第8話主君

 死とはつまり、敗北。

 当然、それ以外の結論に行き着くことも無いだろう。


 ハイネの祖先が、当然の如く淑女に殺され、それで尚生きるこの身が胡散臭い。否、所詮眷属の分際で生きているというのも、傲慢が過ぎる。


 淑女に負けたあの瞬間、ハイネは間違いなく死を体感した。

 確かに死んだのである。一度死に、淑女の手により生き返った。

 眷属としての力を得て、本来を潰えるはずのハイネの人生は続いている。歴史の一部から逸脱し、洞のみを残したそれを、生きているというのであればだが。


「貴様と同じだよ。やつは死に、私の眷属となった」


 単純にして分かりやすい答えである。


「ハ、ハハ……ハハハハ……」


 絶望したその表情で、虚偽の笑いは痛々しく響く。ハイネの心事に芽生えた感情が、ハイネ自身自己分析できないほどに目まぐるしく巡っている。

 嘘だと思い込みたいところだが、眷属となった自らの肉体が淑女の語る言葉を真実としてハイネに受け入れさせていた。


「実に、実に滑稽じゃあないか! つまりは、最初から我が一族は滅んでいたということだなあ!? この血に刻まれた高貴なる種族の証は、本来正しい歴史のもとに成立しない無粋で無様な証明か!? 何が英雄か、何が英雄の子孫か、誰が最強か、最初から全て吸血鬼の手によって創られた虚栄だ!」


 自分自身の存在を認められなくなる。

 この血に語り継がれる輝かしい歴史を、認めたくなくなる。


 物語の終着点としてなんとも陳腐な、滑稽な結末だ。

 ハイネですら、文字通り生きた心地の無いこの眷属となった体で、英雄として祀り上げられた祖先の滑稽たるやこれ以上聞くに堪えない。


 耳を塞ぎたくなった。

 一族が創り上げ、ハイネが導くはずの結末に汚れが連なっていく。否、最初から塵の積もった塊に過ぎないのだ。虚偽の笑いが忽然と生み出されてしまう。

 耳を塞いだ指の間をすり抜け作るような真実に、ハイネは世界の全てが唐突に茶番に見えてしまった。


「――ということは何か? この血には吸血鬼の血が流れていると言うことだな? それは面白い。吸血鬼の血が流れていれば力があるのは当然のこと。虎の威を借りただけの力を奮って、私は力を鼓舞し続けていたというのか。あまりにも、あまりにも滑稽じゃあないか!」

「それは違うかも知れんがなあ。吸血鬼の眷属となること事態、貴様の祖先の運と力が働いている。その血を継いで存続することもまた、貴様の一族に力がある証拠だ。何もそう悲観することは無いだろう。何よりも、貴様自身眷属となるだけの力があるということじゃあないか?」

「ならばなお更それは一族の力であって、私の力ではない。吸血鬼の血が流れる者が眷属になると言うことが、力の照明にはならない」


 ハイネの血に流れる吸血鬼の血。

 生まれる前と、そして今、二度にわたって同じ吸血鬼の血を注がれたハイネの力は、所詮仮初のものに過ぎない。吸血鬼の血を受け入れることが既に強者であるという照明が、ことハイネと、その一族には意味を成さなかった。

