第06話 滾る怒りを拳に込めて


—————————————————————————

怒は無明のうらうへ。

力の変圧。

雲の密集に孕む熱雷。

怒は人間を浄める。

怒は人類の向きを匡す。

腹が立つのを恐れない。



——高村光太郎 「怒」より

—————————————————————————


     6


 4人は店を出ると、真一と緑青を先頭にして歩き始めた。店内の涼しさに慣れていた体に、夏の日差しが絡み付く。孝義の額にはすぐに汗が滲み、何度となく彼は掌で額を拭った。

「どこに連れて行くつもりなのさ?」

「んふふ、秘密です。まぁ、着いてきてください」

 青藍の質問をはぐらかしながら、緑青は歩き続ける。そして繁華街を抜け、大通りを外れ、段々と人気のない場所へと彼らは進んで行った。


 やがて『ほほえみ通り』という、寂れた商店街に彼らは到着した。周辺は再開発のための建設現場が連なり、コンプレッサやドリルの音が響いている。まだ日は落ちては居ない筈だが、通りの雰囲気は全体的に暗く、空気はホコリっぽい。

(ここらへん、あんまり来た事ないな……)

 孝義は嫌な予感を感じながら、辺りを見回す。目立った遊び場もなく、シャッターを下ろした商店が立ち並ぶ一帯。最も多く目に入る単語が『テナント募集』、次いで『売り地』『売ビル』『売家』という、目も当てられない状況だった。


 孝義は、随分前にこの一帯で変死体が相次いで発見された事を思い出す。おそらくそれがこの商店街が廃れ、寂れた原因だろう。

 緑青はその商店街を進み、中程にある路地へと入ると、表通りに面していた雑居ビルの裏手に廻る。ビルに挟まれたそこは4メートルほどの幅があった。

 コンクリートが張られており、地面に描かれた等間隔の白線から、駐輪場だった事が伺える。だがビル自体に『売ビル』という看板が張られていた通り、利用者はおらず、まともに走りそうな自転車やバイクは一台も存在しなかった。残ったスクラップ同然のそれらは、隅の方に乱雑に積まれている。

 地面には乾燥した砂埃が薄く積もり、先行する緑青と真一の足跡が残っていた。

 何かをするには、ちょうど良い広さ。だがその何かは、緑青や真一から、まだ具体的に発表されてはいない。

(だめだ、嫌な予感しかしねえ……)

 孝義がそう思った時、緑青が足を止めた。

「ここが丁度良いでしょう。お二方、長く歩かせてしまい申し訳ありません」

 大げさな演技。手を大きく広げ、緑青はくるりと半回転。その勢いでスカートが少し広がり、ふわりと周囲のホコリを舞わせた。彼女は孝義と青藍の方向を向くと、にっこりと屈託の無い笑顔を浮かべる。薄暗い路地の風景の中で、その笑顔はとても違和感のあるものに見えた。


「さて、あなたたちには聞きたいことが幾つかあります」

 緑青のその言葉と同時に、真一が手の指をバキバキと鳴らし始め、準備運動でもするかのごとく首を振った。ある意味ヤる気たっぷりのその一連の動き。

(……やっぱりか畜生――予報は的中ですねェ青藍さん……)

 孝義は横に居る青藍が小脇に抱えた本を睨む。病室が吹き飛んだ事象を鑑みるに、正面に立つ大男が孝義の命を脅かすなにかだ、ということなのだろう。ホイホイと着いて行った自分を後悔しながらそんな考えを巡らす孝義をよそに、緑青は彼を指差して言った。


「あなた方が、病室を爆破した理由を聞きたいのですが」


「……は?」

「……ハァ?」

 孝義と青藍は素っ頓狂な声を挙げる。無理もないだろう。死ぬような目に遭い、命からがらそれを回避したというのに、その事件を自分たちが起こしたものと勘違いされているのだから。

「チッ!」

 そんなふたりを見て、真一は大げさな舌打ちをする。青藍と孝義の視線はその音の方向に注がれた。

「あの爆発によォ、妹と弟は巻き込まれて怪我しちまってな……命に別状はねェがよォ」

 彼は悔しそうに続ける。その先に続く言葉を、孝義はなんとなく予測出来た。隣に立つ緑青という存在、『関節の爆弾』という能力の所持。それらの意味するところは――

「ちなみに、生憎と俺は死んだ。自分の死体を見るってェのは、いい気分じゃなかったぜェ……?」

(ああ、やっぱり……)

 孝義は目を閉じて空を仰いだ。汗が一粒、首筋を流れ落ちる。

 少し前、病室が爆破された時に青藍が言った言葉。その真意。


 ――――。


 それはきちんと意味を拾えば、ということ。とても素直に、そしてキッチリ言葉通りに、彼女は『』に対する『予報』をし、『』を回避した。

 だが、今はそれを責めている暇はない。まずはこの血の気の多いヤンキーを止めなければと、孝義は両手を胸の前で振りながら慌てて口を開いた。

「ちょっと、ちょっと待ってくれ! あれは僕がやったんじゃないんだけど……」

「そうだよ、大体なんで志田くんが自分の病室吹っ飛ばさにゃいかんのさ」

 当然、青藍もそれに同調する。だがそれを聞いて、真一は表情を曇らせると、大きく声を荒げた。

「都合なんか知るかァ! お前以外に考えられんだろうが!!」

「何を――」

 バチィンッ! という大きな音。それが孝義の言葉を遮った。

 真一の左の掌と右の拳が発した、明らかな敵意を孕むその音。それは『それ以上話すな』という意思を、孝義に音速で伝えていた。

(くっそ、悪い冗談だ……)

「緑青、あんたもそう思ってんの? 『予報』には、ある程度ログが残るはずだけどね――」

 青藍は腕を組み、緑青を睨みながら言う。

「生憎、私には私の生まれた以前のログはありませんから、状況証拠から推察した結果がこれです」

 緑青は淡々と、事務的に青藍の質問に答えた。それから彼女たちは無言でにらみ合う。


 『予報のログが残る』、という事実は孝義も真一も初耳だったようで、彼らは本の化身同士の会話を黙って聞いていた。


「随分偏った証拠の集め方をしてるみたいだねェ。『本』が聞いて呆れるよ」

「階上から眺めていると、地上で随分安心し切った様子の『本持ち』と、その『本』が居たものですから……はかりごとが成功した後の安心――と取れない事もないでしょう?」

「はっ! だからといって、『本持ち』が人を殺せば、その人間を私たちが殺さなきゃならないことは変わらない。このことにはどう説明をつける、ええ?」

 挑発混じりの青藍の言葉に、緑青は表情を変えずにこう答えた。

「現実に、犬飼さんは今現在死んでいません。それに志田さんにがなかったのかもしれない――姉さん、あなたがそんな判断をして、志田さんを殺さなかったとしたならば――あるいはあり得るのではなくて?」

