第5話口付け
かつて自ら認めた敗北など一度も無い。吸血鬼を前に、平伏してしまうのだろうか。
ハイネは悠長にも自問自答を繰り返す。世間話に付き合ったよしみか、案外時間は残されているらしい。
あくまでも、現存する生物の中で最も強い個体の目の前に、ただ佇んでいるだけの時間を与えられているだけに過ぎないが。
「なんだかんだで私も吸血鬼でな。この数百年人間の街まで出歩くのは億劫であったが、この森を時たま散歩するたび魔獣の血を吸っていた。だが、あれはどうも不味くてかなわん。自ら戦場を引き下がった手前人間に手出しするつもりは無かったが、今尚も私には復讐と言う正当性が在るよなあ?」
今更引き合いに出すには暴論だが、吸血鬼と法が共有できるとは思えない。吸血鬼の誇るプライドの高さ故気に留められてこなかったが、淑女には今更気にすような体裁はなくなっている。あまりにも簡単に、あまりにも下らない理由で、淑女のリミッターは外れてしまった。
「久方ぶりの馳走を目の前に、どうにも体が火照ってしまっているらしい」
歯牙を剥き出し狂気の笑みを浮かべ、悦の表情のまま紅潮する。吸血と言う行為がそのまま死を表そうとも、体位も痛みも想像の上でしか成り立たない構図だが、ハイネはまさに死を体感した。御伽噺の漠然とした恐怖は目の前に佇み、だが、はっきりと恐怖として脅かしてくる。
与えられた時間を有効に使う手立ては無く、ハイネの思考が巡っていくたびに無謀な思いを抱かせるだけだった。悠然とハイネと淑女の距離は縮まっていく。
百年に一人の天才として生きてきた十数年。
この吸血鬼を前にして、才能も名声も、全ては無に来たす。
傲慢にも、あわよくば、いや、尚も勝てると言う自負はハイネの中に残っていた。胡散臭い、御伽噺、所詮は歴史。百年に一人の天才が臆するわけには行かない。気付けば剣の射程距離にまで縮んだ距離で、追い詰められた獲物は発狂する。
「――それ以上、近付くなああっ!」
自負がある剣には見えなかった。確かに、竦んだ一振りでさえハイネの力を借りれば一級品に成り立つが、本来ハイネが奮うだけの力は込められていない。怖じけた剣の弱さはボルキュス大森林に続く街道にて、クレア以外の三人が魔獣に押さえ込まれていた様を見ている。今現在、よもやハイネ自身が経験していようとは思ってもいなかった。ましてこの吸血鬼の前である。
積み上げてきた努力は勘違いに終わってしまう。
人間の間では賞賛されてきた才能も、今に限ればただの愚行だ。
街道では魔獣を両断した剣は空を薙ぐ音以外に、一切の音を上げない。
ただ鈍く、だが軽やかに、ハイネの剣は淑女の指先に吸い込まれた。か細い人差し指が妖艶に剣を誘う。剣は鉛でも切りつけたように重く、羽が撫でていったかのように軽く淑女の指先で制止する。一滴、指先から僅かに滴る鮮血がハイネの剣を這って、地に染みを作りあげた。そのままそっと摘み上げられた剣は、ハイネの騎士としての誇りを踏み躙るように放り捨てられた。
「人間にしてはなかなかに立派な一太刀だ。並みの吸血鬼ならば十分屠れるだろうよ。残念ながら、私を殺せるのは吸血鬼だけだ」
もっとも、他の吸血鬼は私の糧となってしまっているがなと、指先から流れる血を舐め取りながらハイネを嘲笑う。この場合、ハイネの一撃がたった一本の指で受け止められたことを驚くべきか、受け止めた手傷がたった一滴の血のみであることに驚くべきか。いずれも意味合いとして代わりはしないが、ハイネの心に洞を生み出す原因としてはあまりにも十分すぎる。
ハイネは振りかざしたはずの剣がその手に収まってないことに今更気付き、嘲笑を続ける淑女の顔を見上げ力なく崩れ落ちた。心も、頭の中も、ただ洞のみが支配していっているハイネの姿は、同僚たちに憧憬を抱かせた強き姿を忘れていた。クレアが与えたものが屈辱だと言うならば、絶望をも凌ぐ圧倒的な虚無。積み上げてきた努力の全てを貸せた剣があまりにも簡単に、無力を証明される。
そして淑女が改めて見せる狂気的な笑みに、ハイネは強烈な感動すら錯覚してしまった。
ハイネの首筋を躊躇無く捉えた淑女の眼光。卑しいまでに血を渇望している。喉の渇きを主張するつもりか、コクリと、小さく鳴った喉はこの期に及んで高貴な女性らしさを演出していた。既に調理済みの馳走を前にしてお決まりの挨拶もなしにがっつくのはあまりにも品に欠けるだろう。
既に捕食者の前に獲物として佇んでいるだけのハイネは、いただきますと、淑女の声を受け入れた。
誰よりも頂点として君臨することを望んできたハイネだからこそ、受け入れられる。クレアではない、唯一ハイネの上で君臨するに相応しいと認められる存在。淑女が激しく吸い上げていく首筋には激痛が走るが、ハイネは光栄とさえ思っていた。
