第07話 マスターキー連続殺人事件(1)


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ぼくを気やすい隣人とかんがえている働き人よ

ぼくはきみたちに近親憎悪を感じているのだ

ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ



――吉本隆明「その秋のために」より



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     7


   七月二十二日


     ※



 昨日、真一と緑青のふたりと別れた後、孝義は体を引きずるようにして帰路についた。家の近くまで来ると青藍は歩みを止め、


「私は、君の近くで『予報』を待つよ。一応私は、キミの危機を察知するための道具でもあるからね」


 と言ってどこかへ立ち去った。家に戻った孝義は家に帰るなり泥のように眠り、起きたのは今日――七月二十二日の昼だった。


 貴重な夏休みを無駄にしたような気がしたのと、うだるような暑さで、彼はすぐに飛び起きた。既に全身は汗だく、着ているTシャツは重さを感じるほどに汗を吸っていた。彼の部屋は15階建てのマンションの10階、南東に窓の開く5畳程度の部屋ため、朝から昼にかけて蒸し風呂と化す。

 孝義は汗で重くなった服を着替えようとして、昨日受けたはずの胸の火傷が、ほとんど治癒していることに気づいた。自分がいよいよ人外のもの――青藍たちの側へと踏み込んだような気がして、彼は少し痛む胸に手を当てる。部屋の隅に置かれたゴミ箱にはその際焦げて使い物にならなくなったTシャツが放り込まれており、彼はそれを見て小さくため息をついた。


 それから彼は顔を洗い、歯を磨いてからリビングへ。リビングの端にはテレビが置かれ、その前に三人掛けのソファが一つと、一人掛けのソファがローテーブルを囲んで並んでいる。

「おはよう」

 彼は3人がけのソファ中央に座っている女性に声をかける。彼女は孝義の母で、名を志田しだ由佳子ゆかこという。

 40を間近に控えた年齢であるはずだが、彼女は非常に若く見える。目鼻立ちがハッキリとしており、細い体をいつもピンと正している、とても清々しい女性だった。

 彼女は胸ほどの長さのある髪を後ろに結び、黒縁の眼鏡をかけ、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。眼鏡越しに見える右目の縁には、横に2つ並んだ特徴的なホクロがある。

「おっ、孝義、おはよう」

 孝義に気付いた彼女はそう言いながら、新聞を正面のテーブルに置く。

「いやぁ、寝すぎたわ……よっこいしょ」

 彼は首を回し、由佳子の隣にある独り掛けのソファに勢い良く腰掛けながら言う。

 その様子を見て、由佳子は口許に手をやり、呆れたように笑いながら、

「そりゃあトラックに轢かれかけて、その挙げ句爆発に巻き込まれかけて服もボロッボロになってたんだから、まぁ疲れるのも当然だわね」

 と言った。その言葉に、孝義は力なく笑みを返す。


 彼は昨日家に帰って来たときに、一つ嘘をついていた。爆発に巻き込まれかけ、服をぼろぼろにしてしまった、と。

 本当は真一に爆発させられたのだが、その事を言って信じてもらえるとも思えない。というか爆発に巻き込まれかけた、という状況自体、信じてもらえるかは微妙なラインだった。

「色々心配かけた」

 嘘をついていることに対する謝罪も含め、彼は心から母親に頭を下げた。顔を上げると、由佳子はにっこりと笑っている。

「うむ。そういえば、あんたの携帯、壊れてたでしょ。中身の通信用カードだけは無事だったみたいだから、お母さんが前使ってたやつに差し替えといたよ。良かったら使いな」

「ありがとう。助かるわ」

 由佳子が取り出した1世代前のスマートフォンを受け取りながら、彼は苦く笑う。

 孝義は、こういう切れ味の良い由佳子の行動を見る度に、男らしい、と常々思っている。彼が小学生の時に由佳子が父親と死別してから、ずっと翻訳とファッションライターの仕事を掛け持ち、女手ひとつでふたりの子供を育ててきた。彼が16になるこの年まで真っ当に育ってきたのは、男親の役割も由佳子が果たしていたからだろう。

 片親というプレッシャーもあったのか、色々と不安定な時期も長くあったが、孝義が高校に入学してからはその不安定さもなりをひそめている。

 ちなみに、由佳子のふたりの子供のうち、一人は女性。


「おー、孝義、退院したんだ?」

 背中から声をかけてきたのは、件のもう一人の子供――孝義の姉である紋佳あやかだった。志田家で最も背が高く、最も髪が長く、最もだらしのない人間で、尚かつ最もよく食べ良く飲みよく喋る人間だった。

