第03話 その壁を貫いて行け

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運命? さなり、

ああゝわれら自ら孤寂なる發光體なり!

白き外部世界なり。


――伊東静雄「八月の石にすがりて」より


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     3


     ※


   七月二十一日


     ※



 孝義が次に目を覚ましたとき、彼は見知らぬベッドの上に居た。白を基調にした部屋の作りで、天井を眺めながら彼は目をこする。腕に違和感を感じそこを見ると、点滴から伸びるチューブがテープで固定されていた。服は薄手のものにいつの間にか着替えさせられていて、ぬるい室内でもそう暑さを感じない。

(消毒液の匂いがする……)

 どうやら病院なのだな、と彼は思った。改めて周囲を見回すと、どうやらここは個室のようで、同時に、意識を失う一瞬前までの奇妙な記憶が蘇る。

(……あれは夢だった、のか?)

 否、夢ではなかった。病院に担ぎ込まれる原因となった、看板への激突の事は覚えている。頬に貼られた大げさな絆創膏と、頭に巻かれたこれまた大げさな包帯を触り、彼は大きなため息をついた。

 せっかくトラックから逃げたと思ったら結局は病院送りか、と、寒々とした気持ちになり、どこか寝違えたように痛む体をゆっくりと起こした。

 その直後、ガラリと病室の扉が開き、眼鏡をかけた華奢な女性が入ってきた。格好は全身青尽くめ。看護士などの医療関係者ではないことは一目瞭然だった。


「おやおや、起きて大丈夫?」

 やたらと明るい声と表情のまま、その女性は孝義のベッドに近づいてくる。見る限り大人の女性といった様子の彼女は、細い腕を大きく広げながら孝義に話しかけた。

「目は覚めた? いやぁ二十八時間ぶりだねぇ」

「……誰ですか?」

 一日以上寝ていたのか、と思いながら孝義がそう聞くと、女性は咳払いを一つして、眼鏡を押し上げた。そうしてクルリとターンを決めると、左手を胸に、右手をやや斜め上に掲げ、ミュージカルでも始まるかのようにポーズを決める。そして、

「おかえり、志田孝義くん! 『平穏』のない世界へ、ようこそ!」

 と、場違いに明るい声で言い、どうだ、と言わんばかりに眼鏡越しにバチーンとウインクをした。同時に彼の頭には、トラックに潰され死んだ後に放り込まれた黒い空間と、そこに居た黒衣の女がフラッシュバックする。

 そう、目の前に居る青い服の女は、あの場所で見た黒衣の女にまるで瓜二つだった。

「あぁ! あの変な女の人!?」

「んふふー、第一声が変な女ってのはお姉さん予測できなかったわー……まぁでも大体合ってる」

 女性は言いながらコメカミをヒクつかせる。変な女という発言を取り消すべきか否か、彼が迷っていると、

「ところで、身体は平気かな?」

 と聞かれた。孝義は改めて体を起こし、手を回したり首をひねったり、座位前屈をしたり。筋肉痛のような鈍い痛みは全身にあるものの、特にどこかに異常を感じる訳でもなく、通常通りに身体は動いた。

「大丈夫みたいですけど……ここは……病院です?」

 明らかに病院であることはわかっているものの、彼は確認のために改めて青い女性に聞いた。

 彼女は相変わらずニヤニヤと笑いながら、ひょうひょうとした様子で孝義に答える。

「そ。嵯峨崎総合病院新館9階一般病床北棟、2016号室東側窓際のベッド。階数多い病院は号室数と階数が繋がらないから解りづらいよねぇ」

(あぁ、あのクソデカい病院か……)

 孝義は、自分の部屋からも見える超巨大な病院を思い出した。1年前、医療法人嵯峨崎会によって、潰れたショッピングモールの広大な土地に建てられた巨大病院。同系列に学校法人嵯峨崎会も存在し、小中高大一貫教育を担う、これまた超巨大な敷地が病院の隣に存在する。

