第9話引導
思わぬ自由を得て、否、端からハイネの生き方に介入するつもりもなかった淑女の無関心により、ハイネは現在若干の暇を持て余している。
少し考えるがいいさと流麗な作法で踵を返し、翻す体を後からついていったドレスの流れに目が惹かれるハイネの思い虚しく淑女は悠然とその場を後にした。
一人になり、それ故に、これまでの人生に感じたこともないほど大きな孤独をハイネは感じる。
それなりに人に囲まれた人生だった。拒んでも寄り付いてくるくらい、とにかく、この眷属となった肉体になるまで感じることもなかった孤独と言うものを、ハイネは生まれてこの方初めて知らしめさせられたのだ。
これ程までに孤独だったのかと、そうとも知らずにのうのうと生きてきた自分を恥じ入って、独りでに目を伏せる。
良く思い返してみれば、それも全て吸血鬼の力が与えた虚像だとも考えてみれば、存外素直に受け入れられた。
所詮、ハイネという人間は偽りの力に酔った愚か者である。
この偽りの力に寄り付いた人間たちもまた、ハイネからしてみれば愚か極まりない。
――クレアだけが、純真な力のみで、このハイネとの対等で対極な関係に渡り合ってきた。
ハイネいう名を借りた虚像を撃ち崩すだけの力が、クレアにはその生身の体に備わっている。
ハイネは純粋にそれが羨ましくもあり、憎かった。否、自分の中でクレアを羨む腹案を持つ自分自身が、惨めだったのだ。ハイネと、そしてクレアだからこそ成し得た境地での凌ぎの削り合いに、嫉妬という醜い感情だけで望む自分が、今にして思えば心疚しかったのだろう。
いつからか全てがクレアへの憎悪に成り果て、今も変わらず残り続けている。
あるいは、吸血鬼の眷属となったこの肉体にまで及ぶその憎悪は、本物なのだろうか。
そうなのだろうなと、クレアへの遺恨を認めて思考を纏める。
眼前に持ち上げた自分の腕を裏表余すところなく見回して、爪、皮膚、その皺、骨の形から、肉付き、血管へ、腕に通った青黒い筋を意識し確かめるようにそのまま力を入れた。
「……ともすれば、私の中に流れるこの吸血鬼の血を持て余してる場合でもない、か……」
洞は今尚ハイネの胸中を埋め尽くしていくが、クレアへの憎悪だけは上塗りされないのも不思議なものである。眷属と化すまでの後悔や目標、人並みに求めた夢さえ、例えその殆どがハイネにとって容易く手にできる物であったのだとしても、綺麗に胸の中から消え去った感覚がむしろ心地いいぐらいだ。
それらが消えたことにより、余計に際立ったとも言えるのだろう。
文字通りの意義でこの血の滾りは抑えられない。
ハイネの中に流れる吸血鬼の血が、クレアへの殺意を促している。
洞にも埋め尽くされないただの嫉妬は、吸血鬼の肉体が、肯定していた。ハイネの殺意に正当性を持たせたのは、他でもないこの肉体だった。
腕の血管でも血の流れを実感できる。
吸血鬼の力が解る。
この場所に居たままで、持て余した力が収まるはずがない。収めてしまうべきではない。
「――クレア……決着をつけよう」
ハイネは独りでに呟く。
ハイネとクレア、二人が生ける限り悠久に続くはずだった極点の闘諍が、嘗ての模擬試合と同じく、無残な相剋の終わりは訪れる。
◆
淑女は見下ろしながらハイネの背を見送り、呟いた。
「漸く行った、か……。全く、世話の焼ける坊やだよ」
それは、ボルキュス大森林の最深部。
鬱蒼と、身に迫る程に生い茂った木々に囲まれた吸血鬼の居城は、最も身近であろう帝都の者達さえ知らぬ空間に聳えている。
誰も知らぬ、人々に忘れ去られた場所である。
嘗て吸血鬼が大森林の奥地に構え、人間が近付くことさえ恐れた、人類の歴史において最も深い恐怖と嫌悪を持って遠ざけた場所だ。
王都には、悲嘆な噂さえ流されている。森に近づけば吸血鬼の亡霊に連れ去られる、と。
城は戦争の名残のまま、あるいは、時の流れるまま、噂に違わぬ古びた佇まいで悲愴を帯びている。
外装にまで及ぶひび割れが今にも崩れ落ちてしまっておかしくない焦燥感さえ、吸血鬼という種が滅ぼされて以降気にする者もいなかったのだろう。
今は残された唯一の居住者である淑女は、外装上無数に区分けされた一室からその背中を見下ろし呟くのだった。
「礼の一つありもしない。無礼な子だ」
淑女はクックッと喉の奥から込み上げる笑いを飲み込みながら、埃の被った窓の殘に目を落とした。
そこに、何があるでもない。無論何かを求めて伏せたわけでもない。如何せん淑女にとって久方振りのおしゃべりとは、あまりにも愉快な一時だった。
何年、何十年、あるいは何百にも及ぶ孤独の中で、不意に淑女の前に現れたハイネという青年は、また淑女の前から姿を消した。淑女は、彼に心を惹かれないように、目を伏せたのだろうか。人間と吸血鬼の種族の垣根を超えた出会いが、それは時代すらも超えて今ここにまた淡く消え行く。
否、淑女は既に気づいている。
