第12話再現
堅牢な石の壁が描く円の中に、空から降り注ぐ月明かりは二つの影を象った。
そこは闘技場。剣の音が刻まれ激しい喧騒の集うその場所は、今ばかりは二人の声を除いて静寂を極めている。何者も受け付けない緊張が張り詰め、息を呑む音すらも一つ一つ耳が拾うたびに居心地を悪くしていく。
最後と、ハイネは口にした。
その言葉に込められた意味は、覚悟は、クレアの伺い知れる領分ではないのかもしれない。クレアもハイネの実力を知っている。それ故にあの離別に憂慮はなくとも、どこか胸騒ぎを覚えていたことは否めなかった。金輪際の別れにするつもりはない、必ず平然と帰ってきてまた凌ぎを削り合うのだろうと、クレアは半ば当然のように意気込んでいたのだ。案に違わず帰還したハイネの姿は、今まで付き合ってきた誇り高き心証を逸していた。口にしてしまっては何だが、落ちぶれてしまったと、友人の姿に動揺を隠しきれない。
ハイネのねめつけてくる視線をクレアは目を躱すように泳がせたが、何の現実逃避にもならなかった。 ハイネも目を合わせようとはしないのか、クレアの見据えるような視線と交わることはない。
直視していると胸が締め付けられてしまう。何が、彼をここまで変えてしまったのか。
否、ハイネの中の本質的な気風には大きな変化はなかったのかもしれない。クレアはより浮き彫りになったとも言うべき自分へと向けられた憎悪に恐れているのだろう。もとより好意的な関係ではなかったのかもしれないが、それでも凌ぎを削り合う中に友宜を得たつもりだった。一方的とは言えど、憎まれていることも知りながら距離を近づけてきたはずだ。
拮抗した実力を持つ相手がここまで堕ちてしまったことに、クレアは畏怖を禁じ得ない。
一歩間違えば自分も同じ道を辿っていたのかとも思うと身が震える。
最後という友人の言葉に、クレアは強烈な違和感を覚えた。
初めて合わせたハイネの瞳の中は、虚ろに支配されていた。
「……お前は、何のために帰ってきたんだ?」
友人の帰還に、一度は安堵したはずだった。
そこに居る友人の姿に違和感を覚えるしかなく、クレアは震える声で問う。
「――無論、復讐のために」
答えは簡潔に、それでいて十分に分かりやすい。
互いに認めう実力の中で、あまりにも分かりやすい勝敗の差に落ち目を感じていたことはクレアも知っている。程よく負けてやるくらいに気分良くさせてやっていればよかったのだろうかと、それはそれで当然恨みを買うだけの行為に過ぎないのは重々に承知だった。手を抜くことも見抜けないほどお互いに節穴の目をしていなければ、それがどれだけ無粋なだけなのか、考えただけでも二人の関係に傷を入れてしまうような気がした。さながらそれだけが目的とも言うべく形相に、強い意志を感じた。
実力の差が逆だったのならと、幾度か想像したこともある。
クレアは、ハイネを同じくらいに恨んでいたのだろうか。少なからず屈辱を感じることもあるのだろうが、あるいは、所詮妄想に過ぎない。ハイネはハイネであり、クレアはクレア。その関係が変わることはないのだ。
復讐のためという言葉の意味を、クレアは受け入れるしかない。
その言葉が秘めた覚悟を見届けなければならない。
所詮、罪滅しにはならないのだろうが、決着を付けるために帰還したその闘争心に敬意を込めて、決闘を受け入れる。それがクレアの義務だ。腰に掲げてきた剣の重みが、一段と増したような気がした。
最後と、復讐と、結び付く言葉の意味は改めて聞くまでもない。
恐らく、ハイネはこの長い因縁に引導を渡そうとしているのだと、クレアは悟った。使命、天命、運命、言葉にする手段はあれど、どれが正しいのかも分からない。言葉では計り知れない至上の因果が、今終止符を打とうとしている。
自分たちの相克の命運を理解しても、そう簡単に整理の付く気概ではいられなかった。
クレアが目まぐるしく回っていく思考で何かを掴もうとするよりも先に、遮るように先んじてハイネが口を開く。
「クレア、私は貴様が憎かった。誰よりも強くあろうとしたこの私の誇りを踏みにじるその力に、嫉妬していた。既に貴様も知っていたのだろうがな……」
まだ負けたつもりはないと、手を払ったあのハイネと同じ発言とは思えない。誰よりも誇り高く、勝利に餓えたあの闘争心が影を潜めている。穏やかになったのかといえば、むしろ鋭利に、得体のしれない危険性を孕んだ佇まいだ。クレアへの憎悪が浮き彫りになっているのだとしたら、それだけでは収まりきらない物恐ろしさは説明がつかなかった。単純な憎しみや嫉み以上の、言い様のない魔物性がハイネに漂っている。
