第3話 転職
俺だって、30代半ばには転職を考えたこともあった。あの時転職していたら今頃の俺はどうなっていただろうか。。。
今から10年以上前の話だが。。。技術者の転職は、そんなに難しくない時代だった。そりゃあそうだ。他の企業が金と時間を掛けて大事に育ててきた人材をタダで横取りできるのだから。しかも本人自らが選んで来るのだから企業倫理も傷つかない。ただでさえ俺たちは就職氷河期と言われ、まともな職にありつけた者が少ない世代だった。運の悪い奴はやっと就職できたのに不景気で会社が潰れた奴もいる。運良く働き続けることができても不景気の煽りでコスト削減の嵐。俺のように開発をしていた人間は、開発競争だ。不景気な時ほど他社に先行して新製品で差を付けるしかない。当然新しくても安く作れなければ意味がない。それに加えて既存製品のコスト削減だ。バブル時代の「バブリーな設計」の無駄を省くことを、新規開発と並行して行わなければならなかった。今だに作っているベストセラーの製品も安く作らなければ、あっという間に大赤字になるし、なによりも製品としての競争力が無くなる。コスト削減という言葉はシンプルだが、品質を下げるわけにはいかない。安い部品を使っていても同等の性能と信頼性を保っていることを何度も性能試験をして証明しなければならない。開発に原価低減設計、それらに付随する業務、仕事をあげたらキリがない。
俺たちはあらゆる意味でバブルを謳歌した連中のツケを払わされた世代だったんだ。そんな俺たちだからこそ、運良くまともな職を続けられた人間は他の世代より少ない。転職ではそれほど不利では無いはずだった。
それに転職も手軽になっていた。忙しくても転職活動ができるような世の中になっていた。あの当時、スマートホンこそ無かったが各家庭にインターネットが普及し、あらゆる情報や、やりとりがインターネットを通して行えるようになってきた。我が家も妻の反対を押し切ってつなぎ放題のブロードバンド接続を導入したばかりだった。それまでの電話回線を使ったダイヤルアップ接続は通信していた時間だけ通話料と同じように電話代支払っていたから、手軽さは別格だった。ブロードバンド接続の普及がインターネット社会の普及を急激に後押ししたのだろう。反対していた妻も、あっという間にネットの虜になってしまった。そして俺も導入当初は予期せぬ分野でネットを活用した。転職サイトだ。自分の経歴や希望を登録しておけば、自動的に企業を絞り込んでくれる。脈のある有能な人材なら専属のエージェントがついてくれた。転職サイトもボランティアではできない。多分、良い人材を発掘して送り込めれば企業から報酬があるのだろう。でなければエージェントを無料で付けることはできないだろう。エージェントは、プロフィールの書き方、力説すべきポイントなど、俺に合った転職に関するイロハを教えてくれた。驚くべきことに残業で帰りが遅くなった深夜でも構うことなく電話でやりとりをしてくれた。
あの日、俺は書類選考が通った会社のうちの1社を訪れていた。その会社はエージェントイチオシの会社で、中部地方の中心都市に工場群を構え、戦後の苦難を乗り越えて高度経済成長と共に世界に君臨する自動車メーカーに成長し、その座を揺るぎないものにしている。その規模に相応しく巨大な玄関ロビー、その大理石の壁はガラス張りの正面からの豊富な光を受けて輝き、天井はわざとらしいほどに高かった。
神々しいくらいに見える玄関ロビーに圧倒され、観光客のように首が左右に動こうとするのを「物見遊山に来たんじゃない。」と律した。玄関ロビーぐらいでビビっていては面接にならない。
足早にロビーを横切ると、受け付けカウンターに来意を告げた。
「どうして転職しようとお考えになったんですか?」
面接の終盤、自信満々に生きてきたことを体言しているような風貌に笑顔を浮かべる50絡みの浅黒い顔の男は、探るような、あるいは試すような目を俺に向けている。
やっぱり来たか。。。
苦言を顔に出さないように飲み込む。どの会社の面接でも必ず聞かれる事だ。心の中では当然のことだと理解はしている。
底辺の給与から始まる新規採用社員と違って中途採用社員にはそれなりの給与を支払う。それどころか、いくら本人が転職を希望して来ているとはいえ、今までの会社を捨てて自分の会社に来てもらうためには、より良い条件を提示しなければならない。せっかく高い金を払って採用してもまた転職されてはたまらないのだ。だから理由を話せばそれ以上聞かれることはなかった。なぜなら、転職の最大の理由は、子会社から親会社の開発部署への派遣。そのジレンマだ。当然俺は子会社を除外して転職活動しているのだから相手の面接官にとっては感心の外側となる。「それは御苦労なさいましたね。」その程度で終わりだ。
事前に書類選考にパスしているから面接の場にいるのだが、企業にとっては、