 長く綺麗なワンレングスの髪を寝癖でグシャグシャにし、スタイルの良い体にヨレたTシャツと短パンを着て、ボリボリと綺麗な肌をした腹をかきながら、母親ゆずりの整った顔立ちを総崩しにして大きなあくびをしている。目をこすりながら彼女はドッカと由佳子の隣に座り、足を組むと首をバキバキと鳴らした。

 彼女は大学卒業後、母親のツテを使い雑誌のモデルなどで活躍しているのだが、その美しい姿はついぞ家では見ることが出来ない。つまるところ「残念な美人」という単語に集約されるタイプの女性だった。

「どうだった、病院生活は。貴重な夏休みなのにもったいない」

「あー、まぁ起きてすぐに病室が吹っ飛んだから、感想抱く暇が無かったよ」

「ねえ、それSNSに書いてもいい? 私の弟はツイてません、みたいな」

「いいわけあるかい」

 冗談めかして言いながら、彼は真一と緑青を思い出す。病室爆発もたいがいひどい出来事だが、孝義にとって最大の災難はあの二人の出現だった。

「……運が悪かったんだよ、多分なんかこう、星の巡りとかが影響してるんだと思う。ほらあるだろ、グランドクロスとかそういうやつ」

 乾いた笑いを浮かべながら、孝義はそうぼやいた。

「なにそれ、オカルト? よくわかんない」

 紋佳は孝義にそう言いながら、由佳子の飲んでいたコーヒーカップをテーブルから取り上げると、それを一息に飲み下す。

「丁度よかった。紋佳、新しいの入れてきて」

 新聞に目を落としたまま、由佳子は紋佳に言った。紋佳は一瞬しまった、という表情を作り、渋々立ち上がるとキッチンへ向かった。


 ふと、孝義は由佳子が読んでいる新聞の一面、その左下に、大きく『マスターキー連続殺人事件 またも被害者』という大きな見出しがあるのに気付いた。彼は新聞越しに、由佳子に言う。

「その殺人事件って、まだ犯人捕まってなかったんだ?」

「ん? ……ああ、そうだね。しかし物騒なもんだ、目立つ所が無いのが目立つこの街で、最近一番目立ってるのが殺人鬼ってのも、笑えん話だわな」

 苦笑まじりに由佳子は言い、新聞をたたむとテーブルに置いた。そのまま背もたれに置かれたクッションに体を預け、ぐっと背を反らす。するとそのクッションの下から、グゥ、と唸るような声がした。

「おっと、忘れてた」

 言いながら、由佳子はクッションを背中から引き抜く。空いた隙間からはのそのそと長くて黒い犬が姿を現し、ぶるぶると体を震わせた。

「ありゃ、シドそこに居たのか」

「そうなのよ。さっき潜り込んできて。なんでかこの子は狭い場所が好きだからなぁ」

 シドは数度鼻をひくつかせた後にソファから降り、ぴょんと孝義の膝に前足をのせる。彼がシドを抱きかかえて膝に乗せると、そのままシドは反転して『伏せ』の格好で太ももに寝そべった。犬種はミニチュアダックスフンド、性別はオス。元気で明るい性格の2歳だった。

「狭い所が落ち着くんだろ。寝るときは姉ちゃんの股の間か脇の下で寝てるし」

「いつかこの子は紋佳の肘鉄かヘッドシザーズで死ぬんじゃないかと私は心配だよ」

 由佳子は手を伸ばし、シドの頭を撫でながら言う。シドは気持ち良さそうに目を細め、年齢の割に白髪の多い耳元をひくひくと動かした。

「失礼な、私は寝相は良い方なんだからね?」

 孝義と由佳子の声が聞こえていたのだろう。紋佳はキッチンから抗議の声。

「それは自分が言うもんじゃねーな、それにその寝癖じゃ信用できねぇ」

「孝義うるさーい」

「はは」

 短く、孝義は笑う。思い返してみれば、これは最後に残った平穏の残りカスだったのかもしれない、と彼は後に思うこととなる。



     ※



 由佳子が読み終えた新聞を手に取り、孝義は先程から気になっていた「マスターキー連続殺人事件」の記事を読んでみようと紙面に目を落とした。

 が、それと同時にピンポン、という音が2回ワンセットで鳴り、それに一瞬遅れてシドが一声ワン、と鳴いた。

「シド、あっち」

 孝義はキッチンを指差し、シドはとてとて、と小さな足音を立てながらその方向へと走る。彼は来客の際、宅配業者などにじゃれつかないようにという配慮で、「よし』と言うまでキッチンで待機するようしつけられている。許可が出るまでキッチンを飛び出さないあたり、とても賢い犬だった。

