第8話 初瀬と早雪の章 その8
疲れた。だが心地よくもある。今日は朝餉を抜きにして市で買い求めた物を昼に食そう。そう決めて私は台所で湯を沸かす。台所で茶をすすり、座敷へ向かった。早雪は茶室でぐったりしているはずだ。座敷にいるのは初瀬だけである。
「初瀬、起きているか」
「……うむ」
やはりまだ昨日のことを引きずっている様だ。私は座敷のふすまを開けた。初瀬は広い座敷の中でぼんやりと座っている。
「何をしていた?」
「うむ、考え事よ」
「傘をくれた御仁は思い出せぬか」
私は聞いてみる。即答が帰って来た。
「うむ。どうしても思い出せぬ」
「そうか。今日は市に行こうと思う。初瀬はどうする?」
「何度も言った。お主とは離れられぬ」
「いや望まぬなら家でのんびりするまでだ」
私が言うと初瀬は今日初めてこちらを見た。
「そうされてはわしの気が済まぬ。おぬしも根菜と漬け物ばかりでは食事に飽きよう。わしも市へゆく」
「でしたら早雪も参ります」
その言葉と共に座敷に早雪も入ってきた。
「早雪、もうよいのか?」
初瀬は全て承知の上だったようだ。早雪に呼びかける。
「ええ。藤花様が存分になされましたので」
「そうか」
あっけなく初瀬は言った。僅かに苛立ちを覚える。初瀬ももっと自分を求めて欲しいとも思うのだ。だが今ここで言うのは憚られた。私がそんなことを考えているうちに初瀬は立ち上がり私たちを見回し言った。
「ではいつも通り三人で参ろうか」
「はい」
「……」
「藤花様?」
「ああ、わかった。三人で参ろう」
やはり初瀬の言葉にはこの間までのような気力が欠けていた。だがそれを取り戻そうとする努力も同時に感じられた。それがひどく辛い。
(哀れだな)
ぼんやりと口には出さずに思う。私としては可能ならば初瀬の記憶を取り戻してやりたい。
三人で市へと向かう。私と早雪は横に並びやや遅れて初瀬が歩く。とはいえやはり他人が見ればどう見えるかは私にはわからぬ。
「初瀬の忘れかけた思い出を取り戻そうと思う」
その道すがら私は横に並ぶ早雪に相談してみた。だが反応は余り良い物ではなかった、早雪はわずかに声をひそめて言う。
「やめておいた方がよろしいかと」
「なぜだ。あんなに苦しんでいる初瀬は見たくない」
私も早雪に倣い少し声をひそめる。
「怪異の過去を掘り起こしてもいいことなどありませぬ」
「そうやもしれぬ。だが」
「代わりに、よい思い出を作って差し上げるのがよろしいかと」
「それでかまわんのか? 早雪にも何か思い出したい事柄があるのではないか?」
「無いといえば嘘になりますが、それもまた自分で忘れた事柄です。誰を責めるわけにもまいりませぬ」
「ふむう。そのようなものか」
私は早雪の言葉に腕を組んだ。早雪は言葉を続ける。
「ええ。早雪など昔のことなど思い出したら、闇に落ちてしまうやも知れませぬ。怪異は過去に囚われやすきもの。ゆめゆめお忘れ無く」
「すまない、早雪」
私が言うと早雪は微笑む。
「いいえ、いいのです。藤花様には返しても返したりない借りがあります故。また愛してくださいまし」
「ああ、そうしよう」
「うれしゅうございます」
私がそう言うと早雪は体を私におしつけてくる。さすがに見かねたのか後を歩いていた初瀬が声を上げた。
「これこれ、わしの見ている前であまりじゃれつくな」
「初瀬もじゃれつけばよろしいのでは?」
早雪が初瀬に言う。
「そんな気分ではないわ」
「あらあら。藤花様も寂しがっておりますよ」
「やかましい。そんな気分ではないと言っておろう」
「怒っている方が初瀬らしいな」
私は小声で早雪に言った。
「そうでしょう。少し元気が出ましたか?」
早雪は初瀬ではなく私に言葉をかけてくる。
「……すまん」
私は早雪が私のためにわざと初瀬を怒らせていたことに気づいて謝罪の言葉を出した。
やがて人のざわめき声が遠くから聞こえてきた。どうやら市はすぐそこらしい。私たちは歩を進める。やがて人の流れが見えてきた。
「つきましたわね」
