第02話 内なる声は言った、跳べと

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八月の石にすがりて、

さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。

わが運命を知りしのち、

たれかよくこの烈しき

夏の陽光のなかに生きむ。


――伊東静雄「八月の石にすがりて」より


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     2


 孝義は直感的に、あのときの『世界が遅く感じる』瞬間へと戻って来たと感じた。当然、生き返った事を喜ぶ余裕など無い。

(むぅう……どうすれば良いやら……)

 だが、彼の状況には多少の余裕がある。なぜなら、現在孝義は臨死体験の前哨戦である「世界がゆっくり見えるモード」に入っているため、過去彼を轢き潰したトラックはカタツムリレベルのスピードになっていたからだ。ただし、彼の体もカタツムリ以下のスピードでしか動かない。

(脳みその計算速度だけが上がってる、ってことか……)

 SFやらゲームの設定でよくある「スローモー」というやつだな、と彼は直覚する。そんな中、彼は必死にどうすればこの眼前に迫った鉄の塊を回避出来るのか、という考えを巡らせた。

 だが、相対速度で負けている以上、ここから逃げることは事実上不可能。

 であれば、トラックをどうにかしなければどうしようもないのだが、そんなことが出来るトンデモスーパーパワーなんてのも、彼には当然無い。


 つまるところどうしようもないという事だけが解った。

 言い方を変えれば八方塞がりな状態である。

 要するに状況は一度死んだ時と一切変わらない。


(ああ、ちくしょう、もう……そう言えばあの女、僕になんとかしろ、みたいな事を言っていなかったっけ? なんとかしろって言われてもなぁ……)


 彼は大きなため息をつこうとする。「世界がゆっくり見えるモード」の影響で身体は一切動かなかったが、何故か呼吸だけは自由に行えたのだ。


(はぁ……)

 ゆっくりとした時間の中で、ゆるゆると肺の中の空気が押し出される。

 そして身体は失った空気を取り戻そうと、横隔膜を収縮させ、肺を膨らませた。


 人が窮地に追い込まれた際などに行う、意識づけたひと呼吸。一般的に深呼吸と呼ばれるそれは、心を鎮めるための、或いは集中力を取り戻すための、或いは心の平静を取り戻すための行為。言わばそれは『異常な状態』から『通常の状態』へ戻るためのひとつの道具に等しい。


 故に、彼の行う深呼吸は、その異常な世界へ彼を順応させる鍵と成り得た。


 それを知ってか知らずか、大きく、大きく、ゆっくりと、彼は『息を吸い込んだ』。


 それが、鍵だった。


(おッ?)


 次の瞬間、どどん! 心臓が強烈に拍動し、くぐもった世界の中で異様にはっきりと心音が鳴る。


(——ッ!)


 驚いてハッ、と息を吐く。

 すると、どっ……どっ……どどどッ! と、アクセルを吹かすかのように、心拍は段階的に強さと早さを増した。

 彼の心臓は自分の身体の一部とは思えないほど跳ね回る。


(なに なにが起きた)

 彼の動悸は激しさを増す。

 心臓を中心にして全身の血液が、沸騰するように熱くなる。

 視界もとたんにクリアになり、彼は自分の身体に何が起きたのか、無意識に確認しようととっさに手を持ち上げた。

 そこで初めて、彼は自分の身体に起きた変化を認識する。


(動く……体が動く……!)

 ゆっくりではあるが、先ほどまで一切動かせなかった目が、首が、身体が動く。もしかして、という思いから、続けて彼は手を開いたり握ったりを繰り返した。空気が重く、指の間にまとわりつくかのような粘性を持ってはいたが、そんなものは今の彼にとって大した障害にはならなかった。


(ただ……)

 心臓の動悸がうるさいほどに、ひどく彼の耳に響いていた。ドッドッドッ、と耳の奥がふくれるような感覚が、規則的に続いている。例えるなら、それは大型のバイクが暖気を行っている音のよう。


 グゥッ……と力を込め、右足を必死で持ち上げる。変に地面が滑るような感触があり、バランスが取りづらかった。


 平均台を歩くような、妙な感覚。やっとの事で持ち上げた右足を前へ運び、地面に下ろすと、岩をすり合わせるような妙な音がした。


(……?)


