第13話 22時58分、僕は人を殺した

—————————————————————————



理由もなくかなしかったとききみは愛することを知るのだ

夕ぐれにきて夕ぐれに帰ってゆく人のために

きみは足枷になった運命をにくむのだ

その日のうちに

もし優しさが別の優しさにかわり明日のことが思いしられなかったら

きみは受肉を信じるのだ 恋はいつか

他人の血のなかで浅黄いろの屍衣のように安らかになる

きみは炉辺で死にうるか

その人の肩から世界は膨大な黄昏となって見え

願いにみちた声から

落日はしたたりおちる

行きたまえ

きみはその人のためにおくれ

その人のために全てのものより先にいそぐ

戦われるものがすべてだ

希望からは涙が

肉体からは緊張がつたえられ 君は力のかぎり

救いのない世界から立ち上る


――吉本隆明「定本詩集Ⅳ(1953~1957)」より



—————————————————————————



     13



 蒸し暑く湿った空気が息苦しく、孝義は見知らぬベッドの上で小さな唸り声を上げた。白を基調にした部屋の作りで、周囲は薄いカーテンで仕切られているようだった。

 彼は天井を眺めながら、緩慢に目をこする。

(また、病院か……)

 孝義は、自分が貞野凛に斬られたことをハッキリと覚えていた。頭の隅には、記憶が途切れる直前に感じた、全身を貫くような激しい痛みの記憶がある。少しゆるんだ包帯の間から見える赤い傷跡をなぞり、顔をしかめながらうまく動かない身体を起こすと、寝起きに霞んだ彼の頭は一気に覚醒した。

「……なんだ、これ」

 目に飛び込んできたのは、床一面の血。さらにシーツや周囲を囲むカーテンにも無節操に赤い染みが飛び散っていることに気づき、彼は思わずベッドの上を素早く後ずさった。

「お、おお……おい、青藍? 青藍!?」

 目覚めたばかりの錆声で、彼は叫ぶ。自分が斬られたその時、彼女は近くに居たはずだった。だが、ベッドの周りにも、カーテンの陰にも青藍はおらず、あるのはただ、彼の寝ていた処置室の外へと続く赤い足跡だけだった。


「青藍……!」


 血溜まりとは逆の方向から転げ落ちるようにして、孝義は裸足のまま処置室を駆け出る。

 何が起きた、一体何が起きた。壁に手をつき、ふたつ続く赤い足跡を追いかけて、混乱したまま孝義は走る。


「青藍!」


 彼は叫んだ。続いていた足跡の先に、誰かが倒れている。縋るようにその死体に近づくが、果たしてそれは青藍ではなく、周囲の血溜まりを見れば息のないのは明らかだった。


「青藍!!」


 また叫んだ。廊下の奥からは、金属をかち合わせるような妙な音が聞こえてくる。直後、視線の先、横に伸びた丁字路から飛び出した2つの影が、それぞれ黒い鞭と剣を手に切り結びながら飛び出した。

 窓や壁を時折砕き、切り裂きながら、その影はさらに廊下の奥へと走り去っていく。そのひとりが自分を斬り倒した少女、貞野凛だと半ば気づきながら、

「ちくしょう、なんだよ、何なんだよちくしょう……!」

 と小さくつぶやき、影の飛び出た丁字路に差し掛かった時、初めて彼の足は止まった。


「……犬飼?」

 窓に面さない、明かりの落ちたいっそう暗い廊下の真ん中、その左の壁。そこにもたれるように座りこむ、見覚えのある金髪の男。その隣には泣きそうな表情の青藍がおり、孝義は幽鬼のように力なく、二人に近づいていく。

「志田くん……!」

 青藍は弱々しい声でそう言うと、孝義と真一を不安げに見比べる。真一は肩で息をしていて、痛みに時折顔をしかめながら、目だけを動かして孝義を見上げた。近づいてみると、胸板から股下にかけて、真一の身体は黒く濡れている。

「よぉ……やられたぜ……」

「だ、いじょうぶ、なのか? これ……」

「ああ……傷そのものは、浅ェんだけどよォ……なんせデカく斬られた、もんだから……痛くてしょうがねェ……」

 彼の言葉通り、傷の大きさにしては出血が少ない。しかし、孝義はその傷跡を確かめた時、腹の底から湧き上がる激しい怒りに囚われた。その傷の走り方は、孝義自身の胸に刻まれたそれと、まるで同じだったからだ。

