第6話 初瀬と早雪の章 その6
次の日目覚めると体中が痛くて仕方ない。特にふくらはぎと足の裏が痛む。私は体をあちこち動かして痛みを何とか逃がそうと試みる。しかしすべて無駄な試みであった。私はしばらく考え今日は休息に当てることにした。目を閉じる。二度寝である。意識がすっと軽くなって行くのを感じた。
目が覚めると昼前であった。体はまだ痛む。だがいいかげん腹が空いた。私はむっくりと起き上がる。初瀬と早雪、二人の姿は座敷にはなかった。一体どこへ行ったのだろう。
台所へ向かう。食事の支度はいいかげん面倒くさくなってきた。こういう所は帝都が懐かしい。私は湯を沸かし羽釜で飯を炊く。味噌汁を作って飯は梅干しと鰹節でいただく。夕餉はしっかりとしたおかずが欲しい。また庄屋へ行くか。そういえば風呂も洗わねば。休みにしたとは言え、やることはたくさんあるのだった。生活とはかくも時を圧迫するものであったか。
食事を摂り一休みする。そのあと風呂を洗った。二人の姿はまだ見えぬ。ふと寂しさに襲われるがなんとか我慢して見せた。こうも人ではないが人のようなものの温もりを求めていたとは自分でもまったく意外であった。初瀬に早雪がいないこの家はひどくがらんとしてしまっている。
「初瀬に早雪。おるか」
ついにわたしは声に出す。現れたのは初瀬だけであった。
「なんじゃ、わしが恋しくなったか」
心を悟られて私はかなり動揺した。しかしなんとか持ち直して初瀬に問う。
「早雪はどこへ?」
「五つ辻じゃ。昨日おぬしが力を取り戻したが完全ではなかった。故に早雪はあそこで理由を探っておる」
「そうか、それは早雪には済まないことをした」
「うむ。しかし何故じゃ? なぜおぬしが力の漏れているところを繕ったにも関わらず、白壁は万全の力を取り戻さない?」
「おそらくは、理由がある」
「藤花よ、見当は付いているのかの」
初瀬の問いに私は答える。
「私が占ったところは怪異が住み着いておらぬ所だけだった。また白壁が力を失い始めたのは五ヶ月前だと占いに出た。おそらくはその時にあちこちに綻びが出来たのだろう。そしてその五ヶ月の間に他の綻びは別の怪異に奪われたのであろう。白壁が力を取り戻さぬのはそのせいではないかと私は考える」
「なるほど、一理ある」
「そうならそうと言ってくだされば良かったのに」
私たちが話していると少し疲れた表情の早雪が現れた。
「うむ、問われなかったのでな」
私は早雪に弁明する。
「おそらくは藤花様の言葉が正しいと思われます。五つ辻の力は他に奪われているような感覚がいたします故」
「憶測と調査。どちらも重要だ。早雪の調査は有益であった。手間が省けた、感謝する」
私は早雪にそう言った。早雪は小さく頭を下げる。
「そう言っていただけると助かります」
「それで、どうするのじゃ。奪われたところを奪い返すのか?」
「そんなことはいたしとうございませぬ」
初瀬の問いに早雪はそう答えた。初瀬は首をかしげてさらに問う。
「では早雪は今のままでいいと?」
「早雪一人ならばそれもいいでしょうが、問題は初瀬でありましょう」
早雪の言葉に初瀬は大いに頷く。
「そうよな。わしも人ではない依り代に憑かねば藤花の命が危うい」
「となると、藤花様が先日おっしゃっていた増築工事のようなものとやらをなさるしかありませんね」
「うむ、元よりそのつもりだ」
私は二人の会話に割って入った。
「してそれはいつ?」
「とりあえず今日ではない。昨日の山登りは予想以上に辛かった」
私が言うと初瀬が声を上げる。
「確かにおぬしから体の乱れを感じる。今日は回復に努めた方が良さそうじゃな」
「うむ。万全でなければ全てを失うとは口を酸っぱくして言われたものよ」
「そうか。よい師を持ったの」
「……まあ、そうだな」
