第01話 それはもはや必然として

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たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

——これがすべての始まりである。


遠い昨日……

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、

ゆがんだ顔をもてあましたり

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。

「実際は、影も、形もない?」

——死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった』



鮎川信夫 「死んだ男」より

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     1


 一つの事故が起きた。何の変哲も無い、ただの自動車事故。ただ違っていたのは、事故を起こした車両の運転席に、誰も乗っていなかった事だろう。


 その事故に巻き込まれたのは、志田孝義しだたかよしという、これまた何の変哲も無い少年だった。

 夏休みが始まり、ゲーム漬けの日々を心待ちしていた彼は、そのお供としてアイスクリームを求めるべくコンビニエンスストアへと歩いていた。その道中、馴染みのパン屋の前を通り過ぎた瞬間、何の前触れも無く、巨大なトラックによって電柱に圧着させられ、痛みを感じる暇すらなく死んでしまった。


 死んだ彼の意識はどうなったか、というと、トラックの運転席の直上数メートルというところで、フワフワと頼りなげに浮いていた。透明な自分の身体があるわけでもなく、意識と視線だけがそこにあり、まばたきも許されず、自分の事故現場を見つめ続けている。


(多分、コレはまずいことに……なってるんだよなぁ……とはいえ、まぁ……いいか……別に)

 彼は、自分の境遇を呪うこともなく、ただただ冷静に自分の死を見つめている。だけれども、これだけ意識がハッキリしているなら、もしかしたら自分は生きているかもしれない——孝義はそう考えた。


 だが、事故処理のためにクレーンでトラックが電柱から引きはがされた時——要するに死体が露わになった時、彼の心の中にほんの少しあった希望は、ポケットの中のビスケットよろしくあっさりと粉砕された。


(あー、うん。無理だな、これは無理だ!)

 一種清々しいほどの圧倒的な確信!

 それとともに、孝義は心の底から諦めた。


 ねばつく血糊と一緒に現れた孝義の状況は、端的に表せば以下の通りになる。


・明後日の方向どころか一ヶ月先くらいの方向を指している左足

・電柱とトラックの間に挟まれ真空パックのような状況になった右足

・文字通り板状にプレスされた胸板

・見て解る通り、なんだかよく解らないことになっている両腕


 つまり断言出来るのは、これで生きている人間は絶対に居ないだろうということだ。


 仮にこれが衆人環視の中に晒されたならば、周囲は阿鼻叫喚の鳴門大渦と化すだろう。警察関係の人間でさえ何人かは口を抑え、こみ上げる酸味じみた今朝の食事を胸の内に留めようと必死だった。

 だが、目隠しのブルーシートが張ってあった事が幸いし、ギャラリーがその人間煎餅を見ることは無く、嗅覚に秀でた何名かの不幸な人々が、夏の陽気に誘われて辺りに広がった血なまぐさい鉄分の香りに顔をしかめるに留まっていた。

(夏休み、始まったとたんにこれか……けっこうグロいな……)

 青ざめた警官の顔を遠くから眺めつつ、自分に体があったら同じように吐いているかもしれないな、と孝義は思う。


(——ん? はて……?)

 ふと、どうやって自分は物事を考えているのだろう、と、彼は自分の死体を観察した。モノを考えるための頭はカチ割れてしまっていて、血にまみれたカリフラワーかタラの白子そっくりの『何か』がチラリと見え、こぼれ落ちている。

(今後しばらく白子とカリフラワーはご遠慮させていただきたいね……)

 今後があるかどうかはさておき、そうしている間にもつつがなく事故処理は進む。孝義の身体は黒い死体袋へと詰め込まれ、いよいよ彼は死というものに直面するに至った。

(あ……あれ?)

 警察官が死体袋を閉じると同時に、孝義の意識の視界は黒く、暗く塗りつぶされていった。上も下も右も左も無い、黒い空間。

(あー、これはいよいよ……?)

