第10話 マスターキー連続殺人事件(3)
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その深々とした両の眼は
空虚と暗黒から成り
巧みを凝らして花に装われたその頭蓋は
彼女のか細い脊椎に載って
なよやかに揺れる
――シャルル・ボードレール「惡の華」より
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10
翌日。
孝義の家には朝っぱらから再び青藍が来襲するなどして順調に平穏を侵されながら、彼は真一との待ち合わせのため武方駅へと向かった。
孝義が到着した頃には、既に真一がうだるような暑さの中、だらりと伸び切って駅前のベンチに座っており、その隣には緑青が暑さを感じさせない涼しげな顔で座っていた。
「おう青藍。遅かったな」
真一がそう言うと、青藍は目の前の空気にチョップをするような格好でウインクをしながら、
「ごめんねぇ犬飼くん、待ったァ?」
と言う。真一は面倒くさそうに舌打ちをひとつすると、青藍の後ろから歩いてくる孝義に向かって手を振った。
「よっ、元気か?」
「悪い犬飼……遅れた」
「……なんだか、妙に元気ありませんね」
緑青が不思議そうに言うと、孝義は枯れたため息を一つつく。
「まぁ、いろいろあってね……」
遅れた原因は、青藍と孝義の姉である紋桂、そして母親である由佳子がひたすらおしゃべりを続けたせいで、話の内容は孝義の幼少期の失態に終始していた。庭先に浅く埋め忘れていたタイムカプセルを軍用シャベルと重機で掘り返されるような悪夢を眼前で展開され、既にその時点で孝義の心は折れていた。そしてこれ以上自分の傷を深くしないために静かに家を出ようとしたところに青藍が合流、今に至る。
暑さでぐったりしている真一とは対照的に、精神的にぐったりしている孝義が居た。
「いろいろ、ですか。まあ詳しくは聞きませんけど、お疲れ様です」
緑青はそう言い、恭しく頭を下げた。
「で、緑青。その『
真一が首にかけたタオルで首元を拭きながら言う。緑青は正面のビルを指さしながら、
「ええ、お会いしたのがあそこの下でしたので、同じ場所で、昨日と同じ時間にお会いしましょう、とお伝えしました」
緑青の指先に誘われるように、彼女以外の三人はマンションを眺めた。
赤いレンガを模した外壁のタイルが、鈍く夏の日差しを反射している。
孝義はなんとなく、そのマンションへ近づきたくないと感じた。嫌な予感を感じながらも、彼は緑青に聞く。
「それじゃあ、緑青がその『髪鑢』の人と会ったのは何時なんだ?」
「多分もうそろそろかと。行きましょうかみなさん」
そして立ち上がった緑青を先頭に、孝義を最後尾にして、四人は歩き出した。距離にして百メートルもないほど。すぐにマンションの前へと到着し、緑青はキョロキョロと周囲を確認する。
「あ、居ましたね、あそこに立ってる方です」
緑青が指さす先――マンションの入口、階段の下。そこには髪の長い長身の女性が立っており、デニムにTシャツと、かなりラフな格好をしている。
(――CMで見るような、綺麗な髪だな……)
孝義がそう思っていると、
「この時間暇ってことはよォ、大学生か何かなのか?」
と犬飼が言う。
「なんで?」
「だってよ、基本的に社会人の夏休みなんて多くっても五日か六日くらいだしよぉ、七月のこの時期に夏休み取るって人も、あんまり居ねぇんじゃねェか?」
「ふぅん……」
そういうものなのか、と孝義は緑青に着いていきながら考える。
やがて女性は緑青に気づいたようで、こちらを見て微笑むと手を振った。
「すみません、今日はお呼び立てしてしまって」
「気にしないで、『本』と『本持ち』の仲だし、ね?」
緑青に気さくに話しかけながら、女性は孝義たちをちらりと見る。
「――後ろの三人が、例の?」
「あ、では一応
「ええ、お願いします」
女性の返事を受け、緑青は女性の隣に立ち、孝義たちに向き直った。
「こちら、
「初鹿野洋子です。美容師やってます。皆さんよろしく!」
洋子はそう名乗りながら、頭を軽く下げる。滑らかな髪は少しの動きで肩から胸にかかり、頭を上げると同時に彼女はそれを背中側へ優しく払った。
(いやぁ……なにこの綺麗な人……!)
孝義の目には、洋子の仕草の一つ一つが妙にキラキラして見えた。夏の強い日差しがキューティクルを輝かせ、美しい長い髪は波打つように洋子の動きに合わせて揺れている。ラフな格好ながらも隙のない雰囲気と、整った顔立ち。なおかつ孝義の大好物である切れ長の目と薄い唇が自分に向けられているだけで、なにやらニヤニヤしてしまう。
(あらやだ……! 本当に美人! なにこの人!)
興奮と一種の感動による何らかの生理的作用により、孝義は心臓あたりがモニョモニョし始めた。
「で、こちらの大きな方が、犬飼真一。私の持ち主です」
「ああ、そうなんだ。よろしく、犬飼くん」
「……っ!」
手を差し出され石像のように固まっている真一。どうやら孝義と同じように感じているようだったが、孝義の数倍のダメージを受けているように見える。
「……犬飼くん?」
顔を少しだけ傾け、背の高い犬飼を見上げるような表情で、洋子は言う。その仕草に犬飼はビクッと体を震わせると、差し出された手を勢い良く握る。
「ええと! ……はじめまして、犬飼真一です」
そして妙にダンディな声で自己紹介をした。洋子は真一によろしく、と返す。
「大きいねぇ、何センチ?」
「百九十丁度です、あのムースクラウスと同じ身長です」
(誰だ「あのムースクラウス」ってのは。どのムースクラウスだ)
全く知らない人間を例えに出され、孝義は心のなかでツッコミを入れる。
こめかみのあたりがピクリと動いた青藍も、おそらく同じツッコミを頭の中に浮かべたはずだった。
「ふふ、面白いね犬飼くんって。手も大きいなぁ」
「はは、良く言われますよ」
「そうなんだ、大学生?」
「ま、高3ですね」
「わ、かなり年下だねぇ、元気いいなぁ〜」
謎のテンションによって話法がメチャメチャになっている真一に対し、にこやかに洋子は微笑む。それから彼女は孝義と青藍に目を向け、先程と同じように手を差し出した。
「初鹿野洋子です。よろしくね?」
孝義の緊張は先ほどの真一の自己紹介でかなりほぐれていた。なるべく爽やかになるようにニコリと彼は微笑む。
「志田孝義です。こっちは僕の『本』の青藍」
孝義が青藍の紹介をすると、洋子は次に青藍に向き直った。
「よろしく、青藍さん。初鹿野洋子です」
「ええ、よろしく」
孝義と青藍にそれぞれ握手をし挨拶を済ませると、洋子はニッコリと笑い歩き出した。
「外暑いし、どっか入らない? ファミレスとか?」
「いいですね、それじゃあ、あそこへ行きましょうか」
洋子の提案に対し、緑青は同じようににこやかにそう答える。
(なんだかあそこが溜まり場になりつつあるな……)
孝義はそう考えながら、皆の後に続いた。
もちろん彼らの言う『あそこ』というのは、件のハンバーガーショップである。
※
孝義たちを見るや、また来やがった、と言わんばかりに一瞬嫌な顔をする店員に注文を済ませ、彼らは店の奥まった席へと移動した。いつもの窓際の席は椅子が四つしかない。それに今日は特に日差しが強かった。冷房が利いているとはいえ、そこに長時間座るのは躊躇われる。
コーヒーとお湯が切れているとのことで、緑青と青藍はレジ付近で足止めを喰らった。さらに洋子の注文した品は作り置きがなかったらしく、孝義と真一は先に席に着くと、それと同時に深い湿ったため息をついた。
「はぁ……いやァ、志田よォ……あの人すげェ美人だな」
「だよな……すごい美人だ……」
彼らはそう言いながら二人でうんうん、と意気投合していた。ただ、孝義は少し気にかかることがある。
「だけど何ていうか……格好とかはラフで美容師らしいといえばらしいんだけど、なんかちぐはぐな感じしないか?」
「……どういう意味だよ?」
「外見は確かに美容師、って感じがするんだけどさ、どっちかと言ったら、メイクの雰囲気とか社長秘書とか、受付嬢って感じだろ」
「……ああ――なるほど確かになァ」
「なんかこう、違和感ってほどの違和感でもないんだけどさ……」
孝義の謎の違和感は、普段から姉や母の化粧を見ているからこそ解るものだった。特に母の由佳子は、職業柄集まる人間の種類が違う様々な場所へ出かけることが多く、その都度化粧の方法を変えている。
(……まぁ男の僕が、化粧について何か指摘できるわけでもないか)
そう孝義が思っていると、遅れてきた女性陣が到着し、全員が席に着く。
最初に口を開いたのは洋子だった。
「緑青さんから聞いたけど、二人はーええと、志田くんと犬飼くんの二人は、『マスターキー連続殺人事件』のことについて知りたいんだよね? どうして?」
どうやら緑青は伝えるところは伝えているようで、ことのほか話はスムーズに進みそうだった。
「多分疑問に思われてるのは当然だと思います。ですから、一応僕たち身の上というか、僕らが『マスターキー連続殺人事件』の犯人を追わなきゃいけない理由を聞いて欲しいんです」
神妙な顔つきで、孝義は言う。自分の家族を守るために、今はどんな情報でも手に入れたいと彼は思っていた。
「……そうだね、聞いても良いなら、ぜひ」
「分かりました。それじゃあ一応、手短に」
それから孝義と青藍は手短に今彼らが置かれている状況と、何故『マスターキー連続殺人事件』を追わなければならないかを、かいつまんで話した。
時々犬飼や緑青が注訳を入れたりなどしつつ、話は進む。だが、手短といえど説明すべき内容が多く、結局話し終わるまでに三十分ほどの時間を要した。
話を聞いた洋子は、腕を組み考えこむような表情をしている。
「なるほど。キミが二回も狙われた挙句、家族が危なくて、そして『人を殺してはいけない』っていうルールを破る『裏技』……」
「はい。多分、初鹿野さんも『本』から聞いていると思うんですけど……」
「そうだね。
洋子はそう言ってフィッシュバーガーを食べる。口の端にタルタルソースがついて、それを左手の薬指で拭い、その指を口に含んだ。そしてその仕草を、犬飼は食い入るように見ている。
(ま、まぁ……確かに? 仄かにエロいというか?)
なんとなく再び心臓のあたりがモニョモニョし始めそうになり、孝義はそれを必死に脳内の言い訳で押しとどめた。
「ところでさ、初鹿野さんの『本』はどこに居るわけ? えーと、あのほら、のし……?」
突然、半ば嘲笑に似た笑顔を浮かべた青藍が、洋子に聞く。
「ああ、
「なんでですか?」
孝義が聞くと、洋子は困ったように笑う。
「なんていうか、ほら、青藍さんと緑青さんみてても解るけど、彼女たちって個性的じゃない?
「ああ、なるほど」
身にしみて『本』が個性的だという事を知る孝義と犬飼は、二人同時にそう言って頷いた。
それから互いに自分の『本』へと目を移して、諦めたようにため息をつく。
そんな二人を見て、洋子は苦笑しながら続けた。
「そういうことだから、連れてこなかったんだよね」
「へえ、なるほどね」
青藍はつまらなそうにそう言い、コーヒーを一口飲む。
「あ、いや、別に『本』の悪口を言っている訳じゃないんだよ、ごめんね」
バツが悪そうに洋子は手を振ると、苦笑いを浮かべながら言う。
「ええと、それじゃあ、今度は私が話す番だよね。どこから話そうかな……」
話す内容を考えている洋子を見て、孝義は身構えた。どんな話が聞けるのかという期待が半分、少し恐怖に似た気持ちが、半分。そんな彼の視線を受け止めて、洋子はすっと視線を切る。
「……それじゃ、順を追って話すね」
その言葉を皮切りに、洋子は少しずつ顛末を話し始めた。
彼女が言うには、最初の事件の生存者である貞野凛――その姉である貞野涼と彼女は友人だったらしい。もちろん貞野凛とも面識があったようで、事件が起きる前はよく話したりもしたそうだ。だが、事件が起きてから全く連絡が取れないらしい。
そして、
「あと、凛ちゃんは、あの事件で『本持ち』になっていると思う」
「えっ……」
その一言で、孝義の背にはゾッと鳥肌が立った。
(やっぱりか……!)
ノートパソコンの液晶越しに孝義を睨みつけていた、黒く燃える瞳。あの人間が、もし『本持ち』になっているとしたら、或いは『マスターキー連続殺人事件』のような猟奇殺人を起こしかねないと孝義は思う。
「それじゃあ、貞野凛は、まさか……」
「……残念だけど、とても可能性は高い。それに……」
そこで洋子は言い淀む。
「――私、彼女が居た現場に、偶然居合わせたの」
※
「確か――三件目の事件の時だったかな。半年くらい前だったと思う。私の職場のすぐ近くの、かなり大きいマンションだったんだけど……仕事が終わって、私が帰る途中だったかな。ここからもそう遠くないよ」
そこで一旦、洋子はコーヒーを飲む。
「凄い音がしたの。なんていうか、金属を切るような音っていうの? そう言う音が聞こえてきて……」
「ドアを切ってる音ですかね?」
真一は身を乗り出して聞いた。さっきまでの呆けたような顔ではない。
「多分、そうだったんじゃないかな、って今は思う。それで――ほら、私も一応『本持ち』で能力があるわけじゃない? だからその音がした階に行ってみたのよ」
「ちなみに家って仕事場の近く?」
突然青藍が言う。
「いえ、私の家はちょっと遠くて……えっと、国道をもう少し南に下ったとこの、川向こうなんだけど――」
「ふぅん……」
気のない返事の後、青藍は背もたれに身体を預けながらコーヒーを飲んだ。
「……部屋のドアは切り裂かれてた。こう、真一文字っていうか、そんな感じ。ドアの上半分がマンションの廊下に落ちててね……その中から、黒い剣みたいなのを持った凛ちゃんが、血まみれで出てきて……」
「なるほど――となると、やっぱり彼女の能力は……」
「間違いなく、『
孝義の言葉に、真一は同意する。
「ええ、能力の名前は、私も後で熨斗目花から聞いたよ」
洋子もそれに同意する。孝義が青藍と緑青に目配せをすると、二人はほぼ同時に頷いた。
「それから、凛ちゃんは、私に切り掛かってきたの。一応ね、私も『
少し涙ぐみ、洋子は天井を見てため息をついた。
(自分の親友の妹が、親友を殺した真犯人だった――)
それが自分の身に降り掛かったとしたら、自分はどうするだろうか。孝義はそれを考える。
だが、一つ疑問が浮かんだ。
(どうして彼女は――貞野凛は人殺しを続けてるんだ?)
孝義は洋子を見ながら思う。
(――例えば虐待を受けていた事に対する恨みだとかで家族を殺したとして、それで終わりなんじゃないか? ずっと殺しを続けていく理由なんて無いじゃないか……)
彼の脳裏には、動画で見た、言いようのない表情をした貞野凛がちらつく。
(いや、いやいやいや、待て待て。そういえば彼女はその時出かけていたんじゃなかったか? 外泊中って……)
孝義は事件の内容を思い返す。確か貞野凛は外出中で、そのせいで事件に巻き込まれずに済んだはずだった。
(だけど、それならどうして、人を殺すんだ?)
孝義には、彼女の人生に何があったのかを知る手立ては無い。だが、おそらく彼女にとってこの事件は、彼女が加害者だろうと被害者だろうと転機と言うには生やさしいほどのインパクトを持っていただろう。それが彼女を変えてしまったのだとしたら、仕方の無いことかもしれない――彼はそう思う。
「それで、私っ……」
洋子はそう言うと、顔を覆って肩を震わせた。
「初鹿野さん!? ええと! あの、ちょっとあの、その……!」
真一はオロオロしながら、テーブルに据え付けてある紙ナフキンを手に取ると、それを洋子に差し出す。今回ばかりは緑青と青藍は笑うことをせず、真面目な目をして洋子を見つめていた。
「あのっ、これ! 俺ハンカチとか持ってなくて、その……」
「……?」
潤んだ瞳で真一を見上げるその表情は、いろんな意味でずるいと孝義は思った。彼がそう思うのだから、真一は四割か五割増しでその影響を受けているだろう。
洋子は無言でその紙ナフキンを手に取り目許へと押し付けると、声を殺しながら泣いた。
泣き止んだ洋子は目を赤くしながら、机をじっと見つめている。
「それで、どうしようか」
言いようの無い沈黙を破ったのは、その洋子自身だった。少し赤くなった目を孝義と真一の二人へ向け、苦笑に近いような微笑みを浮かべる。
「そうですね……」
言いながら、孝義は天井を仰いだ。
(確かに初鹿野さんは僕たちなんかより、長い時間事件と関わっているけれど……)
そこまで考え、彼はちらりと青藍を見る。青藍は腕を組んだまま目だけを動かして孝義を見ると、少しだけ肩をすくめた。
(初鹿野さんには悪いけれど、特に重要な手がかりがあったワケでもない……多分、青藍も同じ考えだろう)
期待していたような成果を得られなかったことで、彼は自分の焦りを自覚する。どうすれば家族を救えるのか、その手段が今、彼の目の前には見当たらない。
少し全員が黙ったところで、緑青が口を開く。
「そうですね……一応パトロールみたいなことをしてみるしか……」
「だな……丁度俺も志田も夏休みだろ。夜時間あるならやってみねェか」
「それしか、ないか……」
絞り出すようにそう言う孝義を、洋子は申し訳無さそうに見つめている。
「ごめんなさい、あまり力になれなくて……でも、本当に犯人を捕まえるつもりなの?」
「ええ、今やれることは、それしか無いですから」
「そう……でも……」
洋子は言い淀みながら、少し残念そうに目を伏せる。彼女がその先に続けたかった言葉を、孝義は充分に承知しきっていた。
(危ないことなのは知ってる。だけど……母さんや姉ちゃんを守るためには……犯人を僕が止める以外にないんだ……)
彼はそう思いながら、窓の外の雑踏を見つめる。ガラス一枚を隔てたその景色が、なんとなく彼には遠いものに見えた。
※
孝義たちは洋子と別れ、駅までの道をとぼとぼと歩いていた。
(平穏の無い、人生か……)
自分一人で抱えられるものであれば、それで良いと孝義は思っていた。それに、自分が生き返った事でこんな事が起こるなどと誰が想像できるだろう。
(こんなことなら、僕は生き返らない方が良かったのかな……)
もし自分が生き返らなかったら、どうなっていただろうか。彼はそう考える。
あの死体を見た時、多分家族は皆悲しむだろう。僕が死んだ事を知ったクラスメイトたちは、どう思うだろうか。きっと犬のシドは僕の部屋を時々見て、居ないなぁなんて思ってとぼとぼどこかへ行くだろう。そしてそのうち、皆忘れてしまうんだ。
その方が、幸せだったのだろうか。
その方が、皆に迷惑をかけずに済んだんだろうか。
その方が、僕が死んだ方が良かったのだろうか……。
彼は歩きながら、自問をひたすら繰り返す。その答えは出ない事を知りながら、その上で彼は赤本の言葉を思い出した。
――きみのノンベンダラリとした、その日常を頂くよ――
まだ高い太陽が、彼の肌を焼く。
(日常って、なんだろう……)
一度死ぬ前の、普通の生活。あの生活こそが日常だとするなら、果たして自分はそれを失っただろうか。
(いや、まだ……まだ、失ったワケじゃない……)
昨日も今日も、朝起きれば家族が居て、シドが駆け寄って来てご飯をねだって来て……いつも通りの日常が繰り返されて来た。確かに変化した部分は大きい。青藍や真一、緑青、そして洋子と出会った事は、死ぬ前の彼の日常からかけ離れていることは間違いない。既にそれが彼の日常になりつつあった。
(でも、待てよ――それなら……)
夏の太陽で焦れた地面を踏みながら、彼は考える。
(今僕が過ごしてるこの日常は、本来の僕の日常じゃ無い……?)
陽炎のように彼の視界は揺れる。それが落ちかけて尚強い日差しのせいなのか、熱のせいなのかは定かではない。
(それじゃあ、今の僕は、なんだ?)
その問いに答える者は、誰一人としていなかった。
※
「ただいま」
孝義はそう言うと、静かに玄関の扉を閉める。すると、奥から軽い足音を立て、飼い犬のシドが走って来た。黒い目をくりくりと動かして、シドは孝義を見上げて足もとにまといつく。
「はいはい、ただいまただいま」
フローリングの廊下をシドと一緒に歩き、リビングへ。開いたままのドアをくぐると、すぐ隣のキッチンから、紋佳がいつも通りに気だるい様子で、
「おう、おかえり」
と孝義に言う。どうやら晩御飯を作っているらしく、良い匂いのする鍋に木べらを突っ込み、ぐるぐるとそれを混ぜていた。
その奥で、キッチンの窓を少しだけ開けて、由佳子が煙草を吸っていた。
「あら、青藍ちゃんは一緒じゃないの?」
少し茶化した様子で由佳子は笑う。
「青藍は青藍で、家族と一緒に飯食うんじゃないかな」
由佳子の問いに、孝義はそう言いながら肩をすくませた。それを見て、由佳子も同じように肩をすくませる。
何気ない会話。
何気ない日常。
母の由佳子と、姉の紋佳と、シド。
それを脅かしている、『平穏』の無い自分の人生。
(……僕は――)
どうすれば良いのだろう。と自問しようとして、彼はその考えを頭から振り払った。
(どうすれば良いかなんて、決まってる――)
彼は自分の部屋に入り、そっとドアを閉めた。
孝義は机に向かう。椅子に座り、テーブルの上に置かれた、閉じたノートパソコンを見つめた。
「…………」
彼は無言で、かつてそのディスプレイに浮かび上がった、恨みと怒りと憎しみと、そういったあらゆる黒々とした感情を練り上げたような目をした少女を思い出す。
あの目は、恐ろしい。
あの目を、思い出したくはない。
だからこそ、恐ろしいからこそ、思い出したくないからこそ、今思い出す必要がある、と彼は思った。
そして――
そして、再び志田孝義は独考する。
__________________________________________________________
僕が生き返った理由が、今はっきり解った。
あの時、トラックに轢き潰され死んだ僕が、なぜ『平穏』を代償に生き返ったのか。
仮に、僕があの時、人生をあきらめていたら、どうなっていただろうか。
きっとシドは、僕の部屋の前をウロウロして、僕が居ないのを不思議がるだろうな。
姉ちゃんは、ひとしきり泣いた後、半年か一年くらい経ったら、スッカリ立ち直ってるかもしれない。でも、彼氏にフラれた時とか、結構長い事落ち込んでたし、もしかしたら立ち直るには時間がかかるかもしれない。
母さんは、多分隠れて泣くんだろうな。夜とかこっそり起きて来て、お気に入りのコーヒーを飲みながら、キッチンの窓を少しだけ開けて、さっきみたいに煙草を吸って……。
そして、きっと姉ちゃんや母さんは、貞野凛のように、僕を殺した見えない誰かを延々と恨み続けるだろう。
だから。
だから僕は生き返ったんだ。
僕の家族を、貞野凛のような目に遭わせないために。
家族の平穏を守るために、僕は生き返ったんだ。
僕の人生に『平穏』が無いなんてことはどうでもいい。
僕の人生に『平穏』が無いから、僕の家族が危機に瀕しているならば、代わりに与えられたこの力――『内燃器官』で、その危機すべてを僕が撥ね除けてやる。
そうすれば、きっと母さんや姉ちゃんは、平穏に暮らす事が出来る。
そう、そのための力は、既に僕の手の中にある。
守るんだ。
何があっても。
死ぬ訳にはいかない。
殺される訳にはいかない。
僕の手で、守るしかない。
それなら、僕は……。
犯人を、殺す以外にない。
__________________________________________________________
孝義はそう考えながら、ある言葉を思い出していた。
意味の無い命など存在しない。命には、生まれた理由が必ず存在する。
おそらくその言葉は人を慰めるために使われるものであり、今生を全うするためのもっともらしい言い訳の一つだった。生まれたときからその意味を知っていれば、人間はどれだけ生きやすいだろう。
繰り返して記す。
数日前、一つの事故が起きた。何の変哲も無い、ただの自動車事故。その事故に巻き込まれたのは、志田孝義という、これまた何の変哲も無い少年だった。
だが彼は一度死に生き返った。
そして、元来一度しか経験できないはずの死が、その一度の死が、彼に強烈な人生の大悟を与えた。
与えてしまった。
平穏を失った人生のすべてを使って、家族の平穏を守る。
彼が平穏を失うべくして失ったのか、そうでないのかは定かではない。ただ、平穏を失ったことで得た力と、辿り着いた自分の命の答え。その大悟は、彼を『マスターキー連続殺人事件』という非日常に向き合わせるには充分な力を持っていた。
(……誰かは知らないが、僕の家族を殺すというなら)
拳を強く、強く握りしめる。
深呼吸をせずとも、既に彼の左胸は強く拍動していた。
(――殺してやる)
その時。
(必ず、殺してやる)
孝義の瞳は、彼の良く知る瞳の色をしていた。
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