第3話吸血鬼・前

「……すまない、騒がせたな。今日はもうここまでにしよう」


 ハイネの姿もすっかり地平線に消え、ボルキュス大森林に続く街道には既に夜の帳が落ち始めている。

 クレアは表情に若干の陰りを浮かべながら、出発する前の教官の言葉に則って残る三人に提案した。


「いいのかよ、クレア。ハイネ、行っちまったぜ?」

「あれは俺がどう言った所で止まりはしないさ。いずれにしても、今追いかけるのは得策じゃない。もう魔獣が活発になり始めている。野営の準備を終わらせてしまわないと、俺たちの身まで危なくなる。ハイネなら自分の身くらいは守れるだろう」


 隊長として隊員の身も案じながら、クレアはハイネが進んだ街道に視線を送った。それは仲間への信頼でもある。ハイネと試合をしてきたクレアだからこそ、彼の力を信じられる。ハイネがクレアをどう見ているのかはともかくとして、紛れもなくクレアはハイネを宿敵と認めている。


「まあ、クレアが言うなら問題ないだろう。野営の準備くらい俺たちが頑張らないと、全部クレアやハイネに頼りきりじゃ拙いぞ」


 そう言って早速準備に取り掛かる仲間の姿を見て、残る二人が触発される。クレアは三人の姿に取り合えず一息つくことが出来た。その言葉もまた、ハイネに対する信頼でもあるのだろう。先の試合で見た憧憬の姿は、何も勝者であるクレアのみへの穢れでもない。二人の天才の美技には誰もが魅了された。その憧憬の存在が、簡単に野垂れ死ぬことはありえないだろう。

 ナルタート騎士学園に在籍する訓練兵の中、クレアとハイネの不仲は誰もが知る噂である。

 少なからず上から五人の実力者としてクレアとハイネに近い三人は、どれだけの憎悪を抱きながらハイネが過ごしているのか知っている。否、改めて思い知らされたと言うべきか、ハイネの貪欲に力を求める姿を三人は恐れるほど体感した。

 それでも、いかに憧憬の姿が崩れようと無くなりはしない。

 ハイネが持つ実力への、憧憬からの信頼だった。


「世話、掛けるな」


 こと野営の準備において、クレア以上に手際のよさを見せる三人に謝礼する。ハイネの行動を咎めないこともひっくるめた言葉だ。

 当然のことをしたまでで、クレアからの予想外の言葉に感嘆する。

 我らが隊長のお言葉に、三人はわざわざ否定することも無かった。


「……いいぜ。気にすんな」


 仲間の言葉に、何処かしらに残っていたハイネの心配も、クレアの中からなくなっていくのだった。



  ◆



 鬱蒼と茂る森の中に月明かりの光源は届かず、視界は木々に奪われる。どこか獣臭さが漂う森は、ナルタート騎士学園で訓練の一環として兵士たちを送り込まれた森である。

 既に日を跨いでしまっているのかもしれない。

 ボルキュス大森林の奥地にも至らない程度のちょうど良く空けた空間で、ハイネはその身を休めていた。半日以上歩き詰めた上で魔獣と剣を交えるのはさすがにハイネでも抵抗がある。無論、戦っても勝てる自負はある。このまま更に歩いて帰還しても、疲労を溜め込んだ体では余計に時間を掛けるだけだ。魔獣と戦うための余力も残しつつ、ハイネは物思いに耽っていた。


 怒りに身を任せて小隊から孤立したが、これでまた教官からの評価を下げかねない。否、もはや確立されたハイネの将来に、気に留める必要も無いのだろう。ハイネの力も、貴族としての立場も、いくらでも引く手がある。強いて言うならば、これでまたクレアと差がつけられることが気に食わなかった。もとより、一時的であれどクレアの下につくよりはまだ気分が良い。

 ハイネは忌々しいクレアの顔を思い出し、鼻で笑った。


「ふん、やってられるか。誰がアイツなんぞの下に……!」


 愉悦から生まれた笑いではなかった。言うなれば、怒りが気を悪くさせたのだろう。背中をもたれかかっている木の幹に軽く拳を打ちつけ、それだけで葉がざわめいたような気がした。

 この場合、ざわめきとはハイネが打ちつけた木だけではない。そもそもとして、いくらハイネの拳と言えど人間を遥か高くから見下ろすこの大木に十分な力は伝わっていかないだろう。

 木々が覆う森林は、どこかから送られてくる獣の遠吠えと同調するように震える。

 ちょうど良く空けた空間から続く獣道。ハイネが空間を見つけたときに出てきた道とは別の口から伸びている。

 ハイネは生物の気配を感じた。

 身構えるや否や、怒りの矛先を見つけたとばかりに湧き上がる喜色も落胆するほど、ハイネが持つ剣の柄から力が抜ける。訝しく歪めた表情とは対照的に、呑気な声がハイネの視線の先から上がった。


「――おや?」


 幼げで柔和な少女の声。

 木々の陰にその姿こそ見えないが、予想外の素っ頓狂な声にはいくらでも疑問が湧き上がってくる。

 何故こんな場所に、何故こんな時間に現れるのだろうか。ナルタート騎士学園の訓練兵にも騎士を目指す物好きな女性も居るが、本来半日かかるはずの道のりを休むことなく歩き続けたハイネを前にすれば、真っ先に上がってくる心当たりも簡単に否定される。

 この暗がりの中でハイネの姿を伺い見ているかのように、呑気な言葉は続いた。


「おやおやぁ?」


 さながらハイネを見定めているかのような、一方的に見られていると言う感覚はハイネに気色悪さを覚えさせる。ハイネからも曖昧な人影は獣道に見えてはいるが、この声は明確なまでにハイネを捉えている。それ以上に時間と雰囲気が呑気な声とかみ合わず、強烈な違和感がハイネに緊張を持たせた。