私は無言で頷いた。時間が遅かったせいか、市はだいぶ閑散としている。それでも川魚や海の干物を取り扱う出店がまだ残っていた。私はそれを金子で求める。それと葉野菜を少々。人が行き交う市を早雪は面白そうに、初瀬はどこかつまらなそうに歩く。用件は意外とあっさり済んだ。私は和傘などはないかとあまり長くもない市を端から端まで覗いてみる。しかし和傘はおろか洋傘を取り扱っている出店はなかった。私は若干気落ちしたが、小さな町の市である。これでも十分すぎるほどの成果はあった。なにより魚が手に入ったことが大きい。と、一個の屋台の前で初瀬と早雪が足を止めている。どれどれと覗いてみると何のことはない、ただの箒を取り扱っている出店である。しかし何か思うことがあるのか初瀬は一個の箒をじっと見つめている。そして早雪はそんな初瀬を面白そうに眺めていた。
「主人、その箒を貰えるか?」
「へえ、もちろんで」
私は初瀬が見ていた箒を買い求める。初瀬の顔が喜びに変わるのが見て取れた。
「この箒にいわれなどはあるのか?」
私は商人にいつもの癖で聞いてしまう。商人は明るく声を出した。
「馬鹿言っちゃいけませんな。ただの箒でさ」
「ふむう」
ではなぜそれに執着するのか。あとで縁があったら初瀬に聞いてみようと思う。ともかくこれで用事は済んだ。私たち三人は市を後にする。朝を抜いてきたので腹が減った。
帰りすがら、私が箒を持っていると初瀬が話しかけてくる。
「どうして箒を買ったのじゃ?」
「おまえが欲しそうにしていたのでな」
「そうか。おぬしにはそう見えたか」
「うむ。違っていたか」
「違いはしない。その箒は良いものぞ。わしにはわかる」
「どういう風に良いものなんだ?」
「福を呼び込む箒じゃ」
「ほほう」
私は唸った。初瀬は意を得たりと言葉を続ける。
「まれに出回る逸品よ。大事にするが良い」
「おまえにやろうと思っていたのだがな」
私が言うと初瀬は軽く笑った。
「それはもったいない。藤花が自分で使うが良かろう」
「ふむう」
まあ福を呼び込む物ならば持っていても悪くはないだろう。しかしこれではやはり傘の代わりにならないか。それを思うと少し残念であった。そう思っていると初瀬が言う。
「藤花よ、気遣いは無用じゃ。それにあの傘に代わるものなど無い」
「だが、それではこちらの気が収まらぬ」
「案ずるな。それより五つ辻を見に行かんか。どうも昨日からあそこが気になるのじゃ」
「早雪はどうか?」
「早雪はいつでも行けますが、三人で見る五つ辻も趣(おもむき)があると考えます」
「では決まりじゃ」
私の代わりに初瀬が言う。私もそれで良かったので否やはなかった。それに初瀬が元気を取り戻したことが嬉しくもある。やはり初瀬の言う通りこの箒には福を呼び込む力があるのかも知れない。こうして私たちは少し寄り道をして五つ辻に向かう。
「かなり力が戻っているようだな」
五つ辻に入るなり私は言った。確かに今の五つ辻には力が充ち満ちている。
「でも完全ではありませんわ」
「まだ上があるか。実に大した地じゃの」
早雪の言葉に初瀬は驚いたような声を出す。
「ええ、本当に良い地なのです。初瀬も早く住まいましょう」
「うむ。そうしたいのは山々じゃが、まだ二人分にはほど遠い。わしが入ればすぐに枯れてしまうじゃろう」
「そのために藤花様にお願いをしているのですわ。藤花様。いかがでしょう。増築とやらはいつ頃行えますか?」
早雪が言ったので私は簡潔に手段を説明する。
「うむ。まずは脈を探らねばならぬ。それは占いで出す故、見聞こそ必要ないが時がかかる」
「そして?」
「見つけたらここに力を呼び込む。そのために道を作らねばならぬ。これは歩いて辿る必要がある」
「見つけて道を繋げる。温泉みたいなものでしょうか」
「確かに似たようなものだ」
私は早雪の言葉に同意して言葉を続ける。
「とにかくすぐは無理だ。焦らず取りかかりたいと思う。それでよいかな」
「早雪はそれでかまいませぬ。ああ、早う初瀬と住みとうございます」
早雪が言うと僅かに初瀬が身をよじらせる。
「なんじゃか背筋が少しむずがゆくなったぞ」
「気のせいですわ」
「そうかの」
「初瀬はどうか?」
私はなんだかむずがゆそうにしている初瀬にも尋ねた。