 孝義自身も、その嵯峨崎学園高校に通う、1年生だった。

「あ、そうそう、ちなみに志田くん、キミは今北枕だ」

「縁起でもない!」

 いそいそと身体を起こし、孝義はベッドの端にあぐらをかく。横のテーブルに載せてあった携帯電話を手に取り時刻を見ると、午後三時を廻ったところだった。

「で、あなたは……?」

 いぶかしげな表情のまま、孝義は青い女性に聞いた。

「えぇー、もう忘れたのォ? キミに付き添ってここまで来たのにィ?」

「え、いや、あの……まったく会った覚えがないんですが」

「嘘だぁ! これも見覚えないの?」

 大げさに身体をくねくねとさせたり驚いてみせたり、忙しく動き回りながら、その青い女性は手にした本を孝義の眼前に突き出す。

「……あ!」

 瞬間、彼はあの黒い空間で、最後の最後に押し付けられたものを思い出した。

 それは、間違いなく目の前にいる彼女が手にしている本そのものだった。

「思い出した?」

「あ、ああ……うん」

「よかったー! いやぁなんにも覚えてなかったらどうしようかと思ったよーもー! あはは!」

 笑いながらバシバシと孝義の背中を叩く、やたら馴れ馴れしい青い女。

 その顔は、見れば見るほどあの陰気だった『黒い女』にそっくりで、孝義は目の間にいる底抜けに元気なうるさい女性の性格に少し混乱していた。

「あはは……あ、いや、この本があの本だってことは分かったんですけど、あなたは一体……?」

 結局のところお前は誰なんだよ、という言葉を飲み込み、彼は慎重に言葉を選びながら聞く。

 聞かれた青い女は、本を膝の上に乗せ、自分の胸に手を置いてこう答えた。

「私は青藍せいらん。キミの監視役だよ」

 青藍と名乗った彼女は、そのまま彼の顔を覗き込むと、上目遣いになり、片目を閉じてニッと笑った。そして『監視ってなんだ?』と孝義が聞くよりも早く、青藍は口を開いた。

「私の仕事は二つあってね。まずひとつめは、キミが鴉羽からすばから貰ったチカラを変な風に使わないか、ってのを見張ること」

「えっ、からす……なに?」

「か・ら・す・ば。って書くんだ。キミがいっぺん死んだ時に会った、黒い服の女の事だよ。キミの言葉を借りれば、『変な女』って言った方が解りやすいかな?」

 そう皮肉交じりの言葉を浮かべながら、青藍はいたずらっぽく笑う。

 孝義は一瞬バツの悪い顔をして、それから苦笑いを浮かべた。

「――で、最後の最後に渡された青い本が私ってこと。格好良く言えば本の化身っていう感じかな」

「へぇ……」

 腕を組み、黒い空間を思い出しながら、彼は考える。

(なるほど……からすば……がコッチに出てきたのかと思ったけど、この女の人――青藍さんはあの女とは別物なのか……)

 突拍子も無い話ではあった。そもそもあの時見た青い本がこの女性だと言われても、通常ならばピンと来ない。だが彼には、あの黒い女と自分の邂逅を知るこの女性の言葉に、嘘が含まれているとも思えなかった。

 考え込む孝義を前にして、青藍はどっこいしょ、とかけ声を口にしながらパイプ椅子に座ると、ギィギィと音を立ててそれを傾けた。

「簡単に説明すれば、人殺すなってこと。ま、若干の例外はあるけど、キミならそんな事しないと思うし、度胸があるとも思えないけどね」

「ううむ……」

 孝義の事を全て知っているかのような口ぶり。高圧的な態度の青藍に、孝義は若干気圧されしていた。疑問はつきないが、どこから聞けば良いのかの取っ掛かりも見えない。

 頭をかき、モヤモヤとした気持ちのまま、彼はベッドから立ち上がると、靴を履く。どうやら母親か誰かが家から靴を用意してくれていたようで、その靴は新品だった。

(入院する前に履いてた靴はダメになったんだろうな……そりゃそうか)