 孝義はシドがキッチンの端でおすわりをしたのを見届け、新聞を置くと、廊下を歩き玄関へと向かう。呼び鈴が2つ鳴ったということは、一階のオートロックではなく、入り口ドアの横にあるインターフォンが鳴らされたということ。

「よっと」

 彼は片足だけサンダルを履き、背伸びするように覗き穴に目を近づけた。

「……ん?」

 思わず声が出る。覗き穴の向こうには、同じようにこちらを覗き込んでいる、眼鏡をかけた青い服の女。

(……寝起きだからな。昨日も疲れたし、きっと見間違いか何か……かもしれないしな、うん)

 孝義はそう思いながら、顔を覗き穴から遠ざけ、眉間を人差し指と親指でギュッとつまんだ。それから目をこすると、そのまま天井を仰ぎ、大きくため息をつく。ほぐすように両肩をぐるぐると2度回し、首を左右に一度ずつ曲げると、やっともう一度覗き穴に目を近づけた。

「…………」

 疲れからくる幻覚ではないようだ。そうなれば当然消えて居なくなるはずもなく、そこにはやはり青い服を着た、見覚えのある女性。ちなみに見えているのは先ほどとは逆の目だが、こちらをジィッと覗き込んでいることに変わりはなかった。

「はぁ〜〜〜〜〜」

 孝義は観念したように声に出しながらため息をつくと、鍵を開け、チェーンをかけたまま少しだけドアを開ける。

「…………」

 死ぬほど嫌なものを見た、と言わんばかりで青藍を睨む無言の孝義に、背後の太陽の光と同様にまぶしく、なんの屈託もない笑顔を浮かべて、彼女は至極明るく声をかけた。

「や、元気? なにこの鎖。邪魔だからとってよ」

「あの、何? なんか用?」

「いや、起きたんだろうな、と思って」

「……起きて一時間も経ってないのによく分かるな」

「そりゃあ、ほら、私君と一心同体的なそういうアレだから」

 その言葉を聞いた孝義は、見るからに嫌そうな顔をもう一度浮かべる。その表情を見て、青藍は嬉しそうににしし、と笑った。

「それより、どうやってここ入った? オートロックをどうやって……」

「ん? ああ、あれか。なんか入れなくて困ってたら、大きな荷物運んでる人が来たんで、後ろついてったんだよ。階数はまあなんというか、感覚でわかるからさ、私」

「お前な……」

 三度みたび嫌そうな顔をする孝義。ただ、先ほどの表情よりも30パーセント増しの嫌そうな顔だった。そんな彼を見ている青藍は、首を傾げながら相変わらず満面の笑みを浮かべている。