 彼の自問に答える者は居ない。身体の感覚も随分前から既に無く、唯一残っていた視界さえも、光の無い暗闇に塗り潰されている。

 自分の周りに何があるかすら、確かめる術は無かった。ただただ広がる暗闇のど真ん中に、自分という、とてもな自我があるという事だけは解る。だが空気が肌に触れる感覚や、地に足がついている感覚すら無く、彼は『終わってしまったのか?』という疑問だけを持って、ぼんやりと浮かんでいた。


 当然、その疑問を確かめる術も無い。

 たったひとつあったのは、ここが命を持つものは立ち入るべきではない場所だという、漠然とした確信だった。


(はは、なんだこれ……超こええ……)

 彼は言いようのない不安に駆られた。

 何かしなければ、何とかしなければとは思うが、それを為すための身体が見当たらない。周囲を見渡そうとするが、視界を動かす首が無い。目を動かす筋肉が無い。さらに言えば眼球もない。なぜ見えているのかすらわからない。

 彼は意識だけの状態で、疑問だけを抱えて、どこまでも続く黒の中に浮かんでいた。


 耳鳴りのように響く毒を持った沈黙と、形のない闇という魔物が、ゆっくりと、だが確実に孝義の自我を削り取っていく。


(どうしよう……どうしよう……どうすればいい……)


 恐怖に怯えながら、漠然と孝義は思う。

 これが死というものなのだろうか。

 ここには、何も、何もない。


 そうして、どれくらい時間が経っただろうか。意識が途切れてくれさえすれば、どんなにか楽だったろう。果てる事の無い意識で、彼は何を考えれば良いかすら分からなくなりかけていた。

 だが、その時。


(……足音?)

 規則正しく、黒い空間に響く乾いた音。はじめは小さく鳴り響いていたそれは、段々と彼に近づいてくるようだった。

(でも、一体、誰の……?)

 そう彼が考えた、次の瞬間。全く動かせない彼の視界の端、黒い空間を横切るようにして、見知らぬ女が現れたのだ。

 女は無言で彼をジッと見つめながら、視界の中央へと歩みを進め、そこで止まる。距離にしておよそ3メートルほど先に居るその女は、異様なをしていた。


 地面につくほどに伸びた、手入れのされていないボサボサの長い髪、それと同様に長い袖のワンピース、その裾から覗く低いハイヒールなど、身に着けているものはすべてが黒。

 襟元から見えるブラウスすらご丁寧に薄い黒地のもので、それらはどこか喪服を連想させる作りをしている。顔や手は服とは逆に病人のように白く、手の甲には薄い青の血管が浮き見えるほどに痩せこけていた。


「志田孝義くんだね」


 化粧気のない口の端を持ち上げ、半ば嘲笑めいた表情をして、疲れきった声でその女は言う。


「……志田、孝義くんだね?」


 繰り返す。気だるそうな歩き方で、カツン、カツン、と黒い靴の踵を鳴らしながら。


「そうです、けど……あなたは?」


 意識だけの孝義は、黒衣の女にそう返した。


「……私は、そうね。その人が認識してる世界とかによって、色々……それこそ無限の呼び方があるけれど」


 再び自嘲じみた笑顔を浮かべて、女はその場に膝を折ってしゃがみこむ。一切動かせない孝義の視線と女の視線が、その時初めて真っ直ぐぶつかった。

 赤い。赤い瞳。不機嫌そうに眉間に皺を寄せながら、意識だけの孝義を見つめる目は、血のように赤い色をしている。


「悪魔とか呼ぶ人が、比較的多いかな」

「悪魔……って、はは、まさか」

「信じない?」


 挑発的にそう言う女を見て、孝義は何かの本だか情報サイトで見た知識を思い出した。それによれば、ありきたりな作家志望が書く物語には、だいたいの場合冒頭でこういう死神めいた何かが出てくるらしい。