「あの女ッ!!」

「待って志田くん!」

 言葉と同時に走りだそうとする孝義に、青藍は言う。

「貞野凛は違う! 本当の敵じゃない!」

「……はァ?」

「わかったんだ真相が。マスターキー連続殺人事件の犯人と……貞野凛の目的が」

「……どういう意味だよ、僕も犬飼も、あいつに――こんなひどいことになってるんだぞ!! 斬られてんだよ!!」

 胸に巻かれた包帯を鷲掴み、孝義はすでに消えかけている自分の傷を青藍に見せつけた。それは凛が彼らに残した、確固たる敵意の跡。

「だからだよ。彼女は確実にキミたちを殺す力を持ってた」

 だが、青藍はその証拠を前にして、ひるむことなく口を開いた。

「でもそうしなかった。彼女はキミたちと――」

「知るか! 単に殺し損なっただけだろ!」

「違う、よく思い出して! キミたち『本持ち』は人を殺せない! からだ!」

 自分の胸に手を当て、青藍は続ける。

「……だけど、そのんだ」

「――待てよ、居なくなれば、って……そんなもんどうやればいいんだ。お前はどこに居ても僕の居場所がわかるんだろ、逃げようがないじゃないか」

 以前、真一と戦った翌日に、彼は確かにそう聞いた。

「ああ、私達『本』は、自分の持ち主の居場所は常にわかる」

「だったら……どうやって」

 孝義の言葉に、青藍は静かに目を伏せる。

「そうだ、『』ならそう考える。キミとこの間『裏ワザ』について話していた時、んだ」

 青藍がそこまで言ったとき、足元の真一が咳き込み、孝義は思わずしゃがみこむ。


「――『本』を殺しゃ、いいんだ」

「は……?」

 真一がつぶやくように言った言葉に、孝義は総毛立つ。

「見張りを殺しゃあ、見張られなくなる。単純な話だ……」

「……」

 狼狽えながら、孝義はもう一度青藍を見る。痛みを堪えるような表情をして、自分を見下ろす彼女を。どう見ても人間にしか見えない、文字取りの人でなしを。


 彼は思う。

(そんなこと……)

 ――出来るわけがない。青藍を殺すだなんて、出来るわけがない、と。


 青藍はそんな孝義の思考を読んだかのように、静かに続ける。


「そう、志田くん。それが『普通』なんだ。今の今まで私も知らなかったけど、その『普通』を飛び越えてしまった時、『本』の気配……いや、恨みは、それを殺した人間に移る」


 そこで一度言葉を切り、青藍は眼鏡を直しながらこう言った。


「今、深緋の――貞野凛の『本』の気配は、真一くんの中にある。私達『本』は、死んでも尚見逃さないんだよ。絶対に」


「……あいつを、犬飼がやったのか」


「ああ……色々あってよォ。お前が寝てたとこでな……」


 後悔の色を浮かべ、ため息混じりに真一は言う。何かがあったのは察せたし、それがきっと自分のために行われたものだと孝義は直覚した。


「……ありがとな」

「ハッ、殺しやっといて、そう言われるとは思わなかったぜ。まぁ……なんだ。気にすんな」

 互いに互いを気遣う彼らを見て、青藍は胸が張り裂けそうな思いになる。


「……多分、だけど」

 そしてその思いを絞り出すように、青藍は口を開いた。

「鴉羽が、私たち『本』を――こういう、人の形でキミたちに渡したのは……そういうことなんだ。私たちのこの姿こそが、鴉羽が用意した最後の分水嶺だったんだ。人が人を殺すっていう、『踏み越えちゃいけないライン』……それを踏み越えた証は、今の真一くんみたいに、身体の中に刻み込まれる」


 孝義と真一は、静かにその言葉を聞いていた。恐らく、彼らはもう解っていたのだ。その先の言葉を。


 静かな廊下に、彼女の静かな声が響く。




「……初鹿野さんの『本』、熨斗目花のしめはな




     ※




 死にかけた蛇のようにのたうち、黒い荒縄は貞野凛の足下を強烈に打ち据える。彼女は小さく飛び上がりそれを避けたが、ゴムを擦りあわせたような音が響き、床にはハッキリと縄目が残った。

「やるね!」

「うるさい」

 短いやり取りのあと、床を蹴って凛は洋子に殺到した。得意の下段から、滑り上がるように黒い剣が奔る。だが、爛々と光る目で洋子はそれを睨んでいて、一瞬遅れて二人の間に黒い縄が滑り込んだ。

 鋭い金属音のあと、剣は跳ね上がり、鞭は床に叩きつけられた。洋子は肩をかすられ、凛は上腕を薄く削られる。二人は同時にぱっと飛び退き、10メートルほどの距離を開けて身構えた。

「ふー……」

「はっ、はあ、ははは、すごいね、凛ちゃん。あなた、すごいよ、ほんとに」

 息を切らし、顎の汗を手の甲で拭いながら、洋子は言う。

「こんなに時間が……時間がかかったのは、初めてよ」

「お前と話をする気はない。口を閉じろ」

「はは、怖いね……怖い怖い、今度ばかりは殺されちゃうかも」

 手にした『髪鑢』を束ねながら、洋子はニッコリと嗤う。雨が窓を叩くホワイトノイズのような音が、二人の間に満ちては消えていく。

(……あいつの腕が80センチ前後だとして、鞭は7、8メートルか)

 敵の武器の間合いを観察しながら、凛は左手で剣をゆっくりと撫でる。『刀髪』は輝きを取り戻し、整えられた切っ先に鋭さが蘇った。

(……お姉ちゃん、お母さん、お父さん、マイロ。もうすぐ――もうすぐ、仇を取るからね)

 すでに遠くに行ってしまった家族の名前と、飼い猫の名前を心の中で呼びながら、凛は剣を青眼に構え、強くそれを握る。



 彼女の持つその髪は、姉の遺髪でもあった。



 彼女が『本持ち』になったのは、昨年の10月、マスターキー連続殺人事件の最初の事件が起きた、まさにその時だった。

 彼女は、あの時まさに現場に居たのだ。姉である貞野涼、彼女が自室の壁際に追いつめられ、尖らせた『髪鑢』に貫かれた時。その背後にあるクローゼットの中で、凛は涼とともに串刺しになった。

 人が死ぬ時は、全て原因がある。それは直接の殺意であったり、偶然の出来事であったり、あるいは自らを傷つける意志だったりと様々だが、彼女の死は鴉羽によって『直接の殺意なく、通常ならばありえない出来事で死んだ』と解釈された。