 普通に、ごく普通に、力を込めた以外はいつも通りに踏んだ筈のアスファルト。それがまるで、砂糖菓子のように脆く砕けていた。彼の足裏にはアスファルトを踏み砕く感覚と、ゴムの靴底がひしゃげる感触が伝わる。


 ふと、彼は先ほど一度死んだ時に出会った、黒衣の女の言っていたことを思い出す。


 ——


(そうか、がそうなら——!!)


 その時、彼は唐突に黒衣の女から与えられた『力』の内容を理解した。


 指を動かすだけで空気の抵抗を感じるほどに、彼の身体は凄まじい速度で動いている——それは即ち、その速度を生み出せる異様な力を、今自分は発揮しているということなのだろう。

 さらに間延びした時間の中で、凄まじい速度であろう自分の身体の動きや考えを確認できている——それは即ち、脳みその反応速度も身体に応じて上がっているのだろう。


 例えるならば、道具の構造や働きを知らずとも、とりあえずそれを使う事ができるように——自転車がなぜカーブの時に倒れてしまわないのか解らずとも、ペダルをこぎ進み、ハンドルを使い曲がる事ができるように——彼は自分に発現した力をなんとなくだが把握し、使う事が出来ていた。


(……今なら……!)


 一度は自分の命を奪ったこのトラックを、この力を使って避ける事が出来るのではないか。彼はそんな風に思う。


 確証は無いにせよ、試してみない事には解らない。もしかしたら、助かるのかもしれない。

(……よし)

 泥のように絡み付く時間の中、粘ついた空気の中で動く事が出来るというのが黒い女の与えた『力』——彼の人生の一部に対する代価だというのなら、それを使う事に躊躇する必要は無い。

 彼の立っている場所から、目測約5歩前方。

 それだけ進みさえすれば、彼の真横から突っ込んで来ているこの忌々しい無人トラックを、避ける事が出来る。

 トラックまでの距離は、約1メートルほどに縮まっていた。恐らく通常の時間感覚では一瞬、瞬きの間に、孝義をもう一度人間煎餅へと変貌させるだろう。


 だが今は違う。前とは違う。


(死んでたまるか……死んでたまるか……!)


 死地に差し込んだ一つの光明。それはさしずめクモの糸。生きる事に対する執着は、彼の心をどす黒く照らした。


(何が何でも、この力を使って生き延びてやる)


 彼が心の内に抱いたそれは、ある意味怒りに似て。


(よし……やるぞ……!)


 決意に呼応するように、一層激しく脈打つ、胸の鼓動。


(ぬおおぉぉ……!)


 歯を食いしばり、その間から漏らすように息を吐きながら、彼は身体を前方に傾かせる。

 重く身体にのしかかる、ゆっくりとした時間の中で、細く長く吐いた息を、大きく大きく吸った。

 肺を空気で満たし、一歩踏み出していた右足に力を込める。

 短距離走に於けるスタンディングスタートの姿勢。ゴム製の靴底が足裏で千切れ、まるでロードローラーに引き延ばされていくようにグシャグシャになっていくのが解った。


 そして。

「ふっ——」

 足に力を込める。

 熱くなった血液が、胸の中心で膨張し、爆発した。

 彼はピストンのごとく足を突き出しアスファルトを蹴り、思い切り腕を振る。空気が彼をその場へ押しとどめようと、身体の前面に見えない壁となって立ちふさがる。顔や胸にぶつかるその感触は、まるで堅いスポンジだった。

(くっそ、邪魔すんな——ッ!)