初瀬の賞賛に私は言葉を濁す。修業時代は余りよい思い出ではなかった。それが今役に立っているのは事実なのだが。
「ともかく、今日は休む。とはいえ食べるものを買い込まなくてはならぬ。またあの庄屋に行こうと思う」
「それが良かろう。しかしここに市(いち)などはないのか?」
「定期市が立つという話は聞いたことがある。私はここに来たばかりなので行ったことはないのだが」
私は初瀬の疑問に答えた。初瀬は興深げに私を見る。
「ほう、定期市か。面白そうじゃ。行ける機会があれば行ってみたいものよ」
「白壁の近くで行われますが、さほど面白いものではありませぬよ」
「わしらは物を買えぬからな。買える藤花にはおもしろみのある物もあろう」
「それも庄屋で聞いてみるとするか」
わたしは言い、二人に向き合う。
「これからその庄屋に向かおうと思う。ついてきてくれるか」
「元よりそのつもりよ。というかわしはお主から離れられん」
「私も外のいろいろな場所に行ってみたいですわ」
二人に異はないようだ。私は軽く笑って出かける支度をする。
この間根菜を求めた庄屋へまた向かう。若旦那が出てきた。帝都から逃れここに住まうときに色々世話になった人物である。根菜や肉を求めると同時に市について聞いてみた。答えはあっけのないものだった。
「市なら平日なら毎日開かれてますぜ。ちょっと離れた街道の方ですが。旦那は朝遅いから気づかないのも無理はありませんな」
「そうだったのか。しかし市は白壁の傍で開かれると聞いたが」
私が言うと若旦那は笑う。
「あれは年に何回かの骨董市でさ」
「なるほど」
それは早雪にとっては退屈であろう。私は頷いた。そこで庄屋の若旦那はやや訝しんだ声を出す。
「しかし旦那は一体どこで骨董市の情報なんて仕入れたので? ここ最近は開かれてないはずですが」
「ちょっと伝手(つて)があってな」
私は言葉を濁す。若旦那は特に気にした様子はないようだった。大笑して言葉を続ける。
「さすが旦那は一風変わってますな」
「まあそんなところだ」
「とにかく金で何かを手に入れたいなら市に行くのが一番ですな。昼前には終わってしまいますが。海のものとかもありますぜ。なにせ一山越えれば海ですからな。新しい道も――トンネルと言いましたっけ――出来やしたし」
「ああ、今度からそうするよ。あとそういえば――」
そこで私は思い出し五ヶ月ほど前にこの辺りで何か異変がなかったかを聞いてみる。これにも答えが返ってきた。
「五ヶ月前と言えば地震ですかね。割と大きいのが来やした」
「ふむん」
私は顎に手を乗せる。どうやら白壁の異変はそれと見て間違いないだろう。しかし若旦那の言葉はそれでは終わらなかった。
「そしてそれからですな。鎌鼬の話を聞くようになったのは」
「かまいたち」
私は聞き捨てならない言葉を繰り返す。それは間違いなく怪異の名前である。
「そうでした。実はその、旦那にそいつを追っ払っていただきたいので」
「鎌鼬がでるのは五ヶ月ほど前からでいいのか?」
私は尋ねる。若旦那はこっくりと頷いた。
「はい、まぎれもなく、地震の後ですな」
「……」
私は考える。鎌鼬が出る場所も白壁の力が漏れ出でている箇所と見て間違いあるまい。ならばこの依頼、受けずにはいられない。だがさらに確認する必要があった。私は若旦那に尋ねる。
「人に被害が出ているのか?」
「そりゃ鎌鼬ですからね! これまでに何人か被害が出てまさぁ。最近はつい先日のことでしたよ。山菜採りのまだ小さい女の子でさぁ。胸をざっくりやられて、命に別状はないですが、傷は一生残るかも知れやせん」
思った以上に状況は深刻だった。自然と眉間にしわが寄るのを自分で感じた。私は言う。
「それは悪しき怪異だな。わかった。今すぐは無理だが準備ができ次第向かおう。場所を詳しく教えてくれ」
「へい。西の山へ向かう人通りの少ない道でさぁ」
