第11話 マスターキー連続殺人事件(4)

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きょうから ぼくらは泣かない

きのうまでのように もう世界は

うつくしくもなくなったから そうして

針のようなことばをあつめて 悲惨な

出来ごとを生活のなかからみつけ

つき刺す


ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を

引き出しからつかみだすように 心の傷から

ひとつの倫理を つまり

役立ちうる武器をつかみだす


――吉本隆明「涙が涸れる」より



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     11




 時間は少し巻き戻る。

 孝義が自分の人生の意味について気づいた辺り、日付は7月24日、時刻は午後4時30分。


 場所は犬飼真一の自室。部屋の主、真一は机に向かい、数学の問題を解いていた。広げられた参考書にはいくつものマーカーがつけられ、その傍らにあるノートには彼の性格や外見からはおおよそ想像できない、緻密かつ丁寧な文字が所狭しと並んでいた。


 6畳ほどの部屋には物が多く、特に壁に据え付けられた一面の本棚が目を引く。少年らしく漫画も多く並んではいるが、ハードカバーの学術本が本棚の半分ほどを占めており、緑青は並んだ背表紙を指でなぞりながら、つまらなそうに部屋をうろついている。


 ひとつ数式を解き終わり、彼はため息をつきながらシャープペンシルを机に置いた。


「……誰も居ねぇ家ってのは、静かなもんだな」

 現在、真一の家族は彼を除いて全員嵯峨崎総合病院に居る。父親は医師、そして母親は看護師を生業としているのに付け加え、彼の妹と弟は例の病室爆発の影響でしばらく入院しているためだった。

「静かなのはお嫌いですか?」

「勉強中はな。少しうるさいくらいが集中できる」

 言いながら、彼は今自分の置かれた状況、そして孝義の置かれた状況について考えを巡らしていた。

「……志田はよ、大丈夫なのか?」

「なにがです?」

 ベッドの横に据え付けられた本棚。そこに並べられた本の背表紙を指先でなぞりながら、緑青は面倒くさそうに返事をする。

「いや、家族がよ……狙われてんだろ?」

「狙われてる、というよりは、ここらへんで最も狙われやすい、と言った方が正しい表現でしょうね」

 そのうちの一冊の本を取り出して、緑青は犬飼の座るベッドへ腰掛ける。

「だから、それが大丈夫かって聞いてんだよ」

「どういうことですか?」

「あー……なんていうか……」

「志田さんが、家族を殺されないようにきちんと守れるか、ってことです?」


 ――確かに、それもあるんだが……。

 それよりも、気になる事がある。仮に、孝義が『マスターキー連続殺人事件』の犯人に家族を殺される、ないし殺されそうになった、その時。

(……志田は、犯人をどうするつもりなんだ?)

 そう考えた真一の目に、緑青の持っている本のタイトルが突き刺さる。――『生命倫理と道徳論』。緑青はそれに気づいたように苦笑して、ニヤリと意地悪い笑みを浮かべた。

「それより犬飼さん、結構小難しい本読まれるんですね。意外でした」

「うるせェ。俺は親父に負けたくねぇんだよ」

 苦虫を噛み潰したような顔で、真一は吐き捨てるように言う。

「医学部に入って、医者になって……親父よりも上になりてェんだよ、こっちは」

「……なんか意外を通り越して気持ち悪いですね、その志望。気合いで病気は治りませんよ?」

「精神論で物事語った事ァ、いっぺんもねェよ。俺の見た目に毒され過ぎだお前は」

 まともに話をするのが面倒くさくなり、真一はノートを閉じる。

「……心配ありませんよ」

「あ?」

 不意に聞こえる、優しい緑青の声。思わず頭だけを起こし、真一は緑青を見た。

「姉さんがついてますから。きっと、志田さんは無事です」

「……そうだな」

 緑青と青藍は、元々は同一の存在。それならばこの緑色の女が言う言葉は、青藍の言葉と同じと考えていいだろう。つまり、緑青は言ったのだ。


 ――私がついてるから、志田くんは大丈夫だ、と。


「……そうだな。そうだよな」

 何度も自分に言い聞かせるように、真一は言う。

 だが、その視界外。緑青が本を持つ手は、少しだけ震えていた。

(……何が、不安なんでしょうね。私は――)

