第3話 発端

「おーい、ユーマ。ご飯だよー」

 わかった。いまいくよ。

「ユーマ、剣の練習しよっか」

 うん。おれ、もっと強くなりたい。

「ごめんね、ユーマ。姉ちゃんが悪かった」

 姉ちゃんなんてきらいだ。

「ユーマ。姉ちゃん、旅に出てくる」

 もう帰ってくんな、クソ姉貴。

 姉は、そう言って本当に帰ってこなくなった。

 どこかで生きているかもしれない。そもそも死んだなんて噂は一度も聞いたことがない。

 それに、あんな絵に描いたような『殺しても死なな』そうな奴が、そう簡単にくたばるとは思えない。帰ってきてくれることを、本当は期待していたのかもしれない。

 それでもある日、家にある品が届いた。

 ──剣だ。

 姉貴がずっと愛用していた、剣。

 当時の俺は、それが何を意味しているのかさっぱりわからなかった。

 要らなくなったから、俺に押し付けるために送り返したんだろうって、それくらいにしか考えていなかった。

 姉貴のことは心配していない。実際に見なくたってわかる。姉貴は生きている──はずなんだ。

 だけどきっと違う。答えはわかっている。不安は拭えない。

 『万が一』が、『もしも』という邪念が、どれだけの月日を数えても払拭できない。むしろそれらは募るばかりだ。どうして自分でもこんな気持ちにならなくちゃいけないのかわからない。

