第6話目覚め

 意識の遠い部分で見た夢は、ハイネが現在最も望んでいる幻影である。

 自分の格好や辺りの風景ははっきりとしないが、ハイネはクレアと対峙していた。言葉も交わさず睨み合い、互いに剣の柄へと手を掛けている。夢であるというのに、呼吸の音だけが聞こえてきそうな静寂。幻影が、その未来が、ハイネの目には鮮明に映っている。どれだけ待ち望んだか分からないほど、狂おしく求めた瞬間だった。

 がらんどうの観客を除けば、それはあの日の試合と同じである。地面を蹴り上げ振りかざした剣を弾きあう。甲高い金属音はあの日と同じく耳に残り、余韻を味わう間も無く地面を再び蹴りだした。


 ただ、あの日と同じなのはそこまでだということだ。


 クレアの驚愕を耳に、ハイネは一気にその距離を詰め寄った。あの試合でハイネの手から離れた剣は、今もなおその手に握られ躊躇無く振りかぶっている。未だ残る金属音はハイネが振りかぶる耳元の他に、中空から徐々に地面へと迫ってきていた。クレアの手は、得物を失い虚無を掴む。

 ハイネの夢が描く幻想は事実を逆転させ未来を映している。夢の中でさえ感じる湧き上がってくる力を奮い、近い未来にハイネが掴む勝利。何よりも望んだ、その瞬間。

 その夢が描くのは現実だ。ハイネは心の中で強く唱えた。

 今は唯、この夢が覚めるのを待ちわびるとしよう。


 夢の中のハイネは、強烈な笑みを貼り付け剣を振り下ろした。



  ◆



 心地良い夢が焼きついた脳裏に、意識の淵で喘ぐハイネに声が届いた。その声が明確に耳に聞こえているわけではないが、徐々に覚醒していく意識で夢の終わりを実感する。やがて夢と現実の区別がつき始めたころ、ただただ口惜しい想いが募っていく。ハイネはまだクレアを葬ってはいない。なまじ夢という自覚があった分だけ、ハイネはその現実を受け入れるより眼を開いた先の状況を受け入れることの方に手間取っていた。


「――目覚めの気分はどうだ、小僧?」


 茶でも淹れようかと、優雅に微笑む淑女。

 まさに淑女然とした佇まいを、ハイネは鮮明に覚えている。否、むしろ覚えていることこそハイネに疑問を抱かせる原因だった。

 淑女の綻びの隙間を隠そうともせず垣間見える歯牙は、今となってはハイネの栄光の象徴である。

 忌憚無く言ってしまえば、何故生きているのか、と。

 ハイネの思考がめまぐるしく一点の疑問に揺らいでいるところ、まさに求めていた答えは淑女から吐き出された。


「頭を悩ませているだろうが、端的に言ってしまおう。小僧、貴様の体は吸血鬼となって蘇った。私の血をその体内に取り込むことで、所謂、我が眷属になった、というところか」


 淑女の微笑みに、ハイネは返すべき言葉すら浮かんでこなかった。

 命を与えられた感謝か、最強の生物の糧となる機会を妨げられた恨みか、あるいは未だ圧倒的な力を見せ付けるように佇む淑女への恐怖か。ハイネは悩んでいた。いずれにせよ、行き着く答えとしてはただの静寂である。

 疲れのような、体に残る異様な気だるさに、ハイネは身を委ねる。淑女が身を包むドレスと同じく、豪奢な装飾を施されたカーテンと、貴族として今まで使っていた物と同格のベッド。ハイネは体を起こすこともなく見つめている。言い様も無い虚無感のみが、ハイネの胸中を支配していた。


「正直のところ、貴様に……否、貴方に感謝を捧げれば良いのか、今の私には分からない。心のどこかに恨みがあり、同時に恐怖も残っている。その三つの心が混じり、私の中に虚無を生み出している。人間の脆さ、改めて痛感させてもらった」


 人間を超えた生物への、形容し難い敬意である。豪奢に目立つ装飾品が輝く中、相対的に埃っぽい天井の染みの一点を見つめながらハイネは呟く。淑女は微笑みを崩さぬまま、その力と同様鋭利な歯牙を誇るように一瞥した。


「別に、貴様の心根など求めておらん。力への敬意か、恐怖か、嫉妬か、大方そのどれか私に向けられたところで、一向に興味がない。……それよりも、だ。この胸に宿る薄汚い心を、見せて欲しいものだなあ」


 横たわるハイネに身を乗り出し、ハイネの胸へと細い人差し指の腹を押し当て淑女は迫る。乗り出した体はドレスの胸部から肉が零れ落ち、官能的な色香を振りまきながら膨らみが強調されていた。絶世の美女の誘うような肉質にも、ハイネの目は向かなかった。ただただ一点を見つめ、体で虚無を現している。

 ハイネは考えていた。

 実質的な死の直前に思い出した、直前まで思い出せなかった感情を、ハイネは思い浮かべていた。


「私が見た心は、生半可な感情ではなかったぞ? 小僧、数百年を孤独に過ごしたこの私に、その理由を聞かせてはくれないか?」


 百年に一人の才能が同じ時代に生まれ、明確についた差への嫉妬。

 たったそれだけのことが狂わせたハイネの人生。

 他ならぬ、クレアへの復讐心。

 何から語るべきか、何を語るべきか、語るべきか否か。一点を見つめるハイネの視線は揺らがず、はずことも出来ないまま無言が続く。静寂に向け淑女が投じた声には、低い声色を無視した異常な圧力が含まれている。