 値踏みするかのように、緑青は青藍を流し目で見つめる。口許は嘲笑するように片側の口角が持ち上がっており、それは言葉と相まってひどく刺のあるものに見えた。

「馬鹿馬鹿しい。そもそも、だ。アンタはあの爆発で死んだ犬飼くんから生まれたのか、ってところが私としては疑問だね」

「……というと?」

。つまりあれは『予報』が可能だった事象で、それに巻き込まれた人間が鴉羽に遭える筈が無いってことだよ」

 青藍は緑青を指差しながら、苦々しげに言った。

(――そうか。確か、青藍は……)


 ――鴉羽が目をつけるのは『死の予報』から外れた人間――。

 ――要するに切っ掛けも原因もよくわからない死に方をした人間だけ――。


 そう言っていた筈だ。それが本当だとしたら、確かにだ、と孝義は思う。しかし緑青はそれを鼻で笑うと、

「本当に姉さんは『予報』されたのかしら。そこがまず疑問ですね」

 と一蹴した。矢継ぎ早に緑青は続ける。

「ま、仮に姉さんの言葉が本当だとして、その場合巻き込まれると『予報』された人間は、志田さんだけだったのでは? ――ああ、そうでしたね、私たち『本』の力は特に持ち主にのみ働くんでしたね? うっかりうっかり」

 言葉と同じ色をした、挑発じみた緑青の眼差し。青藍は唇を噛み、瞼を震わせた。

(なるほど……つまり本当なら、あの爆発は僕だけを狙ったものだった……ってことなのか?)

 青藍の本に『予報』が現れたのを、孝義はしかと見ている。緑青の語る『予報に関する説明』が全て本当だとするならば、不自然な爆発の範囲の狭さなどはそういう理由だったのかな、と孝義は考える。

 その時、工事現場から、ガリガリとコンクリートを削る音が響き、騒音に一瞬、二人の会話が止まる。青と緑の本の化身は微動だにせず、その趣の違う鋭さを持つ視線を交わし合った。


 だが、そこで彼はふと思った。


(……もしかして、僕が予報から外れた行動をとったから、犬飼は巻き込まれたんじゃないか?)


 これはただの推論に過ぎない。だが、もしそれが本当だとしたならば、? と。


 やがてコンクリートを削る音が止まり、それを合図にして緑青は滔々とうとうと言葉を続ける。

「それに万人にとって『予報』が可能な事象の方が少ないということは、姉さんも充分ご存知のはず。私も今回の事は半ば特例のようなものだとは認識していますが、その点は問題じゃありません」

「はっ! それなら話が早いよ。『だって!?」

 青藍は緑青の言葉を受けてニヤリと笑った。眼鏡を手で覆うようにして目元に押し上げると、語気を荒げ、孝義をまっすぐに指差し、言葉を続ける。

「それならなおさら、志田くんは関係無いだろう。もし志田くんが手を下したのなら、それを見逃すほど私や鴉羽は器用に出来ていない! そこのデカブツは生き返らず、私は志田くんを殺さなきゃいけなくなる!」

 完璧な反論だった。だが、それでもなお表情を崩さずに緑青は言う。

「……改めて言いますが、私は姉さんがきちんと『予報』できていたのか、という点に疑問を持っています。先ほどの予報が可能な事象のほうが少ないという前提がある以上、100%あなたたちを信用することはできないのですから」

(これでは――)

 単なる推論に基づいた水掛け論だ。孝義はそう思う。

 おそらく、このふたりの会話に決着点はない。どちらかが諦める事も無いだろう。嫌な予感が具体的な形を持ち始め、彼の心拍数は上がり始めた。

「――けっ、馬鹿馬鹿しい、そうやって当て推量を積み上げて証拠の代わりにするか。同胞だとは思えないね」

「あなたがそう疑うのは勝手ですが、現状姉さんたちを疑うのは当然ではなくって?」

「……」

 青藍は呆れたように首を振りながらため息をつく。

(ふたりが同じ、鴉羽から生まれた『本』なのだとしたら――)

 考えつく結果も、きっと同じなのだろう。だからこそ、青藍は言い返せずにいるのだろう。

「チッ!」

 大きな舌打ち。埒が明かない本同士の会話に、真一は苛ついているようだった。

(それに、僕だって……僕だって、引けないとき位は引かないさ……)

 心を決める。なんとかこの男を説得しなければ、血を見る結果になるだろう。

 だが、彼の心の底には、自分が真一を殺してしまったのではないか、という疑いが、強く根を張り始めていた。

 孝義は、動くことができない。


「話は終わったか? おふたりさんよォ」

 膠着した空気に耐えきれなくなったのか、じゃり、と真一は靴底を鳴らす。敵意ある視線が彼を射抜き、そしてふっと彼は顔をほころばせた。

「志田、孝義とか言ったか……まぁ聞けよ。俺は鴉羽に生き返らされた。頼んじゃいねェがな――だけどまァそれは感謝してる」

 やさしくそう言いながら、彼は顔の前で右の拳を左の掌でそっと掴み、ゆっくりと表情を隠す。引き締まっていた空気が緩み、少しだけ肩の力が抜けた孝義は、おずおずと口を開いた。

「あの、僕は——」

「でもな」

 真一の短い言葉に、孝義は発しかけた言葉を思わず飲み込んだ。緩んだ空気が、ぎしり、と音を立ててもう一度硬さを取り戻す。


 孝義は悟った。もう、会話で解決するラインはすでに超えてしまっているのだと。なぜなら、真一の瞳が——ギリギリと組み合った彼の両手の奥から覗くその瞳が、怒りに燃える復讐者の瞳が——孝義を射殺さんばかりに睨みつけていたからだ。

「てめえが、俺の弟と妹を傷つけた可能性が、一番高いってことにゃ変わりねェし、それが分かった以上、俺はもう、止まるわけにはいかねぇんだよ!!」

  そして真一はもう一度、右手を左手の掌にぶち当てた――その瞬間。

 ドゴン!! と巨大な爆発音が周囲に響いた。

「!?」

 孝義は思わず耳をふさぐ。それを見るやニヤリと笑って、真一はモウモウと煙の上がる自分の左手の感触を確かめるように、閉じたり開いたりを繰り返した。爆発によって傷を負ったような形跡は無く、彼のしたり顔を見るにこの現象は彼の意図したものであるようだった。

「え、ちょっと、何……?」

 孝義は狼狽える。

(拳が爆発したのか? 意味がわからん、何が起こってる?)

