第13話虚無
ハイネは、吸血鬼の居城で夢を見たことを思い出す。
ハイネが何よりも望み、何度も思い描いた幻影。狂おしいほどに求めたその瞬間を再現するのに、舞台は充分に揃っている。
歓声は無い。
号令もない。
堅牢な壁の中を飲み込む静寂が、ハイネを、クレアを、研ぎ澄ませていく。
息を飲む音すらも聞こえてきそうな、その空間だけを切り取ったような、粛然とした世界。
全てがあの夢と同じだ。今となってはがらんどうになった観衆に囲まれていた現実では、敗北を味わってきた。賞賛のはずの歓声も、鳴り止まぬ拍手の渦すらも、いずれも侮辱にしか聞こえなかった。その度に積み重なっていった憎悪が、膨れ上がって解き放たれようとしている。夢の中の曖昧な感覚で感じたよりは幾分か重みを増しているその剣、あるいは、この極限の緊張感が見せる錯覚だろうか。
否、ハイネの胸の高鳴りは、緊張の成す動悸ではない。緊張など無かった。勝利のみを確信しているからだ。吸血鬼の血という圧倒的根拠をもとに、ただの一振りで屠る矜持。
ここに来て最高潮までに昂った高揚が、浮き足立つハイネを錯覚させている。今まで積み上げた剣という誇りすらも手につかない。全力で握り締めていなければ思い掛けず抜け落としていまいそうだ。無闇に力を入れている分だけ重みを感じ、羽ほど軽い実態を掴めないのだろう。吸血鬼の血で得た力が、ハイネの加減を狂わせていた。
瞳孔は開き、獰猛な笑みが表情に張り付いているのが自分でも解る。
何よりも待ち望んだその瞬間を目前に官能が疼く。逸る気を抑えきれずに、文字通り分かりやすく表情に出ていた。
冷静では居られない。クレアの血に染まった姿を想像するだけで、唾液が溢れた。
馳走を前にした子供のように、ハイネという存在に不似合いな野蛮さを見せている。吸血鬼の本性が最早隠しきれないまでに剥き出しになっていた。吸血鬼のそれとも知らずに呆然と畏怖したクレアの、純粋な決闘として受け入れようとする姿があまりに惨めだ。
ハイネの虚偽に染められた力に、真実など何一つ無い。そうとも知り得ず、結果さえも既に決しているこの血染めの決闘で、ハイネの何かを満たすために事切れ逝く。その宿命を背負ってしまったクレアは、結局最後までハイネの危険性を図りきれなかった。ハイネの努力という筋書きを過信し、ハイネ自身の力と鵜呑みにしていた。無論、それを咎めることは出来ないのだろう。誰もが認め理想にした存在が、人の成りをした鬼だったとは思えない。
真実には程遠いが、友人の腹の中に飼われた鬼の存在を見極められないことが悪とは限らないのだ。
洞察力の低さではなく、ただ単純に知識の有無とでも言うべきか。噂だけが生き残る吸血鬼の存在を危惧することなど、この時代においては過ぎた行為なのである。ハイネの姿に吸血鬼を重ねることは、クレアにはできなかった。
「人として人並み外れ、鬼として脆い。不安定で不完全なこの剣が裂けられるのは、貴様だけだ。嫉妬も、憎悪も、人としての記憶の全てを、この国に捨て行こう。クレア、貴様を斬らなければ……私は前に進めない……!」
鍔を返した。
切っ先からクレアを見据え、首筋に線を入れるような振る舞いで空を切った。小気味のいい風音が耳に残る。ハイネの言葉尻に篭った気勢を相殺して、切れかけた劣情を押さえ込んだ。募る話も、吐き出してしまいたい感情もいくつもある。一刻と迫りゆくその瞬間を至上に仕上げるために、焦るなと、自分に言い聞かせる。
ハイネは、クレアの最上の恐怖と絶望を望んでいるのだ。
最後の執心さえ切り捨て、果たさなければ、ハイネに未来は見えない。
否、吸血鬼の成れの果てに課せられた非日常、それを未来と捉えることすらおこがましいのかもしれない。悠久の孤独を生きるために不要な青臭さは捨て置かなければならないのだ。クレアとの因縁を残したままにするわけにはいかないのである。
膳立ては充分。互いに高め合い、凌ぎを削った友人との非情の別れが訪れる。
今、あの日の試合を再現しようと言うのなら、あるいは、此度ばかりは未来永劫に再現しようが無い。ハイネ、クレア、どちらかの首が飛ぶまで、どちらかの心臓が貫かれるまで、誰も止める者も居ない、誰にも止めることすら出来ない、至上の決闘。
