第11話光と影

 夜が更け、上弦の月明かりに照らされた闘技場にハイネは佇む。

 埃にまみれた照明は相も変わらず灯らない。所詮訓練用の貧相な施設は、夜の影に曝され埃っぽさを携えている。夜の所為でもないだろうと、こんな時間に訪れる経験は初めてなのだが、ハイネは根本の有り様を思い出しながら態とらしくむせ返って見せる。それは拒絶反応を装った只の小芝居的な所作だ。

 偽りだらけの街並みの様でまともな管理も施されない哀れさへの皮肉である。延いては、無知のまま生まれ育った自分自身の戒めだろう。


 明かりを点けられる権限を持つ者は、既に闘技場の敷地内には居ない。日の入りが勤務終了の基準となる管理ではハイネが忍び込むのも容易かった。

 こんな時間に灯を入れられる状況がそもそも珍しく、今宵も例に漏れず薄暗い静寂が包み込む。

 そうでなくとも、星々の輝きはハイネの身を突き刺すように輝いている。

 百年に一度の記念日を祝うように、闘技場に眩いばかりの煌めきが降り注ぐ。

 物語の主人公を象る照明のように、煌々たる月明かりがハイネを照らした。

 今宵は十分に明るい。その手中の剣から反照する月光は眩しかった。虚ろに淀んだ瞳でも、未だ目映い光を捉えている。例えそれが虚偽で霞んでいたとしても、誰もが穢れ焦がれ望んだ光明には変わりない。

 当のものハイネもまた、渇望しているのであろう。


 クレアが光だとするならば、ハイネは影。

 訓練における勝敗の差だけが決めずとも、ハイネも自認する。

 クレアの強さを形容し得る言い様があるのなら、それは才能という言葉に他ならない。ハイネの強さを血縁のそれと卑下するならば、才能という言葉だけでは及ばぬ能力の半輪を覗くことしかできないだろう。この世界に唯一、クレアを人類における天下の座と認めることができるのは同じ舞台に立ったハイネだけだ。

 この吸血鬼の血に渡り合う唯一人を、降心しないことには無理がある。訓練ほどの狭い境地でさえ敗北を知ってしまった事実を、他ならぬハイネ自身が最も理解しているのだ。

 今や栄光と自尊さえ失せた頭の中には無様な奢りも出てくる。


 ハイネは影であることを望んでいた。

 別段、クレアを光と言うことが相応とも思っているわけではなく、実績が物語る事実に妬みを抱えているわけではない。否、嫉妬がなかったかというには、それは人間の精神でいられた頃を思い出せば自ずと答えも出てくるだろう。

 憎悪以外の何もかもを失った今だからこそ、先入観のない賢明な判断ができる。

 ハイネは影であることが正しいと悟ったのだ。


 あの淑女が歴史の影の中で密かに身を潜めたように、ハイネもまたこれ以上表舞台に立ち続ける程の野心は持てない。

 ハイネは気づいてしまった。


 あれほどまでに貪欲に求めていたはずの力が、野望が虚無感に飲まれる感覚。

 これ程までに語るに落ちた欲求だったとは、思いもしない。

 ハイネは、光であるために力を磨いた。その結果はハイネに寄り付く者共が反応を示してくれていたのであろう。当然ハイネもそれを受け入れ、そしてクレアの持つ光に嫉妬していたのだ。血の滲む思いで得た栄光がくすむ程の輝きを、憎んでしまったのだ。


 ハイネは、クレアになろうとしていた。

 あの日の試合だけが明暗を付けずとも、二人の関係に甲乙付けるのは容易い。

 あくまでも強者はクレア。ならばこそ、穢れ焦がれたのは他人だけではなく、当然ハイネもその力に穢れた焦がれていたのだ。無自覚に、嫉妬に飲まれるほど僅かに嫉んでいたのである。クレアになろうとした、その過程で確かに及ばぬ程の力も得たのだろう。それでもクレアはハイネの上を行き、嫉妬と憧憬の循環を見せしめてきた。