「おぬしが構わんと言うならわしは構わんよ。じゃがなるべく早くで頼む。おぬしの命はうますぎて困る」
「そうか。急ごう」
私は頷く。だがとりあえず今は腹が減った。私は二人に言う。
「では家に戻ろうか。私は腹が減ってかなわぬ」
「そうですわね」
「それがよかろう」
二人はそれぞれに言い、私たちは五つ辻を後にした。
昼は川魚を焼いたものにしよう。私はそう決め、川魚に塩を振り串を刺して火の側であぶる。ついでに久しぶりに味噌汁を作った。作ったそばからいただく。久しぶりの魚に体も心も満足してくれる。さて午後はどうしよう。早速脈を探る準備をするか。私はそう決め、また占いの道具を引っ張り出す。まずは時を探らねばならぬ。占いのための占いとはよくよく考えれば奇妙なものだが、いままで不思議に思ったことはなかった。時を探る。意外と早い。今日の亥の刻と出た。
出てしまえば後は退屈なものである。私は湯を沸かし茶を入れる。残念なことに茶菓子を切らしていた。欲しいところである。調達に出かけるか。私はそう考え、座敷に声をかけに行くことにする。
「初瀬に早雪、おるか」
「なんじゃ?」
「はて何用でございましょう?」
返事があったので私は座敷の中へ入った。綺麗に並べられた布団の中、二人はぼんやり座っている。私は用件を言った。
「うむ、実は茶菓子が切れたのでこれから求めに行こうと思う。おぬしらに断っておこうと思ってな」
「茶菓子か。あれはうまかった。同じ物か」
「ああ、そうだ」
私は言った。初瀬と早雪と出会ってすぐに茶菓子を出したことを思い出す。
「ならばいかねばならん。しかしわざわざ断りに来るとはおぬしもまめな奴よ」
「早雪も参りましょう。ここで暮らしているのに実はあの茶菓子はほとんど口にしたことはありませぬゆえ」
「ここの茶菓子はうまいし日持ちするしありがたい。ここに来て二番目の良き出会いだ」
「一番目は何でしょう」
「それはもちろんおぬし達だ」
私は言った。二人はしばらくぽかんとしていたが、やがて初瀬が声を出す。
「藤花は真面目な顔でたまにとてつもないことを言うの」
「まったくですわ」
私の言葉に頬を染めて二人が言う。
「では二人ともついてきてくれるのだな。では参ろうか」
「はい」
「うむ」
その言葉と共に私は二人を連れて町はずれの和菓子屋へと向かう。
「どうしてあんなにおいしい菓子なのに町外れに店があるのでしょう」
「水が重要と聞いた。それにこの町にはさほど菓子の需要がない。山を越えた向こうの海町に菓子を卸していると聞いた。ならば町外れの方が海には近い。そんな理由ではないか」
「なるほど、そのようなものか」
「そういうものだ」
道中そんな会話をして歩く。和菓子屋にはじきに辿り着いた。金子で干菓子を買い求める。それと干し柿があったのでそれも。干し柿など庄屋でも手に入るが、やはり和菓子屋の方がひと味もふた味も違う。実は我が家にも柿の木はある。渋柿だが。渋抜きをして干すのが面倒なのでそのままである。とはいえ、見栄えが悪いのでいずれ木守りを残して実を取ってしまわなくてはなるまい。いずれ行うつもりだ。いずれ。
「良い買い物をした」
帰り道、荷物を抱え二人に言う。すると道を覚えていたのか初瀬が言った。
「そうじゃの。ところでこの道だと庄屋にも寄れそうじゃの。そちらはどうする?」
「一応顔を出しておこう。鎌鼬退治も終わったことだし。報告せねばならぬ」
「それがよろしいでしょう」
「うむ。では行こう」
私たちは分かれ道で庄屋のある方へ歩を進める。やがて馴染みの庄屋の屋根が見えてきた。
庄屋ではやはり根菜を求める。今日は肉はなくても構わない。そして若旦那に鎌鼬の件について報告した。
「ほう、もう退治なされたので」
驚いたようにそしてどこか訝しげに庄屋の若旦那は言った。気にせずに私は言葉を返す。
「ああ、昨日行ってきた。もう被害はでないとは思うが」
「ええ、とりあえず新しい被害の連絡は入っておりませんや」
その言葉に少し安心する。私は言った。
「ならばよかった。しばしこのまま様子を見よう」