 姉貴は姉貴だ。血の繋がった姉弟。顔も知らない両親を除いたたった一人の家族。


『やりたいことをやればいいんだよ、ユーマ』


 不意に姉貴の声が聞こえた。姉貴の言ったことはどれだって、一字一句覚えてる。それは姉貴が旅立つその日に言われた、そして自分が姉貴と最後に交わした言葉だった。

 姉貴に会いたいと思うなら、姉貴に会いに行けばいい。答えが出た。

 顔をあげた。そこには扉があった。

 ドアノブを握りしめ、扉を押し開く。

 暖かい風が全身を包み、光の海に、俺は飛び込む。


「──カハッ! ……はっ、はっ、はっ……」

「目覚めたか。寝相は悪くないみたいだな」

 息苦しさを覚えて目が覚めた。

 目覚めると同時に激しく心臓が脈打ち、呼吸を荒げる。まだ視界がぼやけ、景色が歪んでいた。

「まだ横になっていたほうがいいぞ」

「おま、え……何し……」

 目覚めたユーマの目に写ったのは、テーブルの席についてこちらを見下ろす少女の姿だった。

 まだ上手くその姿を捉えることはできないが、見たこともない少女であることは確信できた。どこかであったわけでも、手配書か何かで見たわけでもない。全く初対面の相手だ。

「……くっ」

 一旦少女から視線を逸らし、ユーマは自力で転がり仰向けになる。肺の空気が押し出されて、フッ、と息を吐いた。

 激しく損傷した傷跡を予想して自分の胸をまさぐってみる。何故意識を取り戻すことができたのか、わからない。だが、黒フードに穿たれた胸の傷は──跡形もなかった。

「治ってる……。呼吸も」

 服に破けた跡があったということが、黒フードとの始終が夢ではなかったことを決定づける。

 それ以上に、今まで失血で吐き気を催し、目を回していたことが嘘のように体の怠さはなくなっていた。

「ほぅ、馴染みが早いな」

「おい、お前。俺に何をした」

 ユーマは怒気を込めた声で少女に詰め寄る。

 確かに今、自分は死んだはずだった。

 胸のど真ん中に穴があいて生きていられる人間なんているわけがない。しかし、現に自分は息を吹き返し、こうして生きているのだ。

 そして、その瀕死の状態だった自分を救えるとすれば、この少女が何かをしたに違いない。

 死を経験した、ということよりも、あんな夢を見せられたことが何よりも不快だった。

 少女は感心したように笑うと、おもむろに自らの胸に手のひらを当てた。

「一言で言えば、契約だ」

「契約?」

「傷ついたお前の心臓と私の心臓、それを交換したんだ。もちろん、魔法でな。これで私とお前は命の鎖でつながったわけだ」

 少女は含めた笑いをユーマに向ける。

「どういうことだ」

「要するに、どちらかが死ねば、もう一方も死ぬ」

「っ、……は?」

 そう言って少女が手を握りしめた瞬間、思考が停止する。同時に妙な動悸がユーマを襲った。

 ドクンドクンドクンドクン。

 胸が握りつぶされるように苦しい。

 心臓が不自然な速度で拍動していた。頭を殴られたような衝撃が遅い、目もくらむ。

 歪んだ視界に少女のニヤリとした笑みが写った。

「これが契約。貴様の命をつなぎとめる鎖」

 胸の痛みは一層強くなる。

 あの少女が何かしているに違いないことくらい、悶えるユーマにだってわかる。だが、それを止められるような気力も湧き上がらない。もはや動くことすら出来ない。

 このままでは死ぬ。

 そうはっきりと頭のなかで死をイメージする。

「……っはァッ! はァッ!?」

「つまりはそういうことだ」

 視界が再び暗転しかけた所で、不意に呼吸が軽くなった。

 少女は握りこぶしをゆっくりと開き、ユーマに微笑みかけて言う。

 命を助けられたという借り。それは決して小さいものではなかった。

「どうして俺を助けた? しかも『契約』だ? 俺が突然死んだらお前も死ぬんだぞ?」

「あぁ、わかっている」

「全然わかんねぇよ……」

 突然の告白に、取り乱すユーマ。

 少女は全く動じず静かに頷いた。どこか肝の座ったそんな様子は、魔王的だったのかもしれない。

 立ち上がったユーマはそのまま少女の対面の席へと座った。

 どうして、たかが自分一人のために年端もいかない少女が命をかけたのか、ユーマにはまだわからなかった。

「それで、だが」

 ずい、と顔を寄せ、少女が口火を切る。

 この時、うっすらと視線を逸らしその着衣に目をやった。

 少女はダブダブの衣服を纏い、どこか肌も煤けているのが見て取れた。しかし、少女に見窄らしいという形容はとても似合わない。

 その少女には、気品があった。

 そこらの村人にはない、気高さ。プライドとも言えるものだ。単にささくれだった針のような心とは違う、全てを内包するようなイメージがあった。

「お前には一つ頼みたいことがある。それはとても重要な事だ」

「な、なんだ……」

 そんな雰囲気を感じさせる少女に、命を助けられたとあれば、何かしらの目的を持って近づいてきたということも十分頷けた。