 淑女の慰めが余計に虚しいだけである。


「なんだよ。結局、私に笑って欲しかっただけなら、最初からそう言えば良かったじゃあないか」


 ハイネは暫くの無言の後、息を吐くようにほくそ笑む。


「……久方ぶりに啜った、吸血鬼の血のお味は?」


 淑女は喉の奥から搾り出したように笑い、御賞味を綴る。


「――ああ。実に不味かった」


 人間の血に飽和された血では、淑女の肥えた舌にはお気に召されない。



  ◆  



 淑女の皮肉を安らかに受け入れ、数十秒の、あるいは数十分にすら感じる沈黙をハイネは重苦しく飲み込んでいた。

 瞳を閉じ、考えていた。

 沈黙で張り付いた喉の乾きに唾を飲み下し、乾いた声で疑問を呈す。


「……教えてくれ、我が主よ。私は、これからどうすればいい?」


 余りにも漠然と、それでいてハイネの全てを司る疑問だ。

 眷属と成り果てた肉体には、一切の自由も相応しくない。

 否、あるいはただの偏見かもしれないが、これまでの生き様の中で得てきた名声や権力は、もはや淑女に支配された。

 何か命令がるのならそれに従い、死ねと言われれば素直に剣をこの腐った心臓に突き立てる。クレアへの純粋な殺意のみを残した心も、淑女の一言でたやすく捨てられるだろう。


 ただの忠誠ではなく、虚無に近い。

 クレアへの殺意以上に、ハイネの胸中を支配する虚無感が余りにも漠然と疑問を生みだした。

 何をすれば、ハイネの虚無は消滅するのか。


「……好きにするがいい。かつての貴様の祖先のように、何食わぬ顔で人間として生きるも良し、自由にしてもらって構わん」


 既にその感情すら曖昧ではあるが、期待を裏切るように投げやりな回答である。否、ハイネの質問からして他人任せだ。汚れた期待を持ち寄るには、端から無責任だった。


「これ以上私に、このハイネに、屈辱を上塗りしろと言うのか」

「ああ、そうとも。屈辱という恥すらも薄れた心で、そんなに強情になるなよ」


 羞恥の感情すら価値のない心に屈辱も何も、誇りに則った発言は、ハイネという人間として十数年と生きた人生が形成した人格からか。意味も無く口走ってしまった人間らしさが、淑女には可笑しく映ったらしい。

 僅かに口角を吊り上げてハイネを尻目に見据える。

 所詮眷属の分際で、思い返したように恥じ入った。

 その羞恥心すら、儚かった。


「ならば……ならば、貴方の名を聞かせてはくれないか」

「……私の名か?」


 淑女の復唱を、ハイネは静かに肯定する。

 淑女の生い立ち、宿命、一族との因果、裸にするくらい多くを聞いてしまったハイネは、その名に興味を持つ。今ここにあるハイネという存在が、ハイネたる所以、もはや名だけが残された虚無を共有したくなった。

 小僧と、高圧的に呼称する淑女の人間と吸血鬼としての距離感が、いささか気持ち悪い。

 人間としての生が腐り落ちたハイネの、侘しさなのだろう。ハイネにとって分かち合うことのできる存在は既に淑女のみ。

 人という人の全てを切り伏せたくなる醜い感情に支配される中、虚無から来る忠誠が淑女の名を聞き出そうとする。


「名前、か……。そんなもの、この歳の喰い方の中で捨ててしまった。下らない質問をするんじゃあないよ」


 絶望の中に生きる身で、永遠に続く命を何となく消化していくだけの日々。今こうしてハイネが詰め寄る以外に他人への興味は一切すらも欠乏した淑女が、所詮他人が他人を呼称するために持ち寄るだけの名前ごときに意味は見出さない。

 名があるとしても、その名を呼ぶ者は、他ならぬ彼女自身が全て屠った。


 あまりにも儚く、手もなくハイネの期待は裏切られる。

 何よりも、最も儚いのは、他ならない淑女自身だ。

 名前すらも捨て、生きる価値も廃れた命がこの先いつまで続くのかさえ、答えは見つからない。

 永遠の命、至上の快楽、それだけの物を手に入れてしまった生物はこの先何を求めていくべきか。血は呑んでも渇き、吸血鬼としての快楽さえ、何も残らない。

 淑女にとって名前とは、命にも、快楽にも成り得ない、ガラクタだ。


 ハイネは眷属として成すべき下命も授かれず、好きにするがいいと吐き捨てられた屈辱が忘れられなかった。

 ことハイネという人間が、これほどまでに意味を成さない疑問を持ったのも初めてだろう。死してなお意味も無く生かされた命に、悔いもなく逝けると高潮した命に、所詮ガラクタ程の疑問を呈する権利は無い。