 姿を見せない以上対話も躊躇われ、改めて剣の柄を握り直して警戒した。


「久方ぶりの散歩で血の臭いに誘われて来てはみたが、なんだ、人間の小僧じゃあないか」


 血の臭い、と言うのはクレアの目の前で切り捨てた魔獣の返り血のことだろう。頬に付着したまま乾いた血に思い当たり、ハイネはそっとその感触を指先で確認した。乾いた血は微風に乗り、粉となって僅かに剥がれ落ちた。

 人間離れしたと言うならば、そうとも受け取れる、そうとしか受け取れないような言葉遣い。羅列する言葉に違和感は継続される。

 言葉端に伺える小馬鹿にした態度が気に入らずに、ハイネは声を荒げた。訝しげに歪めた表情が苛立ちを隠せていない。


「貴様は誰だ! 姿を見せるがいい!」

「まあ、そう怖い顔をするなよ小僧。私とて、何も姿も見せずにお喋りするつもりはないよ」


 尚も声から伺える態度は緩むことも無く、余裕が見える。自身の実力に対する確かな自負が恐れるものを排除してきたハイネの余裕も、この状況においては得体の知れない相手に対する警戒のため少なからず上回られているだろう。既に幾度にも及んで築き上げてきた名声から、王都の中ではクレアと共にハイネの名を知らない者も僅かばかりにしか存在しないが、このハイネを前にしてその余裕は愚かにしか見えなかった。

 それはクレアの目の前で切り捨てた魔獣と同様の蛮勇としか形容できない行為か、なにかしらの根拠に基づいた自信か。あるいはハイネの名も容姿も知らない低層階級の人間か。


 自身の言葉に則って、麗しき令嬢が獣道から姿を見せる。

 自身の正体を露呈する言葉を添えながら。


「すまないな。吸血鬼ヴァンパイアは夜目が効くんだ」


 幼げで、それでいながら冷笑的な雰囲気を感じる佇まい。成人を迎えたばかり程度の妙齢にも見える。

 月夜に栄える漆黒のドレスが、対極なまでに白い肌を包み込んだ。結い上げられた銀の髪に月の明かりが差し込んで、豪奢な着飾りに負けないほど艶やかに輝く。

 ハイネの両の瞳にはかつて見たことも無い美貌が飛び込んできた。ハイネの名声に近づくため言い寄ってきた女も数多く居るが、その比ではない。月明かりが美貌を際立てるように演出している。

 端正な顔立ちに張り付いた微笑み。

 深紅に染まった艶やかな唇から零れる八重歯が異様に、鋭利に尖っている。

 美しさの裏に隠れた、いや、美しさが霞むほどの本質が垣間見える。

 吸血鬼と名乗った、少女の姿はハイネに見目麗しさ以上の恐怖を感じさせた。


「……はてさて。私が外に出歩くのも珍しいものだが、ましてこんな場所で人間と出会ってしまおうとはな。小僧、何ゆえこの時間に出歩いているのだ? 夜は吸血鬼が最も好む時間ぞ?」


 高貴な佇まいを振舞いながら、淑女が口元を覆う。ハイネが恐怖を抱いた原因である鋭利な歯を隠すように、だがしかし、隠すつもりも無く更に口の端を吊り上げた。異様に発達した八重歯が、再び垣間見える。

 闇を吸い込む妖艶の瞳が愉快そうにハイネを捉えていた。


「吸血鬼、か……。もし仮に貴様が吸血鬼であるとしても、それはこちらも同じ質問だ。何故こんな時間に、いや、何故、この時代に生きている」


 ハイネはその吸血鬼の姿を訝しげに眺めながら、王都に伝わる書物の歴史を思い出した。


 歴史が語る吸血鬼の存在。

 数百年以上遥か前まで遡る。吸血鬼が生きた時代。それはたった一度、吸血鬼と人間の支配地を掛けた抗争。二つの種族は互いを殺し合い、数を減らし、やがて吸血鬼の滅亡によって決着はついた。吸血鬼は刈り尽くされ、人間は完全なる勝利を掴むこととなった。この一件により王都の警備は強固となり、より多くの騎士を求め始める。

 クレアはその風潮に巻き込まれた人間とも言えるだろう。このハイネに限って、クレアに同情などありえるはずも無いが。


 吸血鬼であるならば、その力は人間の比にはならない。吸血鬼の持てる力は歴史が語った。種族的に数の少ない吸血鬼は人間の絶対的な数と武器の数々に押し込められたが、個々の力は人間は劣る。

 ハイネはその歴史に恐れているのか。

 否、クレア以外にハイネは負けたことが無い。絶世の美しさも含め、唯の淑女に過ぎない少女の姿に恐れる部分は思い当たらなかった。ともすれば、ハイネの得体の知れない恐怖は何から感じているのだろうか。異様に発達している八重歯は吸血鬼であることの証明でもあるのだろう。それ以外に、他ならなかった。


「ハッハッハ! 私が生きていることは不思議か? そうか、あの戦争も既に数百年も前か。それは、そうだろうなあ。私も、長いこと外を出ていない」


 大口を開けて笑う姿は容姿と相応にも見えるが、相変わらず妙齢には聞こえない言葉遣いである。

 思い出した光景に浸っているのか、自分で納得したようにふむと喉を鳴らす。

 再び愉快そうに口端を吊り上げて、淑女は白い歯を零した。


「――では、語ってやろうて。我が一族の結末を、お喋りと興じようじゃあないか」


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