 おそらく、洋子が凛を殺そうという意思を持っていたならば話は別だったし、或いは包丁やナイフなどで突き殺していた場合は結果が変わっていただろう。

 だが、彼女は『偶然、毛髪に突き殺された』のだ。凛はめでたく『本持ち』となり、クローゼットの中で生き返ると、自分の髪の毛を盾にその攻撃を避けた。


 暗く、血なまぐさいクローゼットの中で震えていると、やがて外は静かになった。

 どれくらいの時間が経ったのかわからないまま、恐る恐る外へと出ると、世界は文字通りなにもかも変わっていた。

 現れた『本』、深緋の手引でその場を後にし、遅れて到着した警察に事情を話した頃には、彼女の心も変質を遂げる。


 強い強い、あまりにも強い思いが、彼女の中に生まれた。


 付け加え、凛は孝義が死んだ時のように、自身の死を眺める時間があった。

 故に、自分を、姉を、家族を殺した犯人が、どうやって自分の家族を手にかけたのかを、しっかりとその目で見ていたのだ。


 「お前を、殺す」

 そして今。復讐の相手が――初鹿野洋子が目の前にいる。


 燃えるような、それでいて静かな瞳で、凛は彼女を睨んだ。その視線を受け止めて、洋子は焦れたように笑い――


「ふふ、決意とか信念って素敵だけど……」


 黒い荒縄を撫で、挑発的で、扇情的な声色で――


「それだけなら、別に怖くもなんともないから……」


 誘うように、言い放った。


「さっさと来いよ。ク・ソ・ガ・キ♪」



「……ふぅっ!」

 洋子の言葉を受けて、凛は爆発するかのように駆け出す。それを見て、洋子は大きく手を振り上げて鞭をしならせた。

 亡者の叫び声のような音を立てながら、『髪鑢かみやすり』が来る――だが!

「ふうっ!」

 気合とともに凛は飛ぶ! 誰も居ない床を黒縄は削り取り、それを飛び越えながら凛は体をひねる。そして眼下の『髪鑢』へ垂直に右腕一本を振り切った。

 瞬間、鋭い金属音を響かせて、赤い火花が四方に跳ねる!

「クッソ!」

 悪態をつき、洋子は振るった手を引き戻す。だが、『髪鑢』はのたうつだけで、彼女の手元には戻ってこなかった。先ほどの一閃で、凛は『刀髪』を『髪鑢』に突き刺し、床にがっちりと縫い止めていたのだ。

「この……!」

 洋子は思い切り力を込めるが、床に留められた『髪鑢かみやすり』はびくともしない。慌てる彼女を睨みながら、凛はセーラー服の背中に手を入れると、束ねられた赤く長い髪を取り出した。

 その色は、先ほど死んだはずの『本』、深緋のもの。凛はゆっくりと歩きながら、腰の鞘から刀を抜くかのように、その『刀髪』を音もなく構えた。

「ああもう、このっ!」

 慌てながら、何度も何度も、洋子は毛羽立った黒い縄を引き戻そうとする。彼女の顔は次第に切羽詰まったものになり、恐怖の汗が額ににじんだ。


「……!」


 洋子の表情を見たからだろうか。凛は心の内からあふれる殺意に抗えなくなり、火が付いたように走り出す。


(殺す、絶対に殺す、今、ここで!!)


 下段に構えた刃の先が、床に触れて小さく跳ねる。小さな体が滑るように薄暗い廊下を貫き、赤い刃が踊った。


 ひっ、と洋子が空気を飲み、引きつったように凛を見る。


 その顔に浮かんだのは恐怖。生命を奪われる者の恐怖。



 凛は思った。



 お前も、同じ顔をするのか。



 あの時のお姉ちゃんと、お母さんと、お父さんと、同じ顔を!!



「――ぁぁあぁあああああ!!」



 悔しさと怒りを乗せ、赤い閃光が奔る。

 床を薄く裂き、跳ね上がる深緋の刃は、洋子の首を捉えると、それを音もなく胴から切り離した!









 ……はずだった。



「あっ! があ、ああああ!! ううッ、ああ!!」

 果たして、獣のような叫び声を上げて倒れたのは、凛だった。彼女は走りこんだ勢いのまま、洋子の横を通り過ぎ、冷たい床を転がる。

 足首に響く灼熱の激痛に顔をしかめ、彼女はとっさに振り返ると、立ちすくむ洋子の足元に、薄暗い廊下を横切る一本の線があることに気づく。

(……こ、れは、まさか)

 そう、その線――否、毛髪は、紛うこと無く、洋子の『髪鑢』の一本だった。いつの間にか壁に突き立てられ、両端に渡された『髪鑢』は、ワイヤートラップの要領で凛の足首を襲ったのだ。

「ふ、ふふふ……はは……こ、怖かったぁ、死ぬかと思ったぁ……!」

 心底安堵した様子で、洋子は自分の肩を抱き、ぺたんと床に座り込む。何度か深呼吸を繰り返し、肩越しに彼女は凛を見た。


 だが、既に彼女はその場所に居ない。


 黒々とした血液の染みが、廊下の奥へと続いている。


「へへぇ……逃がさないよ~凛ちゃん」

 独り言を言いながら、洋子は地面に縫い止められたままの『髪鑢』を小さく引っ張る。パン、と乾いた音がして、黒縄は『刀髪』を弾き飛ばすと、まるで生きているかのように洋子の手に収まった。