 対等になり、対等になろうとしてはその差を突き詰められ、余計に焦り妬む。

 ハイネの光であろうとする盲信が誤想を進行させたのだろう。今だからこそ、自分の様相を客観的に理解できる。

 ハイネは、出掛かる言葉を人知れず飲み下していた。


 こうして、静寂に身を委ねる時間を得たのは何時ぶりのことだろう。

 時間を得た、というには厳密に語弊が在るやもしれぬが、記憶の限りには珍しい。ハイネという存在に寄り集る声が耳障りだったのは、ハイネの人生において常に付き纏う。それが心地よくもあり、今にして思えばハイネの価値を堕落させた要因だったのかもしれない。その程度で満足したつもりはないはずだが、否定しきれない程度には賞賛に塗れた人生だった。

 穏やかな生き方をしたいと、思ったことはない。

 賞賛に溢れる人生こそ、ことハイネという唯一無二の存在には相応しいと自負していた。

 そんな奢りに歯止めは効かず、周囲もそれに助長してきた。それだけがハイネを狂わせたとは言わないが、静寂に委ねてそんなことばかり考えてしまう。


 やはり、ハイネという存在に静寂は似合わないと、改めて想う。

 静かに照らすだけの月明かりが、今のハイネを表すようで滑稽に見えた。


「……ハイネ。帰って来たんだな」


 無事だったのかと、教官とは違い直接的な言葉を使わないことが気持ち悪い。

 それだけで意思疎通が可能だろうと、二人の関係に同意を求められている気がした。

 そんなことは、そんなはずはない。吸血鬼の血に人間風情が近付くべきではない。言って突き放してやりたかったが、そんな詰まらぬことも他にないだろう。全て壊してしまいたくなるほど醜いこの国にわざわざ脚を及ばせたのだ。この期にも及んで、簡単な終止符を打つつもりはなかった。


「――帰って来るさ。帰って来るに決まっている。人間が帰る場所など大概決まっているようなものだ。このハイネが収まるべき器には小さいやも知れぬが、この国は私の居場所に相応しい。ならば、ここに帰って来るのが必然だろう」


 饒舌な語り口が、溜め込んだ鬱憤を吐き出すように並ぶ。

 意思疎通など虫酸が走るが、それでも通じてしまう。

 目を合せはしない、会話をしているというつもりはない。


「心配したぞとでも言うか、クレア?」


 お前はそういう奴だったと、心中の雪辱を返す。

 ただの警告に過ぎない。言われるまでもなく、理解していた。

 クレアが言おうが言わまいが、ハイネにとって生ぬるい仲間意識とやらは否応にも白ける。今のハイネは、クレアの敵として対峙している。

 あるいはクレアも、そこに隙を見ながら佇んでいるのであろう。隙は見せない、見せることも既に叶わぬ、憎悪と殺意は最早誤魔化すことはできなかった。

 警告にすらならないのだ。自我を見失うことがあっても、目的は忘れられなかった。

 獣の前に放り出された赤子に見えてしまう。

 ハイネは吸血鬼の目で、クレアを見据えた。


「教官に言われたよ。ただ、お前を、止めてくれと……」

「――どういうことだ、とは聞かないんだな?」


 激情しているようにでも見えるのだろうか。

 ハイネが赤子を見るような目で見たように、クレアも哀れむような目でハイネを見ていた。少なくとも、ハイネ自身あまり長くは制御出来そうにない衝動を、教官もあのわずかな時間に感じ取っていたのだろう。止めてくれと、それだけの言葉をこの一瞬に意味を得てクレアは立っているのだ。

