第10話帰還
日差しさえ大樹のカーテンに遮られ時間すら曖昧な森の中、今のハイネが体感した時間は当てにならない。
今が朝か夜かさえも、自分の脚がどれだけの時間を無休で動き続けていることすらも、今のハイネの肉体は、普通の人間のつもりで生きていた分だけ体感を狂わせている。否、紛れもない、暗がりを作るのは夜の深淵。凝固に定まった視線は一点のみを捉え、映し出される夜の風景に、ハイネが気づいていないだけである。気づかぬ内に深部を過ぎ、陽の登らぬ時間に抜けたらしい。歩いた感覚が証明にはならない、草木に邪魔されて遅れた流速が鈍らせる。
だが、疲労は感じられなかった。
クレアへの純粋な憎悪に気が紛れているのか、否、眷属の体に体感を奪われたか。
とにかく、ハイネは自分自身に人間らしさというものを感じられなかった。
時間の概念に囚われた半端者に、淑女の如き純血のような生き方はできない。王都で過ごした時間は、眷属として生きることを強要されたこの体に、あまりにも深く染み付いている。吸血鬼としても、あるいは人間としても、ハイネは若すぎた。人間の常識が不相応に頭の中を掻き混ぜる。
ただ唯一、この頭の中に刻まれた記憶だけが、ハイネをハイネという存在として証明してくれる。
この場所は、覚えていた。
最早何処か懐かしくも感じる。
眷属になったとはいえ思い出に浸る程老けてはいないはずだが、それでもこの場所に郷愁を重ねてしまうのはハイネにとって必然でもある。それこそ、自覚のない疲労が所詮純粋ではない眷属の肉体に響いたのか、思い入れを寄せるには余りにもこの場所で過ごした時間は短い。
否、この場合、感情を只時間で語るべきではないのである。
「――そうか、もう……戻ってきたか……」
辺りを見渡す。
吸血鬼の居城から只管邁進し続け漸くたどり着いた。
道なき道だけが続いた森で、ハイネの前に久方振りの開けた空間が現れた。
そこは、淑女と初めて対話を交わした空間。
そして、ハイネが眷属に堕ちた空間。
因縁と呼ぶべきか、その言葉は、クレアの為に飲み込むべきか。
この場所はハイネの人生を変えた、謂わば墓場である。
奇妙なめぐり合わせだ。吸血鬼の直感に従っただけの、最悪どこか知らない場所に出てもおかしくない無茶な牛歩は、よりにもよってこの場所に繋がった。
自分が、何よりも清々しいほど敗北した場所、誇り高いハイネにとって嫌でも印象に刻まれている。誇りすら捩じ伏せる力を前に、成す術も無く倒された。
淑女を前に誇ることなど奢りにも満たぬ、只の愚劣な行為。
今となっては当時の蛮勇が可笑しくも思える。
敗北そのものや、吸血鬼の力を借りただけの自惚れには、羞恥心さえも枯れ果たした。
暫く葛藤に飲まれ、静寂がハイネを孤独にする。
見れば、そこに血痕が残っていた。倒れた時の事をハイネは覚えていない。自然と、咬まれた首筋を手で触れ、訝しげな表情を作る。吸血鬼の再生力に理屈はいらない。綺麗な、醜い体を強く否定する証跡。ここで死んだのかと、言葉にはならない思考が巡った。
その隣には、誇りと共に戦ってきたハイネの愛刀が転がっている。
自らの死の認識と同じく、ここにあったかと、抱きすくめるように拾い上げた。
この身を守るための剣、貴族の生まれとしてなまくらの物は持てない。とはいえ、所詮は訓練の為に連れ従えただけの剣である。さりとて、訓練も実践も、今のハイネには身を守るための道具など必要なかった。淑女は武具すら持たず、ドレス一枚に優雅にハイネを伏した。
誰かを傷付けるための刃など、吸血鬼には必要ない。
無論、淑女と同じほどの実力とは言わないが、武器を捨て森を抜けることも容易いという傲慢くらいは許されるだろう。吸血鬼の血にはそれだけの自負を覚えている。
されど、ハイネは剣を離さなかった。
ここで一戦交えたはずなのに、綺麗なままの刀身が証明する無力を、その掌に握り締めた。
あらゆる才能に恵まれ、その全てにたゆまぬ努力を施した自負がある。
誰よりも、何よりも血の滲んだ人生の中に、クレアという存在は凄絶にちらついた。ハイネの生き方を否定するような生い立ちに、誰よりも、何よりも強い自負が折られた。努力が、才能が及ばなかったとは思わない。故に敗北の原因は思いつかなかった。
剣だけがハイネの生きる道、剣だけがハイネの生きてきた道。
自分が負けるはずがないと更に継続し続けた努力も、その上にクレアは君臨する。
あらゆる才能を棒に振っても、剣だけは負けるわけにはいかなかった。クレアと出会ってしまったが故に、その思いは更に強くなった。
剣の為に賭した人生、今となっては、浅ましい自虐が絶えない。
血が赦した能力を傲慢に奮っただけだ。
ハイネはその手の剣を離さないまま、再び歩み始める。
目前と迫る王都の針路をねめつけた。
ハイネは、眷属となったこの肉体で尚、剣以外の戦い方を知らないのである。
◆
全てが、王都を構成する全てが変貌して見えた。
訓練から旅立つ前、そして帰還した今、変わらない風景だけが嫌に居心地悪い。この場所で生まれ育ったのだという実感がたまらなく不快にさせる。
帰ってきた。
帰ってこれた。
帰ってきてしまった。
虚栄が生み出した残骸の中に、ついぞハイネは帰還を果たした。虚偽の肉体には良く似合うかと、忌避の街並みに自らの姿を重ねる。自己嫌悪の比喩は、ハイネの中に当然のごとくしっくり収まった。