ハイネに敗北を与えた二人目。勝者と敗者以上に、捕食者と獲物の力関係があまりにも明確に体現されていながら、不思議とクレアに対する憎悪と似た感情が一切浮かんでこない。
ハイネの血の滲むような努力を否定するクレアの人生に対して、吸血鬼の苦楽を呑んだ歴史がハイネの同情を生んでいるのだろうか。ハイネはそれだけで納得できるような柄でもなかった。
ただ純粋に、ハイネとクレアが束になったとしても届かぬ力量をまざまざと見せ付けられて、故にそれだけで納得できる、強引にでもさせてしまう圧倒的な力を前にひれ伏したに過ぎない。ハイネの誇り高いプライドでさえ簡単に押しつぶす力が、ハイネを押し倒し吸血している。その状況が、淑女の糧になることが光栄だった。
誰よりも求めた力を、誰よりも強い固体の一部として共存できる。ハイネにはこれほどにもない感動を与えながら、あまりにも無残に血が貪られる。
ハイネが絶命を自覚する間近、一点の後悔のみが心事に芽生えていた。
無意識に、無自覚に、強烈なまどろみに飲まれそうにもなりながら、ハイネは何かを求めて手を伸ばす。既に掠れた声がハイネの最後の言葉として弱弱しく口から吐き出していく。淑女は一興とばかりに、笑みを絶やさず首筋から顔を離して聞いた。
「私は、私はまだ……」
続きを言葉にするでもなく、虚ろな眼で拳を握る。握ると言うのでさえ虚弱に、淑女の背に回した腕で服を掴み振り払おうとしているのか、何度も淑女に触れては掴み損ねていた。小柄な淑女に馬乗りにされているだけの状況で、ハイネともある実力者が振り払うことさえ出来ない。それほどまでに衰弱した体で何を求めるか。
光栄と言う心が真実であれば、一点の後悔のみが刺激するハイネの生存本能も、他ならぬ真実である。
「クレアを……殺さなければ、ならない……」
自分の命が潰える時、ハイネはこれ以上に無い憎悪が生まれだした。
ハイネと言う存在が、復讐のひとつも完遂せずに人生を終える。例えばそれが子供の悪戯であれば、どれだけ可愛いものか。世の理というものが理不尽な部分である。この淑女の前では所詮、あくまで人間の種族間だけの狭い世界だということだろう。かつて歴史上にも見ることの出来ない逸材が目標も成し遂げられない人生とは、あまりにも酷である。
ハイネを嘲笑うか否か、淑女は小さく相槌のような声を投じた。
「――ほう?」
紛れもなく、興味を示しているのだろう。虚像の瞳から僅かな憎悪でも読み取ったのか、淑女はあまりにも明確にハイネの心を写し出す。
「復讐、か。……そんなもの、私のような奴しか生み出さんぞ」
淑女の自虐的な皮肉も、ハイネの耳には聞き取る余裕が既に無かった。それでも尚、まるで独り言でも綴るように淑女は続ける。数百年を孤独に生きた種族の、隠された歴史を象徴するような一面である。
「ならば良かろう。似たような大志を抱いたよしみに、私は機会を譲らざる終えない。唯の余興に過ぎないが、全ては小僧、貴様次第」
それは吸血鬼にとって吸血とは対照的な行為になるのだろうか。
ハイネの鮮血が深紅に染める淑女の唇。もはや品格を忘れ、だが上品に見せる仕草を振舞いながら、袖口で血を拭う。
官能的にため息を一つ吐き出した。
意識の遠い部分から語りかけてくる声をどう捉えたか。あるいは救いの言葉とでも受け取り、ハイネは抵抗を止める。
かすかにハイネの鮮血が残る唇に、淑女は持ち前の鋭利な歯牙をあてがった。狂気的にも、官能的にも見える破顔を一切崩さず、更に深く口端を吊り上げていく。トロンとした瞳でハイネを伺い、そして歯牙に力を加える。
淡い唇の柔い皮が弾けるように、吸血鬼の鮮血はその輪郭に沿って垂れていった。一筋堕ちた鮮血が色味の失せたハイネの顔に降りかかり、さながら涙のように這っていく。淑女は顎に伝う自らの血を指で拭き取った。
瀕死が明らかであるにも拘らず、またも独り言のように語り掛ける。
そっとハイネの頬に触れた手の指先は、ハイネの唇をなぞっていた。
「血を貪ろうともする最中に顔を離して、結果彼の者に興味を生じてしまおうとは。まったくわがままな吸血鬼だとも思わんか、小僧?」
血の口紅が死に化粧の如く彩る。
無論、ハイネの返事は無かった。そして淑女も返事を求めては居ない。幾度か交わした談笑も、相手が不在では流石の淑女も詰まらなそうに、化粧の施されたハイネを愛しそうな瞳で見据えている。
「その心が本物なら、生まれ変わってでも成し遂げて見せろ」
自ら放棄した復讐心のことは棚に上げ、ハイネへ語りかけた。
代わりとでも言うのか、忘れてしまった心をハイネへと放り投げる。
淑女の顔は死に化粧のハイネに近づく。淑女の唇が流した口紅に染まるハイネ。
絶世の美貌を誇る吸血鬼の
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