 トラックを避ける際のことが、段々と彼の記憶に克明に蘇ってくる。サイドテーブルに置かれた携帯や財布をポケットにねじ込むと、

「あー、じゃあ仮に、僕が人を殺したらどうなるんです?」

 と、孝義は青藍の方向を見ずに、自嘲気味に訊いた。

 だが、青藍は答えない。少し長めの沈黙が続き、それに気づいた孝義はふと彼女を見る。その表情に気づいた時、孝義は思わず息を飲んだ。

(……!)

 ぎしり、と軋むような音が聞こえるような、青藍の口許。歪につり上がった唇の端。

 そしてそれを待っていたかのように、青藍は口を開く。

「キミはもう一度死ぬ」

「は……?」

「キミは、もう一度、死ぬ。殺されるって言ったほうがいいかな?」

 同じ言葉を区切りながら繰り返して、彼女は言った。

 出逢った時点からの半分ふざけたような、人を小馬鹿にしたような口調はそのまま。滲み浮かぶ、人ならぬ者が持つ異種異様な圧力が、その目から、その笑みからこぼれ、孝義の心臓を鷲掴みにしていた。

「なんで……ですか?」

「そりゃあまァ、特例とはいえ本当は死んでた奴を生き返らせたのに、そいつが誰かを殺すってなると、ちょっとコッチとしては『帳尻合わせとはいえこっちが気を利かせてお前を生き返らせてやったのに、お前が人殺してんのおかしくない? 一体何してくれちゃってんの?』ってなるワケよ」

「なるほど……」

「要するに一度救ってやった命で、別の命を奪うな、って事。わかる? 一応それにもまた特例はあるけど、ぶっちゃけそういうタマじゃないでしょ、キミ」

「はぁ……」

 孝義は気のない返事を返しながら、いったいどうやって殺されるのだろう、と夢想する。多分きっと、恐ろしい目に合わされるに違いない。

 あの黒い空間にまた閉じ込められでもしたら、と考えると、思わず抑えきれない悪寒が腰から首筋までを舐めるように這い上がって来る。

 なにも存在しない、ただただ漆黒の闇が広がる、意識を途切れさせることすら許さない、あの無慈悲な場所。一体、あそこはなんなのか。悪魔を自称する女がいるくらいなのだから、きっと地獄に近い何かなのだろうと彼は思った。

(つまり、この青藍さんってのは地獄の使者みたいなもんか……)

 それが自分を見張っているとなると、どうにも嫌な気分になってくる。そんな孝義の気持ちを知ってか知らずか、青藍はひとつ大きなあくびをして、ふざけたように肩をすくませた。

「ま、大人しくしといてくれりゃあ、私からはなーんにも言うこと無いよ。わかった?」

 孝義は返事の代わりに何度か小さくうなずくと、青藍を見ないようにして病室を出ようと扉へ歩き出した。

「あら、どこ行くん?」

「お医者さんに身体は無事そうだから、帰るって言おうかなと思って」

「えー、本当にィ? 運動とか平気なのキミ」

「ああ、多分……大丈夫だと思います」

 何故今運動出来るかどうかを聞いてくるのかは解らなかったが、さっき身体を動かした限り大きな違和感は感じられない。

「よし、んじゃ何が起きても安心だな!」

 丁度青藍の背後に位置する引き戸に孝義が手をかけたとき、彼女はそう言いにっこりともう一度笑う。傾けていた椅子をガコッ、と元に戻し、大げさにしめしめと掌同士をこすり合わせた。