「……『関節の爆弾』か。あの様子だと全身凶器だね」

 青藍の言葉に、孝義はテレビ番組で見た知識を思い出した。人間には約300の関節があり、その6割が手足に集中している。指や手なんかは関節の宝庫だ。自分の内燃器官エンジンと同様に、真一が持つという関節の爆弾が、その関節にあたる部分を全て爆発物へと変化させる能力だとすれば――。

(あれで殴られれば、たぶん、いや、絶対に死ぬ——!)

 彼の背中を、具体的な形を得た嫌な予感が這い上がる。一度体験した死の恐怖が、身体中の血管を冷ややかに流れて行くのが解った。

 真一はというと、感触を確かめるように、自分の掌に拳をぶつけ続けている。

 爆発音と平手打ちをしたような音が交互に鳴り、それがジワジワと孝義に近づいてきた。

 鼓膜を揺らし、下腹に響く爆発音と、傾きかけた太陽よりも強烈に肌を焼く熱波。断続的に襲うそれらの具現化された怒りが、孝義をその場に釘付けにする。

 恐らく周囲の人々には、工事現場の騒音に聞こえる程度の音。だが何度も何度も爆発する拳は、その度に強く赤く、熱を持っているように見えた。

「こりゃだめだ、志田くん。さっさと終わらせた方が安全だわ」

「……」

 騒音に顔をしかめ、耳の穴を小指で掘りながら、青藍は面倒くさそうに言う。他人事とはいえ、物怖じしないこの態度。孝義は驚いて声も出なかった。

「あんなの持ってたら強く出るのも解るねェ。ほら、志田くんも内燃器官エンジンかけて!」

 顎をクッと振りながら言う青藍に、孝義は慌てながら、

「いや、あの、待て、かけろって言ったってな」

(使い方が良く解ってないんだよ!)

 と言いつつ思う。しかし、相手は――真一は待ってくれない。

「いい加減、話は終わったかよ?」

 小さいがよく通る、低い声で彼は言う。赤熱した拳が発する煙が風に乗って、焦げ臭い匂いを孝義の鼻腔を刺激した。

「そうですよ、姉さんの仰る通り。ぜひ見せてくださいな、志田さん」

 コツコツと足音を響かせながら、彼女は孝義らに近づいて来る。手に持った本で口許を隠しているため、表情は読み取れない。

(……?)

 孝義はふと、その仕草が不自然なものに見えた。なぜ、表情を隠す必要があるのか。緑の本の裏側に隠れている表情が、眼鏡の薄ガラス1枚で隔たれた緑青の視線が、何故か孝義の体の芯を這い回り、ゆっくりと締め上げていく。

 緊張にも似たその感覚に、彼は思わずゴクリと唾を飲んだ。

「ほら、早く使ってみてくださいよ、志田さん」

 そしてその疑念と違和感は、坂を転がる雪玉のように、水面を滑り広がる波紋のように、加速度的に大きさを増して行く。


(あいつは何を考えてるんだ――?)


 緑青の言葉や態度から発せられる、身体中をゆるやかに締め上げてくる得体の知れない何かに彼は気付いた。掴めそうで掴めない、見えそうで見えない、何か。孝義はそれが、緑青が口を開く度に、口許を隠す緑の本から、そのページの間から、ごぼごぼと溢れ出て来るような気がした。

「能力を手に入れたあなたは、それを使ってみたかったのでしょう?」

 緑青は続ける。路地裏に入ったときに見せた、大げさな身振りを加えて。

「そして使ってみた結果が、あの爆発だと私は踏んでいます。『予報』の如何は私には些末な事です。大事なのは、真一さんの妹さんと弟さんが傷つき、彼自身が一度命を落としている、ということ。その無念を晴らすため、、私はいま、ここに居るのですよ!」


 言いながらにっこりと笑い、緑青は目を細めた。口許は微笑んでいるが、目には明らかな好奇心を含んだ悪意が見て取れる。


(――!)


 その表情が目に入った瞬間、緑青から感じ取っていたものの正体が、孝義の中でくっきりとした形を持った。同時にぞわり、と全身の毛が逆立つような感覚が、彼の全身を襲う。


(こいつは、楽しんでいる――!)

 

 真一の激しい怒りの影に隠れていた、緑青の思惑の正体。それは単なる好奇心や興味、そしてサディスティックな欲求を満たそうとする利己的なものだった。

 巧みな言葉を操り、真一の怒りの方向だけを上手く誘導する。献身的な側面を見せながら、後は真一のくすぶった心に油を注ぐだけ。それで真一の心は彼の拳のように盛大に爆発するだろうと緑青は予想したのだろう。

 ほぼ完璧な筋書き。現在のこの状況を見るに、その目論みは見事成功したと言える。

「待て、勘違いだ! 僕はそんなことしてない! 聞いてくれ、僕は……」

「お黙りなさい、人殺しの分際で!」

 緑青は孝義の叫びに、強烈な言葉を被せる。思いがけない『人殺し』という単語に、孝義の言葉は喉元で止まった。

 生死が関わる事象で、論理や可能性を吹き飛ばすのは、いつも人の感情。それを緑青はよく理解し、利用していた。

 そして恐らく、緑青は承知し抜いているのだろう。孝義が犯人ではないということを。

「さあ、真一さん、復讐の時です。あなたとあなたの家族を傷つけた人間が、そこにいます」

 挑発的な表情で、扇情的な声色で、緑青は言い放つ。

 緑青の言葉を背に受けた真一の瞳は、先ほどまでの挑発めいた色ではなかった。それは確固たる底なしの敵意に、どっぷりと深く沈んだ色をしている。

「……解ったよ、チクショウ、やってやるよ」

 孝義はそう小さな声でつぶやくと、服の埃を払う。言葉でどう説明しても伝わらないのなら、やるしかないだろう。心を落ち着けるために、一つ『深呼吸』。胸の中心が活火山のように弾ける感覚とともに、水のように空気が身体にまとわりつき、自分の体重が何倍にも増えたように感じた。

(集中すればやれるもんだな、意外に……)

 間延びした時間感覚の中で息苦しさを感じながら、その中で孝義はジッと真一を見つめた。

 真一の表情は、一見して無表情。だがやり場の無い衝動を身体の内側へ押しとどめているような、無理矢理に自分にフタをしているような、冷たく淀む煮えたぎった怒りが、目の奥から孝義を貫くが如く捉えているのが解る。彼の心の奥でぶすぶすと燻っている火薬は、ほんの少しの衝撃で大爆発を起こすだろう。

(あの目は、怖いな……)

 一歩一歩、ゆっくりと近づいて来る真一が、孝義はただただ恐ろしかった。真一の目から、そして全身から黒々と溢れ出る殺意は、周囲の空気を歪ませているのではないかと思うほどに濃い。

 孝義が内燃器官エンジンを起動しているにも関わらず、その場から一歩も動けなかったのは、彼の全身に乗る大気の重さの他に、真一から発せられる一種の圧力が身体を釘付けにしていたからだった。

(……?)