「弊社で、あなたの経験や能力をどのように活用できるとお考えですか?」
がいちばん重要な関心事であり、そのことこそ本人の口から本人の言葉で直接聞きたいものである。それで気に入れば
「他に御検討中の企業はございますか?」
となる。ここまでくれば主導権はこっちが貰ったも同然だ。売り手市場と買い手市場が逆転する快感の瞬間だ。
俺は、日滝製作所の子会社である、みなとエンジニアリングに入社以来、親会社の開発部で働いてきたことを話した。そして派遣扱いとなってからのさらなる不遇。親会社社員と同じ仕事していながらも広がる格差、そう、将来を悲観したからこそ、転職を決意した。
もう子会社には入らない。
それで話は終わりだ。さあ、採るのか採らないのか。。。
「派遣とは言っても、今問題になっている非正規の派遣社員の方とは次元の違う話ですよね。」
面接官の目は挑戦的な色を帯びてきた。警察に行ったことはないが、きっと取り調べというのはこんな感じなのだろう。
思いがけずに掘り下げられたことで、有効な言葉が見つからず歯切れの悪い返事しかできない。
「そもそも、そういったことは子会社に入社した時点で分かっていたことですよね。あなたは自分で選んで今の会社に入ったんでしょ。」
トーンダウンした俺を畳み掛けるように捲し立てる。
頭の中に、みなとエンジニアリングのパンフレットが甦る。
ー給与、待遇は日滝製作所と同じです。ー
大学卒の初任給に添えられたコメントを信じて今の会社に入った。長男だったから同じ県内にあるのも魅力だった。大学の就職担当だった俺の研究室の教授は、子会社のみなとエンジニアリングではなく、日滝にも入ることを勧めてきた。不思議がる教授に、
長男だから県外への転勤がない会社の方がいい。
と言って日滝の枠は友人に譲った。君は優秀なのに勿体ない。これからの人間が、そんな狭い了見ではダメだ。と説教を受けたが、気持ちは変わらなかった。それから数日間、教授は勿体ないが口癖のようになっていた。今にして思えば愚かなことだった。なぜなら、今、転職先として選んでいる会社の条件とは全く逆なのだから。。。だが、当時学生だった俺がそこまで考えられただろうか。。。
怒りのような、嘆きのような感情が胃を鷲掴みにしているように感じ、荒れそうになる呼吸を深呼吸で押さえたいところだが、溜め息だと思われたら最悪だ。気付かれぬように小さく息をして呼吸を整える。
面接官の目はもはや笑っていなかった。
「最初から親会社の日滝さんに入れば良かったじゃないですか?」
面接官は、袖を捲り上げた太い肘をテーブルについて顎の前で両手を組む。
日滝に入れなかったから子会社に入った。という答えを期待しているなら大間違いだ。
俺は日滝へのカードを自ら捨てた男だ。
「学生の時にはそんなことは分かりませんでした。だからここにいるんですっ。」
俺は顔を伏せて言った。今の表情を見られたら即不採用だろう。
なんであんたにそこまで言われなきゃならないんだ。
という言葉は何とか飲み込んだ。
だが、俺の中の何かは決壊したのは隠しようがなかった。俺は、こともあろうに面接官に向かって声を荒げてしまったのだ。
終わったな。。。
静かに顔を上げた俺は驚いた。面接官が穏やかな笑顔を浮かべている。それは同情するわけでも、
「私からは以上になりますが、他に何かありますか?」
面接官の声音まで変わっているように感じるから不思議だ。
「いえ、お忙しいところありがとうございました。」
立ち上がって深々と頭を下げた俺にワンテンポ遅れて立ち上がった面接官は軽く頭を下げると手のひらで出口を示した。
「頑張って」
一瞬何を言われたのか理解できなかった俺は、我が耳を疑った。だが、目はその口の動きを読み取っていた。久々に心の底から暖かくなった気がした。転職活動をしていて、励まされたのは初めてだった。いや、普通こんな言葉は掛けてこないだろう。
俺は返す言葉も見つからず、もう一度頭を深く下げた。なぜか目頭が熱くなった。
しかし、何を「頑張って」というなのだろう。。。<転職活動か>それとも<一緒に自動車メーカーで>ということなのか、、、それとも、、、
<今の会社で>頑張れ
ということなのだろうか。。。
帰りの新幹線の中で俺の思考は堂々巡りを繰り返した。
<今の会社で>か、、、何度目かの堂々巡りする思考を止めたのは、そんな風に聞こえてしまった自分への苦笑だった。
転職したくて来た人間に面接官が言う筈のない台詞を思い付く俺はどうかしている。なぜだろう。。。転職活動がリアルになるにつれて脳裏に浮かぶ同僚の面々のせいか。。。
上司や部下に親会社である日滝製作所の人間がいて、仕事の内容も責任も立場も同じ、名刺も名札も同じ、そして何よりも自分が子会社の人間であることを感じさせない同じ雰囲気。仕事も職場の仲間も好きだった。。。
