第3話 少女魔王

 チクリと痛みを感じて、勇者はわずかに眠りの底から浮かび上がった。


 何かを刺されたことだけはわかる。魔王か? それしか可能性はない。魔王の城はもはや無人だ。勇者と魔王ただふたりしか息をしているものはいない。


 刺された。だがこれでいいのかもしれない。


 勇者と魔王は相殺する。


 勇者が魔王を殺すのも、魔王が勇者を殺すのも、そこに何の違いがあるだろう。勝者も敗者もない。ただ互いを滅ぼし合うだけの存在に……。


 これでいいのかもしれないと勇者は何かを諦めた。


    *


 目覚めた勇者を、呆然と見つめる魔王の姿があった。


 いまやただの魔族の少女と化した魔王は手のひらに幾筋も切り傷を作って血を流して床にへたり込んでいる。


「なぜだ」


 出し抜けに少女は言った。


「なぜ刺せぬ」


 少女魔王は幾度も幾度も勇者を刃で刺そうと試みたができなかった。眠りこける勇者の首筋を切り裂くことなどたやすいはずなのに。



 それは勇者が死を遠ざけるほど強靭であったわけでも少女魔王が手心を加えたわけでもない。


 銀の縄で力と尊厳を奪われた魔王はいまや勇者に抗う手段を全て失っている。殺そうにも体が動かないのだ。


「おのれ、おのれ勇者よ! もうよい、このような生き恥を晒すくらいならば死ぬほうがよい。早う我が首級をあげよ」


 言われなくともそうするつもりだった。やはりそうしなければ事は決着しないのだ。


 ゆうに呼吸百回分の時間が過ぎた。


 少女魔王は生きていた。


 勇者は剣を収めていた。


「もう殺したくない」


 どちらかがそう言った。


 どちらが言ったのかはわからなかった。


     *


「勇者よ」


「何だ」


「このような経験は初めてだが」


「何がだ」


「私は腹が減っている」


「そうか」


「どうすればよいのかわからぬ。なにせ……」


「刃の身体だったから?」


「いかにも。食べるという行為を私は知らぬ」


「ぼくがお前に教えるのか? このぼくが、勇者が、魔王のお前に」


「他に誰もおらぬ。侍従も皆殺しにされたゆえな。勇者よ、お前にだ」


 勇者は口の中で小さく舌打ちした。魔王を殺す神兵である勇者は罪悪感を持たない。眉ひとつ動かさず万の敵を殺戮する。しかしいまや魔王は力なき少女であり勇者は勇者としての存在意義を失いつつある。


 魔王の侍従ごときに生きる資格はない。殺されて当然だ。しかし少女魔王の不自由がその結果であると思うと勇者は胸に逆らうものを感じざるを得ない。


 少女は少女にしか見えなかった。


     *


 殺し時を逸した勇者とすべてを奪われただの小娘に成り下がった魔王はただ何となく魔王城の大厨房にふたりして出向き、血にまみれていない食料を食べた。


「ネズミのようだな」


 少女魔王のつぶやきに勇者は思わず吹き出した。


「何がおかしい、勇者よ」


「お前も冗句をいうのだな魔王」


「ふん、よく言う」


「だがボロボロで傷だらけで、ひもじさに台所の野菜を齧るのは確かに勇者でも魔王でもないな。ネズミか、ぼくは」


「ふん。つまらぬ」


「そうだな」


 勇者と魔王は無言のまま食事を終えた。


     *


「最悪の気分だ」


「そうであろうな。よく似合うぞ勇者よ。魔族の将軍の私物だ。ありがたく着ておけ」


 もはや修復能力を超えた損傷を受け、勇者は着る服を求め魔王は無人の城を案内した。


 見繕われたのは魔王の部下だった者の服だった。


 殺すべき相手でありすでに戦いの中で滅ぼした敵の服を着るのは死者から剥ぐごとき不愉快さを勇者に与えた。だがボロ布同然の血まみれの服をいつまでもまとわりつかせているのはもっと不愉快ではあった。


「もういい、この際だ。水場か風呂はないか? 魔族の返り血を浴びすぎた」


「勇者よ、お前は勘違いをしているようだな」


「何を」


「私は魔王城の案内人ではない。気安いぞ」


「そうかい?」


 勇者は片眉をつり上げて、銀の縄の片側に神力を込めた。


「はあぁっ……!」


 か細い悲鳴を上げて魔王は床に這いつくばり指一本動かせなくなった。


「忘れるな。勝ったのはぼくだ。お前に絡みついた銀の縄はお前を虜囚とりことし禍々しき姿も剥ぎ取られる」


「うう……」


「今のお前はただの小娘で、ぼくの……」


 勇者はそこで急に神力を抜き、戸惑うように少女魔王の身体を眺めた。


「……お前はぼくの何なんだ、魔王?」


     *


 少女魔王はもはや力と尊厳を奪われたがなおも威厳のかけらを残し尊大であった。


 しかし銀の縄が魔王の復活を永遠に妨げ力なき少女で居続けることを強いるであろうことは勇者も魔王も理解していた。人界の威神力の全てを託された神具とはそうしたもので魔界の魔を結集させた魔王でさえ逃れられない。


 だが勇者には本能の恐れがあり銀の縄を解くことも端から手を離すこともできずにいた。


「勇者といえども悪夢からは逃れられまい。私は夢の中に現れるくらい混沌と同じもので出来ているゆえ」


「かもしれないな。でも過去のことだ。魔王、お前はもう誰の悪夢にも現れない」


「どうであろうな」


「何が言いたい」


「勇者よ、お前は私を知っている。娘の体の私ではなく、魔王の私を知っている。ゆえに恐れる」


「何をだ」


「私をだ。この娘の姿をした私をお前は恐れている。娘であり、あるいは娘ではないかもしれない。私は力なく、尊厳を失い、姿すら奪われた。お前が奪ったのだ。だからお前は私を恐れる」


「……ぼくが、恐れる?」


「そうだ。最も力弱き姿になった私にお前は縛られている。私が弱いゆえにお前は恐れる」


「何を言っている。お前はぼくとこの銀の縄に」


「いかにも。そのふたつが私を無力で哀れな娘に変えた。では問うが」


「……言ってみろ」


「勇者よ、お前はなぜ銀の縄を手放せない」


「それは……お前が万一反抗するかもと」


「反抗する? 私はもはや娘に過ぎぬ。そんな力はない。お前が奪ったのだ。そしてお前は忘れている」


 私は魔王なのだ――と少女はみだらに笑った。


「お前の帯びた聖剣でと我が首をはねてみろ。おそれは消えるぞ」


「そんなことをせずとも……もうお前は……」


 勇者の声はかすれた。勇者は自分の本心に気づき魔王はそのことを看破した。


 勇者には、少女魔王を殺す決意が失せているのだと。


 勇者は殺しすぎたことに気付いた。殺して、殺して、殺して辿り着いた魔王の城の玉座の間でようやく死の山に立つ己の姿に気付いた。


 手の震えが止まらない。


「ははは、愉快だ。縄で縛られているのは私だけかと思ったらそうではないようだ。縄を手放せないお前と縄でくくられた私。縄から逃れられないのはどちらかな、勇者よ?」


 勇者は答えられず、砕けそうな頭を抑えこむようにして髪の毛に手を突っ込んだ。


 魔族の返り血で固まった髪から、バリバリと音を立てて黒い屑が落ちた。

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