 本のページを持つ手の震えは止まらない。やがて、彼女は本を取り落とした。

「おい、大丈夫か緑青」

「何がです?」

「……手、震えてんぞ」

 顎で緑青の手を指しながら、真一は立ち上がり、緑青の隣に座る。

「大丈夫か」

「大丈夫です。でも、もしそれでも安心できないっていうのなら――」

 言いながら、緑青は真一の手に、そっと自分の手を重ねた。

「震え、止めてください。あなたが」

「……ったく」

 自分の手に乗せられた、小さく冷たい手。それを真一はぎゅっと握り、空いた手で緑青の肩を引き寄せた。



     ※ 


   七月二十五日


     ※



 翌日、犬飼真一は、例のハンバーガーショップで緑青と一緒に食事を摂っていた。基本的に、彼は一人の時は外で食事をしない。ただ、今日はなんとなく、本当に気まぐれにこのハンバーガーショップに来ていた。

「…………」

大して美味くもないハンバーガーを、頬杖をついてモシャモシャ食べながら、彼はつまらなそうに窓の外を見上げる。

「犬飼さん。マヨネーズついてますよ」

「ん……んんッ!?」

 緑青は言うが早いか、突如として真一の唇を奪った。

「んー!? ん!?」

「んふ……」

 やっと唇を離した緑青は、見物客へと流し目を送り、にっこりとわざとらしく笑った。

 唇を舐めながらニヤリと笑う緑青は、テーブル越しに真一へしなだれかかる。同時にこつん、と額を合わせ、ジィッ――とその瞳を見つめた。周辺のテーブルの視線は二人に注がれ、店内はなんだか妙な空気にざわつく。

「おっ、おま、おま何」

「志田さんが、心配?」

「――ッ、うるせえ……」

 外で食事を摂ろうと決めた、気まぐれの最奥を、むしり抉る緑の瞳。遠慮なく踏み込んで来る、この女のカタチをした人あらざる物に、真一は心を奪われ始めていた。

 顔を赤くし、目を逸らしながら、それでも彼は緑青の腕の重みを撥ね除ける事が出来ない。昨日からやたらボディタッチを絡めて来る緑青に、真一は心底ドギマギしていた。

「……真一さん?」

「なッ……!?」

 突然名前を呼ばれ、胸の中央がギュッと収縮するような感覚を覚える。周囲が怪訝な視線を彼らに向けているが、彼の目には緑青の顔しか映っていなかった。

「あなたの人生から奪われたのは、『恋愛』。そしてそれを補填するのが私、緑青。ですからあなたが恋をしていいのは、私だけなんですよ」

「……い、いいから……あんま、近寄んなよ」

 引きつったように顔をそむける真一を見て、緑青はニッコリともう一度笑う。真一の顔が真っ赤になっていることに、どうやら彼女は満足したようだった。ほんの少しそのままの体勢を保持した後、緑青はすぐに元通りイスに座り直す。

「わかればよろしい。だから『髪鑢かみやすり』の能力者さんとは距離を置いてください」

「なんでそこで初鹿野はじかのさんが出てくんだよ」

「色々様々ありますけど、だいたいは単なる私の嫉妬によるものですね、今後鼻の下を伸ばしたら許しません」

「……おまえ素直なのかひねくれてんのか、よくわかんねえな。そういえばよ、俺の『恋愛』を補填するのがお前ってんなら、志田に対する青藍も『平穏』を補填する役割があんのか?」

