい加減にしろよ。」

「馬鹿だから馬鹿って言ってるのよ!お母さんのこと何も知らないくせに。」

 短大生にもなると、口が達者になるもんだな。達者なのはいいが、口が悪いのはいただけない。

「聞いてたのか?」

「聞きたくなくても聞こえてくるでしょ。」

「何で引き止めないの?」

 いつからそんな目で人を睨むようになったのか。。。

「お父さんは悪くない。」

「なに子供みたいなこと言ってるのよ。あんな酷いこと言っておいて、何よ。。。お母さんがいつもどんな思いでお父さんを待っているのか知りもしないで、、、それにご飯だって、、、こんな手間のかかる料理作って、知ってる?この酢鶏、油使ってないのよ、ニンジンやピーマン、玉ネギだって炒めてない。茹でてるの、お父さんが酢豚大好きだから少しでもそれっぽいものを食べさせたいって、だって、、、だって、、、毎晩夜中に本物の酢豚食べさせてたらお父さん死んじゃうからって。。。お弁当だって、毎朝あんなに早起きして作ってるのは何故?全部手作りだからよ。。。それなのに、毎晩酔っぱらうほど沢山お酒飲んで、、、せっかくお母さんが健康のためって頑張ってるのに台無しじゃないの。。。

何でリビングで居眠りしてるか知ってる?。。。少しでもお父さんと、、、お父さんとお話がしたいからって、、、」 娘まで泣き出してしまった。

 確かに美咲の言う通りかもしれない。

 だが、、、

 じゃあ、何で吹雪のアイツなんだ?ましてや何でセックスレスなんだ。とはとても娘には言えなかった。やっぱり俺は「家族」という位置づけのみに甘んじるしかないのかもしれない。

「家族」という役割は大切だ。だが、「家族」であって「父親」であって「夫」であって、なぜ「男」という役割を認めてくれなくなったのか、、、

 まあいいさ、俺は我慢する。娘のために、家族のために。。。

「ゴメンな。」

 もう19歳か。。。大人の入り口にいる女性でもある娘に気の利いた言葉を持ち合わせていない俺は、ただただ美咲に詫びる言葉しか掛けられなかった。

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