第10話 初瀬と早雪の章 その10

 山の日は沈むのが早い。あっという間にあたりは暗くなり始めた。南目指して歩いていたが、実際にそのとおりかどうかはわからぬ。ともあれここで一旦夜を明かす場所を見つけなくては。私はまだ日が残っているうちに休めそうな場所を探し、枯れ枝を集め、火が燃え移らないようにまわりの草を刈り、火を灯す。

「今日はここで夜明かしだ」

 私は二人に言った。初瀬が頷いて答える。

「うむ、仕方あるまい」

「火の番でしたら早雪に任せてくださいませ」

「頼む」

「食事はどうか? 足りそうか」

「これを食べたら終いだ」

 私は懐中食を取り出しながら言った。

「半分は残した方が良さそうですわね」

 早雪の言葉に私は頷く。

「ああ、全部食べたいところだが我慢しよう」

「うむ。どれだけの長丁場になるかわからぬ。一応の備えはしておくが良い」

 初瀬も言った。

「そうするか」

 私は二人の助言に従い懐中食を半分残す。食べ終わったのを見て早雪が言った。

「では食べたら休らいくださいませ。火の番は早雪が致します」

「申し訳ないがわしも休もう。おぬしと共に起きていると藤花の負担になりそうじゃ」

 初瀬が早雪に言った。早雪は頷く。

「そうですね。そうしてくださいませ」

「ではあとは任せるぞ早雪。こういうとき自分が情けなくなる」

「お気になさらず」

 その言葉を受けて初瀬は姿を消した。きっと私を気遣ってのことだろう。私も早雪の言葉に甘えて横になる。火は赤々と燃えている。やすらぎと暖かみを感じながら目を閉じる。疲労もあり私はあっさりと眠ってしまった。


「藤花様。藤花様」

 早雪の声で目を覚ます。周囲は暗く、火が燃える明かりだけが当たりを照らしていた。おろさく深夜。そんな時間に一体どうしたというのだろう。私は早雪に聞く。

「どうした、早雪」

「山犬ですわ」

「なんだと」

 慌てて私は気配を探る。確かに獣の気配と臭いがする。どうやら囲まれているようだ。

「火があればそうそう近づいてこないと思うが」

 私は独り言のように言う。

「ええ、ですが、気をつけてくださいまし」

「わかった」

 早雪の忠告を背に私は山伏の杖を手にする。何かあればこれで山犬を追い払うつもりだ。しばらく待ったが山犬はこちらを取り囲むばかりで動こうとはしない。やはり火を恐れているようだった。その間に私は枝と縄とそれから体に塗る軟膏で即席の松明を作る。これ以上近づくようならこちらに持ち替える。じりじりとした時間。襲ってくる睡魔。それらと戦いながら私は山犬の動向を窺った。すると。

「後ろです藤花様!」

 悲鳴にも似た早雪の声が上がる。振り返ると山犬がこちらに迫っていた。どうやら風下から襲って来たらしい。ならば風上の犬は陽動か。私はなんとか杖で山犬の第一撃を受け止め、そのまま離す。そして松明に火を灯した。周囲が赤々と照らされる。そして気づく、山犬の数。三、四頭はすでにこちらの側にいる。襲いかかる山犬に対し松明を振って私は応戦する。火を見て山犬は怯み、だが他の山犬に松明を向けるとまた襲いかかろうとする。そうこうしているうちに風上からの気配も強くなってきた。挟まれる。そう覚悟した瞬間である。凛とした声があたりに響いた。いや頭の内に直接響いた。

「止めよ」

 その声にひれ伏すように山犬は攻撃を止める。代わりに現れたのは足を引きずった一頭の大きな山犬である。山犬は私を見て頭を下げた。

「いままでの非礼を謝罪する」

「これは一体」

 また頭の中に声がする。突然のことにわけがわからず私が問う。

「私はこの山の神。あの怪異に傷つけられた故、群れの統制がとれなかった」

「では牝鹿の山の神が言っていた妹とはそなたか」

「おそらくは」

「そうか。すまない、助かった」

「感謝するのは私たちの方だ。あの怪異が暴れ回っていたお陰で私たちは飢えていた。お主を襲ったのもそのせいだ。この山を司る山の神として恥ずかしく思う」

「……」

 私が黙っていると山の神は言葉を続けた。

「お主に感謝する。私は怪我で何も出来ることはないが、せめて道中の安全は約束しよう」

「それだけで十分だ。ありがたい」

「では私たちは退こう。今日の働き、見事であった」

 そう言って山犬たちは姿を消した。しばらく経って私は息を付く。早雪も同じなのだろう、少し間を置いて私に言った。

「どうやら助かりましたね」

「ああ」

 私は頷く。事実その通りだったので付け加えることもない。そんな私を見て早雪が言った。

「ではおやすみくださいませ。やはり火の番は早雪が致します故」

「すまない」

 私は即席の松明を火の中にくべるとまた横になる。眠りはあっという間に訪れた。


 朝は靄の中だった。ひどく冷える。火はほとんど消えかけていた。早雪のせいではない。枝をそれほど集めていなかった私のせいだ。私は覆い被さるように火に当たる。そんな私に早雪が声をかけてくる。

「お起きになられましたか」

「ああ、火の番、感謝する」

 山で夜を明かしたにもかかわらず早雪のお陰でぐっすり眠れたのだ。感謝してもし足りることはない。

「靄が晴れるまで動けぬな」

「そうですわね」

 二人でそんな朝の会話を交わす。初瀬の姿はない。まだ姿を消しているのだろう。私たちは靄が晴れるまでしばらく待った。やがて靄が晴れてくる。私は動くことに決めた。立ち上がり火を消すと早雪と姿を消していた初瀬を促し南へ、南へと足を進める。