時間の概念は、ここに来て夕暮れに差し掛かる影の長さでおおよその目処はつく。
見当もつかないのは、どれだけボルキュス大森林の中に囚われていたかということになる。
歩いた時間だけでも馬鹿にはならない。それでも常人と比べて、休息や睡眠の時間を省略した効率は大いに発揮されているだろう。単純な脚力の差も含め、そもそも人間が不可能とした横断をハイネはこなしたのだ。
それに合わせて淑女に拾われ気絶していた時間を考えると、この記憶の限りではまず計り知れない。
勿論、忌むべきこの景色の不変は、恐るほどの経過を表しているわけではないのだろう。
参考にもならない街並みばかり眺めていても仕方ないと、ハイネはやがて考え事に飽いたように闊歩し始める。
「この国と同じく、私の血もまた、汚れていたのだな……」
改めて確認するまでもないが、如何せん対比が絶えない。
真実を知った観点からは初めて覗く。今まで当然に見ていた景色が、どれも胡散臭いのだ。
掌をかざしては、そこら中に敷き詰められた石の煉瓦と等しく見えてしまう。我ながら人間らしさを感じない冷淡な手だった。人間らしさを放棄したハイネの瞳が、そう見せているのだろう。あるいは、その瞳にもまた、感傷など宿ってはいなかった。
そうして目に映る全てに、建築物、行き交う人々を問わず低劣な価値を見定めていく内、不意に掛けられた声にハイネは一瞥もくれず聞き捨てるのだ。
不意とはいっても、虚を衝かれるところなく、近づく人影にも気づいた上で、煙たがるように只その脚を止めることで応えるのだった。
「――ハイネ? ハイネ、なのか……?」
背中から聞こえてくる声に、踵は返さない。
心配そうにも聞こえるその声色に無礼も何もなかった。無骨な態度も礼儀を成す必要のない人物という理由以外に他ならないのだが、否、ハイネとして生きた人生において敬意を払うべき一人だったが、崩壊した虚偽に払う敬意は捨ててしまった。例えこの相手が国王であろうと、今のハイネには対峙するつもりはない。好き好んで居心地の悪い不快感に耐えている訳ではないのだ。
この場所に帰ってきてしまった目的は固く決まっている。
虚栄に塗れた瘴気の息苦しさを紛らわしているのは、憎悪である。
いつ張り裂けても可笑しくはない自尊心は、クレアへの殺意が保っていた。
ナルタート騎士学園の領地まではもう少しばかりの距離を保っていたつもりだったが、やはり教官の目は誤魔化せない。
欺くつもりもない、今更保つべき体裁の無いハイネに、人の世で恐れるものなど無いのだ。
学園の宿舎はまだ距離的な余裕はあったはずだが、そういう意味では、ここで嘗ての教官と出食わすことはある意味想定していなかった。
このまま黙殺することも厭わず、確固たる目標へと歩き続けることも可能である。
それを行わないのは、ハイネに残された唯一の人間性なのだろう。
「ハイネ、無事、だったのか……?」
草木の道を征った大袈裟な痕を認めて、教官は戸惑いつつ訪ねてきた。
後ろ手から自分の身体をねめつけているのだと、ハイネは察する。草木に引っ掛かって着いたのであろう細かい傷跡は、確かに貴族の、延いては彼らにとって考えられるハイネという存在の佇まいとしては我ながらに珍しい。幾分無様に見えたことだろう。
ハイネの実力を知るからこそ、遅れた帰還とその極端な汚れが教官には気になってしまう。知っているが故に、ハイネほどの実力者の無事とは言い難い様相に違和感を覚えてしまうのだ。
衣服の汚れとも言うべきか、割に疲労を感じさせないハイネの装いが何者でもない違和感の原因なのだろう。
吸血鬼の血など、無論、教官に心当たるはずがない。
「――愚問ですね、教官。このハイネ、訓練ごときに無事でないことがありましたか? ご覧の通り、多少のかすり傷はあっても血気は衰えてなどいません。そうでしょう?」
半身だけ翻した体で手振りを付け加えながら嘯く。
勿論、それだけでは説明が不足している。教官が求めているのはそれ以上であり、ハイネの手負いの理由にも、よもや訓練に失態を犯した理由にはならない。あのハイネが、獣の首ひとつ取れずに引き下がったことなど嘗てあったのだろうか。
余りにも物珍しい事態に、教官は呆気に取られてつい生返事を返してしまう。
「……あ、ああ。そうか、そう、だったな……」
否、そうだったかと、口を開く前に記憶に没頭した。少なくとも数瞬、考え込んでしまう程度に思い浮かばなかったのは、それだけハイネの優秀さを裏付ける証拠なのだろう。
気づけば納得した自覚もないまま首を縦に降っている。
それ以上教官の中で違和感は拭えないが、一度言い淀んだ手前に言葉が発しにくい。
教え子の無事以上の朗報もないのだ。
返事だけを聞き後にするハイネの背に、掛けるべき言葉も浮かばなかった。
何よりも、更に深い詮索は何処か禁忌に触れてしまうような恐ろしさを携え、暫時教官の身が怯みを見せた。
解析できない畏怖は、言い様のない嫌悪を抱かせる。
ハイネは、それを吸血鬼の血と盲信し、沈みかける日暮れに黄昏た。
最早クレアの姿を想像するだけで、高揚が収まらないところまで来ている。
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