「ううー……まだ震え止まんない。怖かったなぁ、怖かったよぉ、凛ちゃーん」

 薄暗い廊下に、洋子の声が響く。血の跡を踏みつけながら、彼女はその奥へと消えていった。

 静かになった廊下で、カチッ、と小さな音が鳴る。


 壁の時計は、21時丁度を指していた。



     ※



  真一の傷をなんとかしようと、彼らは孝義の眠っていた処置室へと戻ろうとしていた。

「……おい、まだ着かねェのか」

「多分、こっち――だと思う」

「ンだよ……来た道忘れんなよ……」

 真一の言葉に、孝義はごめん、と返す。

 孝義は、実のところ真一の所まで来た道順を覚えていた。だが、その途上で見つけた死体を真一に見せまいと、わざと遠回りの道順を選んでいた。

 そのことを青藍も察しているのか、彼女はずっと黙ったまま、真一に肩を貸す孝義の後ろについてきている。

「……おい、あそこでいい。適当な道具はあるはずだ」

 ふと、真一はナースセンターと書かれた一室を指差す。

 ほっとしたような気持ちで、孝義がその扉に手をかけた時、強烈な悪寒が彼の体を駆け上った。

「志田くん、これは……」

「……ああ」

 青藍も、その匂いを嗅ぎ取ったのだろう。

 ゆっくりと扉を開くと、彼らは一様に息を飲み、目を見開いた。


 部屋の中には、一見しただけでは解らないほどの数の死体が転がっていたからだ。


「……嘘だろ」

「マジか、オイ……こんな……」

 恐らく、この部屋に医師や看護師たちが待機していたのだろう。

 思わず目を逸らした廊下の先には、やはり白衣を着た死体が2つ転がっている。恐らく、時折聞こえていた叫び声は、それらが生きていた頃の最後の断末魔だったのだ。

 そして、処置室での騒ぎや、真一の『関節の爆弾』に誰も反応しなかったのは、あの後――洋子が処置室を飛び出した後、そこに駆けつけようとした医師や看護師たちを皆殺しにしていたからだろう。

 中には白衣ではなく、私服を着た死体も紛れている。孝義と同じように、緊急医療を求めて来た患者も、洋子は例外なく手にかけていたのだ。

 人を人と思わないその行動に、孝義たちは戦慄した。

「……二人はここで待ってて」

 青藍はそう言うと、躊躇いなく部屋の中へと踏み込んでいく。奥まった壁際の棚から、いくつかの道具と薬品を取り出すと、水音を立てて血だまりを踏み越えながら、素早く彼らの元へと戻ってきた。

「犬飼くんの傷、はやく手当しないと、ね?」

「…………」

「あ……」

 だが、孝義と真一は言葉を失っている。刺激が強い、というにはあまりに生易しい光景を見て、彼らは半ば腰を抜かすように後ずさると、廊下の壁にもたれた。

「……しっかりしてよ、二人共。志田くん、手伝って」

 青ざめた顔のまま、孝義は青藍に小さくうなずいた。


 彼女はそれからテキパキと傷の手当を進め、包帯代わりに破いたシーツを使って真一の傷をしっかりと圧迫した。

 真一はそれで幾分楽になったようで、肩をこわごわ動かしながら、青藍に言う。

「お前、手当の方法とか、どこで習った?」

「……志田くんが斬られた時、救急隊員とかの手順を見て覚えておいたんだ。ただ、付け焼き刃の技術だから、あんまり上手じゃなかったけど」

「いや、助かったぜ……」

 言いながら、真一は立ち上がろうとする。慌ててそれに肩を貸しながら、孝義は言った。

「お、おい! 無理すんなよ、今はじっとして――」


「んな悠長な事言ってたら、家族がられんだよ!」

 大声を張り上げ、孝義を突き飛ばしながら、真一はギッと彼を睨む。

「お前の家族じゃねェ! マスターキーの野郎に狙われてたのは、俺の家族だったんだよ!!」

「は? ……い、いや、待って、何を」

「俺の両親はここの医者と看護師で、妹と弟も今入院してる!! 緑青の『本』にも俺が殺される予報が飛んできやがった!! ふざっけんな!! なんで、なんで! なんでだなんだよ、こんな……! 嘘だろ、こんな……」

 次第に声を弱くしながら、泣き崩れるようにして、彼は床に手をつく。孝義は、そんな真一を見て、胸の中心を撃ちぬかれたような感覚を覚えた。


 友達を、その家族ごと失うという出来事は、『平穏』とは言いがたい。


 ――もしかして、これも、僕が『平穏』を失ったから?


 ――マスターキー連続殺人事件の犯人や、僕の家族を脅かす誰かではなく、もしかして、誰でもない、僕こそが、周囲の人間を不幸にしているんじゃないか?



 その気づきは、もしかしてはじめから、彼の中にあったのかもしれない。だが、必死に目を背け、あるかもしれない原因を探ろうと、今まで足掻いてきた。


 けれど、そうした努力が、ただの気休めか自己満足か、あるいは一種の自慰行為以外の、なにものでもないとするなら。


「…………」


 うつろな目をして、尻もちをつくように彼は真一の隣に腰を下ろす。彼らは黙したまま、それぞれの絶望に染まった表情で、力なく血の匂いが満ちた廊下に座り込んでいた。


「……二人共、ごめんね」

 ふと、弱々しい声が響く。



「私達の――鴉羽とか、私達のせいで、こんな目に遭わせちゃってさ」

 ――言葉のあとで、彼らの頭上から、すすり泣くような声が聞こえた。二人が思わず顔を上げると、青藍が目許を拭いながら、はらはらと涙を流している。


「ごめんね……こんなことに巻き込んで」

 泣きながらそう言う彼女を、孝義と真一はじっと見つめている。

 絶望に染まった二人の目に、静かに、ゆっくりと光が戻った。


「……お前のせいじゃねェよ」

「でも、私たちが来たことで、キミたちの人生は無茶苦茶になった」

「それは……」

 孝義は言い淀む。彼の言葉の先を待たずに、青藍は言った。


「初めはそれが私の仕事だと思ってた。だから、割りきって役割を果たせたんだよ……犬飼くんと戦わせたり、殺人事件に首を突っ込ませたりさ。でも……」

 そこで一度言葉を切り、青藍は笑う。悲しげに眉を寄せ、自分のシャツの胸元を握りしめながら、自らの境遇を呪うかのように、口の端を上げて。

「でも、キミたちと話したり、志田くんの家族とコーヒーを飲んだり、いろんなことを話していくにつれて、さ。私が志田くんや犬飼くんを危険に晒すことが、正しいことなのかどうか、わからなくなっていったんだ」