 少女は真剣な眼差しでユーマの瞳を射抜く。少女の鋭い眼光が、ユーマの視線を釘付け、目を背けようすら思わせない凄みを感じさせた。

「私を……私自身を取り戻す手伝い欲しい。そして──」

 だが、掛けられたのは、優しい声。懇願に近い、悲痛な声だった。

「私に約束を果たさせて欲しいんだ」

「一体全体どういうことだよ。さっぱり話が飲めねぇ」

「簡単に言おう。旅に出る。今すぐに」

 ユーマの混乱をよそに、どんどん話を進めていく少女。

「私には約束がある。それはとても大事な約束なんだ。そう例えば──それが果たされないことがあれば、この世界の形が失われてしまうような……」

「いや、よくわからん」

 あまり大層な学のないユーマにはその七割も理解できないものだったが、つまり、少女は大事な約束を叶えたいということらしい。

「ちょ、ちょっと待て。第一にお前は誰だ」

 会話云々の前、少女の名を聞いていなかったことを思い出してユーマは口を挟む。

「なんだ? 依頼を受けないというのか。ならその心臓は返してもらって……」

「いやいやいや、そうは言ってないだろ。つか、契約ってそんな簡単に破棄できるものなのか」

「無理に決まっているだろう」

「…………」

「ふん。まあいい」

 少女は誇らしげに胸を張った。

「お前、勇者を知っているか? 前時代、その名をはせた史上最高最強にして勇敢なる偉大な剣士だ」

「知っているが……」

「そうか知らないか。ならば教えてやろう。ふふふ、私ほどかの勇者を知ったものもおるまい。勇者はな、優しい人間だった。それはそれは優しい奴でな、お人好しにも程が過ぎるほどだった。他にも、奴には大事にしている弟だか妹だかがいたらしいが、バカが付くほどの溺愛ぶりだった。たいして強くもないのに旅に出たいと粋がっては困らせられたと愚痴をこぼすこともよくあったな。だが、勇者は恐ろしいほど強かった…………ん? 今、知っていると言ったか? 何故それを先に言わない!? 余計な事まで話してしまったではないか!」

「お前が勝手に話し出しただけだ」

「むむ……」

 悠然と勇者について語りだす少女にユーマが呆れた視線を向けていると、少女は少し困った顔をする。勇者を知っているとはいえ、ユーマの知る事実はあくまで伝説として語り継がれている程度のものばかりだ。それに比べ、少女の言葉には勇者本人の内情に迫った言葉が多い。

 一体何者なのか。

 ユーマは不思議そうな視線で少女を見つめる。間が生まれ、両者は互いに沈黙する。そんな空気に耐えかねた少女は、唐突にポンと手を打って言葉を紡ぎだす。

「あれだ。お前、箱を届けられただろう」

「う……」

 ユーマの表情が歪む。

 当然だ。殺されかけた相手の話題を思い出させられて嬉しい奴などいるわけがない。それに、あの黒フードは今まで出会ったどんな人間よりも不気味すぎた。

 意識を失う直前に見た、黒フードの金色の目が脳裏に焼き付いてまだ離れない。いつまでもあのヘラヘラとした態度で笑われているかと思うと、無性に腹がたって仕方がなかった。

「あの箱の中身が私だ。そして私こそが──」

 少女は突然椅子の上に仁王立ち、胸を張って、

「かの勇者と戦った魔王その人なのだ!」

「え?」

 とんでもない言葉を平然と並べ立てた。

 例えば、きのこを食べたら実は毒キノコでした、とか、本物だと聞いて買ったものが実は偽物でした、と告白される時の心境に近い。近い──が、話はその何万倍ものスケールだ。

「なにを馬鹿な……」

 しかし、話が壮大になればなるほど真実味は薄れるというもの。

 やれやれと溜息混じりに首を振る。

「はぁ、もう忘れたのか? 私は瀕死、いや臨死のお前をここまで回復させてやったのだぞ? よもや、その魔法がいかに強力なものであるか理解できないわけでもあるまい」

 「…………。マジ?」

 ユーマの頬を冷や汗が流れた。

 『大きな出会いは突然訪れる』。いつか姉貴がそう言っていた。

 そんな他愛もない記憶のフラッシュバックが事実の重さを和らげてくれている気がしてならない。

「いやいや、ないない。こんなガキ同然の女の子が魔王なわけ無いって。魔王って言ったら、もっとこう……ドーンとして、ズーンと重くて、ワッシャーって感じのおっさんだろ。常識的に考えて。つか、復活って」

「ところがどっこい。嘘ではない」

 僅かな希望を打ち砕いて、少女はユーマの言葉を全否定した。

 少女の態度はわずかも揺らぐことはなく、その物言いが、嘘をついていないことを裏付けているようにも思わせた。

 そもそも、臨死状態の人間を治癒──半分蘇生させるような──魔法は、世界に生み出された魔法を全て網羅したといわれる『王都魔術大全』にも載ってはいない。

 それは人の命を弄ぶ禁忌の術だからだ。当然、その魔法を練り上げるのに必要魔力は膨大なものとなることだろう。噂では、死霊術師と呼ばれる禁術専門の魔術師がそれを使うとは耳に挟んだことがあるが、よもや信じているわけがない。