 見れば理解する。そのままの意味で、今のハイネの無様な姿はハイネらしからぬ狂気を感じさせる。

 互いに一目見据えただけで、互いの立場を自然と理解させた。

 言葉はいらない、今、言葉を発することがどれだけ無粋な行為か。ある種互いの信頼関係が成す沈黙に、酔いしれている。付き合いの長さ以上に分かりやすい、底の計り知れない実力を認め合うからこそ沈黙が心地よかった。

 今更息巻くことはないが、忌みするクレアの声に耳を傾けるよりも精神的に落ち着く。

 静寂に飲まれ、月明かりが照らす二人の滑稽な姿を眺めていたほうが暴発してしまいそうな気も幾分か紛れるだろう。

 誰もその間を割って入れない程の緊張感、当然邪魔をするものは居ないはずだが、静寂に取り残された二人の視線が交わることはなかった。


「……クレア。この世界は、醜いと思わないか」


 ハイネは敢えてその均衡を破った。

 ただ経過していくだけの時間が、馴れ合うようで疎ましかった。


「虚偽に塗れ、誰もそれに気づかず、のうのうと生きている。貴様も、私とて、同じだ。真実も知らず、間抜けに力を磨き続けた。結局、天才と持て囃され持ち上げられた我々も愚民どもと変わらない。阿呆と見下し嘲笑った者と同じ、笑えるだろう? 慙愧に堪えんよ」


 蟠りはまだ絶えない。

 クレアが口を挟む間を与えずに語り続けた。自分を卑下することで他人を貶め、思いもしていない恥を露呈する。

 クレアは同意も嘲笑もせず、静かにハイネの旗幟を聞き入れていた。


「クレア。真実とは実に下らない。どんなに激しい雨に打たれても、この血に、この国に染み付いた罪は流れん。全てが虚栄だ。あるいは、虚栄に騙され惚けていることが、幸福なのかもしれない。だが、我々の立場に惚け続けることは許されん。全てを手に入れようとしたとき、真実とは勝手に見えてしまうのだ。貴様は、真実を知った時の虚無に、耐えられるか」


 ハイネだけが知る真実。あるいは、この世界でハイネだけに与えられた試練。

 誰にも共感されない、虚になった感情で語る自己顕示は、存外軽い。普通の会話すら厭悪漂うことしかれども、今回ばかりは苦もなく進む。溜飲の下がったハイネには他愛もない。

 らしくない平静な語り口に虚を衝かれながらも、クレアは長い沈黙を破った。


「……お前が、今どんな思いでそこに立っているかなんてこと、俺は知らない。俺はお前じゃないから、当然考え方も違う。真実を知ったことで嘘が見えてくるなら、それもまた真実なんだよ。きっと、知らずに生きていた方が幸福だって思うだろう。それでも俺は、お前だって、その虚無に立ち向かっていけるくらい強いはずだ」

「――その強さこそが虚無だったとしても、同じことが言えるのか? 人生を掛けて積み上げたものを否定され、それでも強さを自負出来るか? 否、強さは自負出来た。証明されてしまったのだ。努力で手に入れたと思ってきたものが、偽りだったことをなあ」


 真実を知る者の差とでも言うべきか、若干会話が食い違う。

 だが、ハイネは真実を語るつもりがなかった。義理の有無に拘らず、もとより語るべきではないと思っていた。

 ハイネが、あの淑女の口から真実を聞き覚えた感情を思い出す。

 同情など必要ない。クレアから同情される屈辱など、怒り狂ってしまっても可笑しくはない。

 平静を装っていられるのは奢りがあるからだ。吸血鬼の血は、積み上げてきた価値観を壊した。


「クレア。私は、鬼にも、人間にもなれない、半端者だ」


 自分が何者かさえ曖昧なハイネの伏し目がちな視線。

 クレアの足元を這うようにねめつけるハイネには、クレアの訝しげな表情は見えていないだろう。見えていなくとも、胸の内が伝わってくる。


「多分、これが最後になるだろうから、別れの挨拶をしようじゃあないか」


 そしてハイネは、初めてクレアと目を合わせた。


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