 彼女の頬から、はらはらと涙が落ちていく。


「どうして、私たちは『本』なのに、人間に似せて作られたんだろうって、ずっと考えてたんだ。その答えが、さっき分かったんだよ」

 それを拭おうともせずに、青藍は言葉を続けた。

「鴉羽は、私達をキミたち人間に似せた形にすることで、簡単に殺せないように、捨て去ることができないようにしたんだ。いびつに歪んでしまった、そのひとの人生に入り込んで……簡単に……切り捨てられないように」


 その言葉を聞いた時、孝義と真一の胸は、傷とは違う痛みに締め付けられた。

 

 彼女たちは望んで人の形を成しているわけではなかった。

 人と同じであれば人に殺されにくい。

 単にそういう目的で彼女たちは人の形をして、人と同じ心を持たされていたのだ。


「ごめんね……わざとじゃないにしても、こんな、騙すような真似してさ。……今はもう、この状況を招いた自分自身が、憎くて……苦しくて、辛いんだ」


「青藍……」


 言葉がなかった。孝義は、彼女の名を呼ぶほか、なかった。




 人を模して、人と寸分たがわぬ身体を与えられ、

 人と同じように涙を流し、その上で人でない自分のありようを嘆き、

 その感情を産む彼女自身の人間性で、望まずして与えられたその心で、

 人間を謀るための道具であったということに、他でもない『心』を痛めていた。



 薄暗い廊下で、孝義と真一は思う。

 どこまでも人らしい、人でなしのことを。



     ※



  孝義は、彼女と飲んだコーヒーの味を思い出していた。


 ハンバーガーショップで何度も飲んだ、大して旨くもない、ありふれた味。


 彼女と飲んだコーヒーは他にもある。


 孝義の家で飲んだ、いつものコーヒー。

 それを飲みながら、青藍は彼の家族と楽しげに笑い合っていた。


 ――父親を亡くして以来、由佳子は男親の役割を果たそうと躍起になり、孝義や紋佳が小さなころは彼らに強く当たることもあった。


 そのせいか、奔放な性格の紋佳は、事あるごとに由佳子と衝突を繰り返してきた。飼い犬のシドが大きな声に怯えるようになったのはそれからで、孝義はそんなシドを連れてしばらく家を空けることもあった。


 孝義が高校に上がってからは、紋佳が大人になったからか、それとも時間が解決してくれたのか、二人の衝突も少なくなった。


 だが、彼はそれまでの生活で、ただただ疲弊していた。荒れた家庭状況の中で、友達を作る余裕もなく、それが尾を引いた高校最初の夏休みは、何の予定も立ちはしなかった。


 ひとり部屋にこもり、ゲームをする。そんな中、偶然に遭遇した理由のない死。



 疲れきった彼の心は、自分の死を目前にしても波立たなかった。



 そこに青藍が現れた。彼女は破天荒な振る舞いで、少しずつ少しずつ彼の心を溶かしていき、その上知ってか知らずか、距離が開きがちだった由佳子と紋佳の間を、うまく取り持ってくれたのだ。



 ――彼女は、孝義が本来的な意味で失った、家族との団欒の日々を。


 『平穏』を、運んできてくれていたのだ。



     ※



  真一は、緑青と過ごした時間を思い出す。自分をからかうようにあしらいながら、そのくせ気づいた時には振り払えないくらい近くに踏み込んでくる、どうしようもなく自由な嫉妬深い瞳を。


 自分の名前を、意味を持って呼んでくれる緑青の声――これまでの人生で、優秀な両親の、出来の悪い付属物としてしか評価されなかった彼にとって、それは単なる承認欲求を満たすだけに収まらなかった。



 俺は、今後ずっと正当な評価を受けられない――彼はずっと、色濃い絶望を心の底で感じていた。だからだろうか、いつしか彼は自ら粗忽かつ乱暴な振る舞いを進んで取るようになっていった。



 誰も近寄らせない。そうすれば、自分の望まない評価をされることもない。周囲が自分を不良品と呼ぶのなら、その不良品を演じてやる。



 身の内からあふれた彼の反骨精神は、先ほどの絶望と相まって、諦観のうちに彼の本質と成り果てた。



 だが、緑青だけは違った。彼女は真一の刺々しさに臆することなく、時には騙し、時にはからかいながら、巧みに凝固しきった心の内側に入り込んだ。そしてついに、真一が誰にも話さなかった――否、誰にも打ち明けることが出来なかった、押し殺された感情と本当の望みを、絶望の底から掬い上げたのだ。


 ただ彼の、彼だけの名前を呼ぶ。その行為によって。



 彼女は、運んできてくれていたのだ。


 真一が人生から捨てた他人との関わり――場合によっては『恋愛』と呼ぶその行為を、もう一度始めるのに充分な感動を。



     ※



 だからこそ、二人は思う。

 と。


 何より、二人が共通して思ったのは、彼女たちに会ってからのこの数日間が、単純にとても楽しかったということ。確かに辛いことや痛いことも多かったし、からかわれたこともあったが、それを補って余りある、充実した長い長い日々だった。