 だが、少女が仮に魔王だとすれば、その豪勢な着衣の点も禁忌の魔法を使用することが出来るという点も十分合点がいった。

 とはいえ、ユーマの想像上の魔王の姿とはかけ離れた容姿をしているが。

「じゃ、じゃあちょっと黙っていてくれ。今、気持ちの整理を──」

「あーーーーーーっ!!」

 ユーマが頭を抑えて息を整え、考えをまとめようとした矢先、耳をつんざくような甲高い声が家の中にこだました。

「ゆ、ユーマ! ……まさか、そんな小さい子を、誘拐!?」

 声が耳に突き刺さって痛みを生み出す。

 現れるや否や、開口一番に大声を上げ、更に人を誘拐犯扱いした犯人は、余分な突起のないすっきりとしたデザインの黒装束を纏った少女──エミリアだった。無駄に胸が大きく、凹凸の少ない黒装束に多大なインパクトを与えている。

「おい、あいつはだれだ……?」

 突然の来訪者に、魔王の少女は思わず困り顔で俺に問いかける。

「腐れ縁の暗殺者だ。よく家に不法侵入してる」

「ふむ」

「だめだよ、ユーマ! 犯罪だよ! お縄だよ! ハラキリだよ!」

 いきなり死罪かよ、と小さく呟いて、ユーマは来訪したエミリアへ薄く開いた目を向ける。

 自称魔王様の少女は置いておくとして、ユーマが突っ込みたいと思ったところは突然やってきたエミリアの立っている場所がいささか不可解なことだった。

 明らかに侵入経路が、玄関からではない。しかも、よりによって窓もない小屋の奥だ。忍びこむような場所なんてあるわけがないはず、なんだが……。

「久しぶりに何しに来やがった、エミィ。残念ながら、俺はまだ生きてるぜ」

「死にかけていたがな」

「…………」

 暗殺者だという事を念頭に入れ、ユーマは少し身構え気味に言う。

 すぐさま返された少女の相槌がひどく心に刺さった。

「べ、別に死んで欲しいとか思ってないよ!? ただ、殺せたら師匠が褒めてくれるかなぁって」

「同じだアホ」

 案の定エミリアに少女のボヤキは聞こえなかったようで。

「ユニークな友人を持っているようだな」

「ごあいにくさま」

「それで、ユーマ! その子はどこからさらってきたの? 人質か何かにして、どっかの要人でも暗殺するつもり?」

「違えよ。どうしてそうお前目線の会話しか出来ねえんだ」

「……? じゃあ、その子は暗殺の隠し玉? ちゃんと育てて一人前にしてあげるのか!」

 なるほど、と一人好適に解釈してエミリアは頷く。

「というように、暗殺のことしか考えていない単調な奴でね」

「なるほど」

「ちょっとぉ! 真っ向からバカにしたこと言わない!」

「はいはい」

「っ! おい……」

「あぁ、ごめん。なんだ?」

 エミリアとの会話の間に横から入り込むように、少女がユーマの服の裾を引っ張って声を掛ける。それに気づいたユーマは意識を半分エミリアに向けつつ、マオへ振り向いた。

 瞬間──

「伏せて!」

 エミリアの声が間近で響き、椅子から引きずり降ろされると同時に彼女の体重が上からのしかかった。後頭部に強い痛みを感じた後、女性特有の柔らかな感触と仄かな香りが鼻孔をくすぐる。連続して、激しい振動と爆炎がユーマの視界を埋め尽くした。

「……っ、一体なんだ!?」

 淡く霞んだ景色が眼前でゆらゆらと揺れている。

 椅子の上から激しく床に打ち付けられた衝撃で少し目が回った。

「あ、熱ッ!?」

 頬がチリチリと痛んだ。手で拭う。

 これは……ススか?