 そして孝義は恐怖から思わず、視線を真一から外した、その先。そこには腕組みをしてこちらを見る緑青の姿。

(……!)

 真一が振りかぶった拳の向こうに見える、その表情は――。

(あいつ――!)

 嘲笑。

 口の端をつり上げ、目を三日月形にして、緑青は卑屈に笑っていた。

(やっぱり、笑って――)

 ぎり、と歯を軋らせ、孝義が怒りに身を堅くする。だが。


「おらァッ!!」


 それが彼の反応を一瞬遅らせた。

「――ッ!!」

 気付いた時には、もう遅かった。ゆっくりと流れる時間は終わり、瞬間的に真一の腕が伸びる。咄嗟に孝義は後ろに身体を反らせたが、真一の拳は、彼の胸板に直撃した。

 そして。

「ぐぁっ!」


 爆音!


 拳の威力も上乗せされた爆発は、孝義を吹き飛ばすと容易に壁に叩き付けた。彼は背中をしたたかにコンクリートの壁へと打ち付け、さらに地面に顔から思い切り突っ伏す。

「ぐっう……! は……!」

(息が、出来ない……!)

 呼吸が止まり、彼の『内燃器官』も動きを止めた。痛みを感じるよりも、背中と胸を強打した影響での呼吸困難で、彼はうずくまるように四つん這いになる。

「げぁ、はっ――!」

 酸味じみた何かが彼の胸を迫り上がり、喉に灼熱感が絡み付いた。

 そこへ――

「馬鹿が! よそ見しやがって……よォッ!!」

 横腹に、真一の太い足が蹴り抜かれる。

「ぐえッ――!?」

 押しとどめた少量の胃液をたまらず吐き出し、孝義は横へ転がった。内蔵がひっくり返りそうな痛み。だがそのせいで、彼は飛びかけていた意識を取り戻す。

(やばい、これは、やばい!)

 なんとか孝義は体を起こすと、逃げるように這いながら口許を拭った。息苦しさに咳き込みつつ、顔を上げキッと真一を睨みつけるが、その視界は少し揺れている。

「チッ!」

 孝義の視線に苛ついたからだろうか、真一は自分の足を見ながら、大きな舌打ちを一つ。ただ、孝義の視線はやせ我慢のそれで、蹴られた腹は重く、響くような堪え難い痛みが続いていた。

 そして、真一に抗議の声を上げようと口を開いた瞬間、

「お――う……ぇえ、げッ――」

 彼は思わず胃の中を戻してしまった。少し前に食べたバーガーの味と、不快な胃液の酸味が混ざった感覚が口いっぱいに広がる。

 先ほどとは比べ物にならない喉の灼熱感と、横隔膜が痙攣する異様な感覚。思わず彼は目に涙を浮かべるが、それに気を取られているところに、

「おらァッ!」

 真一の足が、孝義の横腹をもう一度打つ。その瞬間、腹部を中心に空気が爆裂した。

「がっ、あああ!!」

 孝義は爆発の勢いで2メートルほど上方へ吹き飛び、もう一度身体を地面に叩き付けた。肘と膝、そして顎を思い切り地面にぶつけ、脳と言わず体中すべての内蔵が不快に揺れる。

「あぁ……ぐ、ぅうう……」

 ギンギンと心拍に合わせ痛む鼓膜と、腹筋が弾けとんだかのような痛みに、彼は悶絶する。真一の足の甲が密着して爆発したせいだろう、爆発が腹部の1点に集中し、背骨さえも軋ませていた。上も下も右も左も、前も後ろも解らなくなるような、強烈な衝撃と痛み。そして焦げ臭い匂い。

「……あ、うわ、ああ――」

 痛みで情報がオーバーフローしている頭で、孝義は自分の服が焦げている事に気付く。煙の上がっている服を無我夢中ではたくと、爆発の中心部であったろう場所は黒く、ぼろぼろと崩れていった。服の下の肉も火傷を負っているようで、触る度に刺すような激痛が走る。

 だが、痛みと熱さは意識が飛ぶのを無理矢理に押しとどめてくれていた。仮に意識を失えたら、いくらか痛みはマシになっていただろうが、それは今、恐らく死と同義。

「おいおい、てめぇ、やられっ放しか? 見せてくれよ、ほら、どうした?」

 満身創痍の絶頂に居る孝義を見て、ヘラヘラと笑いながら、真一は近づいてきた。

 孝義は必死で息を整えようと、四つん這いのまま咳き込む。血液の混じった唾をだらだらと落とし、上がって来る吐き気を飲み込んだ。

「おい、お前、なんで力を使わねェんだ? ドカンと爆発する、派手なやつをよォ!」

 爆発の余韻を残した焦げ臭い匂いが、孝義の視界の隅にある真一の靴先から漂ってきた。それを胸いっぱいに吸い込んで、孝義は目を開く。視界はまだぐらついていた。

「ぐう……ううッ……」

 真一から逃げるように壁を使って立ち上がりながら、痛みと熱さ、そして謂れのない暴力に対する悔しさに、彼は薄く涙を浮かべて拳を握りしめた。振り向き顔を上げ、真一を睨みつける。

「へっ、立ちやがった……やるな」

 攻めている余裕からか、もうもうと煙のあがる足をぶらぶらとさせて、呆れたように真一は言った。爆発の影響を受けていないのか、爆心地だったはずの靴には破れや焦げは見当たらない。

 孝義の膝は笑い、見ての通り壁を使わないと立てないほどに震えていた。

「もういいだろ……これで、死ね!」

 言葉と同時に、真一が左足を踏み込む。孝義は前蹴りが来ることを予知したが、体は避けるほどの力を、既に残していない。


(やばい、死――)


 孝義の腹部にめり込む瞬間、体感した爆発のイメージが頭をよぎり、彼の全身はがゾッと冷たくなった。


(これを食らえば、死ぬ——!)