 その気持ちが互いに伝わったのか、孝義と真一は、互いに視線を交わし、うなずく。

 「青藍……泣くなよ。僕は、お前が居なけりゃ、なんて思ってない」

「……ほんとに?」

「ああ。俺らはよ、感謝してんだぜ、お前らに」

 孝義たちの言葉に、青藍はぎゅっと胸の中心で手を握る。重い感情から開放されたように顔をほころばせ、その目の縁から一粒涙をこぼした。


「……青藍、この建物の5階に緑青が居る。あいつと合流しろ。俺たちはあのクソアマふたりを追いかける」

「うん……わかった」

 目を赤くした青藍は、パタパタと足音を立てて階段へと向かう。その途中で一度振り返り、彼女は二人とも気をつけて、と言い残して角を曲がった。

 孝義たちはその背中を見送ると、無言で振り返り歩き始めた。


 初鹿野洋子は、人を殺すことに慣れきっている。

 青藍の言った最後の分水嶺を、いともたやすく乗り越えてしまうほどに。



 治療に手間取ったせいもあって、すでに時刻は22時を回っている。

 凛が既に洋子を始末しているかもしれないが、それを確かめるためにも、今は前に進むしか無い。 


 だからこそ彼らは、もう一度力強く拳を握った。



      ※



  貞野凛は、非常階段の手すりを切り落とすと、それを添え木にして足を縛った。激しい痛みは時間が経つごとに増していき、既に歩行そのものが困難になりつつある。1時間ほど逃げ続けてはいるが、おそらく次に見つかれば自分の生命は無いだろう。彼女の体には無数の擦り傷がついていて、頬や首、足や手には無視できない程度の深い切り傷が残っていた。


(ひどい、ことになった)


 逃げている途中、数名の断末魔が聞こえたのを思い出す。自分の復讐のために、何人もの人間があの悪魔の生け贄となってしまった。

 ここに来なければよかったのだろうか。後悔の念が彼女の胸を潰していく。

 ――あの時、熱くならなければ。

 おそらくは、勝てていただろう。あの一瞬、腹の底から立ち上がった怒りに身を任せた結果が、この足の怪我であり、今彼女が追われている原因でもある。

 壁を使って立ち上がり、彼女は耳を重い金属の扉に当てた。その向こうからは、今は何の音もしない。

 そっと扉を開け、病院の中を覗き見る。薄暗い廊下には人の気配はなく、彼女は片足をひきずりながら静かに足を進めた。

「…………!」

 ふと、廊下の奥で何かが光る。目をこらすと、それは紛れも無く、彼女の足を切りつけた『髪鑢』だと解った。

 だが、一本ではない。廊下の先、突き当りの角まで、糸の結界が続いている。


 ――この先には、行けない。

 そう思い、彼女が振り返った瞬間だった。

 黒い何かが目の前を横切り、凛の胸から下がったスカーフを千切り飛ばすと、今しがた彼女が出てきた非常階段の扉を一瞬で削り割る。

「あらぁ惜しい!」

 底抜けに明るい声とともに、洋子は『髪鑢かみやすり』を一瞬で手繰る。凛は反射的に剣を構えるが、踏み込んだ足の激痛に膝を折った。

「くっ……う……」

「凛ちゃん、もう私疲れちゃったからさ、帰りたいな」

「……帰れば、いいじゃない」

「そういうわけにもいかないでしょ。私が唯一逃した女の子が目の前にいるのに」

 にっこりと屈託なく笑って、洋子は右手を大きく振る。鋭く空気を裂きながら、のたうつ『髪鑢』は凛の右手を打ち据えた。

「あっぐ……!」

 手にした剣が落ち、床に転がる。凛はそれを拾おうとするが、跳ね回る黒縄がそれを吹き飛ばした。赤い『刀髪』は、彼女の頬をかすめながら、後ろの壁に深々と突き刺さる。

「……ッ!」

「凛ちゃんたちの次の家族だったかなぁ、奥さんに逃げられそうになった時、ひらめいた技だったんだけど、いっぱい設置したところに追い込むと、サイコロステーキみたいになるの。キューブって映画知ってる? あの最初のシーンみたいなさ」

 連続して放たれる黒縄による攻撃は、凛の体をほんの少しだけかすめていき、服と皮膚をボロボロに傷つけていく。床、壁、天井が風切音とともに次々削られていき、血で濡れた彼女の体を埃まみれにしていった。

「いやぁ、でも凛ちゃんが追いかけて来てくれてよかったよ。これでもう私がやられる心配、ないも――」

「うるさい!!」

 饒舌な洋子の言葉を遮り、凛は初めて叫んだ。

「お前なんか、お前なんか……!」

 体をかばう腕と、顔を庇う指の間から、涙を浮かべた目で、彼女は洋子を睨む。今まで、必死に押し殺してきた感情を露わにして。

 だが、そのことに気づいた洋子は、つまらなそうに凛を見下ろす。


「……帰る」

 ただそれだけを口にして、彼女は右手を振り上げる。乾いた大きな音が響いて、『髪鑢』はその形を槍のように変えた。不気味に毛羽立つその槍は、まさしく凛の姉を貫き、そして一度は彼女自身を貫いた凶器。


「お前なんか……!」

「はいはいお疲れ」

 ぞんざいに、洋子は右手を振り下ろす。


 凛は見ていた。その切っ先を。


 そして、その切っ先から伸びる、洋子の手を、肩越しの、その先を。



 目を爛々と光らせて、歯を食いしばりながら、黒い煙を吐き、引き絞るように腕を振り上げ、洋子に向けて飛びかかろうとしている、孝義の姿を!