 そこでユーマの意識が完全に覚醒する。薄くぼやけていた視界が広がり、ついには周囲の景色が一挙に目に飛び込んできた。

 赤と黄色のコントラスト。

 それは熱。端的に言えば、炎だ。

 今までそこにあるべくして合った形が、今まさに一瞬の間で炎をまとい燃え盛っている。 壁も床も天井も。つい直前まで平然と座っていた椅子でさえも、メラメラと揺れる炎を纏っていた。

 混乱状態のユーマが直前に起きた出来事を理解するのに、そう時間はかからない。

「魔法による攻撃だ」

 目を覚ましたユーマに、少女のつぶやきが届く。その声に、ユーマは安堵の息を漏らす。

 つい先程まで話していた相手が目の前で死なれては後味が悪い事この上ない。

 声のする方へ目を向けると、少女は防御の魔法を展開していた。

 ユーマとエミリアを守ったのは、この魔法壁だったのだ。

「……五人。いや、ちがう。六人……」

 エミリアはつい先程までの雰囲気とは打って変わり、鋭い刃のような殺気を放っていた。それはまるで獲物を狙う獣の目。狩られる側ではなく、狩る側の目だった。

「────っ!」

 再び地面が揺れる。

 少女の目前には、新たな火炎弾が迫り、そして──手のひらの前で爆ぜた。

 少女が展開しているのは、空気そのものを硬質化させ、あらゆる物を遮断する魔法。いたって初歩的な部類に当たる魔法だ。だが、魔法をある程度熟練した者でも、その程度の防御魔法では破壊魔法の直撃を受けきるような強度を生み出すのは難しいとされる。

 自称魔王の少女の魔力がいかに強力であるかを思い知らされた。

「……すまないな。魔王である私が復活した今、再び私を封印しにくる者がいてもおかしくはなかった」

 自称魔王の少女は背を向けたまま悪びれる。

 ユーマには、何故かその背中がとても小さいもののように見える。心臓を、命を共有したからなのだろうか。感情が流れてくるように伝わってくるように思える。

 彼女自身、自分が復活した事自体、驚いたはずだ。一度は諸悪の根源として封印された身。利用されていると考えるのが普通だ。だけど、彼女はそれらを考慮した上でも果たしたい約束があると言った。その約束のためにどうやってか知らないが、あの箱に揺られここまでたどり着いた。成り行きということもあったが、命をかけてまで、自分を救った。

 『借りは返さなきゃダメ』だと、姉貴も言っていた。

 なら、それに答えないわけにはいかない。

 たとえそれが、険しい覇道となろうとも。

「大したことねぇよ。こちとら何でも屋。依頼完遂がモットーだ」

 ユーマは頬を拭って不敵に笑う。

「依頼主が魔王であれ年端もいかない少女であれ、これも依頼の一環だっていうなら、俺が手伝わない理由はない!」

「お前……」

 言うが早いか、飛び起きたユーマは地面を蹴りだしていた。

 少女の防御魔法の外へと一気に飛び出す。焼ける家屋の熱が肌を焼いていく。

「『お前』じゃねぇ! ユーマだ! 何でも屋のユーマ! 覚えておけ!」

 崩れていく我が家にそこはかとない虚しさがこみ上げるのもこらえて、ユーマは真っ直ぐに走る。更に火炎弾が体の脇を通り抜けていく。激しい熱波が全身を煽り、冷や汗が流れた。

 玄関から飛び出す間際に、玄関横のラックから愛剣を引き抜いていく。もちろん、姉貴から送られたあの剣だ。そしてそのまま、燃え盛る家から飛び出す。

「協力者だ! 殺れ!」

 まず聞こえたのは男の怒声だった。

 熱と外気が混ざり合い、生ぬるい空気が充満した外には、ローブを纏った魔術師と思しき人間。そして数は、今見えるだけで三人。

「行くぜぇ!」

 雄叫びを上げてユーマは爆進する。右手に剣を構え、猛然と突き進む。

 魔術師は、近距離戦闘インファイトには向かない。唱える呪文は簡易なものとは言え、精神をある程度集中させ、体内魔力器官『ウィーツェルコア』から魔力を練る必要があるのだ。