 なんとなく聞いた犬飼の言葉に、緑青は苦い顔をした。

「そうですね。そう、言えなくもない」

「はっきりしねえな。なんだよ」

「私達がどんなにその人間の人生を補填しようと頑張っても、叶わないことだってあるんです」

 彼女はそう言うと、少しだけ寂しそうな表情をして、窓の外へと視線を移した。その表情が何を表しているのか……『恋愛』を失ったことによるものかは定かではないが、真一が知ることはなかった。

 それからふと、真一は店の壁にかかった時計を見て何かに気づいたようにテーブルの上を片付け始める。

「どうしたんですか?」

「約束の時間だからな、行かねェと」

「どこに?」

「弟と妹の見舞いにだよ」

 ゴミを乗せたトレイを手にして立ち上がりながら、真一は答えた。



     ※



 午後1時を回ったころ、志田家のインターホンが鳴った。

「あら、青藍さん。いらっしゃい」

「どうも、また来ちゃいました」

 手土産のつもりなのか、青藍はケーキの箱を手ににっこりと志田由佳子に笑いかける。

「あらあら、悪いわねぇ。今日は朝から日が強いから、暑かったでしょ。どうぞ、入って」

「ありがとうございます。お言葉に甘えてー」

 言いながら、招かれるまま青藍は玄関をくぐる。彼女の足元には志田家飼い犬のシドがまとわりつき、来客を歓迎してくれているようだった。

「おやおやシドさん、元気ですねぇ」

「この子だけだよ、いつも元気なのは」

 言いながら苦笑いを浮かべる由佳子は、青藍の差し出したケーキの箱を受け取る。リビングへと続く短い廊下を歩きながら、

「気を使わなくてもいいのに。お茶用意するから、一緒に食べましょうよ、青藍さん」

「いいですよー、私も興味あったんですよ、それ。食べてみたいなーって」

「へー、ならなおさら楽しみね……あ、そういえば青藍さんはコーヒー派だっけ?」

「ああ、ええ。あの飲み物は頭が冴える気がしますんで」

「あはは、青藍さんは面白いねぇ。孝義はそこだから、どうぞごゆっくりね」

 妙に含みのある言い方をして、由佳子はリビングを経由してキッチンへと向かう。

 彼女の言うとおり、孝義はリビングのソファで携帯電話をいじっていた。ローテーブルを挟んだ先のひとり掛けソファでは、彼の姉の紋佳がいつものラフな格好で座っており、青藍を見ると片手を上げてにやっと笑う。青藍も、それに倣って手を上げ返事をすると、ちょうどそのタイミングで紋佳の膝にシドが飛び乗った。

 孝義はというと、一瞬青藍を見たあと、それを無視するようにすぐに携帯電話へと視線を落とす。

 青藍はそんな彼の隣に座り、顔を覗き込みながら訪ねた。

「……元気?」

「うん」

「……昨日の夜、何かあった?」

「別に」

「本当に何も無かった? ほんとに?」

「はぁ? 何なんだよ、お前おかしいぞ」

 少しいらついた様子で、孝義は顔をしかめる。由佳子の様子も特に変化がないことから、きっと彼女の目にもいつも通りの孝義に見えているのだろう、と青藍は思う。


 だが、


(……そんなはず、ないんだよな)

 青藍は頭のなかでそうつぶやく。昨日の晩、確かに青藍は孝義の中にある、『認識の根底』とも呼べる部分が確かに変質したのを感じ取っていた。

(本当に、何も……何も無かったのか?)