「仕事のし甲斐があるってもんだよねぇ」

「仕事?」

「そ、仕事。キミもよかったら見ていく?」

 孝義に背を向けたままの青藍は、ウキウキとした様子で肩を揺らしながらうつむいている。

「見ていくか、って……何するんですか?」

「まあまあ、見てりゃわかるよ」

 突如現れたこの文字通りの人でなしが、一体何を始めるつもりなのか。青藍の背中を見つめる孝義の胸には、嫌な予感がのっそりと立ち上がり始める。

 そして、孝義がその予感に抗いきれなくなり、青藍の肩越しに様子を見た時、彼は信じがたいものを目の当たりにした。


 彼女の膝の上に乗せられた本には、見開きで姿が描かれていたのだ。


 写真のように克明な、版画に似た特徴を持った絵によって。

 描かれた孝義は、今着ている病衣のまま、何か強い力によって引きちぎられたように上半身と下半身が別れてしまっている。そのうえ、左腕と右足は根本から失われており、髪の毛や肌は何故か所々焼け焦げているように見えた。

 背景の床や、そこかしこに散らばる布の破片もそれらと同様、何故か黒いススにまみれている。

 目の光はすでにない。首にはガラスのようなものが突き刺さっており、そこから大量の血が流れ、大きな血だまりを作っていた。

 死体の周辺の様子はページに収まっておらず窺うことはできなかったが、見開いたページの左上に砕け転がっている花瓶は、この部屋の窓際にあるそれであることが解る。


「これ、一体……?」

「キミに差し迫った死の予言みたいなもんだよ。早くココから出ないとまずいね、予報によると、逃げないと多分死ぬなー」

 あっさりと断言する青藍。それに対し、孝義はひきつった笑顔で乾いた笑いを浮かべる。

「はは……冗談ですよ、ね……?」

「いやいや、マジマジ。大マジもいいとこよ」

「マジすか……」

「命かけてもいいよ、もっとも私にそんなもん無いけど」

 ……信じられない、とは内心思いつつも、こんな場面で嘘をつく理由が無いと孝義は思う。

「私の仕事は2つある、って最初に言ったでしょ。ひとつがキミの監視、もうひとつがコレってことさ」

 考えこむ彼をよそに、へらへらと言いながら本を持ち上げて、青藍は肩越しに振り返る。相変わらず開いたページには彼の死体が描かれており、重ねて今までの出来事が現実だと思い知っている孝義にとって、その絵はとてつもない気味の悪いものに感じられた。

 そして同時に、そんな事態をこんなヘラヘラした様子で自分に伝えてくるコイツは、と彼は思う。

 孝義の顔からは血の気が引き、腹の底には緊張と恐怖がどっしりと充満し始めてきた。

「……ん?」

 ふと、彼は絵の中にある自分の死体の脇に、携帯電話が転がっているのを見つけた。その割れた画面に表示されているデジタル時計は、15時18分を示している。

 それを見た瞬間、孝義の体を戦慄が突き抜けた。

(……さっき、15時ちょっと過ぎ……だったよな)