 もちろん例外は存在する。魔剣士や、召喚剣士というらしいが、それは極稀な例だ。ユーマ自身その類と出会ったことがない。

 そして何より、戦闘は経験が映える舞台でもある。より多くの戦場を経験し、精進したものが勝利をおさめる。それが世の常なのだ。ユーマには姉から日々教わった剣術という──経験がある。

「『イアカ、ム、エリフ』! くそ、当たらんぞ! どういうことだ!」

 魔術師達は、口々に火系破壊魔法を唱える。こぶし大の火球が魔術師の手の平から次々と発射され、空中を飛び交うが、ユーマはそれを全て見切っていた。

「そんなウスノロ!」

 広い場所でなら、直線を走る攻撃など避けるに容易い。ましてや、視覚しやすい火球とまできている。もはや、避けてくれと言わんばかりだ。

「ぐっ、がァッ!」

 遠くで別の悲鳴が響く。

 戦況を読んだ動き、そして手際の良さ。それはまさにエミリアの仕業に違いなかった。おそらくユーマとほぼ同時に行動を開始していたのだ。

 ユーマはニッと笑って心に競争心を灯す。

「クソぉ! 『イアカ、トラ、ディニ』!」

 魔術師の唱える術種が変化する。炎弾から、小規模の竜巻へと。風は地面の砂や葉、小石までも巻き上げて進む。直撃すれば、最悪家一軒吹き飛ばしかねない程の強風だった。

 さすがのこれにはユーマも退避を考えずにはいられない。突き進めば吹き飛ばされることぐらい目に見えている。

 ──だからこそ、突き進んだ。

「バカがッ!」

「────っ!」

 体が強風に煽られ、意識が明滅する感覚と共に、浮遊感を得る。

 足が大地から離れてユーマの体は完全に打ち上げられた。

 景色が瞬く間に移り変わり、森の木々を上から見下ろす高度まで一気に上昇する。

 計画通りだ、とユーマは笑った。

「そのまま落ちて死ぬがいい!」

 魔術師の一人がユーマを嘲るように言う。

 そして、それがそのまま彼の最期の言葉になった。

「────」

 音もなく、一人の魔術師の首が落ちる。

 落下を始めたユーマからはその景色がはっきりと見える。これでもかというほどにゆっくりと、頭が胴体から切り離される様子が見て取れた。

 魔術師の後ろには、どす黒い瞳を携えたエミリアの姿だ。

 幼少から生粋の暗殺者として育てられたエミリアには、それしかない。人を殺す術しか、彼女は持っていないのだ。

 かわいそうだろうか。いや違う。

 彼女は殺しを楽しんでいた。彼女にとっては殺しこそが人生の愉悦。快楽も同然なのだ。

 だからこそ、躊躇はしない。

「ぐぁっ!」

 もう一人、エミリアに手のひらを向けた魔術師から枯れた声が搾り出された。胸から刃物の刀身が覗いている。魔術師は呻くように息を吐いて、膝から崩れ落ちて仰向けに倒れた。

 ここまでの時間、わずか一秒にも満たない。

「ユーマ!」

「おっと?」

 燃え盛った我が家から、ススにまみれ黒ずんだ少女が這い出てきた。

 思わず掛けられた声に、空中を落下しているという状況に関わらず、ユーマは呑気に目配せする。大丈夫だ、とただそれだけ。

 最後に残った魔術師は、這い出てきた魔王の存在に気づき、早々にその手のひらを向けている。

「死ね、魔王! 『イアカ──』」

 魔術師の手に光球が集まり火炎をなしていく。

「『トラ──』」

 第二語が唱えられる。だが、最終語までは言わせはしない。

 魔術師の失敗は、打ち上げたユーマがただそのまま落下死するものだと思い切ってしまっていた事だった。ユーマは、すでに空中で体を整え、魔術師の真上からその首を掻っ切る算段を整えていた。

 そして魔術師の敵対した相手が、一度封印されていたとは言え、かつての魔王であるということも。


 ──エスネ、ム、リア!