 だが。


「ぐうぇっ!? かはっ……!?」


 その足は、


 ただ、爆発が無かろうとそれは重く、彼が吹き飛び崩れ落ちるには充分な攻撃。背中をしたたかに地面に打ち付け、ホコリのつもった地面をザリザリと滑る。だが、そんな最中であるにも関わらず、彼は考える。


――……? は、爆発したのに――!)


 執拗な腹部への攻撃で強い吐き気を催しながらも、彼はその疑問を止められなかった。そして同時に体感する。あの蹴りが爆発しないのならば、まだ、覚悟していた死には、一度体験した死には、ほど遠いと。


「チッ!」

 真一の舌打ちが聞こえる。彼は自分の足を見ている。さっきも聞いた、同じ舌打ち。


(そうだ……も……!)


 つばを吐き、グラグラと歪む視点をなんとか正す。


(そうか、――)


 ある仮説が彼の中で構築される。真一の能力、『間接の爆弾』に対する一つの仮説。

(多分――多分、今のアイツは、自分の力の使い方をいまいち解ってない……。時間を、時間を稼がなきゃ……)

 足下から這い上がる悪寒を抑えるように、無理矢理孝義は息を吸う。それに呼応するように一つ、強く心臓が拍動すると、笑っていた膝が元に戻り、腹部の痛みがいくらか楽になった。意識は鮮明に、視界は輪郭を持ったものになる。

 だが呼吸で強くなった心拍は、彼の痛む鼓膜を内側からズンズンと刺激した。頭痛に似た痛みに耐えるように孝義は片手で顔を覆い、その指の隙間から真一をギロリと睨む。

 その視線に少したじろぐように、真一は顔をしかめた。


「……」

「……」

 無言の睨み合いがほんの少しだけ続く。先に口火を切ったのは、孝義だった。

「お前は……緑青の言った事を、本当だと思ってるのか……!」

「あぁ?」

 孝義の絞り出すような言葉に、自信に満ちていた真一の視線が一瞬泳ぐ。

「いいか、犬飼……あの事件は僕じゃない……」

「……」

「よく考えろ、僕が犯人だったとしたら、こんなやられっ放しで居ると思うか? 僕が犯人なら、とっくにお前を、殺してる――」

「んだとテメェ!」

 孝義の言葉に、真一は声を荒げた。拳を握り、歯を食いしばるが、その足は前へは出ない。真一は、眼前の死に損ないに等しい男の言葉に、少なからず言いようの無い圧力を感じていた。そして真贋はさておき、孝義が何を言うのか、待っている自分にも気付いていた。

「聞けよ、犬飼……緑青は――」

 真一は、ごくりと唾を飲み込む。次の言葉は、なんだ――?

 だが。

「聞いてはいけません、犬飼さん!」

 孝義の言葉は、緑青の叫びに遮られた。自分の名を呼ばれた事で、真一もハッと身を固くする。そしてすぐに我に返り、彼は拳を握り直した。

「その男――志田さんは、あなたを、騙そうとしているんですよ!」

 緑青は涙ぐんだ声で、真一に背後から訴えかける。

(どっちが……!)

 孝義は心の中で、遮られた言葉の続きを叫ぶ。

(緑青は、お前の妹と弟をダシにして、楽しんでやがるんだぞ……!)

 当然、その言葉は真一には届かない。届いているのは、緑青の演説に似た饒舌な言葉。なそして尚も、緑青は畳み掛ける。

「あなたを殺しただけではなく、あなたのご家族を傷つけ、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。今まで能力を使わなかったのは、能力をギリギリまで使う事無く、最後の最後であなたに一矢報いようと考えているのです」

 口許を本で隠し、緑青は滔々と言葉を紡いでいく。

「今あなたが目前にしている男は、殺し屋です。何処ソコ構わず油を撒いて、誰彼構わず火の粉を振りまく。引火した端から導火線を引き、何もかにも灰と瓦礫に変えてしまう薄汚い殺し屋です」

(あいつ……)

 孝義は右の掌を、張り付いた砂ごと握り込んだ。彼はそのまま拳を振るわせ、奥歯を噛み締め、言おうとしている事を飲み込んだ。

(やっぱり、笑っていやがる……)

 だが、ここで口を開いて、目の前の爆発寸前の男を刺激するのは、得策ではない。彼は同時にそうも考える。

 そしてなおも、緑青は続けた。

「狙って殺す、という訳ではない、狙わずに殺すのです。誰でも良い。誰かを目的として殺す訳ではなく、殺す事が目的になっている歪んだ物狂い……」

 やり場の無い色々なモノが、孝義の中で渦を巻く。

 口許を本で隠しながら、左手で彼を指差し、緑青は言った。

「殺してしまいなさい、この世界のために。そして、何よりあなたの妹と、弟のために――」


 孝義には、孝義にだけは見えていた。


(笑っていやがる……! 僕を……僕たちを)


 緑色の本、その後ろに浮かぶ、孝義と真一に向けられた、引きつったような口許が。


 嘲笑の根には、燃え盛る怒りの背後に身を隠し、粘性じみた高笑いをかみ殺しながら、三日月型の濁った瞳でこちらを見つめ続ける、緑色の悪意があった。

 緑青の声を背中で聞く真一が、それに気付いているかどうかは解らない。だが、明らかにその嘲りは孝義、真一を含む『この状況』に向けられている。


(笑っていやがる……! 犬飼を……!)


 だが、自分が笑われている事、それよりも、目の前で自分に対し猛り怒っている真一が、彼のどこまでも真っ直ぐな心が、妹と弟の仇を取ろうと自分にどす黒い殺意を向けているこの男が、笑われている。


 それが何よりも、孝義には許せなかった!

 

「さあ、犬飼さ――」

「……ああ、やってやるよ――」

 緑青の言葉を遮り、真一は、サッカーボールを蹴るように、足を振り上げ、漏らすようにつぶやく。

「殺してやる……!」

 孝義はその言葉を受けて、深く息を吸った。思い切り、胸の中心に向けて、空気を押し込む。



 彼の胸の中に、青く光る火花がひとつ灯った。



「吹き飛べえッ!!」

 声と共に、真一の足が、振り抜かれ――ようとしたとき。

 バァン! と何かが弾けるような音が周辺の空気を揺らす。

 真一の目の前の地面が、爆ぜたかのような錯覚。

 舞い上がる砂埃。周辺にもうもうと舞うそれが晴れた時、果たしてそこに孝義の姿はなかった。

「は?」

 真一は驚きながら周囲を見回す。正面には自信ありげな表情の青藍、背後にはぽかんとした顔の緑青、そして慌てている自分の他には、誰もいない。

 居たはずの人間が消えていた。

「……?」 


 ふと、空から、奇妙な音。


 例えるなら、それは低いエンジン音のような。ウーファーのように空気を震わす、断続的な、振動音。


 それを見る青藍の瞳に、強い光が灯る。


 彼女は自分の体の中で、何かの歯車がガチリとかみ合うのを感じた。


「いいぞ志田くん、それで完成だ! 思う存分見せてやれ――」


 青藍は叫ぶ。孝義の感じていた怒りを代弁するかのように。


「こいつらにッ! それをッ!」


 そして地面に映る、不自然な影。ぱらりと落ちる、コンクリートの破片。


「――!」


 真一は思わず空を見上げた。夕日間近の逆光に目を凝らす。


「…………な、なんだ、ありゃあ」


 彼は目を疑った。


 空から落ちる、ひとつの影。


 両脇を囲むビルの屋上近く。指を壁に打ち付けて、孝義はそこにぶら下がっていた。

 彼はその口から赤黒い煙を細く吐き、目は爛々と真一を見据えている。



「んだこりゃ……なんだ、お前は」

 ぞわり、と真一の背中に悪寒が走った。数えきれないほどケンカをしてきたが、こんな人間と戦った事は、未だかつて無い。赤い逆光と相まって、その姿は得体の知れない化け物のように見えた。


「――っ、緑青ッ! 違うじゃねえか お前の言ってた能力なんかじゃねえ!」

 緑青の目はまだ追いついていない。影が落ちる地面から空へ、真一より一瞬遅れて空を見る。


 だが既に、そこに孝義は居なかった。


 瞬間、ゴゴゴッ! と左右交互に3回壁が鳴る。壁は破片を散らし、そこには靴底状の穴があいた


「コイツの能力は、爆発なんかじゃ――」


 凄まじい速度で落ちて来る、帯状の残像!

 空気を揺らす心臓の音!

 轟音を響かせて、地面が揺れ、割れる!

「――!」

 反射的に足下へ視線を向けた真一は見た。視線の先、真一のすぐ目の前に、砕いた地面を踏みつぶし、拳を握りしめ、口から煙を吐く化け物が、彼を赤く光る瞳で睨みつけているのを!

「うぁあっ!」

 真一は恐怖からか、言葉にならない叫び声を上げながら遮二無二拳を振るった。ケンカ慣れした人間だからこその、咄嗟の行動。当たりさえすれば、『関節の爆弾』で吹き飛ばせる――彼はそう考えていた。

 怪物の顔面に、彼の拳が当たる! その瞬間、轟音を響かせ拳は爆発……


「……な、に?」


 しない! 期待した『爆弾』は、炸裂しなかった!

 真一は驚いたような表情。孝義の額にぶち当たったのは、ただの拳!

「……へ、へ、やっぱりね」

 額に当たった拳の痛みに顔をしかめながら、孝義はつぶやく。そう、孝義には確信があった。始めに見た拳と掌をぶつけるデモンストレーション、そして数回の蹴り。身をもって体験した『関節の爆弾』発動の条件。

 そう、『関節の爆弾』は、では爆発しない!


「……っうおおおお!!」

 追い詰められた真一は、破れかぶれにもう一度拳を振り上げる!

 だが、眼前の怪物はその拳を許さない!

「ァァァあああああッ!!」

 孝義は叫び声とともに、襲いかかる拳よりも何十倍も速く、カタパルトのように空気を焼きながら、真一の胸板にその拳を叩きつけた!

 音速を超えた拳は空気を貫いて円錐状の雲を生み出し、超大口径の拳銃が火を噴いたような破裂音が、衝撃波とともに轟いた!

 一瞬遅れ、周囲の窓ガラスが一斉に割れ、四散する!

「――ぐッ!」

 甲高い残響を残して、まっすぐに真一は緑青の足下まで吹き飛んで行く。背中から思い切り地面に叩き付けられ、コンクリートの床を横滑りした後、真一は仰向けのまま動かなくなった。

「うっく、あぐっ!」

 孝義はというと、ろくに体勢を整えずに放った強烈な拳のせいで、真一とは反対方向へキリモミ回転をしながら吹っ飛び、地面を跳ねながらごろごろと転がっていた。

「――っぐうう……がっは、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 酸味じみたコンクリートの埃にまみれ、彼は胸の中の空気を、黒い煙にして一気に吐き出す。上半身を起こし、鉄の味のする唾を吐いた。全身が強烈な熱を持っているようで、それが疲労と相まって強烈な目眩を引き起す。

「うぇ、きもちわり……」

 げほげほ、と咳とともに黒い煙を吐き出し続ける孝義に青藍は駆け寄ると、そっと背中に手を貸した。

「大丈夫か、志田くん。深呼吸を、とにかく息を落ち着かせて――」

「なん、だ、この、煙……!」

 咳き込むたびに発生する謎の煙。それを手で払いながら、孝義は顔をしかめる。

「それは――」

 青藍がそれを説明しようとすると、

内燃器官エンジンの副作用です。ガス欠とオーバーヒート、要するに貧血と心臓の過稼働による熱暴走ですよ」

 頭上から降ってきた冷たい声に孝義が顔を上げると、そこには声と同じく冷たい表情の緑青が居た。

「なん、で……お前、僕の……」

 能力を知ってる……? そう彼が言おうとしたのを察したのか、緑青はにやりと笑う。

「今さっきお話ししたことなのに、忘れたんですか? 私たち『本』は、全てある程度記憶を共有していること。そして版で言えば、私の方が新しいのです。前版に記載されていることが、後版に載っていない訳ないでしょうに」

 滔々と説明をする緑青の言葉は、果たしてほとんど孝義の耳には入っていなかった。度重なる爆発の影響と、内燃器官エンジンの使い過ぎによる貧血に似た意識混濁。目の前に居る緑青ですら、彼にはぐるぐるとトグロを巻く緑色の渦のように見えていた。

「くそ……」

 意識が遠のきそうになる。だが青藍は彼の手をそっと、だが力強く握り、その意識をつなぎ止めた。

「息を、大きく吸って。『内燃器官』を急に止めちゃ駄目だ。落ち着いて。大丈夫――」

 言われるがまま、彼は必死に息を吸う。ブレていた視点がハッキリしてきて、少しだけ意識が戻った。


「君の血は燃料兼バッテリーだ、バッテリーが上がっても、燃料切れを起こしても、君の心臓は止まる。それに急にブン回すのはよくないな」

 優しく孝義を見つめながら、表情と同じく優しい声で、青藍は言う。

「無理しちゃってさ……大丈夫、まだキミは死なない」

 青藍が孝義の背に回した手はちょうど心臓の後ろにあり、彼はそこから身体全体の異常な火照りと、肺を満たしていた血の匂いが薄れて行くのが解った。

 孝義の顔色が少しマシになり、呼吸が落ち着くのを確認すると、青藍はキッと顔を上げた。孝義に向けていたそれとは違い、明らかな敵意を持った表情。その視線の先には、仰向けで倒れている犬飼と、腕を組み不満げな顔をした緑青が居る。

「……ふん、姉さんに負けるなんて悔しいですけど、まぁ仕方ないですね」

 優しさを貼付けた台詞ではなく、斬りつけるような敵対心をぶつけるように、緑青は言い放つ。

「少し黙りなさい緑青。口を開くなら、もっとうまい理屈をコネないと駄目だよ」

 対し、青藍はそう言いにやりと笑った。

「……なんのことかしら」

「とぼけなさんな、あんたのさっきの話は矛盾が過ぎてる」

「…………」

「そこに寝ッ転がってるウドの大木にもうちょっと知恵があったら、多分あんた看破されてたよ」

「あら、そこの辺りも加味したお話を仕立てたつもりでしたけど?」

「はっ、やるねぇあんたも」

「いえいえ姉さんこそ、あえて志田さんを言葉で助けない辺りは、ね」

「にしし」

「にしし……」

 二人の会話の内容に、孝義の全身は恐ろしいほどの寒気に襲われた。青藍は始めから緑青がこの邂逅を仕組んでいた事に気付いていたらしい。それを解っていながらあえて二人を争わせた理由も解らず、孝義はただただ混乱した。

 その後ろでもぞもぞと犬飼が目を覚ます。それに気付いた緑青は営業スマイルとも呼べるような、最初に会った時のニコニコとした笑顔に戻っていた。

「あら、犬飼さん、お目覚めかしら?」

「チッ! てめぇ……今聞いてたら……嘘だったのかよ……!」

「……なァんだ、聞いてらしたんですか。まぁそれはそれで」

 言葉と同時に、緑青の笑顔は一瞬で消える。

(あぁ……そういえば文字通り、こいつらは人でなしだったな……)

 お面を付け替えるように表情を変える緑青と、腹の中で何を考えているのか解らない青藍。この二人の女性が人外の者だということを、改めて彼は思い出した。

「げっほ……ぐ……うう」

「あらあら犬飼さん、大丈夫かしら。死んでもらっちゃ困りますよ、私も死んじゃいますから」

「チッ……てめェ、心配とかそういうのは、ねえのかよ……」

「この際別に構いませんわ、犬飼さんが能力の使い方を覚えてくれれば、それで」

 犬飼に対する労いの言葉ひとつ無く、目的が完遂できて嬉しくて仕方が無い、という様子で緑青は笑う。

(これはひどい)

 さすがの孝義も同情を禁じ得なかった。ただ、最後の緑青の台詞にはどこかひっかかるものを感じる。

(……待てよ、ということは、僕らが狙われた理由ってのは……)

「いい練習台だったってワケ。まあ、お互い様だけどね」

 怪訝な顔をしていた孝義の代わりに、青藍がその答えを出した。緑青は青藍のその言葉に気付き、くるりと向き直る。

「そういうことです。私だって好きで志田さんに喧嘩を売った訳じゃないんですよ? 一番近くにあなたたちが居ただけ――」

「……じゃあ、ゲホ――じゃあ、僕じゃ無くても良かった、ってことか?」

「ですからそういうことです。もう、さっきからそう言ってるじゃありませんか。なんども説明させないでくださいよ、怒っちゃいますよぉ?」

 ぷりぷりとわざとらしく緑青は頬を膨らませる。怒りたいのはこっちだ、という言葉を、孝義は飲み込んだ。

「犬飼さん、無事ですか? 喋れているし、大丈夫そうですね?」

 ニコニコと笑いながら、緑青は事務的に薄っぺらい労いの言葉をかける。真一は体を辛そうに起こしながら、

「それじゃあ、あの病室の爆発は……コイツじゃなくて……」

「ええ、先ほど姉さんが仰った通り、未だに霞の中ですよ。誰が、どうやって、なんのために、何を使って、どんな準備をして、何を予測して、誰を殺す目的だったのか、何を壊す目的だったのか、何もかもが解らない理由で、あなたは殺されました」

 深く頭を下げて、恭しく言う緑青。頭を上げると、晴れやかな顔。彼女は掌を上に向けて続ける。路地に入ってきたときのような、大げさな演技。

「ですから、その理由を探すため、あなたは能力として『関節の爆弾』を得ました。その使い方を覚えていただくための、これは仕方の無い手順の一つだったんです。騙してごめんなさいね」

「てめぇッ……!」

「おっと、危ないじゃないですか、怪我したらどうするんです?」

 ひらりと緑青はステップを踏んだ。真一の振り回した手は空を切る。

「ちっくしょォ……くっそ……」

 緑青を睨む彼の目には、少し涙が浮かんでいた。

(そりゃヤンキーでもこんだけやられりゃ泣くわ……)

 孝義は生暖かい視線をふたりに注ぐ。不憫という単語だけでは言い表せない状況に、彼は眉間に皺を寄せた。 

「でもね、犬飼さん。あなたの能力の弱点は解ったから、それで良いじゃありませんか。ね、志田さん?」

 標的を変えるように、緑青は孝義に気持ちの悪い笑みを寄越す。まるで彼にそれを発表しろと言わんばかりの微笑み。

「……、だろ?」

 だがあえて、彼はその口車に乗った。少し鼻を明かしてやりたかったという気持ちもあったが、何より突っ込む気力も体力も、彼には無かった。

「よくできました、それが弱点というか――予備動作ですね。そうしないと、あなたの爆弾は爆発しない、ということです」

「……チッ、くそ、知ってんなら初めから言えよ……」

「聞くよりも、実践した方が早いんですよ? 知りませんか? なんかそういう慣用句ありますよね、百十は一千に満たずでしたっけ」

「百聞は一見にしかずだよ馬鹿野郎……」

「あらぁ、口車に乗せられてホイホイついてきた馬鹿が何か言ってますねぇ」

「お前絶対にいつか殺す……」

「そんなことされたら監視できなくなっちゃうからだめですぅ」

 文句を言いながら、ふらふらと立ち上がる犬飼に肩を貸し、緑青はふたたびにっこりと笑う。

「もー、もうちょっとシャンとしてくださいよ、体大きいのに弱っちいですね真一さん」

「うるせぇ……ちくしょう、離せ!」

 辛そうに胸元を抑えながら、彼は緑青を振りほどくと、孝義たちに向かってふらふらと歩き始めた。

(まずい、今、やり合う力は残って……)