「地図で言うと?」
「今持ってきやすね。……えっとこのあたりでさ」
若旦那は持ってきた地図を指で示す。西の道。だいたい東の古隧道と同じぐらいの距離だった。私は了解する。
「なるほど。念のために聞くが他に変わったことは?」
「とりあえずそれくらいですかな」
少し考え若旦那は言った。
「そうか。助かる」
「では、鎌鼬の件、お任せしてしまってよろしいてすか?」
「ああ、任せてくれ」
若旦那の言葉に私は力強く頷いてみせた。こういう場合虚勢も大事である。私は庄屋の若旦那が分けてくれた根菜と漬け物と依頼を抱え(今日は肉はなかった)、私は庄屋を後にした。
帰り道、今まで黙っていた初瀬と早雪と話す。
「鎌鼬か」
「うむ」
「白壁の力を借りていると見て間違いないのかの」
「時季と場所から見てまず間違いあるまい」
初瀬の問いに私は答える。
「許せませんわ、白壁の力をそのようなことに使うなんて」
「うむ、早雪の言うとおりだ。この怪異には立ち去って貰うか、さもなくば滅せざるを得まい」
私は早雪の怒りにも答えた。初瀬が私に問う。
「それでいつ向かう?」
「明日か、明後日だな。すまんが増築工事は後回しだ」
人に危害が出ている以上こちらを先にすべきだろう。私は二人にそう言った。
「そうか。仕方あるまい」
「ええ、放っておいてはいけませんわ」
私が答えると初瀬と早雪は頷いた。私も頷いて言う。
「うむ。申し訳ないが。それと退治するまでおぬしらとの夜の営みを絶つ。それも理解してくれるか」
「ええ、体力を回復しなくてはなりませんから」
「何? その間わしらはおあずけじゃと?」
「大仕事です。少しお待ちいたしましょう」
「そうしてくれると助かる」
早雪の言葉に私は感謝の意を示すが対して初瀬の方はそれでは収まらなかった。私の行く道を遮るように飛び出して大声を出す。
「求めているのはいつもおぬしのほうであろうが!」
「たしかにそうだが、少しの間絶つ。万全を期したい」
「おぬしの都合のいい時だけおあずけか? そのようなこと早雪はともかくわしは全く承知できぬ!」
初瀬は両手を大きく振ってだだをこねた。私は初瀬に言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。
「おまえが望まぬ時は私も無理に望まぬ」
「そのとおりですわ。性交は男女和合こそ肝要です」
私の言葉に早雪も助け船を出してくれた。
「それはそうじゃが……」
「初瀬。こらえてくれんか」
「うむ……」
私はそう懇願した。初瀬も渋々といった様子で承諾する。
「すまん」
理解を示してくれた初瀬に私は頭を下げた。
「わかった。そのかわりわしが望まぬ時はおぬしも配慮するのじゃぞ」
「わかっている」
「本当かのう?」
「まあまあ、その時になればわかりますわ。それに初瀬が望まぬ時があるとは早雪にはとても思えませぬ」
「わ、わしだって望まぬ時ぐらいあるぞ?」
突然の早雪の言葉にうろたえる初瀬。そんな初瀬に早雪はわざとらしく首をかしげてみせる。
「そうでしょうか?」
「早雪。あまり初瀬をからかうな」
私がたしなめると早雪は袖口で口を押さえて礼をした。
「申し訳ありません。藤花様。ただ初瀬のふて腐れかたがあまりに可愛らしかったもので」
「わわわわ、わしが可愛いじゃと!」
「ええ、初瀬はとても可愛らしいですわ。今夜は早雪が藤花様の代わりに可愛がって差し上げましょうか?」
「ななななな、何を言うか! おなご同士じゃと! おぬし気は確かか!」
顔を真っ赤にしていきり立つ初瀬。その姿はどこか初々しく、確かにこれは可愛らしい。
「ええ確かですとも。それにいずれは白壁に一緒に暮らす身。互いのことをよく知っておくことも大事だと早雪は考えます」
「わし、別の場所に移ろうかの……」