ハイネには、その結末が既に見えてしまっている。無論クレアとて自分の勝利を信じて臨んでいるのだろう。だが、ハイネからしてみればそれが虚しいだけだった。否応にも、虚勢を張って無様に敗北した惨めな自分と重なってしまうのである。
クレアとハイネの勝者と敗者の差、ハイネと淑女の人間と吸血鬼の差。今二人の間にある差は、それと似て非なるものなのだろう。
こと、ハイネという存在。
人々の理想であり、孤高の存在。周囲にその才能を持て囃され、ハイネもそれに応えるように努力は怠らなかった。他ならぬ自分自身が理想の姿であるために、人の上に立つことが当然と思ってきた。
だがクレアに、淑女に、最後には敗北しか知り得ない。勝たなければならない存在に屈服する、自分は惨めだったのだと、ハイネは今更に気付いた。
「……お前が目指しているところがあるように、俺にだって理想がある。そこには多分、お前の存在だって必要だったのかもしれない。どちらかの命を落とさなければたどり着けない理想なら、俺はそれを理想とは言いたくない。それでも――」
クレアは、青臭いことを口にしている自覚がある。口では言っても、内心この状況を変えられるとは思っていない。それでも、主張を引き下げるわけにはいかなった。斬らなければ前に進めないと言うのなら、当然斬られる覚悟で臨んでみせる。義務であり、覚悟。クレアもまた、揺るぎない意志を持つことがハイネへの手向けだ。
「――それでも、俺はお前の友人として殺してでも止めてやる。お前がまだ、人間である内に……!」
恐らく、クレアもハイネの異様な雰囲気に人ならざる因子を感じ取っているのだろう。友人として、ハイネと唯一渡り合うことのできた好敵手として、剣を握る掌に力が入る。
これ以上の言葉は必要ない。それは互いに同じである。この決闘に生き残った者のみが自分の意志を貫ける。
「もう誰にも、私を止めることは出来ん。貴様にも、そして……私自身でさえ!」
少なくとも、ハイネを、未だ人間であると思っているクレアには――。
「この永き宿命を終わらせるぞ――クレアァァァァァァッ!」
「来い――ハイネェェェェエエッ!」
互いが互いを叫ぶ声が、堅牢な石の壁の中に響き渡った。号令はないが、それが二人の合図になった。
ハイネの激昂、臆せず迎えるクレアの気迫。感情がぶつかり合い、上弦の夜空を激情に染め上げる。
夜闇さえも塗りつぶし、月明かりが二人だけを切り取ったように照らし、終焉を芽吹き出す。
この世界で、最も美しき闘諍。
二人の天才が紡ぐ、至極の演戯。
誰も止める者は居ない、誰にも止めることは出来ない。
血だけが勝者を決め、剣だけが敗北を別つ。
強烈な雄叫びに変わる激しい轟音。
耳に残るのは金属の旋律だ。ただ一閃剣が剣を弾く鈍い音は開戦を告げる。
訓練ではない。あの日の試合のように号令は始まりも終わりも示してくれない。誠の意義に、時に制止を掛けるのは二人以外の何者にも適わないのだ。
再現ではなく、終幕。
互いに高めあい、行き違った二人の最後の物語。
泥を差すのは、吸血鬼の血か――。
「……ば、馬鹿な……」
吸血鬼かそうでないか、勝敗を分けるに足りえる差だ。
ただ一閃、剣の弾けた音が耳に残る。纏わりついてくる。開戦を告げたはずの一太刀、よもやそれが終わりを表そうとは、クレアには想像がつかなかった。口に零すくぐもった一言がクレアの困惑を分かりやすく表現している。そんな一言でさえ、剣の鈍い余韻が闘技場から奪い去っていく。
自分は今何をしていたのか、何をされたのか、状況を理解するまでの瞬刻はそれだけの虚脱をクレアに叩き込んだ。
奇しくも、剣の行方は同じである。
「……理解したか? これが偽りの力なのだよ」
言葉を失い、呆然と掌を眺めるクレアに語りかける。遅れて、宙空から甲高い音が徐々に近づき、そしてクレアの意識を遮った。不意に我を取り戻し、今し方のハイネの発言を思考する時間を与えられた。
互角だと、クレアは思っていた。
少なくとも、以前は互角以上に渡り合っていたはずだ。事実、過去の戦績が物語る実績にクレアは誇りを持っている。誰よりも気高く、誰よりも強かった友人に自分は勝ってきたのだと、自惚れや傲慢ではない確かな自負を持っていた。
真実を、虚偽の力を得たのだと、ハイネはより誇張していた。