クレアが教官から授かった言葉を下に対峙しているのだとしても、過去の実績など考慮する価値もなく、止められないと、本能的に思ってしまう。
「強さとは何だ? 虚偽で固められたものを、貴様は強さと呼ぶか? 私は敗北者だ。所詮、強さを語るに値しない。貴様に幾度も敗れたな。私は、生粋の弱者なのだよ」
「お前は……!」
強いと、言いかけて、淀んでしまう自分に気づいてしまった。
勝者としての奢りが皮肉になってしまう。否、強くあるために、強くあることで自分を保ってきたハイネに掛けるべき言葉が、見つからなかったのだ。弱者だと自らを卑下するのなら、ハイネが培ってきたものをハイネ自身が否定すること以上の屈辱はない。
例えハイネの強さを表すどんな言葉があったとしても、この場において全てが無に帰す。クレアもハイネの努力を理解しているからこそ、血の滲む程の苦しみを、自ら否定するハイネを理解できなかった。
「常に思い描いた自分であるために、たゆまぬ努力をしてきた自負はある。剣を握っていた時間、この身を鍛えた時間、光を望みながら、泥の中にこの身を置き苦渋を舐めた。あるいは、その姿に私自身が溺れていたのだろう。只の自己陶酔者だと笑わなかったのは、力があったからだ。私は、その力に自惚れていた」
それがハイネの半生だと言うのなら、あまりに悲観すぎる。その才能に惜しまぬ努力を敬うことはあれど、誰もが栄光を望み認めるハイネを嘲笑できる者など居ないはずだ。ことクレアとて、その姿勢に純粋な賞賛を送れるだろう。
冷然と客観的な語り口が、あるいはハイネの半生とも思わせない邪険を秘めている。
続くハイネの言葉は、クレアにも予想が付いた。
「……そこで、俺と出会ってしまった、か」
「そうとも。ことハイネという存在の栄光に泥を塗ったのは、貴様だよ、クレア。後にも先にも、貴様だけが私の邪魔をしてくれる。運命を呪ったのは、それが初めてだった」
「それでも、お前を弱者だと蔑む者など居なかっただろう?」
「強者か弱者か、我々の運命においてそれを決めるのは他人ではない」
クレアは、ハイネの言葉を納得してしまう。
言葉の持った説得力はそれほど大きくはないのだろう。それでも不思議と染み入るのは実際にクレアがそう思っているからなのか、説得力などという価値観すらも、既に意味をもたらさない。その甲と乙は、最早運命が決めてしまっているとしか、クレアには言い表せなかった。
「今だからこそ、敢えて言うが、こう見えて私は貴様に感謝している。私を強くしてくれたのは、恐らく、貴様の存在があったからだろう。凌ぎを削り合う良き好敵手、そんな表現は今でも虫酸が走るが、その存在が無ければ自分に満足していたかもしれない。それこそ、只の自己陶酔者に成り下がっていた」
「だけど、そんな自己陶酔が強くしてくれたんだろう? 俺だって、辺境の村の用心棒からここまで来れたのは、お前のおかげだと思っている。お前の努力があったからこそ、俺も強くなった。それはお前も同じなんだよ」
「貴様は強い、クレアよ。私をどれだけおだて上げようと、羨んでしまうほど誰よりも強い。私がどれだけの努力を積み重ねても、永遠に適わない。理屈じゃあない。この虚偽の力さえも、貴様は圧倒してしまうのだ」
言って、ハイネは剥き出しのまま手に持っている剣の刀身に目を落とす。
虚偽の力。何が偽りであり、どれが本物なのか。ハイネが真実を得たと言うのなら、何を信じているのか。クレアにはその全てを見極めることなど出来なかった。
鬼にも、人間にもなれない。
その意味を、クレアは知ることが出来ない。
「虚偽の、本当の意味を知りたいか?」
「それが、お前を変えてしまったのなら……」
一息、生唾を飲み下す。
それがクレアの答えには十分だった。
「――ならば剣を持つのだ、クレア」
歓声は無い。
号令も無い。
堅牢な壁の中で向き合う切っ先が、互いを捉える。
二人の間にあるあまりの静寂が、あるいは、あの日の歓声を思い出させる。
今ここに、神聖なる美しき試合のが再現されようとしていた。
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