「……」

「……」

 一体何時になればたどり着けるのだろうか。今の自分たちはまだなにか山の神に囚われているのでないか。そんな不信感が押し寄せてこようとした頃。水が流れる音が聞こえてきた。私は叫ぶ。

「流水だ。下ってゆけば町に着くぞ」

「ええ、助かりましたわ」

「おお、やっとじゃの」

 三人で顔をほころばせる。はたして視界の先に渓流が見えた。図らずも南へ下っている。これは当たりだろう。私は一旦渓流の側で一休みして最後の懐中食を摂ると渓流に沿って歩みを進める。しばらく歩くと農家が見えてきた。気がつけばいつも世話になっている庄屋の家である。私たちは助かったと庄屋の軒先に転がり込んだ。

「どうしたんですかい?」

 尋常ではない様子に気がついたのだろう。若旦那が私たちを見て驚いた様子で言った。私は若旦那に問いに答える。

「山を一日さまよっていた」

「なんでまたこんな時期に山へ?」

「それは……修行のようなものよ」

 一瞬考えて私は言った。まさか怪異の力を町に呼び寄せようとしているとは言えない。

「へえ、旦那も色々大変ですな」

「とにかく茶をくれまいか。自分の修行不足を思い知った」

「へえへえ、いまお持ちいたします」

 私が言うとどこか優越感にかられた様子で庄屋の若旦那は茶の準備を使用人にさせる。やがてお盆に乗せてきた湯飲みの数を見て私は訝しむ。

「ん、私だけか?」

「旦那の他に誰がいらっしゃいますので?」

「……それもそうだな」

 あとで文句を言われそうだなと思いながら私だけ茶をごちそうになる。気がつけば初瀬と早雪は私の視界からも消えていた。しばらく雑談などをして疲れを癒す。鎌鼬の話もしてあれから被害が出ていないことに安堵する。そうこうしているうちに日も傾いてきた。私は庄屋の家を辞すことにした。

「なんなら泊まっていってもいいですぜ」

「いや、家には帰らぬと。しばらく開けていたのでな」

「そうですか。まあこのあたりでは物取りはいないとは思いやすが、旦那が言うならお気を付けて」

「うむ。すまない。世話になった」

「いいってことですよ。ああそうでした肉が手に入ったので持っていきますかい」

「ありがたい。では貰おうか」

 私は肉を貰い庄屋の家を出る。また思わぬところで福があった。敷地を離れるとすぐに初瀬と早雪が現れて予想通りに文句を言う。

「なんじゃ。おぬしだけ茶を飲みおって。それに肉まで貰いおって」

「まったくですわ。ずるいです」

「しかし、姿を現わさなんだのはおぬしらではないか」

 私も二人に文句を言う。

「それはそうじゃが」

「藤花様は家に幼子を二人も囲っていると噂されたいのですか?」

「それは困るな」

 それは本当に困るので私は早雪に言った。

「でしょう。早雪もこの姿はあまり人には見られとうございませぬ」

「うむ。初瀬もじゃ」

「ではどうしようもないではないか」

 私はぼやく。

「そうじゃ。どうしようもないことをわしらは言っておる」

「ひどい話だ」

 初瀬の言葉に私は唸る。また初瀬が口を開いた。

「うむ。まあ言うだけ言って気は済んだ。家に帰ってから茶と茶菓子でも出してくれればわしはそれでいい」

「早雪もそれでいいですわ」

 初瀬の言葉に早雪も同意する。私は了解した。

「わかった。庄屋で休んだ分、私が働こう」

「そうしてくれ。ほれ、おぬしの家が見えてきたぞ」

「白壁もさらに力を取り戻しているようですわ」

「そうか。そう考えると無駄ではなかったな」

 そう言った所で初瀬が話題を変える。

「ところで山にはいつ向かう?」

「明日、いや明後日だな」

 私は自分の疲労を考えそう判断した。無理に動いても何も良いことはない。

「遅くて山の神が気を悪くしないでしょうか」

 早雪が山の方を見て疑問を発する。私は早雪の方を見て答えた。

「そこまで度量は狭くあるまい。よし家に着いた。初瀬の言った通りおぬしたちに茶と茶菓子を用意しよう」

 もちろん私も食べるつもりだが。そんなことを思いながら私は家の敷居をまたぐ。


 早速茶と茶菓子の準備をする。肉をしまい湯を沸かしている間に私は衣服を脱ぎ汗と汚れをぬぐうと服を着替えた。とてもさっぱりとした気持ちである。山で着た衣服はみな水につけておく。明日踏んで絞って干そうと思う。そうこうしているうちに湯が沸いた。私は茶の用意をして座敷へ向かう。

「おお、待ちかねておったのじゃ」

「すまないな」

 私は二人の前に茶と茶菓子を置く。そして自分の分も。皆で座り込んで一息つく。

「生き返るの」

「まったくですわ」

 二人は茶を飲み茶菓子を食べ歓談する。私はと言えばすこし、いやだいぶ眠くなっていた。茶を少しすすったところで限界だった。私は茶を脇に置き倒れ込むようにそばにあった布団にくるまるとそのまま意識が遠のくのを感じた。


 気がつくとすでに日は落ちていた。真っ暗な闇の中、二つの暖かい肉体が私にぴったりと寄り添っているのを感じる。初瀬と早雪か。私は二人を自分のものにするかのように抱きしめる。疲れていて体の節々も痛かったが、どこか気持ちが良かった。早雪と初瀬が僅かに身動きする。それがどこかこそばゆい。二人の熱い息を両側から感じると、また眠気が襲ってくるのを覚えた。このまま眠ってしまおう。私は目を閉じ、安らかな睡魔に身を委ねた。

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