「……それより、最初の質問に答えてもらってないけど」

「ん? なに?」

「いや、だから、何の用なんだよ、用も無いのに来たのか?」

「あー、ちょっといろいろ調べてみたことがあってね。入っていい?」

「良いワケないだろ……ああもう、僕が外に出るから待っててくれよ」

「はいはい、まったくもー、照れ屋さんなんだから」

「うるさい」

 言いながら重いドアを閉めた後、孝義はもう一度深いため息をついた。



     ※



「あ、そうなんだ。青藍さんって妹さんが居るんだ?」

「はァい、ただ性格はこの世のものとは思えないほど悪いですけど」

「あはは、もう、そんなに妹さんのこと悪く言っちゃだめよォ、ねぇ孝義」

 そう言いながら、由佳子はキッチンに振り返りながら言う。

「……そっすね」

 こぽこぽと音を立てるコーヒーメーカの前で、孝義は面倒くさそうに返した。

「いやァ、孝義にこんな美人の知り合いが居たなんて。姉ちゃんは嬉しいよ、この年まで浮いた話ひとつ無かったからねぇこいつは」

「そうなんですか? 孝義くん、結構イケメンだと思うんですけど」

「「ヤダモー!!」」

 紋佳と由佳子は同時に笑いながら言う。それを孝義は心底冷め切った目で見ていた。どうしてこうなった、と自問しながら。



 なぜ青藍が家に上がり込んでいるのか。その経緯を説明すると、次のようになる。



 玄関のドアを閉め、ため息をつきながら孝義が洋服を着替えるために部屋に戻ろうとしていると、由佳子に誰が来たのか、と聞かれ、そこで友人が来たので一緒に外に出る、と彼が説明したところ、こんなに暑いんだから着替える間だけでも涼しい部屋に入れてあげなさい、と由佳子が玄関のドアを開けに行ってしまった。

 孝義の制止も聞かず由佳子が玄関のドアを開けると、同学年という感じではなく、どう見ても年上の美人がにっこりと微笑んでいる。孝義から見ればその笑顔は完全に営業用のそれで、由佳子から見れば綺麗な女性の微笑みにしか見えていなかったが、効果は抜群、

「あらあら、どこの女優さんかと思ったわよ、孝義のお友達なんでしょう? 入って、外は暑かったでしょうに――」

 などと言いながら由佳子は青藍を家に入れてしまった。これがおおよそ30分前のこと。


 ともかく青藍は丁重にリビングへと通され、キッチンでコーヒーの用意をしている間中、孝義はどういう経緯で知り合ったのかを母と姉の二重槍襖に挟まれた状況で根掘り葉掘りどころか屋久島杉ばりの巨木を一本まるまる掘り返す勢いで聞かれ、


「ああ、先日の病院の爆発事件の際、助けていただいたんです」


 という青藍の助け舟によって難を逃れた。あげくこれはお礼です、と、どこから取り出したのか菓子折りまで由佳子に贈る始末で、どうにかして青藍を追い出したい孝義としては頭に激痛が走る思いだった。実際に緊張からなのか腹痛までしている。

「ほら、コーヒー」

「おっ、ありがとう孝義くん。優しいのね」

「……ドウイタシマシテ」

「あら、青藍さん孝義のこと名前で呼んでるの?」

「ええ、だって……命を助けていただいたんですし、それに——孝義くんのこと、もっと知りたくて」

 心なしか顔を赤らめながら、青藍はを作ってそうつぶやく。すると、

「「ヤダモー!!」」

 と由佳子と紋佳はもう一度声を合わせて大きな声を出した。孝義はというと、青藍のあまりの猫かぶり具合に、孝義は常に眉間に皺が寄っている状態になっている。

 あまりのよくわからない展開と部屋の中の茶化すような空気に耐え切れず、彼はコソコソと部屋に戻り、蒸し風呂になっている自室の窓を開けた。彼の部屋は確かに暑いが、部屋全体が出っ張っている作りのため左右に窓がある。それを開けさえすれば風が通るため、空気の入れ替えはさほど難しくなかった。

(青藍が被ってるのは猫の皮じゃなく、豹の皮だろうなぁ……)

 などと考えながら、彼は汗で湿った服を着替える。リビングからは由佳子、紋佳、青藍の楽しそうな会話が聞こえ、何度となく彼はため息をついた。

 着替えを終えて窓を閉め、彼はリビングへと戻る。楽しそうに会話をしている3人が孝義をちらりとだけ見たが、すぐに会話が再開された。今はどうやら孝義が青藍を助けたシーンの話をしているらしい。どうにもその輪の中に入れそうにないと孝義は感じ、キッチンに入ると、立ったままコーヒーを飲むことにした。