 魔王の詠唱が、魔術師の速度を遙かに上回る。

 体内魔力器官から生み出された魔力を体外で練り上げる速さが段違いに速い。

 魔王を名乗るだけはある。驚異の速度だ。

 魔王が放った魔法の効果を受けたユーマの全身は薄くぼやけていく。存在自体が希薄に、空気と半ば同化した状態へと変性しだした。

 これならば、落下の痛みは伴わない。衝撃も何も。ただ剣を振りぬくのみ。

「おおおおおお!」

 重力に逆らわず、その力を上乗せして、ユーマは剣を振った。


 感触は思いの外、軽い。

 ユーマの振るった刃は、魔術師の肩口から脇腹にかけ、一閃の傷口をつけて走った。魔術師の体に刻みつけられた傷口からは、噴水のような血しぶきが舞う。刃が体を傷つけ走った瞬間から、すでに魔術師の意識はなく、絶命していた。

「……やれやれ。汚れちまった」

 魔王にかけられた魔法の効果がちょうどよく切れる。

 ユーマの全身、髪の先から指の先まで、希薄だった感覚が次第に戻ってきていた。

「ユーマ!」

 返り血を浴びた顔を嫌悪の表情で拭っていると、魔王が駆け寄ってくる。

 魔王は心配したような、無事を喜ぶようなどっち付かずの表情でユーマを睨んだ。

「よぉ、魔王様。お怪我はありませんか?」

「バカ者。お前、その命が私とつながっていること、よもや忘れたわけではないだろうな」

「ん、あぁ……。そうだったな──ッ!?」

 ユンッ、と風を切る音が眼前を通り過ぎる。頬を掻いて魔王から目をそらしていたユーマは、目の前を通り過ぎた死の感覚に思わず冷や汗を流した。

「危ねえじゃねぇか、エミィ……」

 ユーマの後方でカツンと心地よい音が響き、木に鋭利な刃物が突き刺さったことを理解させる。ふとした安堵の空気を一瞬で緊張させたエミリアは、鋭い眼光でユーマを見つめていた。同時に舌打ちのようなものが聞こえたが、気のせいということにしておこう。

「それで、どういうことなの!?」

 口元まで襟を上げ、相手を射抜くような視線の持ち主だったエミリアは、唐突に表情を豊かに変化させる。そんな本気で驚いた顔をしている彼女は、もう先程までの暗殺者としての姿ではなく、一人の少女だ。明朗快活で人懐っこい女の子だった。

 エミリアはそれを使い分けている。少女の顔と暗殺者としての顔を。

 少女というのは、他人の気を緩めさせる。無力で、愛らしい様相をむやみやたらに傷つけたがる人間など、一握りしかいない。だからこそ、武器となる。これも、エミリアの師ルキからの教えだった。