長年の、それこそ悠久ほどの長き時を生きた勘とも言うべきか、ただ漠然と、それでいて確信的に気づいていたのだ。
ハイネはまたこの場所に帰ってくる、と。
確証こそはないが、自信と呼ぶにふさわしい、吸血鬼としての稔侍。
血で繋がる者の天命である。
殘に溜まった埃をさっと指で拭き取り、ならばそれまでに身だしなみでも整えねばなと、流麗な中に長年の色褪せが見えるドレスに目を落としたのだろう。当然、それが真意ではないのだろうが、彼女自身そう認めてしまう方が楽だった。少なくとも、種の滅亡から今に至るまで、そうやって自分を騙しながら長き孤独に耐えて生きてきたのだ。
ハイネへの、長き孤独の中に忘れてしまった感情に戸惑う自分が、みっともないと自虐的に嘲笑う。
「これだから、人間は嫌いなんだよ――」
態とらしく嘯くが、 軽んじた皮肉に付き合う者は居ない。
◆
ボルキュス大森林の鬱蒼と茂る木々の、陽の光すら届かない視界の悪さと窮屈さの中を邁進する。
ハイネの歩幅は大きく、それでいて一歩踏み出すごとにその感触を確かめるような重みを見せていた。
断じて軽い足取りではない。だが、倦怠感もない、紛れも無く力強い足取りである。
吸血鬼との戦争を終えた人類が今の今まで開拓の施されなかった大森林で、整備された道など期待できない。方向感覚など宛にもならず、木々を掻き分けることもなく、ハイネは取り憑かれたように只管直進し続けていた。一歩ごとに鉈を入れるのも煩わしく、体にまとわりついてくる草の感触を気にも留めずに進んでいた。
既に数時間は進めど景色も変わらぬこの状況である。
振り向けばハイネの通った跡がそのまま直線に見えるほど、道なき道を切り開く。長い時間を持って膨張した森の、未だほんの僅か中心点を横切った程度だろう。
そもそも、吸血鬼の忌みする歴史もあるのだが、人類がこの大森林を避けてきた要因として何よりも大きいのは、文字通り、大森林の規模にあった。無論、魔獣の存在も危惧する対象ではあるのだが、それを含めて大森林を横断するのは人類には不可能とされる程の大きさは、ハイネやクレアたちの居住区である王都から大森林を挟むことで、そのまま隣国に接触してしまう規模を誇る。
これまで、国王の一声で大森林の開拓が計画されたこともあったが、魔獣の存在に併せて吸血鬼の噂に幾度と中止に追いやられてきた。
国王の知るところではないやも知れぬが、ハイネの出会った淑女の存在はその判断の正当性を大きく手助けしているとも言えるのだろう。
とにかく、ハイネ自身途方もない事を実行している自覚はある。
下手をすれば命を投げ捨てるだけの愚行にしか見えない。右も左も分からぬこの状況、あるいは、獣道にでも逸れて出口を目指したほうが懸命なのだろうか。
否、正面すら覚束無いこの状況において、横道を行くのは危険だった。繁華街で迷子になるというだけの平和な話ではない。この広大な土地に取り残されては、道標のない迷路を進むだけになる。
それ故堂々たる邁進を続けるハイネの脚は、かれこれ半日単位で止まることなく動いていた。
継続的に規則正しく、草木の擦れる音だけが耳に残る。
歩く速度も乱すことなく、肩で風を切るように、掻き分けていく。
眷属の体に故か、自分でも止めようとも思わぬ足取りが一定の速度を保っていることを確認して、ハイネは今更ながら己自身に軽蔑を覚えた。
小休止すら排除した経路に消耗した時間の分だけ、この肉体が疎ましい。特別に急いだり焦っているのでもないが、怪物じみた無尽蔵の体力に不要な胸懐を抱く。力とは、紛れも無くハイネが最も切望した存在である。望んだ力が、自分の功勲以外のところで手に入ってしまった失望は、それで多大な富を得てきたハイネだけに余計に気持ち悪かった。
無論、淑女への恨みを抱いた訳ではない。
人類と自分の惨状に行き場のない自責が降りるばかり。
クレアを殺す。
目的と手段の間に生まれた不和を、ハイネは痛感した。
「待っていろクレア。長かった我々のしがらみに、引導を渡してやる」
即刻に逸る気を噛み殺して、代わりに疲れを忘れた両の脚に力を加える。
不乱に進み続ける。
だが、宛のない旅ではない。
それは、あるいは吸血鬼の性質か、ハイネ自身も定かではない誘いに引っ張られていくように、囚われた視線が只一路を見据えている。
辿り着いたところまで明らかではないが、この悪路の先に在る確信を、ハイネは吸血鬼の性と疑うことを放棄した。血の運命が、ハイネを導くのだ。恐怖、ないし生と死すら超越した胸中の脈拍は、眷属の体に嫌にざわめく。ともすれば、それを宿命の嚮導と形容する外ない。
根拠のない確信を下に、もとい吸血鬼の肉体という最大の裏付けの下に、ハイネは悠然と歩を進めた。
確信故の、轟然たる、それでいて軽やかな足取りである。
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