「早雪。和合こそ肝要と言ったばかりではないか。無理強いは良くない」
とはいえ、あまり追い詰めても哀れである。再び私は早雪をたしなめた。
「そうでした。これは早雪の勇み足でした」
たしなめられた早雪は口元を袖口で覆った手で隠し、今度こそ笑った。
家に帰り野菜だらけの夕餉を漬け物で食べ、体を清め明日か明後日になるかわからないが鎌鼬退治の準備をする。今回はおそらく戦闘になる。それ相当の装備が必要だった。私はここに来てから一度も開けたことのない行李(こうり)の中を開ける。その中には帝都で使っていた数々の戦闘用導具があった。
ちくり。胸が痛む。手が止まる。これらの物品はいやがおうにも帝都のことを私に思い出させた。そうして疑問が胸に浮かぶ。何故私はこれらの物品を取り出そうとしているのか。
私はこういった怪異のことがらから離れて暮らしたかったのではないか。
しかしそれなのにまたこうして怪異と関わり、果てには帝都でしていたように怪異退治までするようになって、これでは帝都の自分とまるで変わらぬではないか。
私はそっと行李をしまい、ため息をつく。今日はもう触りたくない。見たくもない。奥の茶室に布団を引き目を閉じる。月明かりが淡く差し込む中、一人心が震えるのを感じる。体はひどく冷め切っている。体とは別に胸がきりきりと痛む。それはいったい私がしたかったのはこういう生活だったのかという問い。そんな疑問は初瀬と早雪の前では出せぬ。絶対に出せぬ。だが一人になるとどうしても出てしまう問いなのだった。
そして恐怖。明日か明後日自分は切り刻まれて無残に死ぬかも知れないという恐怖。怪異と戦う以上それはあり得ることなのだ。心がまたざわめく。死などとうに克服したと思ったのに。
さらに心と思案はとびとびにあらぬ方角へと飛んでゆく。ずぶずぶと溶けてゆく古隧道の白首の怪異。思えばあれが哀れで哀れでならない。私はまた人知れず罪深いことを成そうとしているのではないか。しかし相手は人に危害を加える怪異である。自分が、自分こそが何とかせねば。だがそれはひどく怖い。泣き出したくなるように怖い。
そうしてここには、いや帝都にも誰もその恐怖を共有するものはいない。私は孤独だった。ずっと、ずっと。
苦しい。
息が苦しい。寝苦しい。
恐怖と怪異への申し訳なさで心がざわめく。ざわめいてざわめいて仕方ない。まるで海鳴りのようだ。全く眠れぬ。私は何度も何度も寝返りを打ったが、眠りは全く訪れそうもないのだった。
「藤花よ」
眠れぬにいると初瀬の声がする。いやこれは夢かも知れぬ。
「怖くて眠れんか」
「怖くなどない」
私が強がっていると初瀬は私の布団に潜り込み囁くように私に言う。
「嘘をつけ。早雪と違い、わしはおぬしに憑いておる。お主の心の乱れは手に取るようにわかるのじゃ」
「……」
私が答えずにいると初瀬は軽く笑った。
「安心せい。今日は男女の営みは無しじゃ。だが心の障(さわ)りは体に障る。一人で眠れぬようなら、わしが添い寝しよう」
「そんな赤子みたいなこと、できぬ」
「赤子(あかご)じゃ、おぬしは。わしらにしてみれば赤子も同然よ」
言うなり私の頭はそっと初瀬に抱き寄せられる。
「さあ、わしの胸で眠ってしまうがいい。乳でも吸うか。それでもわしはかまわぬ」
着物をはだけ、初瀬は自らの薄い乳房と乳首を見せた。しばらくの躊躇(ちゅうちょ)の後私はそれに吸い付く。月明かりの中、初瀬は慈母のように眼を細めた。
「そうじゃ。そのまま眠ってしまうが良い。今宵はただの赤子(せきし)、朝には元の藤花じゃ」
言われたとおりに目を閉じる。本当に心が軽くなり、すっと眠りを受け入れられた。
「すまなんだの。藤花」
闇と安らぎの中、初瀬の声が聞こえたような気がした。
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