 その感情は、自分の担う仕事――青藍の所有者である孝義を危機から遠ざけるという本分を含んではいた。

(……私、なんでこんなに……)

 人間で言う鳩尾の辺りが収縮するような感覚。思わずその部分――胸の中心部分の服を掴み、青藍は体を折り曲げた。

(『心配』? ……不安? わからない――でも)

 右手にいつの間にか現れた本には、予報は全く飛んでこない。

 だが、その感情は自分の意志とは関係ない部分で、直感的に、あるいは野性的に孝義の危機を案じているように、彼女には感じられた。

「……ところで、青藍さん。今日はどういう?」

 用件で、と続く言葉をそこで止め、由佳子はコーヒーを青藍の前に置きながら聞いた。由佳子に気づかなかった青藍は、はっとした様子で体を正す。

「あ、いや……コレと言って理由もないんですけれど……なんというか、志田くんの様子を見に、って感じですかね」

 青藍は自分の前に座る紋佳と由佳子にだけ見えるよう、自分の隣に座る孝義に対して目配せをする。

 次の瞬間、紋佳と由佳子はニンマリと嫌な笑顔を浮かべ、お互い視線を交わすと、ほぼ同時に立ち上がった。紋佳の膝に座っていたシドはきれいに着地し、その勢いのまま青藍の膝へ飛び乗る。