「あ、そうなんだ。青藍さんって妹さんが居るんだ?」

「はァい、ただ性格はこの世のものとは思えないほど悪いですけど」

「あはは、もう、そんなに妹さんのこと悪く言っちゃだめよォ、ねぇ孝義」

 そう言いながら、由佳子はキッチンに振り返りながら言う。

「……そっすね」

 こぽこぽと音を立てるコーヒーメーカの前で、孝義は面倒くさそうに返した。

「いやァ、孝義にこんな美人の知り合いが居たなんて。姉ちゃんは嬉しいよ、この年まで浮いた話ひとつ無かったからねぇこいつは」

「そうなんですか? 孝義くん、結構イケメンだと思うんですけど」

「「ヤダモー!!」」

 そしてやっと現在に時間が戻る、なおも女性三人の会話は続いていた。


「しっかし、飛んできた瓦礫を、孝義が身を挺してねェ――」

「格好よかったんですよ、孝義くん。こう、バッ! と私を庇ってくれて――」

「いやぁ、それにしても『僕は悪運が強いですから』って台詞はどうかと思うわ。自分の息子とは思えん」

「その後に足を怪我した青藍さんを抱えて颯爽と病院の外へ……本当に孝義が?」

 由佳子と紋佳は、ううむ、と唸りながら怪訝そうな目で孝義をジィッと見つめる。おそらく青藍が適当な辻褄合わせの為にでっち上げた、病室爆発の場面なのだろう。そこでは孝義が青藍をなんやかんやして格好良く助けていたのだろうが、その内容はあまりにヒロイックで、孝義をよく知るふたりには想像できないものだったようだ。

(後でどんな話をしたかを聞き出さにゃいかんな……)

 孝義はそう思いながら、獲物を見つけた猫のような目をした家族と視線を合わせないようにして味のしないコーヒーをちびちびと飲んでいた。



     ※



 結局孝義が家を出たのは、太陽が傾き始め、夕風が吹き始めた午後五時頃。彼らはいつものハンバーガーショップへと足を運び、そこでふたりともコーヒーを注文し席についた。


「しかし君の家族は面白い人が多いね。あんなに歓迎されるとは思っていなかったよ」

「僕の友達もさっきのお前みたいに質問攻めに遭うんだ。最初に来た時は特に質問数が多い」

「良い家族じゃないか」

「当たり前だ。……自慢の家族だよ」

 青藍の言葉に、孝義は鼻で笑いながらそう言う。

「なんかトゲがある言い方だけどねぇ。まぁそれは置いといて、だ」

 青藍はにしし、と笑いながら、テーブルの上に青い本をドッカと乗せた。そういえば青藍が自分の家を訪問したのは、何か話す事があったからだったな、と孝義は思い出す。彼の顔から、一瞬で血の気が引いた。

「……何かあったのか。たとえば、その……予報、とか」

「いや、そういうわけじゃないよ。キミの死因を調べてたんだ」

「死因」

「うん。色々考えて、調べてみたんだけどね――どうもキミが最初に死んだあの事故は、ほかの『本持ち』の仕業だと思うんだ」

 その言葉を皮切りに、青藍は一つ一つ彼女自身が調べたことを孝義に話し始めた。



     ※



 昨日の晩、孝義と別れた青藍は、その足で孝義が一度死んだ事故現場へと向かった。

 事故が起きた通りは、名を申酉しんぜい通りと言い、居酒屋や食堂、パン屋などの飲食店の他にパチンコ店、カラオケ店などの娯楽店が軒を連ねる、いわばひとつの歓楽街だった。南北へ真直ぐ伸びるメインの通りに、東西へと数本の短い支路しろがほぼ垂直に飛び出る形で形成されている、雑多で人通りも激しい商店街。


 そして、孝義が巻き込まれた事故は、申酉通りのほぼ南端、ちょうどその支路との分岐点である、丁字路の交わる場所で起きていた。


 事故が起きたのは七月二十日の昼。青藍がその場所を訪れたのは昨日、即ち七月二十二日の夜で、1日半ほど経過したその現場には、例の電信柱にのめり込んだトラックも、電信柱の折れ端も存在していなかった。その場にあるのは、赤いカラーコーンと、黄黒縞模様のコーンバーに囲まれた、切り株のような電柱。真ん中の部分は中空になっており、その周りのコンクリートの部分から、ねじ曲がりひしゃげた鉄筋が覗いていた。

(もう片付いてる……凄いな)

 あの大きさのトラックが事故を起こしたのなら、多少余裕を持って調べられるだろう、と青藍は思っていた。思っていた以上に、人間という生き物は有能だなと彼女は思う。

 だが同時に、多少調べたい事があったのも事実で、感心半分の彼女は口を小さく歪めて舌打ちをした。事故を起こした車両が片付けられてしまった今、証拠となる物はあまり残ってはいない。事故が目の前で起こったはずのパン屋も、既に営業を開始している。

 ただ、もうすぐ営業時間が終わるようで、シャッターを下ろす準備をしているのが見て取れた。店内のパンが見えるように、店の正面は大きなガラス窓となっている。電柱に近い左端の部分には数カ所、何か破片等が当たったような凹み傷が見えるが、特に営業に支障はないようだった。