 「――!」

 洋子は凛の視線に気づき、持った槍を背中に振りぬいた。しかし、敵を見ずに放ったその攻撃は、孝義の顎をかすっただけ。

「ちッ!」

 体勢を崩しながら、孝義は洋子の足元に隕石のように着地する。そのままの勢いで彼は凛の元へと滑りこむと、彼女を抱いて壁を蹴った。凄まじく大きな乾いた音を立てて、孝義は洋子の脇をすり抜け、低空を滑るように廊下の奥へ身を躍らせる!


「……誰よ」

 振り返った彼女の視線の先には、凛を抱いた孝義と、その隣の真一。彼らと洋子の距離は、およそ15メートル。

「……こいつ、寝てやがる。いい気なもんだなオイ」

「僕のせいだよ……あとは任せてくれ、貞野さん」

 孝義は言いながら、無茶苦茶な孝義の機動で気絶してしまった凛の体をそっと床に寝かせる。二人は凛をかばうように前へと出ると、洋子とじっと睨み合った。

「……どうしたのよ、志田くんも、犬飼くんも。そんな怖い顔してさ」

「どうもこうもねェだろ、初鹿野さんよォ。俺の家族に何するつもりだコラ、あァ?」

「ふふ、なによもう、バレてたの? 困ったなぁ、良い獲物だと思ってたのに」

 洋子はくすくすと屈託なく笑いながら、後ろに手を組んで首を傾げる。それを見て、孝義は小さくため息をついた。

「……もう、隠そうともしないんですね。僕はまだ少し信じられない」

「まぁ、趣味みたいなものだから、隠してもしょうがないでしょ? それよりさぁ、お話するのも飽きちゃったし、そろそろ始めようよ。時間も時間だし、帰りたいんだよね」

「――アッタマ来た。殺す!」

 叫びながら、真一は洋子に向かって駈け出した。それを見て、洋子はにやりと笑うと、『髪鑢』をうねらせ彼の肩を素早く打ち据える。


 しかし!


「……!?」

 鎖骨の付近に当たった『髪鑢』は、その瞬間に炸裂する!

 真一はもうもうと立ち上る煙を払いながら、爆発した肩のススを払うように叩いた。

「全身、起爆準備は終わってんだよ!!」

 洋子は、振り回した『髪鑢』の傍ら、ふたたびワイヤートラップを張っていた。しかし、そんなもので止まる真一ではない。

 彼は突き進むままに、触れたトラップを次々に爆破していく!

「ちょ、ちょっと何よそれ、無茶苦茶じゃない!」

 洋子は真一の気迫に後ずさる。

 時折薄く体を切り裂かれながらも、彼は歯を軋らせて、洋子へと突進した!

「チッ、この……!」

「おぉぉぉおお!!!」

 真一が叫び声とともに振りぬいた右腕は空を切り、壁を捉えてそこを爆裂させる!

「がっ、あ――!」

 背中から襲った爆風に、洋子はつんのめり、したたかに床へ倒れこんだ。

「――シイッ!」

 それに追い打ちをかけるように、孝義は空気を引き裂きながら洋子に殺到すると、ボールを蹴るようにその顔面を蹴り抜いた!

「ぐッ!」

 洋子は咄嗟に顔の前へ束ねた黒縄を構えるが、孝義の激烈な一撃は女一人の腕力で抑えきれるものではない。端正な顔を歪めながら、彼女は両端の壁に一度ずつ、ピンボールのように跳ね返った。

「げっ……は……!」

 自分の『髪鑢』で頬と額を削られ、ボタボタと床に血を落としながら、洋子はなんとか立ち上がる。

 自分を見下ろす真一と孝義を睨んで、洋子は思った。


 ――殺意の質が、違う。

 楽しんで殺す自分のそれとは、まるで!


 「くっそがあッ!!」

 悪態をつきながら、洋子は遮二無二腕を振るった。のたうち踊る鞭の一撃は壁を削りながら彼らに襲いかかるが、狙いを定めないその攻撃は容易く二人に躱される。

「くっそ、くそっ!! ああもう!!」

 何度か繰り出される攻撃を真一は冷静に爆弾で叩き落とし、そのうち焼け焦げた『髪鑢』は長さを失って、彼らに届かなくなった。

  役に立たなくなった得物を握りしめ、洋子は叫ぶ。

「な、んだっての、ホントにさぁ!!」



「うるさいよ」



 声は、洋子の背後から聞こえた。孝義の声だ。

「――ッひ!?」

 彼女が驚いた時には、すでに彼の拳が横腹に打ち込まれていた。体を折り曲げるようにして、洋子は斜めに吹き飛ぶ!

 そしてその先には、走り込んでいた真一の姿がある!

「らァアアアア!!!」

 彼の拳は、洋子の体に叩き込まれた瞬間、

「ばッ――!」

 ひときわ大きく、炸裂する! 爆風とともに吹き飛んだ彼女は、窓を突き破り、激しい雨の中に飛び出した!


 「シィィィィィイイ…………」


 口の端から黒煙を鋭く吐き出す孝義の目には、煙と雨粒とガラスのかけらに包まれ、苦痛と驚きに満ちた表情を浮かべた彼女が、ゆっくりと空に浮かんでいるように見えている。

 もう、彼は自分の力を使うことに躊躇は無かった。

 柔らかな空気の壁を突き破って、彼は思い切り床を殴りつける!

 砕け散るコンクリートのかけらを纏い、孝義の体は洋子を追いかけ斜めに飛んだ。

「ぁぁぁぁああああああああ!!!!」

 バイクの排気音のような音を響かせる心臓に任せて、孝義は空気を貫いて、雨粒を弾き飛ばしながら、螺旋に体をひねり、洋子の体に足刀を叩き込む!!