「おや、シドさん、今度は私の膝ですか?」

 その言葉に耳を貸す素振りを見せず、シドは膝頭を枕に、太ももに沿ってぺたんと伏せの格好を取った。

「ちょ、ちょっと姉ちゃんも母さんも、どうしたんだよ急に」

 紋佳由佳子の母娘コンビが変な笑顔を浮かべていたのは、孝義にも見えていた。何事かと思い孝義も立ち上がるが、その肩をガッシと掴んで紋佳はソファへと押し戻す。

「孝義。私とお母さん、ちょっと出かけてくるから。そういえば夏のバーゲンがあるのよ、石田屋で。ねぇ、お母さん」

「うん。夏ものと秋ものの先行発売があるからね。今日はそれを標的にしてくるわ。今から行けばお昼前には着くわね」

「は!? いや、ちょっと待て、なんでそんな急に――」

 孝義は、もっともらしい理由を矢継ぎ早に言う母娘に抗議の声を上げるが、紋佳が肩に乗せた腕からは力が全く抜かれない。

「と、り、あ、え、ず。私と母さんは出かける。あんたは留守番。いいね」

「……はい」

 孝義が返事をしたのに少し遅れて、青藍の膝に乗ったシドがフンッ、と鼻を鳴らした。

「あとシドも、留守番ね」

 紋佳は苦笑しながら青藍を見つめる。その視線を受け止めて、青藍も同じように苦笑した。


 紋佳と由佳子を玄関で見送り、孝義はリビングへと戻る。


「んふふ……」

 青藍はにこにこと笑いながら、シドの耳の後ろを、指先で掻くように弄くり回していた。それに対し気持ち良さそうに首を傾げながら、シドはフンフンと鼻を鳴らしている。

「いやぁ、可愛いねぇシドちゃんは。ご主人とは違って素直な反応、大変よろしい」

「素直じゃないご主人ってのは、僕のことか」

 青藍の対面――さきほどまで紋佳が座っていたソファにどっかと腰掛けながら、孝義は青藍を睨んだ。

「他に誰が居るのさ」

「さあね」

 素っ気ない孝義の返事。視線を逸らした孝義を、今度は青藍が睨みつけた。

「さっきはご家族がいて突っ込んで聞けなかったけど……何かあったんだろ。解るんだよ」

「何かって、何だよ」

「キミの認識が大きく変わった。私にはそれが解る。キミの内面に強烈な変化があった。その原因が『何か』だ」

 青藍の的確な言葉。自分の事を何もかも見透かしたようなその一言で、孝義の顔は一瞬だけ引きつるように強張った。

「ただ、無理には聞きたくない。私にも感じ取れるほどの強烈な自意識の変化だ」

「…………」

「きっとそれは言葉にするには、少しだけ重いだろうと思うから。でも、可能であれば聞かせてほしい」

 相変わらずシドの耳の後ろをいじりながら、優しい表情で青藍は続ける。その表情と仕草。

 あまりに『人間らしい』その様子に、孝義の警戒が一瞬緩む。果たして、昨日決意した自分の意志を、青藍に話しても良いものだろうか。


 その葛藤が、緩む。


 だが、その緩みは次の青藍の言葉で一瞬にして元の通り、否、以前にも増して張り詰めることとなる。


「私はね、キミの事を生かし続ける義務があるんだ。鴉羽が君から代金として抜き取った『平穏』を生かし続けるためにも」


 孝義の心の熱が、消えていく。


「――へえ。義務ね」


 ……そう、こいつは人間ではない。鴉羽とかいう意味不明な存在の端末。今彼女が言ったように、孝義から奪った『平穏』という『人生の一部』を長らえさせるため遣わされた、『人間らしい』動きをするだけの、ただの人形。


(……忘れてた。こいつは、そう……こいつは文字通りの、『人でなし』だ)


 自分が青藍に抱いていた認識は、ズレている。孝義はそう思った。


(僕はこいつに心を許しちゃいけない。慣れるためだか何だか知らないが、近づいて来た犬飼を避けようともせず招き入れたヤツだぞ……)


 孝義のその思考は、犬飼との理不尽な邂逅を掘り起こす。思い出として喉元を過ぎたはずの感情が、もう一度彼の中で反芻された。

「……志田くん、その目は駄目だ。その目は、キミ自身を殺す」

「何言ってんだ、お前」

 既に青藍の忠告の言葉は、孝義には届かない。否、届いてはいるが、その言葉の真意は孝義の中で歪曲してしまっている。

「落ち着いて聞いてほしい。私は――」

「うるさいッ!!」

 孝義の大声に、青藍の膝に乗ったシドがビクッと体を震わせた。シドは器用に膝の上を後ずさり、ソファと青藍の間に収まると、上目遣いで孝義を見る。怯えたシドの背中を、青藍の手が優しく撫でた。

「……解った。私はもう、何も言わない」

「…………」

「キミの好きなようにやればいい。でも、自分を大切にするんだよ」

「それは、鴉羽のためか?」

 低い語調で、孝義は青藍に言う。彼の目はまだ、彼の知る貞野凛と同じ目をしていた。しかしながら、孝義にはその自覚は無い。

「……信じてもらえないだろうが、キミのためだ」

「へえ。そりゃどうも」

 あざ笑うようにそう言う孝義を、青藍は寂しそうな目で見つめた。シドは、まだ怯えた様子で孝義を見ている。



     ※



 夕の影がその姿を現し始めたころ、孝義は青藍を伴ってパトロールのために外へと出た。時刻は午後6時を指しており、疲れきった蝉の声が辺りに響いている。

 家の周りを歩きながら、孝義はふと差し込んだ眩しいほどに光る夕日を見る。西空には橙色に色づいた薄雲が足早に空を進んでいて、反対側の空には分厚い黒い雲がわずかに残る青い色に覆いかぶさろうとしていた。その奥には、夜の気配が色濃く見えている。