「くだらないことを思い出すんだなキミは。信じるつもりはないということかい」

「ひ、人の考えを読まないでくださいよ!」

「キミ、死んだ時脳みそ丸出しだったからさ、考えがちらっと見えちゃって」

「ひどい冗談ですね……」

「で、そんな死神めいた何かを見た感想は?」

 疲れ果てた嘲笑を浮かべる、悪魔を自称する黒い女は、なおも彼に聞く。

「信じなくは、ない——です」

「まあ、どっちでもいいけどね。別に」

「ああそう……」

 孝義がため息混じりにそう返すと、黒衣の女はぐっと力を入れて立ち上がった。長い長い髪を背中側に払い、変わらずつまらなそうに女は孝義を見下ろした。


「それで、その……悪魔が僕に何の用でしょうか」

「長い話をするつもりはない。キミの死は予定に無くてね」


 女はそこで言葉を止める。黙したまま、ジッと赤い目で孝義を見つめ、疲れきった表情を歪めて笑っていた。


「……どういう意味?」

「生き返るつもりは無いか、と聞いているの」

「え……」


 孝義にとって、その言葉は僥倖だった。何の前触れも、意味も解らず死に、挙句この黒い世界に放り込まれた現状を、認めたくないと思いながらも受け入れていた彼にとって。


「打ち明けるとね、あの事故——無人のトラックが暴走する、という事故自体、起きるはずのない事故だったの。ましてやそれに誰かが巻き込まれて死ぬなんてことは、この世界ではあっちゃいけない。さすがに無理があるのよ、事故として」


「……そう、なのかな」


「そういうあり得ない事が起きた時——そして、それに誰かが巻き込まれた時だけ、私が仕事をする、っていう寸法。だから、私に会えたキミには生き返る権利がある。……もちろん、タダじゃないけどね。どうする?」


 挑発的に質問を投げながら、女は笑ってみせる。整った顔立ちでありながら疲れきったその表情は、いかにも薄幸という雰囲気を纏っていた。

「ほ、本当に生き返れるなら、僕は……生き返りたいな」

「へえ、何かやり残したことでもあった?」


 鼻で笑うように返しながら、黒衣の女は孝義に首をかしげる。ひと房落ちた髪が顔にかかり、それを彼女はうっとうしそうに耳にかけた。


「いや、やり残したことっていうか、なんていうか……あんまり突然だったから、実感もなにもなくて」

「ああ、そういうこと。ならまぁ、生き返りたいよねえ。突然ひき肉みたいになっちゃったワケだし」


 ひき肉、という単語に、孝義は先ほどの自分の死体を思い浮かべる。が、カリフラワーを連想しそうになって止めた。これ以上カリフラワーに想いを馳せると、今後一生あの白いアブラナ科アブラナ属の一年生植物を直視することが出来なくなってしまう可能性がある。

 それと同時に、彼はそのカリフラワーがはみ出た自分がどう生き返るのか、という点が気になった。

(まさか……あのまま生き返ることはないよな……)

 暗い過去ならまだしも、内蔵を引きずりながら生きていく自信は無い。

「そこらへんは心配しないで。時間を巻き戻すから死体になる前からやり直して欲しいんだよ」

「だから、人の考えを読まないでくださいよ……」

「ははは」

「笑えません」

「ああそう」

 黒衣の女は短く言うと、唇の端を片方だけ持ち上げる。

「さて……まぁ、生き返らせるのはいいとして、やるからには徹底的にやらせてもらう」

「徹底的? 何を?」

「全部さ。言ったろう? タダじゃないって」


 そう言うと、黒衣の女は持ち上げていた口の端を、ことさら歪めて嫌な笑顔を作る。そしてゆっくりと孝義へ近づき、彼の視線のすぐ下へと手を伸ばした。


 その瞬間、孝義の意識に嫌な感触が走った。


 身体は既に無いはずなのに、身体の中をまさぐられるような……そして黒衣の女がスゥッと腕を引き、糸のようなものを引き抜くのを見た時、何か大事なものが、が——そう、が、自分の中から決定的に失われたのを彼は直覚した。


「何したんだ、今……」


 言いようのない不安が彼を襲う。


 黒衣の女の指先につまみ上げられた、白く光る糸。

 それを今、彼は奪い取りたくて仕方がない。だが身体はなく、視線も動かせない。

 ただただその糸を指先で弄ぶ女を眺めながら、自分から決定的に失われた何かの正体を、途切れることのない意識で探す。もちろん、その答えは出ない。


「何をしたんだよ、なぁ」


 台詞に焦りが滲む。声が震えているのが自分でも解る。


「これが代金。キミの人生の一部だ」

「だから、何をしたんだって聞いてんだよ!」


 言葉を荒げ、孝義は意識の中でぐっと力を込めた。


「うるさいな。言ったでしょ? キミを生き返らせるための代金を今貰ったところ」

「代金……」

 失った自分自身の『何か』。その正体を確かめたいと思う反面、それを知ってしまえば後悔するんじゃないか。相反する感情に揺さぶられながら、

「——代金は、何なんだ」

 彼はその言葉を振り絞った。

 途端、黒衣の女はもう一度ニヤリ、と笑う。

「人生の一部。キミの場合は『平穏』を頂いたよ。キミは生き返っても、今後平穏な生活を送れることはまず無いと思ってもらおう」

「は……? そんな、なんで——」

「言ったろう、慈善事業じゃないんだ。……さて、貰う物も貰った、次はキミが生き返る番だ」


 狼狽える孝義を尻目に、黒衣の女は何処からともなく赤い装丁の本を取り出す。それを開き、手に持った糸——孝義の『平穏』を優しくページの上へと乗せると、そっと本を閉じた。