(周囲への被害は、ほぼ無しか……)

 道の端や地面のタイルの隙間に、トラックの窓の破片だろうと思われる小さなガラス片や、折れた電柱から生じたであろうコンクリートの欠片が残っている以外には、特に周辺に痕跡や傷は無い。

(ふむ……)

 青藍は周辺をうろうろと歩き、カラーコーンに囲まれた電柱の切り株を睨みながら考える。周囲を見回すと、小さなガラス片がきらきらと街灯の光を反射した。それらが散らばる青藍の立っているこの道は、歩道と車道が白線で仕切られた、2車線ほどの小さな商店通り。時刻は午後7時を回った辺りで、周囲は夕焼けが通り過ぎた薄い闇に包まれている。通りには青白い街灯がぽつぽつと灯り、人気の無い道を無機質な光で照らした。

 そしてちょうど電柱の切り株がある位置へ向かって、今青藍が居る場所と同じくらいの幅の道路が垂直に突き刺さっている。支路の分岐点にあたるその場所で、青藍はうーん、と唸りながら腕を組んだ。

(ここを、あの大きいのが通って来たのか? さほど幅のない、この道を? ?)

 そう、事故を起こしたトラックは無人。なおかつ、人間一人を電柱に混ぜ込むほどの勢いで猛進してきていたはずなのだ。

(……どうも、不自然だ)

 これがによるものか、ものなのかは解らないが、。歓楽街であるこの通りに軒を連ねる店舗群は、道路にはみ出す形で看板を出している店も多く、事故当時それらが被害をこうむったような記憶は青藍の中にはない。さらに言えばある程度の人通りもあったはずで、それらを避けながら確実に孝義だけを巻き込んだ事故というのは、控えめに考えても不自然極まりなかった。

 そして、彼女はこれと同様に不自然な事故を、もうひとつ知っている。

(あのときの病室と同じか。狙った場所以外に、ほぼ被害が無いのも同じ)

 ただ、嵯峨崎総合病院では犬飼真一が巻き添えに遭っている。その点が不可解と言えば不可解だった。しかしながら、何かしらの結論に至るには早計。そのことを、青い本の化身は重々に承知し抜いていた。

 これ以上この場所を調べても、得る物は恐らく無い。そう理解してはいるものの、後ろ髪を引かれる思いで青藍はその場を後にした。

 たったひとつ、とある仮説を胸に秘めたまま。



     ※



 時間は戻る。

 事故現場で調べた事、つまり被害があまりに局地的すぎることと、既にトラックや電柱の折れ端が片付けられていた事、そして一つ仮説があることを説明し、青藍は肩をすくめた。

「解った事といえば、それくらいだねぇ」

「あー。確かに、トラックがあのスピードで申酉しんぜい通りの横道走ったら、普通は看板とか人に当たるだろうなぁ」

 青藍よりも遥かにあの場所に詳しい孝義は、改めてそう感想を述べる。少し前に、申酉通りでの路上看板設置禁止を訴える市条例が出されそうになっていた事を彼は思い出した。当然商店組合からの反発は強く、条例に対する反対署名を集める人間を、駅前周辺で見た事も記憶に新しい。

「実際の大きさは――うーん、僕もあの時は文字通り死に物狂いだったから、うろ覚えだけど……8トンくらいはあったんじゃないか?」

「なにそれ? ハチトン?」

「あ、えーと、トラックの大きさだよ。あー……そう、あのくらい。あれが多分8トントラック」

 そう言いながら、孝義は窓ガラス越しに、対岸の道路に路上駐車をしている荷台付きのトラックを指差す。どうやら引っ越しかなにかの途中のようで、せわしなく荷の積み降ろしが行われていた。

「あー、あれが『はちとんトラック』ってやつね……改めて見ると確かに志田くんの言う通り。あのぐらいの大きさだったね」

 青藍は体を前後に揺らしながら、トラックをジロジロと見つめる。孝義は彼女の言う『ハチトン』という言葉のイントネーションに多少の不自然さを感じたが、青藍だからという理由で突っ込むのを止めた。


 一口コーヒーを飲んで、彼は青藍に向き直る。


「ところで、仮説ってなんだ」

「ん? ああ、忘れてた」

 そう言うと青藍は頭を掻き、にししと笑う。どうやら本当に忘れていたようだった。

「ええと、仮説ってのはね、あの事故といい、病室の事故といい、あんまり不自然というか、変でしょ? だからもしかして、あくまでもしかして、だけど『本持ち』の仕業なのかもしれないなァと思ってさ」

「……ちなみにその『本持ち』は、どんな能力を?」

「さァ? 鴉羽に認識されないように、作為的に事故を起こす能力、とだけ一応推理しとくよ。実際は違うかもしれないけどね」

「ううむ……なるほどなぁ」

 腕を組み、少しだけ考えてから、孝義はそう言う。彼がほとんど驚かなかったことに、青藍は目を丸くした。

「ちょっと予想外のリアクションだわー。もっとこう、いい感じに驚いてくれると思ったんだけどなぁ」

「いや、なんとなくそんな気はしてたんだよ。だってほら、その……お前の言う通り、変だろ? いくら僕が『平穏』を取られたからって、あんなの普通に考えておかしいって」

 青藍はそれを聞くと、なるほどねぇと言いコーヒーを啜った。その様子に、孝義は腑に落ちない何かを感じる。何かを忘れているような感覚もあり、少しだけ考え込むと、彼はアッ、と声を上げた。

「どうした志田くん」

「ちょっと待て、『本持ち』が人殺したらそいつも死ぬんだろ? もし最初のトラックの事故が『本持ち』の仕業だったとしたら、病室を爆破するのは無理なんじゃないか?」

 孝義は一息でそう言い、青藍に詰め寄った。確かに彼は病室が爆破される少し前に、その説明を青藍から受けている。

 だが、彼女はその質問に対し困ったように笑いながら、

「さぁ? なんか裏技でもあるんじゃない? それか別人でしょ」

 と言っただけだった。

 それを聞いて、孝義はガックリと肩を落とす。彼は真剣に話をするのが馬鹿らしく感じ、ふてくされたように窓の外を見た。


(しかし――たったこれだけの事で、ワザワザ僕の家に来る必要があったんだろうか)


 ふと、孝義はそう思う。病室での『キミは死なずに済んだ』という発言以来、孝義は青藍の言葉や行動をそのまま鵜呑みにする事を避けていた。青藍や緑青ら本の化身とは一日にも満たない時間を過ごしただけだが、彼女らが持つ隠しきれない怪しさや胡散臭さ、平気で人を陥れる文字通り人外の思考回路に、彼は過敏と言えるほどに敏感になっていた。

 さらに言うと、孝義をどうにかしてガッカリさせ、精神的ダメージを与えたがっているような雰囲気を、彼は青藍の行動の節々に感じていた。さっきの裏技発言もその類のような気もする。そのため、彼は今回の訪問の目的がまだ完遂されていないと考えた。青藍が自宅に来ただけで孝義はかなりの精神的ダメージを被っているのは言うまでもないが、さらに追い打ちをかける可能性も捨てきれない。 

「えーと、うん、お前が事故現場見に行って、あの事故が『本持ち』とやらの仕業の可能性があるのはわかった。ただ――」

「うん?」

「たださ、僕の家にわざわざ来たのは、それを伝えに来たってだけ、じゃないような気がするんだが」

 孝義は聞く。その言葉は功を奏したようで、青藍はその言葉を聞いてにやりと口の端を持ち上げた。

「……なんでわかっちゃったかなァ、もうちょっと黙ってようと思ったんだけど」

「早く言ってくれ……段階踏んで落ち込むのは避けたい」

 心の準備をしていたところで無駄になるほどの強打を与えてくる可能性はあるが、準備はするに越した事はない。彼は両目頭をつまむようにぎゅっと指先で押さえ、ゆっくりと深呼吸をした。

「じゃあ、お言葉に甘えて。さっきの裏技つながりの話なんだけどね、『マスターキー殺人事件』って知ってる?」

「あ? ああ、なんか最近流行ってる事件だろ」

 思わぬ単語が青藍の口から飛び出る。彼は新聞に書かれた『マスターキー連続殺人事件 またも被害者』という大きな見出しを思い出した。


「あれも『本持ち』の可能性がある。それについて調べたい事があるんだ。落ちてる新聞以外に情報が欲しい。それに、私だけじゃなく、志田くんにも協力してもらいたい」

 青藍は口許をふざけた調子で持ち上げたまま、コーヒーの入った紙カップをゆらゆらと揺らし、窓の外を見ながら言う。

「……どう協力したらいいんだ。事件の内容を調べりゃいいのか?」

「えらく協力的だね。どうしたのさ」

 茶化すように聞いてくる青藍の言葉で、孝義は昨日のことを思い出す。犬飼真一という大男と、緑青という緑色の本。

「もし、また真一みたいのが僕の周りで生まれたら、今度こそ死ぬかもしれないしな――」

 彼の胸の火傷が疼く。ほとんど治癒しているとはいえ、傷があることに変わりはなく、外を歩いて流れた汗がほんの少しだけ沁み、昨日感じたものとは違う痒みに似た痛みが、チリチリと彼の意識の端を焼いた。



 孝義は考える。



 昨日一日で、何度死ぬかと思っただろうか。逆に一度死んだときは、あっけないほどに実感が無かった。ただ、一度死んだ前と後では――昔の自分と今の自分とでは、明らかに生きる事に対する執着の度合いが違う。

 



 死にたくない。




 その言葉は今、彼の心の奥底に強く根を張り、確固たる存在を主張していた。

 ただ、大樹のような荘厳さや落ち着きはその意思には無い。小心翼々と言うべき、死を回避するだけの、ただの臆病じみた意思。ただ、窮鼠猫を噛むという言葉通りに、彼は次に、死の影が自らを脅かす時には、躊躇なく『内燃器官』を使うだろう。真一と相まみえた時とは違い、何の迷いも無く。


 だが同時に、彼はそう考える自分が恐ろしくもあった。あの時は真一の丈夫さや、力の使い方をあまり理解していなかったことも助け、なんとか彼を殺さずに済んだ。


 だが。


 もし。


 万が一。

 

 孝義が真一をあの時殺していたとしたら、どうなっていたのだろうか――。

 自分の命を守るために人を殺したとき、自分はどうするのだろうか――。


 そういった考えが、彼の頭の中をぐるぐると渦巻く。

 彼はテーブルの下で、無意識に何度も何度も右の拳を汗ばんだ左の手のひらで触っていた。真一の胸板を打ち据えた、その右の拳を。



 そして同時に思い出そうとした。



 真一を殴った時、どのくらい力を込めただろうか。


 どういう殴り方をしたんだったか。


 あいつは今元気にしているだろうか。


 死んでいないだろうか。


 誤解が解けたとはいえ、今度は殴ったことで恨まれていないだろうか。



 そしたらまた『間接の爆弾』を食らいながら、戦わなければいけないのだろうか――。

「おい、この、馬鹿!」

 青藍はそう言いながら、勢い良く孝義の頭にチョップをかます。

「痛ッた! なんだよ!」

「ったく……そう難しく考えないの! 眉間に皺寄せ過ぎ」

 きょとんとしたままの孝義の眉間に、青藍は苦笑いをしながら人差し指をグリグリと押し当てる。それからその手でぽんぽん、と2回、優しく彼の頭を撫でるように叩いた。

 青藍は、手を孝義の頭に乗せたまま、小さな、優しい声で続ける。

「いい? キミは昨日、一人の男の子が人を殺すのを止めたんだ。力づくだろうとなんだろうと、それを叶えたキミは胸を張っていい」

 まっすぐな言葉で、青藍は孝義に言う。ただ、その飾り気のなさが孝義には心地よかった。少し表情の明るくなった孝義を見て、青藍は少しだけ微笑む。

「キミも人を殺してないし、今後もキミは人を殺さない。それでいいだろう? 既に成功している事に対して、失敗した時の事を想像して落ち込むなんて、何の意味も無い。うまく行ったことだけ覚えておきなさい。それにどうせなら、成功し続ける努力をしなさいな、ね?」

「あ、あぁ……」

「――はぁ、ったく、心配性だな。そのうち心労で胃に穴が空くよキミ」

 半ば馬鹿にするように笑い、ぐしゃぐしゃと孝義の髪をかき回しながら、青藍は言った。思わず、彼の視界は少し滲む。

「ちくしょう、まいったな……」

 かすれた声で彼は言い、唇を噛み締め、目を拭う。それから一つ鼻をすすり、まだ頭を撫で続ける青藍を上目遣いに見ると、へたくそに笑った。

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