深い意味も詮索せず、何より運命が決定付ける決闘に水を指すわけにはいかないと、言葉半ばに魂をぶつけ合った。それが敗因だったのだと言うならば、端から決まっていた決着の行方をクレアは理解する。
負けた。決して初めての敗北というわけではない。訓練の中に幾度も敗戦し、其のたびに勝利を得てきたのだ。好、不調もあったのだろう。それでも、いずれも互角以上に渡り合ったはずだ。
されど、この差は何だというのだ。
単純な実力の差というにはあまりに過去の戦績を無視している。大森林に続く街道で離別した僅かな期間に力を付けたというのは、にわかには信じ難い話だ。いくら模索せども、答えは見当たらない。
否、既に出揃った解答を、クレアは無意識の内に除外してしまっているのだ。
「信じられないか? この虚偽の力、鬼の力が。信じられんだろうな。信じろとは言わんよ。貴様が、初めてこの私の前に組み下がった、初めて、この私の前に頭を垂らした、それが答えだ」
クレアは未だ言葉を見つけられなかった。
何よりも、状況が最大に物語る敗北を、受け止めきれない。
訓練の中に、膝を着いたことは幾度もある。頭が降りたこともあるだろう。それでも負けられないと訓練に励み、得てきたのが今までの勝利だ。膝を着き、頭を降ろした経験、腹の底からハイネに屈伏したのは、紛れも無く初めてだった。
「ハイネ、お前……」
思考が固まるよりも早く口に出て、続く言葉が纏まるより早く、ハイネが制する。
「――私が憎いか。私が恐ろしいか。私が今まで一心に受けた屈辱を、理解したか。否、初めて理解したわけではなかろう。知った上でなお、貴様は私の上に立ってきた。そしてそれは必然だ。これ以上多くは語るまいが、この筋書き通りに定められた運命を、貴様はどう思う?」
何かを恨むとするならば、ハイネとクレア、二人に定められた因果を呪わば呪うしかないのだろう。鬼の子として生まれ落ちた一族の運命を、そうとも知らず生きたハイネが真実を得たとき、自ずと膠着した時間は再び動きだす。
そしてそれもまた恐らく、答えは決まっているのだ。
だからこそ、ハイネは友人の命を自らの手で絶つしかない。
答えは必要ないと、ハイネの無情な眼光は語っている。
「死ね」
冷酷な剣がクレアを捉えた。
血だけが勝敗を分かつ決闘の行方はあまりに淡白だ。
百年に一人の天才が、誰にも気づかれずにその命を落とそうとしている。あるいは、人が死にゆくとき、誰しもそうは変わらぬ運命なのだろう。所詮クレアとて人の子である。吸血鬼の剣の前には、人間の命はあまりに容易いのだ。
ハイネの最後のひと振りは、それほど鋭くは無かった。
少なくとも、鬼の血を引くハイネの剣として質素なほど弱々しい。例えば、訓練を積んだこともない女子供でも上手く行けば避けられるような、それがクレアという存在を捉えた。無論、致死量には相応しい、裂傷が直接の死因となるのは間違いないだろう。避けられないはずはない。されど、避けることが無駄だとクレアに教えたのは、他でもないハイネの剣だ。
あまりに拍子抜けな終幕。
それが余計に、ハイネの復讐の終焉を虚しく表している。
大量の血を流して倒れるクレアを蔑視しながら、誰に告げるでもなく終わったかと、独りでに呟いた。
血塗られた剣に視線を移し、払うように振るう。あるいは、クレアを襲った剣よりも鋭かったのかもしれない。剣の汚れは、落ちなかった。
淑女に破れ、綺麗なままにこの手に戻ってきた剣。
無力を表す清潔感が、心のどこかでは逆に汚らしくも思っていた。今となっては、それが誇りでもあるといえるのだろうか。
吸血鬼の力の証明。
ハイネは、吸血鬼の力に誇りなど無かった。
一、二振り、いい加減飛ばない汚れに嫌気が差す。
クレアの頭元に放り捨て、変わりにクレアの剣を掬い取り、刀身を眺めた。
無力を表す清潔感がそこにある。満足気な表情でそのまま腰に納め、ハイネは上弦の月明かりを見上げる。
何よりも、何度も思い描いた幻影。
ついぞ成し遂げた復讐。
吸血鬼の眷属となって、洞が支配する心の中に唯一残ったのはクレアへの憎悪だった。
今、心の中に残った虚無を、ハイネは如何にして埋めるべきか。
「……クレア、私はこれから、どうすればいい?」
クレアの息は、既になくなっていた。
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