 そしておそらく、黒衣の女が本を閉じた瞬間からであろう。突如として、先ほどまで出せていた声が出なくなっていた。付け加えて、彼は久しぶりに自分の足が地面に着いている感覚を覚える。


(いつのまに、身体が——)


 疑問を持って自分の身体を見渡そうにも、目すら動かすことができない。まだ身体の自由は戻っていないようだった。

「あとひとつ、これは最近始めたサービスでね」

 カツン、カツン、と足音が響く。

「経験上、『人生の一部』を失った人間は比較的すぐ死ぬ。だから、私から二つ、プレゼントをあげよう」

 動かず声も出ない孝義の周りを歩きながら、女は変わらず嫌な笑顔を浮かべて得意げに言った。

(何を……)

「まず、キミが今後の人生を乗り越える『力』をあげよう」

 言いながら、女はもう一度孝義の意識へ手を伸ばし、その中へ『何か』を差し込んだ。嫌な感触が孝義の全身を巡り、吐き気に似た感覚が胸の中心へと溜まる。

 違和感と言うには生易しいその感触。まるで自分の身体が内側から混ぜられているような、作り変えられているような感覚に、彼は動かない身体で悶えた。


「そして、次に——これを渡しておくよ」


 そんな彼をお構いなしに、黒衣の女は続ける。孝義の目の前で立ち止まり、手を自分の背中に回すと、一冊の本を取り出した。それは先程彼女が持っていた赤い装丁の本ではなく、青い装丁の分厚い本。


「これは、言わば私のコピーだ。きっとキミを危機から救ってくれるだろう」


 押し付けるように孝義の胸へ本を当てると、それはズブリと彼の身体へと沈み込み、やがて吸い込まれるように消えた。やり遂げたような表情をして、黒衣の女はくるりと孝義に背を向ける。


「さあ、これで準備は終わり。始めようか、新しい人生を」

(えっ!? ちょ、ちょっと待ってくれ、本当にこれで終わり?)

 そう言おうとするが、声は出ない。振り向いたままの黒衣の女は、そのまま両手を合わせると、パン、と乾いた音を響かせた。


 それと、同時に。


「えっ!?」


 全身を、生ぬるい夏の熱さが包み、孝義の目の前には申酉通りの見慣れた景色が広がる。

「は?」

 思わず孝義は周囲を見回し、慌てて自分の身体を確かめた。身体の自由は戻っているようで、どこもおかしい場所は無い。

「え……ちょ、ちょっと、これ、どうなってんだよ……!」

 言いながら、目を閉じて頭をガシガシとかき、もう一度周囲を確認すべく、視線を右側へと動かした。

「……ったく」


 右側には、電柱。


「え……」


 その後ろ側には馴染みのパン屋。


 頭の後ろが、夏の日差しで熱を持っているのが解る。

 ……この光景と、感覚と、風景と、風と、空気と、匂いと、そしてに、彼は覚えがあった。


「……嘘だろ」


 ズボンの左後ろのポケットには、アイスクリームを買うために入れた財布の感触。

 頭の中に浮かぶのは、先ほどまでプレイしていたゲームの、ゲームオーバーの画面。

 ふと——トラックのエンジンの音が聞こえた。そんな気がした。


「——ッ!?」

 全身が総毛立ち、彼はとっさに左側を振り返る。


 瞬間、聞こえていた街の雑踏とエンジン音が引き伸ばされ、水中に居るかのようにくぐもる。

 文字通りの鉄面皮——誰も乗っていないトラックが、既に目の前に迫っていた。



 臨死体験の前哨戦。



 時間の遅く進むその世界で、彼はもう一度、確かに黒衣の女の声を聞いた。














「おかえり志田孝義くん。平穏の無い世界へ、ようこそ」




















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