 彼らは無言のまま自宅近くの申酉通りを過ぎ、やがて孝義が一度死んだあの丁字路へと差し掛かる。

 ここで彼の人生は一度終わり、そしてふたたび始まった。

 運命は変わった。すでに工事を終え、新品になっている電柱に、孝義はそっと手を添える。

 周囲を見回せば、いつもの風景。少し歩けば、馴染みのコンビニエンスストアがある。


 何もかも変わらない世界で、彼だけが何もかも変わっていた。


 風が出ていた。生ぬるく、雨気を含んだ壁のような強い風が、孝義たちに一度のしかかった。それによって荒された髪を正しながら、青藍は孝義の背中に声をかける。


「志田くん、私は――私は、何も出来ないかもしれないけれど」


 彼は振り返らない。前だけを見て、彼は何も言わず夕日に焼けた町並みを見つめている。


「君が戦うというのなら、私はその隣にいる」


 その先。彼の睨む、その先に。


「君の決意が向かう先が間違いだとしても、私は君の隣にいる」


 市松人形のように整えた髪を持つ、セーラー服の少女と、青藍に似た顔をした、赤く短い髪の女性。


「行こう。この先が間違いだとしても、一緒に」


 青藍は言いながら、孝義の震える手を握った。



    ※



「お前たち、『本持ち』と『本』だろう。一体何の用だ」

 赤髪の女性は、鋭い敵意を隠そうともせず、立ちふさがった孝義と青藍に聞いた。

「貞野凛、だよな」

 だが、その質問を無視して孝義は言う。同時に彼は、青藍に握られた手を静かに振り払った。

「だったら何?」

 聞こえたのは、年相応だが、異様に惓んだだ低い声だった。深いくまを浮かせた目で、セーラー服の少女……凛は面倒そうに孝義を睨む。敵意に満ちたその視線の色は、孝義が以前動画でみたそれよりも、深く、どす黒く、鋭い。

「……話を、聞かせてくれるか」

「何の話よ」

「マスターキー連続殺人事件の話だよ」

「……!」

 青藍の口から出た、マスターキー連続殺人事件、という単語を聞いた瞬間、凛はまるで肉食獣のように歯を軋らせ、目を見開いて孝義を凝視した。肩口で整えられた髪がざわつき、隠し切れない殺気が彼女の周囲に満ちる。

 風が吹いた。青藍と赤髪の女は風に顔をしかめたが、凛と孝義は表情を変えず、互いをしかと見つめている。

「……私も、アンタに話を聞きたいね。何を、どこまで知ってるか」

「うるせえ。質問してるのは僕で、質問されるのはお前だ」

 言いながら、孝義は自分と、相対する凛を交互に指差す。決して交わらない意志と決意を持つ二人だったが、その目に燃える黒々とした炎は、驚くほどに同一のものだった。

「何も、言うつもりが無いなら……無理矢理にでも聞かせてもらう」

 緊張した空気を壊すように、孝義は一歩前へと出る。凛は微動だにしない。


 一歩、また一歩、二人の距離は縮まっていき、空気が段々と張り詰めていく。


「止まって。それ以上、こっちに来ないで」

 凛の口から発せられた言葉は、字面こそ懇願の形を取っていたが、声色や抑揚は命令のそれだった。孝義は一瞬足を止めるが、返事の代わりに一歩前へ踏み込む。その一歩で、それまで彼の耳に微かに聞こえていた大通りのざわめきが、すっと遠くなったように静かになった。心臓が高鳴る。二人の距離はおよそ3メートルほどに縮まっていた。

 もう一度、強い風が吹く。それに合わせにじり寄るように孝義が再び足を進めようとした、次の瞬間。



 孝義は、眼前の少女が、黒く膨れたような錯覚を覚えた。



「――!」

 熱いものに触れた時のように孝義は飛び退き、同時に彼は凛の手にいつの間にか何かが握られていることに気づく。


 ――黒い剣。


 繊維の流れを映したような、奇妙な刀身を持つ、日本刀に似た形の剣。

 そして、その切っ先から、赤黒い液体が滴っているのを、孝義は見た。

「あ……?」

 胸に感じた違和感に、今まで感じていなかった夏の熱さが蘇った。体が熱い。孝義の全身からは、どっと汗が噴き出す。


 同時に、腹から下にかけて、何か生ぬるいものがボタボタと地面に滴り、靴を濡らして地面に跳ねた。

「志田くん!!」

 遠くから、青藍の声がする。体の感覚が無い。血の気が引いていく。息が出来ない。頭が重い。


 がくり、と孝義の足から力が抜け、膝が地面についた。


「行くよ、深緋こきひ

 貞野凛と、深緋と呼ばれた赤い髪の女が、彼を見下ろしている。

 立ち去ろうとする二人の瞳を見上げながら、孝義は血にまみれた手を伸ばした。


 その手は、届かない。


 ふたたび、強い風が吹いた。

 孝義は、その風に押し倒されるように、自分の血だまりの上へと倒れこんだ。

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