だが、どうしても同じではないことを実感するときが必ずあった。それは、ボーナスの時や、昇進の時だった。それでも<子会社だから仕方がない>と、立場をわきまえてはいた。しかし、開発1課が請け負い扱いではなく派遣扱いになってから、みなとエンジニアリング内でも露骨に請け負い部署との間に昇進の格差が現れた。折しも「成果主義」が評価方法として導入されたばかりのことだった。期の終わりにA3サイズの評価シートに業務の計画、コスト目標、そしてそれらに対する達成度を記入してAからEの5段階で自己評価をして上司と面談を行いながら最終評価をしていく評価方法だ。業務を記入する欄は3つあった。
<3つじゃ欄が足りない。>
当時の俺は、製品の開発から製品化までの工程を検討し、その管理を行いながら設計、試作手配と設計手直し、試験計画と設計手直し、量産化設計、コスト管理とそれに付帯する各種文書の作成も行う。そんな開発を数件抱えているのが普通だ。さらに現行品のコストダウン設計が並行する。これもただ安い部品を探して採用すればいいというものではない。各種試験を行い、信頼性や性能が低下しないことを証明しなければならない。実際に試験し、判定をするのは品質保証を行う品証グループだが、どのような試験をどういう風に行うか、判定はどうするかといったことは全て開発設計が行う。必然的に会議や、現場打ち合わせ、試験立ち会いが昼間に集中するから、メインな筈の設計や文書作成は残業時間にやるしかない。そんな忙しい日々だったことが<成果なら請け負い職場には負けない>という自負を強くした。みなとエンジニアリングからの派遣社員はみんなそう思っていた。他の請負部署は不利になり、モチベーションが下がることを心配した者も少なくなかった。
だが、結果は違っていた。俺と同じく日滝の開発に派遣されていた開発1課の課長は、面談中にいちいち納得しながら俺の自己評価よりも高い評価を付けてくれていたが、設計部長にはことごとく評価を下げられた。と課長は嘆いていた。それでも1年は我慢した。
<最初のうちは混乱もあるだろう。。。>
誰もが堪えた。来年こそは大丈夫だろう
だが、2年目も変化はなかった。昇進する者が誰もいなかったことが我慢から不満へ、そして疑問へ変わった。
その頃まことしやかに広まった噂が設計部長の「開発は
怒りは、真剣に転職を考え始めていた俺達の背中を強く押した。それでも俺は慎重なほうだった。あの頃、俺には妻と幼稚園に通う息子と娘がいた。噂からほどなくして先輩たちは派手に転職活動を始めていた。
評価制度が変わってから3年目、上期の評価を受け取った後に俺は部長に聞いた。
「評価方式が成果主義に変わってから、開発から評価が上がった人間がいません。私たちは、開発計画もコスト目標も十分に達成しているのですが。何がいけないんでしょうか?」
たまたま空いている会議室の前で擦れ違ったのを好機と捉えた俺は、会議室に「ちょっといいですか?」部長を連れ込んだ。照明もつけない薄暗い会議室で、部長の冨川の表情が不満から薄笑いに変わった。
「だって、お前らはウチの会社に何も貢献してないだろう。お前は、みなとエンジニアリングの社員だろ。」
これ以上どうしろというんだ。
2人きりの会議室、怒りをぶつけることは簡単だったが、それは出来なかった。妻と子供達の顔が脳裏を埋め尽くす。
<開発は穀潰し>その噂を裏付けるような言葉に冨川の薄笑いは、あまりにも薄情で冷酷に見えた。
でも、その言葉で踏ん切りがついた。。。
もう子会社には入らない!
そう誓った俺は、転職活動を開始した。
それは、みなとエンジニアリングに対する当て付けのような気持ちも入っていたのかもしれない。この仕事への未練や開発の同僚への申し訳なさを感じた時は、あの時の冨川の言葉を思い出して迷いを振り払ってきた。
人間必要であればどんなことにもすぐに慣れる。
転職しなければ将来が無い。
そんな思いに慣れてきた俺の心の中からは、いつの間にか迷いの気持ちが消え去り、冨川の言葉を思い返す必要もなくなっていた。
あの面接官の「頑張って」という言葉の意味に再び行き着いた俺は、タイミング良く回ってきた車内販売の女性から缶のウィスキーの水割りを買った。
まだ陽が高いうちに、、、という気兼ねは、缶の水滴をタオルで包みこむように丁寧に拭う30絡みの販売員のしなやかな指先に、なおのこと強まる。
こういうときは男性の販売員の方がいいのにな。。。思う勝手な自分に苦笑したが、そうでもしないと涙が出そうだった。
俺は、どうすればいいんだ。。。あの面接官の最後の笑顔に答えはない。。。
ビールなら気兼ねする必要もないのかもしれないが、今は強い酒が飲みたい気分だった。今は何も考えたくない。
俺は販売員が背中を向けると同時に缶を開け、半分近くまで一気に飲んだ。
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