「しかしたいしたものですな。さすが帝都でその名を轟かせただけある」
「やめてくれ。そういうのは」
私は手を振って牽制する。あまりこういう仕事とは関わりたくない。
「わかっておりやす」
「まあ何かあったらまた連絡してくれ」
とはいえ自分の仕事に責任感はあった。私はこうも口にする。
「へえ、今回はありがとうございやした。これはおまけで」
そう言って若旦那はぬか漬けをわたしに押しつけてくる。私たちはさらに荷物を増やし庄屋を後にした。
「あまり信用されてないようじゃの」
帰り道で初瀬が言う。私は苦笑いをした。こういうことには慣れている。
「まあうさんくさいと言えば自分が一番うさんくさい。気にしたところで仕方あるまい」
私はそう言ったが実際に戦った二人は収まらないようだった。早雪が言う。
「でも失礼ですわ」
「そう言うな。あれでも帝都にも顔が利く御仁よ」
「そうなのですか?」
意外そうな表情を浮かべる早雪。私はそんな早雪に言った。
「ああ、でなければ私がこの町に越してくることはなかった」
「では人知れず早雪たちの縁を作っておられた方というわけですわね」
「そうなるな。だからあまり言うな」
私が言うと初瀬が腕を組み唸る。
「うむ。わかった。しかし帝都か。わしがいたころはまだそうは呼ばれてはなかった」
「早雪はずっとここ育ちです故、帝都のことはよくわかりませぬ」
「初瀬はここに来るまでどこにおったのだ?」
「なに、つまらぬ町よ」
「そうか」
私は短く言った。あまり詮索はしない方がいい。そういえば早雪からも言い含められていた。私はそれを思い出してこの話題を切り上げ話を変える。
「そうだ。言おう言おうと思っていたのだが今まで忘れていた。脈を占う時が出た。今日の亥の刻だ」
「そうか、意外と早いの」
「うむ、私も驚いた」
私は初瀬の言葉に同意する。
「これも何かの縁かも知れませぬ」
「そうだな」
私は頷いた。占いもあることだし今日は早く帰って英気を養おう。私たちは家路を急ぐ。
家に帰り、夕餉の支度をする。夕は魚の干物にしよう。私は支度をして台所に篭もった。食べ終わるといつもどおり体を清め、占い道具の点検をする。亥の刻まで時間はたっぷりあった。いつもよりも念入りに行ってみる。特に何が変わるというわけでもないが。やがて亥の刻になった。初瀬と早雪が眠そうに私のいる茶室にやってくる。まえは退屈そうにしていたが、やはり気になるものらしい。とはいえ退屈なのは変わらぬ。私はいつものようにささっと占う。
「ふむう」
「どうしたのじゃ」
出た卦を前に困惑していると初瀬に問われ、私は言った。
「また山だ。そして溜まり水」
「山か」
「まあ、この辺りは山ばかりですから山になるのは致し方ないかと」
「で、どの山じゃ?」
「それがこの間行った北の山よ」
「なんと」
「二度手間というやつでしょうか」
「まるっきりそうではないが、そうらしくもあるな」
私は唸った。あの山には牝鹿の山の神が住まっている。脈を引くのになにか障りが無ければ良いが。ともかく、また山支度をせねばならぬ。それがおっくうでもある。
「して溜まり水とは何じゃ?」
「おそらく山の中に池か沼があるのだろう。脈がそこにあると考えられる」
初瀬の問いに私は答えた。すると早雪が言う。
「では沢登りの支度をした方がよろしいかと」
「そうだな」
私は占い道具を片付けながら二人に言った。
「とりあえず占った。あとは明日にしよう。初瀬に早雪、二人は先に座敷に戻るが良かろう。私もすぐに行く」
「おお、久しいのう」
「うむ」
初瀬の喜びの言葉に私は頷いた。初瀬はだいぶ元気を取り戻したようだ。それが嬉しい。それを感じ取ったのだろう。早雪が言う。
「早雪もおります」
「うむ。三人で楽しもう」
「これでいつもどおりじゃの」
初瀬が言うので私は同意する。
「そうだな」
「ですね」
早雪も同意する。そして二人は座敷の方に姿を消した。私も占い道具を片付けるとすぐに向かう。久しぶりの三人の夜を私は、いや私たちは存分に楽しんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます