第08話 黒い夜

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夜は黒……銀箔の裏面の黒。

滑らかな潟海の黒、

さうして芝居の下幕の黒、

幽霊の髪の黒。


夜は黒……ぬるぬると蛇の目が光り、

おはぐろの臭のいやらしく、

千金丹せんきんたんかばんがうろつき

黒猫がふはりとあるく……夜は黒。



――北原白秋「夜」より

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     8



 その後、孝義と青藍はしばらくとりとめのない会話をした。会話の種が尽きた頃、今後用がある時は『会いたい』と意識してくれさえすれば駆けつける、と青藍は言い残し、店を去っていった。


 孝義は別れる直前、青藍がどこで寝泊まりをしているのか、という疑問を抱いたが、おそらくそれは彼女が食事を摂らないのと同じように、聞いても無駄なことの一つなのかもしれない、と思い直し、開きかけた口を閉じると彼女の背中を見送った。


 それから5分ほど後に彼は店を後にし、家に着いた頃には時刻は午後七時を回っていた。由佳子と紋佳に青藍とのことを散々冷やかされながら晩御飯を平らげ、彼は今朝の朝刊を手に自室のノートパソコンを開く。『マスターキー連続殺人事件』のことを調べるためだ。


 彼はまず、パソコンを立ち上げながら新聞記事を確認する。


 内容は次の通りだった。


     ※


『マスターキー連続殺人事件 またも被害者』

 昨年の十月十五日、嵯峨崎市中央区武方たけがた、国道沿いにある武方団地二号棟で起こった一家惨殺事件から始まった連続殺人は、昨日深夜の事件で十件目、被害者数は延べ三十二名となった。玄関のドアなど家屋の入り口を金属製、木製問わず何らかの方法で鋭く切り裂き侵入するという手口から、近頃ではネット掲示板等を中心にマスターキー連続殺人と呼ばれ始めている。

 二十一日深夜、近所に住む男性が犬の散歩をしていたところ、斜めに切り裂かれ、血液のような液体が付着した金属製のドアが路上に転がっているのを発見、警察に通報した。明けた二十二日、近所に住む菅原良樹さん(35)宅の家のドアが切断されているのを、同じマンションの住民が警察に通報。警察の調べにより前日通報されたドアと切断面が一致し、警察官が家の中を調べたところ、良樹さんを含む智子さん(36)亮太ちゃん(6)の三名が血を流し倒れているのを発見した。被害者はいずれも鋭利な刃物らしきもので切り裂かれており、犯行の特徴などが過去九件の事件と酷似していることと、被害はすべて嵯峨崎市で発生している事から、警察はこれを同一犯として捜査を開始した。

 犯行はいずれも住人が寝静まった頃を見計らって行われており、明らかな計画性を伺わせる反面、一連の被害者に目立った共通点が無いなどの点から、捜査は難航を極めている。

 事件発覚後の記者会見において、捜査本部は一連の事件で切り裂かれたドアや、被害者の傷口に被害者たちのものではない毛髪が付着していたこと、また一部の被害者の髪が切られ持ち去られていた事を発表した。ドアの毛髪については犯人につながる証拠の可能性がある、とのことだったが、いずれも損傷が激しく、特定には時間がかかる見込みだという。

 県警はこの事件に対し三度に渡ってパトロールなどを強化してはいるが、犯人の手がかりは一向に掴めていない。会見中も詰めかけた記者たちが焦りの声を荒げ対応を迫るなどの場面が見られ、今回の事件の難しさを物語るものとなっていた。

 また、一連の犯行の唯一の共通点として、目撃者がほぼ皆無だということ、エレベータや監視カメラのない家屋やマンション、団地を狙っている傾向が強い、とも発表され、県警はさらなるパトロール等の強化を約束し、その上で市民にさらなる警戒を呼びかけた。今後、警察が犯人を特定するにあたって有力な情報には懸賞金を支払う予定だとも発表され、警察関係者全員が一様に沈痛な面持ちのまま会見は終了した。



     ※



「……うぇ、なんじゃこりゃ。猟奇だなぁ」

 読んでいる最中にも顔をしかめてしまうほどに、記事の内容は異様なものだった。特に、今まで32人もの人間を殺したのが自分と同じ『本持ち』の仕業かもしれないということが、彼にはにわかに信じられなかった。同じ境遇で生き返った人間が、こんな事件を起こせるのか。彼はそう思う。

 だが、彼は少し気分が悪い、と感じる反面、こういった事件に何かしらの興味をそそられていた。

 彼は真剣な面持ちのまま、ブラウザを立ち上げ、『マスターキー連続殺人事件』を検索する。ニュースサイトの他に、事件のあらましをまとめた個人サイトや掲示板の書き込み等が見つかった。孝義はとりあえず、検索結果の一番上の記事をクリックしてみる。

 どうやら記事は昨日のものではなく、一つ前――9件目の事件のもののようだった。被害に逢ったマンションの遠景写真が、記事の文章に取り囲まれるように載っている。

(これ、駅前の一番でかいマンションだ……)

 彼は、そのマンションが数年前に駅前に広がる林を切り開いて建てられた事を思い出した。建設当時は『自然を潰すな!』などと書かれた横断幕が、周囲に所狭しと張られていたのを記憶している。

「何年も経たないうちに事故物件か……大変だなぁ」

 彼はそう独りごちて顔をしかめた。

 それから彼は改めて、事件の起きた日付――『十月十五日』という単語を追加し、数件のニュース記事を読んでみた。だがどれもこれも記事の内容は新聞とさほど変わらない。少しゴシップ臭のするとあるニュースサイトでは、マスターキー連続殺人の特集が組まれており、今まで起きた10件の事件の内容が事細かに記載してあった。眉唾ものではあったが、順を追って項目を呼んで行くと、新聞に書かれていた通り手口は全て同じに見える。

(お? 最初の事件だけ、ちょっと違うな……)

 記事を見ながら、孝義はふと思う。最初の事件は新聞に書いてあった通り、昨年の十月十五日に起こったものだった。


 武方団地の最上階、金属製の扉を真一文字に斬って犯人は侵入し、一家を惨殺。そこには家族四人が住んでいたが、娘二人のうち、妹だけが外泊中だったため事件に巻き込まれずに済んだとのこと。

 さらに調べていくと、その家族の葬式らしき動画も見つかり、ニュースキャスターがこれでもかと悲劇を強調して様子を述べていた。画面のテロップから察するに、その家族は『貞野さだの』という名字らしい。


(……いやだな、こういうのは)

 自分の家族が死んだとき、こうやってはやし立てられたら、多分自分は耐えきれない……と、孝義は思う。だからだろうか、いよいよ出棺という時でさえ、カメラの中心に捉えられた少女が、感情のブレを感じさせないしっかりとした足取りを保っていることに、孝義は多少の違和感を感じる。

 少女は大人たちに囲まれているせいか、とても小さく細く見えた。同時に市松人形のようなおかっぱ頭のためか、とても冷たい印象を受ける。

 だが、彼女の華奢な肩は震える事も無く、しっかりとした様子を保っている。現に、画面上の彼女からは、おおよそ感情というものを読み取ることができなかった。

(しかし、こういうのって、拒否したら取材できなくなるもんなんじゃないかな……)

 彼がそう思っていると、少女の親戚らしき人物が、ぜひ犯人を捕まえてほしい、と集まった記者たちに訴えかける場面が映し出された。

「この子は、凛ちゃんは、一人になってしまいましたァ……! どうか、どうか犯人を、警察関係者の皆様、そしてこの放送を見ている皆様、絶対に、絶対にこの子の家族の無念を、どうか、どうか、晴らしてやってくださいイィ……!」


貞野さだのりん、か……)

 少女の名前を呼びながら、涙ながらに訴えかける男性は、どうやら彼女の叔父らしい。葬儀を公開する事によって目撃情報等を募る目的のようだったが、傍らに立つ少女の気持ちを考えると、孝義にはその行為が正気の沙汰とは思えなかった。

 少女は、じっと俯いたまま、あらゆる方向から襲う無慈悲な白いフラッシュを、まぶたすら動かさず徹底的に無視している。ニュースキャスターが『凛さん、凛さん、今のお気持ちを!』などと声をかけているが、カメラに視線を向けることすらしなかった。沈黙を貫き通した少女に対し、女性のニュースキャスターは『言葉にならない様子です』とコメントする。


 だが、孝義はその言葉に違和感を覚えていた。


(――多分、違うな……)


 ちらりと画面に映った、少女の顔。


 その眼。


 俯いてはいたが、その眼光を、彼は見た事がある。


 激しい怒りを彼にぶつけてきた、真一の眼。あの眼光。


 否、怒りと言うには生易しい。不条理に対し爆発寸前まで圧縮された、猛烈に渦巻いている殺意に似た何か。

 真一はぶつける相手――孝義が眼の前に居た分、まだ心の平衡を保っていられたのだろう。だが、この少女は――凛は違う。


 凛は、煮えたぎり粘性じみたそのドス黒い感情を、眼の奥に押し殺し続けている。誰かも解らない犯人に対する、捻れ渦巻く澱み切った思いが絶えず心の内から注ぎ足され、濃度と量をひたすらに増していた。そして焦げ付いた澱みは、彼女の眼から溢れ出し、液晶越しに孝義の心臓を鷲掴みにしている。


 真一と相対した時に見た、あの眼の色で。


(……っ)


 孝義はその眼をもう見続ける事ができず、動画の再生を途中で止め、ブラウザのウインドウを閉じた。体にはドッシリとした疲れがのしかかり、彼は思わず顔を覆って大きなため息をつく。

 少女の表情はまだ、彼の瞼の裏に焼き付いていた。



     ※



 それから少しの休憩を挟んで、彼は様々な方法で検索を試み、様々なサイトを覗いた。

 その中でも孝義の眼を引いたのは、有志が情報を集めたウィキのページ。掲示板の書き込みからの引用や、事件が起きた場所の詳細な地図が解りやすく記載されており、一見有用な情報が期待できるかと思われたが、蓋を開けてみれば様々な予測や警察関係に対する苦言が連なっているだけで、特に重要な情報は得られなかった。

 ただ、『犯行手口の予測』という項目は孝義にとっても興味があり、なんとなく彼はその項目を開いてみた。

 中には数種類の細分化された項目があり、『機械使用説』や『超自然現象説』など、様々な項目がひしめいている。


 内容は、

『金属製のドアをマスターキー連続殺人事件のようにぶった切るためにはコレコレこういう道具が必要で、こうすれば犯行は可能』

 などと手口を推察するものもあれば、

『扉を斬ったのは事件後なんじゃないのか? 話題性のために』

 と愉快犯であることを予測したり、

『まず扉を切る音でバレるだろ常識的に考えて……』

 と、事件そのものが捏造されている可能性を示唆したり、

『そもそも人間の仕業じゃねーだろこんな不自然な事件。嵯峨崎にエイリアンでも来たんじゃないの?』

 などと人外のものの犯行だと冗談めかして書いたものもあった。


 そしてやはり、というべきか、ふざけ半分のものが大半を占めていた。有用な情報は得られないまま、彼はそのサイトを閉じる。

「はぁ……」

 彼はた大きなため息を一つついて、がっかりしたように肩を落とした。

(ここまでの情報じゃ、『本持ち』の仕業かどうかってのは、解らないな……)

 そう、どれだけ事件の内容を調べても、いわゆる『ただの人間』が集めた情報しか見当たらない。つまりこの一連の事件に『本持ち』が関わっているかどうか、という点の情報は、全く得られなかった。

「これじゃわからんな……明日でいいか……」

 彼はつぶやき、ノートパソコンを閉じる。目許をグイグイと擦り、大きなあくびを一つした。ずいぶん長い時間調べてしまっていたようで、既に日付が変わり、壁にかけられた時計は午前2時を指している。

(ずいぶん時間かかったけど、だいたいこれで事件の概要はわかった。風呂に入って、今日はもう寝よう……)

 彼はそう思い立ち上がると、それから風呂に入り歯を磨き、着替えを済ませ、そのまま倒れ込むようにベッドに横たわった。


 明かりを消し、眼を閉じ、静かな暗闇を聞く。

 エアコンが細く空気を吐き出す音だけが、彼の部屋に響いていた。


(…………)


 だが彼の意識はなぜか波立ち、ざわついている。疲れは濃く、眠気は強いのが自覚できているにも関わらず、様々な文字列や写真がちらついて、彼が意識を失う事を邪魔していた。

 内容は言わずもがな、マスターキー連続殺人事件の事。深く暗い貞野凛の眼、その周囲の人間が凛に対し放つ奇異の視線、ニュースキャスターが押し付ける安っぽい悲劇、叔父らしき人物が見せた涙と必死な顔、掲示板に集まった人間たちの無機質な言葉、形式的で無表情なニュースの文面……そして人を殺す、ということ。それらの事柄が、彼の意識に浮かんでは消えていく。


 そして彼は昼間、青藍と話した時に感じた感覚に――恐怖というよりは混乱という言葉が似合うあの感覚に再び襲われた。


 32人の人間を殺した人間はどういう人間なのだろうか、人を殺している最中その人間はどう思っているのだろうか、はじめに殺した時と今では感じるものは違うのか、どうやって殺す相手を決めているのか、惨殺と表現される殺し方とはどういうのものなのか、それを行うと決めたのは何故か……。


 様々な問いが彼の脳内に渦を巻き始め、やがてそれは眠りの淵で一つの形を成す。



 影の塊のようなそれは、人の形をしていた。



     ※



 気だるい足取りで、背を丸めたような姿勢のまま、影はどこまでも続く、壁も床も天井もコンクリートの、薄暗い廊下のような場所を、ゆっくりと歩いている。


 使い古した蛍光灯が所々に灯っているだけで、場所によってはほぼ暗闇と化していた。

 右側の壁にはマンションにあるような扉が幾つも幾つも並んでおり、それを品定めするように、じわりじわりと影は歩みを進めている。


 やがて、一つの扉の前で影の足が止まった。ジワリ、と影の輪郭がにじみ、顔らしき部分がぐにゃりと歪む。表情は読み取れない。

 影は右手の指先をゆっくりとドアの左端、ドアノブの上辺りに当てた。指先はまるで再生速度を下げたビデオのように、じわり、じわりと金属製の扉にめり込んでいく。


 だが、影は抵抗を感じている様子は無く、まるで水面にゆっくりと指先を浸しているよう。そして、もどかしいほどに長い時間をかけて、指先はヌルリと扉を貫通した。


 そのまま影は、やはり力なく、手を右側へと動かしていった。ゆっくりと、ゆっくりと。やはりもどかしいほどの長い時間をかけて。ドアはまるでバターのように、力ない真っ黒な指先に切り裂かれていく。


 その光景は、とても奇妙なものだった。


 ギィィィ――ィィイ……キリ――キキッ、キリ、ギィィ――。


 ふと、奇妙な音が聞こえる。耳を清ませなければ聞こえないほど、小さな、小さな音。鉄道のブレーキのような、金属板を掻き切るような……。

 そう、それは金属同士の擦過音によく似ていた。


 どこまでも続く無音の廊下に、その小さな音が鳴る。影はそれを楽しむかのように、ゆっくりとゆっくりと左右に頭を動かしていた。針で薄い金属板を引っ掻くような、小さいながらも神経を逆撫でるその音は、周囲に反響する事も無く、無限に続く廊下の端へと吸い込まれていく。


 そしてついに、影の手は扉の右端に到着する。影は一度手を抜き取ると、切り裂いたドアの上半分を音を立てずに引き開けた。蝶番が悲鳴を上げ、先ほどの音とは違う軋みを上げる。影は内側に手を入れ鍵を開けると、ゆっくりと家の中へと歩いていった。


 玄関には靴が四足、きちんと揃えて置いてある。


 男物が一つと、女物が一つ。そして子供用が、二つ。


 影はそれに気付いていないのか、意に介さない様子でそれを踏み越えていく。


 ひしゃげて乱雑に散らばった靴を残し、影は家の中を、やはり気だるい足取りで進む。


 薄暗いフローリングの廊下には、突き当たりに一つ、ドアがあるだけだった。あまりに、不自然な構造。


 そして、床を静かに軋ませながら、影は歩みを進める。もどかしいほどの時間をかけ、ついにその扉の前へと辿り着いた。影はゆっくりとノブに手を伸ばし、ドアを静かに開く。


 その先には、薄暗い部屋が一つ。


 ナツメ球の頼りない橙色の光が、天井の中心から漏れるように部屋を照らしていた。



 部屋には、ベッド以外の家具は一つも無く、壁には窓すら無い。

 あるのは、大きなベッドが一つと、小さなベッドが二つ。


 大きなベッドには、大人が二人。

 小さなベッドには、それぞれ子供が一人ずつ。



 影は、大きなベッドに、やはり音も無く近づいた。


 右腕を持ち上げる。


 寝ている男と女。


 その男の胸。


 掛け布団の上から。


 寝息とともに上下しているそこへ向かって。



 影は、ゆっくりと、ゆっくりと指先を突き刺した。



 布を破り、綿を貫通し、皮膚を裂き、筋肉に潜り、骨を割り、血を掻き分ける。



 おや、肺を傷つけたのだろうか。上下していた胸が咳で震えている。



 口から、血の泡が飛んだ。もう既に、シーツには赤い点がいくつも咲いている。



 指先が、に触れた。拍動している、肉質の



 定期的に、痙攣するような動きをしている。もう、指先はそれに入り込んでしまった。


 まだ男は咳をしている。風邪でもひいているのだろうか。


 引き抜いた手には、血の一滴もついていない。


 男が動かなくなったとき、影の顔が歪んだ。


「ああ――この顔は」


 その顔の形を、孝義は知っている。



「今朝、鏡で、見たな」



 ……それはまぎれもなく、孝義自身のものだった。

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