 求める物の殆どを手にしてきた人生で、おおよそ手に入れることはできない内の数少ない一つ。

 あるいはそれは、クレアを超える力であり、淑女の名である。

 このハイネが未だ汚れなき肉体であるならば、そのどちらも飽くなき欲求のままに求めたことだろう。

 今となっては既に手遅れで、全てが掌から溢れていく感覚を真向に受け入れていた。

 掌の器に残された雫だけが、ハイネの縋るべき全てだった。


「……我が主よ。最後に一つだけ、問うても良いか」


 掌に縋るように俯いた顔は伏せたまま、疑問を呈することすら居た堪れない気に今ばかりは喝を入れ、喉下から唸らせる。


「期待する答えは保証しかねるが、無論構わん」


 長き時を生き、存分に養ってきた叡智に答えられない解も数少ないだろう。久方振りに、およそ記憶の限りよりも久方振りに、饒舌になった口は勢いを止めない。吸血鬼が人間の戯言を軽くあしらう本来の正しい姿さえ捨ててしまったのか、淑女の一言の肯定が多少ハイネの気を沈静させた。

 この場合、淑女は本来の形振りすらももう覚えていないという方が、あるいは妥当とも言えるのだろう。

 その上でハイネは、淑女の言葉通り、答えに期待せず問いを投げ掛ける。


「では問おう。何故貴方は、自らが怖いかと問うた時――我が名を、呼んだのだ?」


 名前すら、否、その身にでさえ価値を見損なったハイネが問う。

 眷属となった肉体や思考には、自分自身にでさえ興味を見いだせない。

 名前が名前としての性能を果たせない淑女の世界に、何を求められてその名を呼ばれたのか。

 ハイネ自身、ハイネという名を、かつて誇りを背負った一族の名を、嫌悪している。


「――一介の価値すらない、この我が名を」


 それは、ハイネの中に残された唯一の欲求と言っても過言ではないだろう。

 眷属故に生まれた淑女への忠誠心とは対局に、ハイネは淑女のことを何も知らない。この裏腹な感傷を満たすのは、言わば知識欲。欲求とも呼べる欲がそれだけであるが故に、無粋な借問が出過ぎた真似であろうとも、多少の強欲も許され得る。

 おおよそ、否、あるいは期待通りの答えを持って、淑女は重い口を開いた。

 饒舌だったはずの口が、長い静寂へと溶け込む寸前に、また途端に軽くなる。


「……さて、ね……あまりに長き時を生き過ぎると些細なことは覚えてられないものでな。たった数分前ほどのことも忘れてしまう哀れな吸血鬼の末路だと思え。そんなことは眷属となったその醜い肉体に習って、小僧も頭の中から消してしまうのが賢明だ」


 怖いかと問われ、一握の畏怖と同時に淑女の中にあった寂寞をハイネは確かに覚えている。あるいは、それこそ淑女とハイネの間にある時間という差だけが見せた錯覚なのか、もはや感傷的な節もなく不躾に受け流された。

 相も変わらず、このハイネを小僧と呼べるだけの威厳は残っている。

 頭ごなしに茶を濁すようにも見える推進を、ハイネは忠誠を重んじて認めた。

 もっとも、互いに見透かし合ったような口角の釣り上がりを、互いが隠せていない。


「それは、私の祖となる吸血鬼としての進言かね?」

「――ああ、そうとも」


 ならばハイネは、その意思に従わないわけにもいかないのである。

 虚偽だらけのこの世界に唯一人敬愛すべき主君の勧告を聞き流す手立てを、無知蒙昧の徒然り、ハイネは知らぬふりと掛けるのだった。

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