 孝義は必死に息を吸おうとするが、うまくいかない。ぐらぐらと世界が揺れた。

 うつむいた視線に、真一のつま先が映る。何度も自分を蹴り上げたそれに、孝義は体を震わせた。

 顔を上げると、そこには相変わらずの仏頂面と、巨体。孝義は力の入らない右手を無理矢理に握りながら、真一を睨み、口を開いた。

「……だから、最初から言ってただろ、僕はお前を殺してなんか――」

 そこまで彼が言うと、真一は無言で首を振った。痛みをこらえるような、後悔の表情。そこには、ついさっきまで燃え上がっていた、どす黒い怒りの色は見られなかった。

「解ってる。もういい」

 彼はもう一度、言葉を繰り返す。言いながら、彼は大きな手を孝義に差し伸べた。

「……」

「悪かったな、これ以上やり合う気はねえ」

 少しの間を置いて、孝義はその手を掴む。真一は力強く、だが優しく腕一本で孝義を引き起こすと、その服のホコリを払った。ぱたぱたと大きな手が服を叩く度に、黒くグズグズに焦げたTシャツの破片が地面に落ちる。路地に吹いた生ぬるい風に乗って、その灰は散り散りになっていった。

「……やりすぎちまったな……悪ィ」

 そう言って、犬飼は孝義と青藍に向かって、ヘタクソに笑う。

「あ、ああ……しかし、死ぬかと思ったよ……」

「そうだよ、志田くんが死んだら、私も死ぬんだからね?」

「すまん、気が立っててよ……何が起きたのか、俺も良く解ってなくてさ……」

 ばつの悪そうな表情で頭をかき、困ったように真一は言った。

(……少し、解る気がする――)

 同情ではないが、恐らく自分が真一の立場なら、同じ事をしていただろうと思う。彼と真一は、突如として死んで黒い世界に叩き込まれ、また突如として生き返らされ、さらに訳の分からない能力まで与えられ、挙げ句『本』を自称する変な女に引っ掻き回されたのだ。冷静で居ろ、という方が無理だろう。

「すまねえ、本当に……この通りだ!」

 そう言って勢い良く頭を下げる真一。彼を見ている限り、この男は義に厚い人間だということはなんとなく理解できる。冷静に話が出来れば良い奴なのかもしれない、と孝義は思った。

「……痛み分けだよ、気にすんな」

「へ、お前、良いヤツだな――」

 まるでなついた犬のように笑う真一に、孝義も釣られて笑った。ふたりの間に、拳によって築かれた男の友情が結ばれようとしていた――その時。

「こうして犬飼真一と志田孝義のふたりは、硬い友情を交わしたのだった……! はい、それじゃ帰りますよ犬飼さん」

 と、緑青がニコニコと笑いながら間に入った。

「……」

「……チッ」

「……緑青、もうちょっとだけでいいから空気読んだ方が良いと姉さんは思うなぁ」

 さすがの青藍も、これには苦笑い。『台無し』という単語がこれほど似合う場面もそうそう無かった。

「あら、そうですか? 充分お話はされていたと思いますけれど」

 けろりとした表情の緑青。恐らくわざと空気を読まずにぶち壊す事で、何かしらのカタルシスを得ようとしたんじゃなかろうかと、孝義はウンザリした表情で思った。

「さて、では病院に行きましょう、犬飼さん」

「なんでだよ」

 真一は嫌悪感を前面に押し出した表情で言う。緑青はそれを受けてふむ、と鼻を鳴らすと、持っていた緑色の本で真一の胸板を小突いた。

 すると、

「あッが! うぅ、んぐうー!」

 という言葉にならない叫びを上げて、真一は自分の胸を庇って膝から崩れ落ちる。そんな彼を見下ろしながら、緑青は続けた。

「見ての通り、犬飼さんの胸骨は多大なダメージを受けています。志田さんのような体の一部を消費して使う力は、それに応じて体全体の回復も早いですが――犬飼さんの力はそうじゃないですからね」

 言いながら、真一に肩を貸す。

「しかし、志田さんが無理な体勢で彼を殴ってくれて助かりました。例えば志田さんが足を地面に固定するか、犬飼さんを掴んで殴っていたとしたら、恐らく犬飼さんの胴体は焼く前のハンバーグみたいになっていたと思います」

「そりゃあ……ぞっとしないな」

 嫌な顔をしながら、孝義は作用反作用という言葉を思い出した。力の使い方や加減を覚えなければいけないのは、彼も一緒。

「さて、では私たちは失礼します、またお会いしましょう。姉さんもお元気で」

「ああ、あんたもね」

 青藍と言葉を交わすと、緑青は痛みに悶える真一を半ば無理矢理引きずって行った。

(容赦ねえなぁ……)

 と孝義は思いながら、またな、と言い残し去って行く彼らを見送る。立ち上がり、汗を拭うと、黒こげになった自分の服を見てため息をついた。汗を拭った手の甲にはその欠片が混じり、黒い跡がいくつも残っている。

「いくら夏が暑かろうと、服は焦げないよなぁ……」

 ふと足下を見ると、新品だったはずの靴の縫い目や靴ひもが、至る所千切れたりほつれたりしていた。ジーンズも砂埃にまみれており、汗だくの足に汚れきった生地が張り付いている感触がある。

「洋服なんて、新しく買うか洗うか、修理すればいいでしょ。いやぁキミが死ななくて助かった助かった」

 落ち込む孝義の後ろで、青藍は楽しそうに言った。青色のフレームの眼鏡を外すと、透き通った青い瞳で彼を見つめる。

「そうは言ってもな……ん、っと」

 携帯電話のバイブレータの感触に、彼はズボンの後ろのポケットを探る。取り出した携帯電話の液晶は粉々になっており、所々に黒い染みがあった。

「あーあー……まだ買い換える気なかったのになぁ……」

 うんざりしながら彼は通話ボタンを押す。どうやらまだ辛うじてボタンは生きているようだった。

「もしもし」

「モシモシじゃないよ! あんた大丈夫なの 病院が爆発したとか!」

「ああ、母さんか……携帯の液晶が壊れてて、誰かわかんなかったよ」

「携帯壊れたァ!? あんたは!? 体は大丈夫なの!?」

「僕は無事だよ、大丈夫。平気平気」

 声の主は彼の母親だった。少し安心したように、彼の表情がほころぶ。そんな彼の様子を見て、青藍もふっと笑った。


 気付ば夕暮れが空を染め始め、傾いた日が青藍の目を刺す。目を細めた彼女と孝義の横を、もう一度生ぬるい風が通り抜けて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る