「がっ――」

「おおおおおおお!!!」

 洋子の吐き出した鮮血を浴びながら、孝義は巨大な放物線を描いて夜闇を飛んだ!


 やがてその血は雨と風に千切り飛ばされ、彼らは以前孝義が降り立った緑地公園へと凄まじい音を立てて墜落する!

 地面が爆裂し、芝生や土塊が周辺に飛び散った!

 初鹿野洋子という殺人鬼は、その中に混ぜ込まれて砕け散りながら、その生命と体を消滅させる。それから一瞬遅れて、孝義は猛烈に回転しつつ墜落場所から離れた芝生に着地した。


「はは……スゲェな、あいつ」

 真一はその様子を、ぶち破られた窓から眺めていた。

 殺人鬼は死んだ。

 そのことに安堵し、彼はぺたんと床に座り込む。

「終わったぜ、緑青……俺らは勝ったぜ」

 携帯電話を取り出して、彼は時刻を見る。


 22時50分。

 それが孝義が洋子を殺した時刻であり、同時に真一が死の運命から逃れた瞬間だった。



     ※



 ――とある『本』は感じ取っていた。

 自分を所有する『本持ち』が、誰か他の人間を殺したことを。

 殺した人物は、殺されたその瞬間、『本持ち』に殺意を向けてはいなかった。

 だからこそ、彼女はやらなければならなかった。

 それが彼女の役割であって、すでに見えていた未来だった。

 彼女は『本持ち』と別れた時、とある予報を受信していた。

 それは、自分が自分の所有者を殺すという予報。

 だからこそ、彼女は自身の境遇を呪ったのだ。

「姉さん」

 妹の言葉に、彼女は静かにうなずく。

「行ってくる」

「……お気をつけて」

 心を落ち着けるように、彼女は深呼吸をした。

 胸の中心に火が付いたような感覚とともに、世界が速度を失う。

 ガラス越しに見える静止した雨粒の向こう、いつか二人で降り立った緑地公園。

 人としての思い出をくれた自分の持ち主を――孝義を睨んで、青藍は飛んだ。



     ※



 青い閃光が、轟音とともに孝義の眼前に墜落する。


 飛び散る芝生に顔をしかめて、孝義は言った。


「やっぱりか……」


「……わかってたのに、キミは止まらなかったんだね」


「ああ。あいつが狙ってたのは、終始真一だったからな」


「それじゃあ、どうして?」


「……僕は決めたんだよ、僕の周りの平穏を守るって」


「それで自分が死んでも構わないの?」


「僕は死なない。家族の平穏を守らなきゃならないから」


「……なるほどね」


 彼の回復能力は、そもそも尋常ではなかった。凛に断ち切られた骨に達する深い傷を、たったの数時間で塞ぐなど、そもそも回復という概念を超えている。その、ある意味狂った回復能力は、きっとその気持ちから生まれたのだろうと青藍は思う。


「……なあ、青藍。見逃してくれたりしないのかな」


「そうしたいのは、山々なんだけどね……私にはどうにも出来ないんだ、こればっかりは」


「それならまぁ……仕方ないよな」


「うん、仕方ないよ」


 降りしきる強い雨の中、孝義と青藍は、同時に深呼吸をする。


 街灯の光を乱反射する雨粒が、彼らの周囲でその動きを止めた。

 



 低く響く互いの心臓の音を聞きながら、二人は静かに見つめ合う。


「シッ!」

「かァっ!」


 孝義と青藍の短い発気を合図に、二人だけが見えるこの世界で、二人だけの戦いが始まった。

 雨粒を轢き跳ねる、ぱぱぱっ、と短い音が鳴る。青藍は走りながら鋭く腕を振り下ろし、地面をひっかくように自分の体を前方に跳ね飛ばした。


 体を回転させ、低空を滑る飛び蹴りが孝義に殺到する!


 だが、孝義は青藍の足を左の肘で横へ跳ね除け、右の拳をハンマーのように振り下ろす。だが、その手首を青藍は掴むと、振り下ろされる勢いを利用し回転、孝義の右側頭部に回し蹴りを放った。

「ぐっ――!」

 孝義は首だけでその蹴りを躱し、未だ掴まれたままの右腕を、青藍ごと裏拳の要領で地面へ叩きつけた。

 柔らかな土が爆ぜ、彼女を中心に巨大なクレーターが生まれる!

「がっは――!?」

「……あああァ!!」

 さらに、同時に青藍の服を握りしめていた彼は、攻撃の反作用で浮かび上がりながら、青藍をもう一度そのクレーターの中心に思い切り投げつけた!


 土の底にあった基礎を叩き割り、彼女は地面に体をめり込ませる。その勢いのまま、孝義は中空で無軌道に回転した。

 その勢いを、彼は続けて腕と足を振り回すことで上昇させ、爆発的に回転速度を増しながら、動けない青藍に向けて落下するカカトを叩き込んだ!

「…………!」

 三度爆裂する地面!

 その中心で、声も出せずに、青藍は抉られた腹から押し出されるように大量の鮮血を吐いた。初合を仕損じた青藍に勝機は無く、機を逸した青藍にとって、既にそれは戦いなどではなかった。

「あああああ!!」

 無茶苦茶に振り上げた拳を、孝義は何度も何度も、何度も何度も何度も地面に向かって叩きつける。

 鳴り響く2つの心臓の音が空気を揺らし、やがてそれがひとつになった頃、孝義は膝をついて、砕け散った地面の中心で空を仰いだ。




 日付は七月二十五日、時刻は22時58分。



 孝義は殺した。

 青藍という人でない人を。

 漆黒の空を仰ぐ彼の頬を流れた水滴は、きっと雨粒ではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る