 携帯電話を病衣のポケットから、彼は震える手で取り出す。ゆっくりと手首を返しながら、孝義は恐る恐るその方向へと自分の視線を動かした。

 画面の表示は15時15分。だが、それは次の瞬間、15時16分へと無慈悲に進んでいった。

「……ど、どうしよう、どうすれば」

「あーもう、ビビってんじゃないよ、時間ないんだから。ほら行くぞー」

 呆れたように表情をゆがめながら、青藍は携帯電話を見たまま固まっている孝義の手をガッシと掴むと、のしのしと窓際へと歩いて行く。

「い、行くってどこに……は、離してくださいよ!」

「るッさいなぁ、さっさと来なさいよウスノロ」

 現在の恐怖の対象のひとつである人物に手を掴まれ、孝義は力なく抵抗したが、敢え無く御用。ビクビクと怯える孝義の手を離さず、青藍はつかつかと窓際へと向かった。

「部屋に居たらやばいんでしょ!? 早くここから出ないと……」

「だからそうしようとしてんじゃない。――えっと、こっちでいいかな?」

 青藍はそのまま本を持った手で器用にカーテンを開ける。どうやら、孝義の病室はかなり上階にあるようで、窓からは遠い町並みと、病院の隣にある公園が見えた。

 続けて、青藍は窓を開ける。夏の暑さが風とともにむっと部屋に入り込み、そこから身を乗り出して青藍は周囲を見回した。釣られて孝義も下を見ると、窓の直下に駐車場があるのが解る。フェンスを挟んだ向こう側には、青い芝生が眩しい緑地公園が広がっていた。

 そして、そこを指差しながら青藍は孝義に言う。

「志田くん志田くん、一応キミにも確かめて欲しいんだけど、あのへんに何か変なものあったりする?」

 青藍に言われるがまま、孝義はおそるおそる目を細めて彼女の指差す方を見る。

「いや、特にないですけど……それより早くここ出ましょうよ!」

「ほんとに何も無い?」

「ただの駐車場があるだけで、全然何もないですって! だから早く逃げましょうってば!」

 青藍の手を引き慌てる彼の目に、逆の手に持っていた携帯電話の画面が止まる。そこには17という数字がすでに浮かんでいた。

 もはや一刻の猶予も無い。だが、相変わらず青藍は余裕の笑みを浮かべたまま、あっけらかんとこう続けた。


「一応確認するけど、ってことだから、?」

 嫌な予感は、具体的な形を持ち始める。だが、だんだんとそれは確信へと昇華していき、やがて孝義は青ざめた顔で引きつった笑みを浮かべながら、イヤイヤと首を振り始めた。

「……ええと、青藍さん、何を仰ってるんで?」

 青藍の満面の笑みの言葉に対し、孝義は当然の疑問。だが、その質問を無視して、彼女は彼とは反対に満面の笑みを浮かべる。

 そして、

「行こっか!」

 と言い、シッカリと孝義の手を握ったまま、


「え?」


 窓から、飛び降りた。


「グッホォ!」

 落ちていく青藍に腕を猛烈に引っ張られ、彼は窓枠にしこたま腰を打ち付ける。

「ひゃああっ!」

 そこを支点にして身体はぐるりと半回転し、二人は頭から窓の外へとダイブした。

「ひいぃぃぃ!!」

(なんなんだコンチクショォォ!!)

 彼は叫ぶと同時に、頭の中で悪態をつく。恐怖は怒りのような何かに変わっていた。

  彼の病室は9階にあった。そして9階建てのビルの高さは、およそ30メートルほどに相当する。そして落下する時間は、約3秒前後。地面が急速に近づいてくる中、空気をごうごうと切り裂いて、彼は青藍の手を強く握りながら落ちていった。

 身体のすぐ横を、いくつかの窓が垂直方向にカッ飛んで行き、その度に空気が低く唸りを上げて彼の鼓膜を揺らす。

(死――ぬ!)

 予想ではなく、確信に近い直感を孝義は抱いた瞬間、彼は空気がまとわりつくように身体に押し付けられ、聞こえていた風の音が、引き延ばされたように遠くなったのを感じた。

 落ちる速度が急激に遅くなり、同時に目玉が後ろから押されるようにな感覚で、視界が一気に広がる。

(これは……あのトラックの時の……?)

 そう、今彼が感じているのは、以前体感した『時間が遅くなる』感覚。

 臨死体験の前哨戦。

(それなら――)

 まだ、助かる道はあるはず。彼はそう考えた。

(でも……ああ! くそっ!)

 何をどうやって助かったのか、その確固たる方法が解らない。

(あのとき、僕はどうやって助かった? 何をした? どうやってトラックを避けた?)

 全く身体が動かないのは、以前と同じ。『何か』をした後に、彼の身体はトラックよりも速く動かせるようになった。

 だが、その『何か』が解らない。

(やばい、やばい、やばいやばいやばい、何か、何かしないと、とにかく、何かを――)

 必死に彼はあの時の記憶を手繰るが、動かない身体が彼の思考に横槍を入れ、どうしようもない焦りを生み出す。


(どうすればいい、でも身体が動かない! 息が出来ない! 地面が近づいてくる! 手が動かない! 空気が重い! 壁に手を伸ばせ! 身体が――息が――地面が――!)


 焦りは緊張を生む。


(どうする。やばい、何か、しないと、早く、間に合わない! 今? 死ぬのか? 助かったのに? 嫌だ。嫌だ! どうすれば良い!)


 緊張は恐怖を生む。

 だが、その恐怖によって、


(死ぬのは、嫌だ!!!!)


 彼は引きつったように、

 胸の中心で、火山が爆発したかのような感覚。

 咄嗟に空いた左手を閉じ、開き、ねばつく空気を感じ、確信する。


(あの時と、同じ――!)


 その瞬間、彼の恐怖は欠片も残さず吹き飛んだ。

 柔和な壁をかき分けるようにして、右手にぶら下がっている青藍に近づく。

 そこからどうするか一瞬彼は悩んだが、青藍を胸に抱きかかえると同時に、身体のすぐそばを通り過ぎて行く壁を足先で捉え、壁を斜めに下りる姿勢を取った。


 青藍は言っていた。と。今ならその言葉の意味が解る。


(いくぞ……死んで……)


 耳鳴りのように、ウーファーの低音に似た心臓の鼓動が響いている。


(死んで、たまるか!)


 決意と同時に、世界は、元の速度を取り戻した。


「ぐっ――おおおお!」

 足と腕に掛かった二人分の体重と、空気の抵抗。それらをすべて撥ね除けて、彼は走った。

「うおっと、やるじゃァん!」

「おおおおおお!!」

 青藍の茶化しも、今の彼の耳には入らない。彼は今、二度目の死に対する恐怖を、走る事で払拭するのに必死だった。

 ちなみに今、彼はひたすらに、壁を斜めに走っている。

「おおッ――らぁ!!」

 時折通り過ぎる窓を踏み抜かないように気をつけながら、壁に靴底をブチ当て、走る。心臓の動悸を痛いほどに感じながら、彼は猛烈な勢いで足を動かし続けた。


 次の足、次の足、次、次!

 もっと早く、早く!


「あっちだ、志田くん!」

 青藍の指差す方向は、緑地公園の芝生。

「よしっ――」

 目だけを動かしそれを確認すると、孝義は青藍の首を保護するため、彼女の頭を自分の胸へと押し当てた。

「むぎゅッ!」

「おおおッ!!」

 そして五階ほどの高さを残して、彼は思い切り壁を蹴り、横へ飛ぶ。踏み込んだ足先の壁が砕け、粉々になって周囲へと飛び散った。病室の壁が、揺れる。

「くッ――」

 二十メートルほどの幅の駐車場を飛び越え、境界に立てられた鉄柵を越え、公園の芝生へと、彼は大きく大きく跳躍した。無理に飛んだせいだろう、無茶苦茶な方向に身体が回転する。

(やべ、この人大丈夫か)

 腕の中の青藍は、この回転に耐えられるのだろうか。彼女をかばうようにして、彼は自分の着陸態勢を整える。

 とっさに回転する方向とは逆へ足を振り勢いを殺すと、猛スピードで近づく芝生に踵を突き刺した。

「ぐっううう!」

 着地点の土がボンッ! と爆ぜ、芝生が一気に掘り返される。二本の土色をした線を描きながら、孝義は踵で芝生を掘り返していった。

(くっそ、柔い――!)

 土が柔らかい、という表現はあるが、それは土が石やコンクリートよりも堅くはない、という意味でのもの。このとき彼が感じていたのは、プリンやゼリーのそれだった。

「止――まれぇぇええ!!」

 つんのめりそうになるのを堪え、孝義は足を前へと突き出し、背筋で身体を反らす。靴底が土を抉り、抵抗が膝をガクガクと震わせた。

 だが、それでも土は土。10メートルほど地面を掘り返し、やっとのことで彼は静止した。

 「――かはッ、ハァっ、ハァっ……」

 息も絶え絶えになった孝義は、青藍を抱きかかえたまま立ち尽くし、空を仰いだ。その足は膝まで土に埋まっている。

「お? 無事、かな?」

 青藍はおそるおそる目を開く。まだ頭に回転の余韻が残ってはいたが、ふらつくほどではない。周囲の患者や看護士、散歩している人々が何事かと騒ぎだし、青藍はふと、孝義の肩越しに病院を見て、言葉を失った。

「あー……」

 イヤなモノを見たような顔。

 病院の白い壁には、はるか上空――孝義の居た病室の数メートル下の壁から、4階あたりの窓まで斜めに続く黒い点があった。恐らく、というか間違いなく彼の靴底の跡だろう。奇妙な光景である事には変わりない。

 緑地公園の芝生はというと、見るも無残に掘り返され、作り立ての畑のようになっていた。着地点であろう場所は特にひどく、周囲には大量の芝生と土が飛び散っていた。

(面倒な事になる前に、逃げないとなぁ……)


 と青藍が思っていた矢先。


「ぶッ――はァァー!! こええー!!」

 叫びながら、孝義は抱えていた青藍を勢いよく離す。お姫様抱っこに近い状況で抱きかかえられていた青藍は、腰から落ちる姿勢で地面に激突し、声も出さずにお尻を抑えて蹲った。

「怖ェエエェー! 超怖ェェエエー」

 先ほどのモノとは違う心臓の動悸で、彼は足をがくがくと震わせた。顔を手で覆い座り込むと、上半身を前後にゆらゆらと揺しながら、

「こえぇー、こえぇー……」

 と口走り続けている。挙げ句足を地面に埋めているものだから、端から見ればちょっと可哀想な人にしか見えない。

「……お……ぐ、おし、お尻が……」

 しかも、その可哀想な人のすぐ傍には、お尻を抑えてウンウン唸っている女性が居る。

 周囲の空気は何とも言えないボンヤリとした悲壮感と、この危ない二人に関わってはいけないが放っとく訳にもいかないという二律背反的な葛藤に包まれ、彼らを囲む見物人たちの心の声は


(うわぁ……)


 という言葉によって一つになった。

「尻が……ぐぅ、うう……」

「こえぇ……こえぇ……」

 と、尚も呟き続ける二人が心配になったのか、見物人の中から、勇気ある医師らしき白衣の人物が青藍に近づいた。

「お……おい、君たち、大丈――」

「く――ッそう! このバカたれェ!!」

 バカたれ、の発音と同時に、青藍は自分の持っている本の角を孝義の頭に振り下ろす。ヒドい音がして、少し前の青藍のように、言葉も無く彼は崩れ落ちた。

 また、彼の足は膝まで地面に埋まっているため、腰から先を前方にがっくりと倒し込むような姿勢になる。それを見て肩で息をしながら、青藍は勝ち誇ったように笑っていた。


(殴ったァアー!?)


 当然の驚愕。周囲の人々の心はもう一度一つになった。

 孝義はというと、ビクビクと数秒痙攣した後、

「――ッてえええ! と、突然なんなんだよ!」

 と叫び、涙目で頭をサスりながら立ち上がった。だが孝義の抗議の目線を受け流し、青藍は手を腰に当てふむ、と鼻で息をする。

「うむ、もう気が済んだから良いや。それより――」

 言いながら、とある方向に視線を向け、ジッとそこを睨む。

(……?)

 孝義を含めた周囲の人々は、青藍に釣られ、彼女の視線を追う。視線の先には、先ほど二人が飛び降りた病室。何かあったのかと孝義は思ったが、特に変化があったようには見られない。


 だが、次の瞬間。


 病室の窓がすさまじい爆風とともに、文字通り木っ端微塵に吹き飛んだ。


(え――――!?)


 今度は、孝義を含めた周囲の人々の心が一つになる。

 皆一様に口をアングリと開けて、残り火の燻る窓を注視していると、衝撃で飛び出したベッドがバランスを崩しながら瓦礫とともに落下し、駐車場にあった高級車のボンネットを耳障りな金属音とともに破壊した。

「は、ははは」

 孝義は乾いた笑いしか出てこない。あそこに今でも居たとするならば、おそらく、いや、確実に――。

「あのままだったら、死んでたねェ? にしし……」

(やっぱり、あの予言ってのは本物だったのか)

 青藍は勝ち誇ったような顔をして、本を片手に座り込んでいる。ガシャガシャと音を立てて駐車場へと落ちるガラス片と瓦礫。現実離れした景色に、周囲の人々は言葉を失っていた。

 だが、誰かが叫ぶ。


「――! みんな避難だ、避難しろ!」

「そうよ! 危ないわ、テロよ!」

「逃げろ!」


 それを切っ掛けに、彼らの周囲は騒然となった。その最中、青藍だけは冷静に本を開き、うんうんと頷いている。足を地面から引き抜き、土を払っていた孝義の肩をガッシと抱え、男らしいヤンキー座りで彼女は言った。

「予言的中、逃げてよかったねぇ志田くん。生き延びたぞー、いやぁ仕事した仕事した」

「えーと、いや、あの、たいへんなことに」

 窓側の壁が見事に吹き飛んだ病室と、それをバックにえっへん、と胸を張る青藍。孝義はそれらを交互に、何度も何度も見ながら狼狽えた。

 だが、焦りながらも彼が違和感を感じたのは、その爆発の範囲。孝義が居た病室だけが狙ったかのように吹き飛び、他の病室は窓すら割れていなかった。

(ん? なんか不自然じゃ――)

 訝しむ彼の視線の先で、窓枠らしきスクラップが落ち、駐車場の車をもう一台粉砕した。一度冷静になった彼の頭は、それを見て事の大きさを理解すると、改めてもう一度混乱する。

「せ、せせ、青藍さん? これは……あの、何が起きてるの?」

「さっき言ったじゃん、見ての通り」

 青藍は本を指差しながら言う。本に描かれていた絵は、風に流される砂のように消えて行き、そこには白いページだけが残った。ばたん、と青藍は本を閉じると、眼鏡を正しながら口を開く。

「見事にフッ飛んだねぇ、病室。喜ばしいことに……『キミは』死なずに済んだ。予報は撤回されたよ」

(ん? キミは……?)

 何かが引っ掛かるような、その部分だけを強調した言い方。

「おい、『キミは』って、巻き込まれた人が居るんじゃ――」

「居ない居ない。死んだ人は一人もいないよ、一人もね」

「なんでそんな事が解るんだ、信じられねぇよ」

「あのねえ、舐めてもらっちゃ困るよ。私の不思議パワーの力はキミも知る所だろう?」

「むぅ……」

 孝義は言葉に詰まる。だが、彼は自分の命を救ったこの予言者の言葉には、言葉以上の意味があるように思えていた。

「ところで……志田くん、ちょっとここから離れた方が良さそうだ。病院に戻ろう、その格好でウロウロするわけにもいかんでしょ」

 青藍が目で合図するその先には、警備員らしき人間が数人居る。今は避難している人々を誘導しているが、何かの拍子で拘束されると厄介だな、と孝義は思った。

「解った、行こう――っとと」

 恐怖のためか少しふらつく足に喝を入れ、彼は青藍の後を追った。

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