 ともあれ、それがたった今ユーマを殺害しようとしたことに対する言い訳には決してなりはしないのだが。

「ユーマの家が突然襲われるなんてただごとじゃないよ! 恨まれることはあっても、ユーマと関わりたいと思う物好きなんていないもの!」

「ぐはっ」

「それに、キントの村では『ユーマは死んだ』って噂だったし」

「…………」

「なかなかにお前もひどい仕打ちを受けているのだな」

 魔王は俺の腰をポンポンと叩く。

 慰めのつもりなのだろうが、端から見れば『年下の女の子に慰められる青年』という痛々しい構図が容易に想像でき、喜ぼうにも喜べないユーマだった。

「ま、いいさ。キントの村にはもう戻ることはない。俺はこれから旅にでるからな」

「……え? えぇっ!?」

「俺はこいつと旅に出ることになった」

 魔王の肩にポンと手を置き、宣言する。

「いや、話せば長くなる……わけでもないが。まぁとりあえずこいつから依頼を受けたんだわ」

「依頼って……何?」

「『力を取り戻すこと』だそうだ」

 エミリアの顔はみるみる青ざめていく。

 物凄い衝撃を受けたようだが、ユーマには理解できなかった。

「な、なに……それ。ユーマ、約束したじゃない! 私に殺されるって!」

「いや、一言も言ってねぇ。殺される予定もねぇ……」

「…………」

 きっと、自分と魔王の関係を話せば、エミリアはいきなり魔王を殺そうとしかねない。この情緒不安定少女を黙らせておくには隠し立てしておくのが最善策だ。

 ユーマは考えて、再びエミリアを見つめる。

 青ざめていた顔はいつの間にか血色良い肌色に戻り、なぜか予想外な笑顔を浮かべてユーマを見ていた。

「じゃあ、私も付いて行く!」

「はっ?」

 ユーマは真顔で聞き返す。

「私も付いて行く。じゃないとユーマを殺せないし、ルキ先生にも怒られちゃうよ。『殺すと決めた相手は必ず仕留めろ』。先生の教えだよ」

 こうなったらもう止められない。ユーマは肩をすくめてため息をついた。

 例えここで強引に断ったところで、彼女はついてくるだろう。そのための術を彼女は持っているのだ。それに、ルキに言われたとあれば、なおのことここでエミリアが引き下がるわけもなく。

「どうする」

「私は構わんぞ」

 魔王は値踏みするようにエミリアを下から見上げて言う。

「して、お前。死の覚悟は出来ているのか? この旅は死の危険を容易に伴うぞ」

 魔王の眼が怪しく光り、今までとは違う威圧するような声を出した。

「死の覚悟? そんなの、ルキ先生のところに弟子入りした時からしてるよ! ルキ先生のところじゃあ殺すつもりでやらないと殺されるもん!」

「まぁ……な」

 はしゃぐように返答するエミリアの姿を見て、ユーマはルキの姿を思い出しゲンナリする。

 一度会えば十分だ。二度と会いたくない。普通の人ならそう思う相手だ。何しろあの性格だ。サディスティックにも程がある。

 つまりはそれくらいユーマにトラウマを植えつけるような人だった。

 暗器の使い方を学ぶにしろ、ルキは手加減がない。一瞬でも気を抜けば、自分の体に刃が突き立てられることもあるという。現に面白半分でエミリアの修行を覗き見したユーマは、ルキの放ったナイフで頬に一筋の傷口を付けられ、怖くて逃げだしたのだ。

 エミリアの体にも修行の間についた無数の傷があるとかないとか。

「ね。それじゃあ私も付いて行くってことで決定! あともう一つ質問があるんだけど……」

「なんだ?」

「その子、『魔王様』って呼んでたけど、どういうこと?」

「あー、それはだな……」

「私が魔王であるということに他ならないが?」

 全く考えていなかった問いにユーマは困惑した表情を浮かべるが、魔王は何も隠すこと無くむしろ知らないことを恥ずべきかのように言った。

「そっかー。魔王様なんだ。名前はなんていうの?」

「名前? 名前などない。私は魔王だ」

「でも呼び名がないのは不便だよね。じゃあ、マオ! 『魔王』だから、マオ!」

「…………」

 誇らしげに言うエミリアがこちらに目配せした。

 安直やすぎないか、と心で毒づいてとりあえずユーマは頷く。

「ま、まぁ……それでいいだろう。好きに呼ぶがいい」

 魔王──マオがまんざらでも無さそうな顔をしているから、まぁこれでいいか。

 ユーマは肩をすくめ薄く笑った。

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