 足に力を込め、もう一度ビスケットのようにアスファルトを踏み割り砕くと、それを靴底でがりがりと削りながら、黒い欠片を四方八方に飛び散らせ、前へと進む。


 抵抗を押しのけ、一歩目。

 粘性の高い水の中で、動いているような感覚。


(これなら……)


 見えない壁を裂いて、二歩目。

 眼前に塞がる空気の塊は、変わらず彼の身体をその場へ押し伏せようとする。


(これなら……!)


 生きるために、死なないために、周囲のすべてを薙ぎ倒しながら、三歩目。


(いける……)


 あと二歩。

 あと二歩で、抜け出せる。


(いけるッ——!)

 そして、彼は前方へ幅跳びをするように一足飛びに跳躍した。

 さらに強烈に纏わりつく、重い空気。それをもどかしい時間をかけながら押しのけて、彼はジワジワと進んだ。


(もう少し、もうすこしで——ッ)

 抜ける——。

 そして見事トラックと電柱の間から、文字通りの死地から、彼は抜け出した。

(避けたッ! 助かった!)

 そう確信し、思わず笑みがこぼれた、次の瞬間。


 くぐもっていた世界の音が元に戻り、彼の背後の電柱にすさまじい音を立ててトラックが突き刺さった。



 ……だが、ここで思い出して頂きたいことがひとつ。

 ほんの一瞬前、時間がゆっくりと流れる世界で、彼は火事場の馬鹿力とも言える力によってトラックを避け得た。

 だが、それは、ということ。

 そして、彼の避け方はだったということ。


 通常ならば前方にほぼ助走無しで飛んだ場合、三~四メートルも飛べば重力によって短い跳躍は終了する。だが彼は


 その場合、どうなるか。


「おおおお——! っ、ぶぐぇっ!」


 答えは、、ということ。


 今回彼がぶつかったのは、数メートル先にある、ビルの横から飛び出したパチンコ店の電飾看板。

 彼はロケット花火のように斜め上方へとカッ飛び、地上から5メートルほど離れた高所にある『パチンコ☆メガヒット』という看板に上半身をメガヒットさせ、砕け散るガラス片とともに後頭部から地面へと垂直に落下した。


 彼がそれによって意識を失ったのと、電柱に突っ込んだ勢いで跳ね上がったトラックの荷台が地面に叩きつけられたのは、ほぼ同時だった。

「キャア! なに、事故?」

「おい、なんかスゲぇ勢いでフッ飛んだヤツが居たぞ!」

「うえ、電柱ひん曲がってるわ……」

「救急車、救急車! ええっと、こういうときって警察?」


 を切ったように、周囲の人々は事故に対して思い思いの声を上げる。商店街の店舗からは何事かと様子を見るため顔を出す人々が集まり始め、あっというまに事故現場は野次馬に囲まれた。


 誰もが皆、携帯電話を手に現場の写真を撮り始め、吹き飛んだ孝義は善意の人々によって助け起こされた。

 ほどなくして到着した救急隊員が孝義をストレッチャーに乗せ、救急車へと搬送する。

 そして、ご家族か、お知り合いの方はいらっしゃいますか、と人混みに隊員が声を上げると、ひとつ手が上がった。


「お知り合いの方でしょうか?」

「はい。通りかかったんですけど、彼のことは良く知ってます」


 薄い青色のシャツに、青いデニム。青いパンプス、ご丁寧に眼鏡のフレームまでも青色。そして肩まで伸びた髪の色までも、心無しか黒に近い、深い深い青に見えるその女性は、真面目な表情で救急隊員にそう返事をする。


「ご一緒して頂けますか? 緊急時ですので、彼のご家族に連絡するために身元などをお尋ねしたいんですが」

「ええ、もちろん」


 そう言い、促されるまま救急車に乗り込んだ彼女は、心配する様子でもなく、ただじっと孝義を見つめている。


「……まぁまぁ、派手にやっちゃってさ」


 ひとりごとのように小さく言いながら、彼女は手にしていた本を自分の膝の横に置いた。その本は、先ほど孝義が『黒い世界』で押し付けられた、奇妙な本によく似ていた。

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