「似たもの同士のよしみに、この私が、聞いてやろうと言うのだぞ?」


 敬意も嫉妬も恐怖も分からないハイネには、淑女の圧力に逆らう気力すら持ち得ていない。再び落ちたひとしきりの静寂は淑女への反抗ではなく、ハイネが語る覚悟を決めるために要する時間だった。

 横たわる男性へ淑女が迫るようなこの絵面で、本人たちが背負う緊張感はあまりにも濃厚に張り詰めている。ハイネを襲う緊張は、絶頂に達している。


「私の復讐など、語るも無駄なほど下らない……それでも、宜しいのなら……」


 あまりも下らない復讐。否、ただの嫉妬。

 ハイネとて自覚している。ハイネが認めてしまう。復讐と形容するには、いささか幼稚すぎる。

 淑女の力に魅了され、今となってはハイネの中で小さく存在をしぼめていた。

 構わんと、淑女は一言で続きを促した。


「――私は、あらゆる才能を持ってこの世に生を受けた。剣、知力、権力を含め財力も、純粋な力にも恵まれた。それに見合う努力を積んだ自負もある。その全てで適わないと初めて感じたのが、事実上最強の生物である貴方だけだと言うほど、私には才能が溢れている」


 大げさなほどに、しかし紛れもない事実を謙遜もなく語る。聞く者によっては、間違いなく全て肯定するだろう。行き過ぎたようにも感じる自分語りと同時に、徐々にハイネの口調は熱を込めていった。


「その才能の中で他の誰にも負けない力と、誰にも負けない努力をしたのは剣だ。何よりも本気だった。負けるはずが無いと……まあ、自惚れていたのだろう。事実、こと剣において私は敗北を味わったことがなかった」


 忌々しげに表情を歪ませ、その名を告げた。

 認めたくはなかった、唯一の敗北。


「――ただ一人、クレアという男を除いて」


 復讐心は昇華し、言うなれば単純な殺意だ。否、復讐心が消化され、残ったのがただの殺意である。

 もはやクレアが生きていることすら気に入らない、それだけである。

 均衡した力の中、ハイネが優れる部分もあるだろう。唯の一手が届かないもどかしさと歯がゆさが、ハイネの嫉妬に火をつけている。

 クレアに対する嫉妬が、殺意が、余す部分もなく淑女に伝わったのか。そこから先の聞くに堪えないただの嫉妬を語らせまいとしたのか、ハイネの口から出るクレアへの嫉妬を淑女は察した。


「……なるほど、下らない」


 察した上でハイネの前置きなど構わず、淑女はただの一言で一蹴する。

 小ばかにするような態度で、ハイネへの敬意は皆無で、だが手厚く。続く言葉は、連帯意識に筆答するような慈悲に似ていた。


「だが、そんな物だろう。まったく下らないことに、つくづく我々は似たもの同士じゃあないか」


 淑女の煮え切らない復讐心と、ハイネの純粋な殺意。似ていると揶揄するには少々強引だが、本来の復讐という意図と噛み合わなくなった末路は同等だ。慈悲と受け取るのならば、ハイネの追い詰められた心事がそう解釈させただけである。

 ただの、単なる余興。淑女にとって愉悦に過ぎない。愉快な思考がこじ付けを招いたのだろう。世捨てとも形容できる、一族の復讐を背負った吸血鬼の末路は、面白ければ良いというだけの一心だ。かつて同じく抱いていたはずの復讐心は影を潜めたが、目の前でその復讐に捉われる男が嘆いている姿はあまりにも無様で滑稽である。よもやその男が人類の頂点とも自称しようとは、赤子の首を捻るように簡単に跪かせた手前、愉快にも程がある。淑女におよそ数百年ぶりに絶大な力を奮わせたハイネは、背徳感と優越感を、淑女の中に蘇らせてしまった。皮肉か否か、復讐がその心に蘇っている節は一つも見当たらない。


「何なら、謝罪の一つでもしてやるぞ? その自負を持った剣を簡単にあしらってしまったことか、私の一部となり損ねたことか。私なりの最上位の敬意だ」


 口頭と一致しない強情な態度だが、ハイネの心を見透かしたような二択を示す。


「……いいや、今はまだ謝罪は必要ない。むしろ感謝。こうして下らない復讐を語る口など、本来無かったのだから」


 ただし、あるいは、それは淑女への礼でもないのかもしれない。

 命を拾われたと言うには過言でもあり、言葉足らずで、だがそうとしか形容できない、たった一つの余興のためにハイネは生きながらえた。ハイネの本心が何れにせよ、奇麗事で言ってしまえば命を救われた事実は間違いないのだ。礼に相応しい言葉も見つからないが、打ち明けたことでハイネの中の洞も埋まった気がしていた。


「さっきも言ったが、貴様の心根など興味は無いよ。感謝など、それだけで浮かれて喜ぶほど、私も歳を食ってはいない。この永遠の命、伊達に世紀をまたいでは無いさ」


 軽口を叩く淑女の言葉が、にべも無くハイネに染み入る。

 忌々しさで凝り固まった心に、あまりにも容易く踏み入ってくる。


 あるいはハイネにとって、圧倒的な敗北と言う分かりやすい結果が、固執する思考に変化をもたらしたのだろう。ハイネは自分自身の執着心の下らなさを改めて悟った。

 クレアさえ居なければ、という自負を否定する強さが目前に佇む。

 その恐怖と共に、ハイネに形容し難い心強さを抱かせている。


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